「こんなに変わった!歴史の新常識」(青春出版)という本を買ってきました。勿論歴史の新常識を語りたい訳ではなく、寧ろその逆です。別に研究を重ねて新常識をつくるというなら、それが研究の目的でしょうし、総論反対はしませんけれども、変えてはいけないものを変えるなと主張したい訳です。日本人というのも中々軽躁なところがあるようで、変えなくてもいいものを変えようとしてないかと思うことがしばしばあります。本屋で手にとったこの本で産経の歴史関係の記事を思い出し、ちょっと書いてみようかと思った次第です。一々何処がどうと書きはしませんけれども、研究の結果説が変わったところを否定している訳ではありませんので(寧ろそれは良いことだと思っています)、誤解なきよう。
①聖徳太子→厩戸皇子の書き換え
聖徳太子にまつわるいろいろな議論があるのは承知していますが、厩戸皇子と呼びかえるのは感心しません。歴代天皇を諡号で呼ばず、名前で呼ぶのは外国人か左翼に決まっています。厩戸皇子も正式名称かもしれませんが、広く知られた通称でもある諡を一々呼びかえる姿勢は失礼そのものです。今は皇室以外で諡的な使われ方をする名前はないと言えますからやや現代においてはズレる例えになりますが、そういう人はペンネームで知られた作家を一々本名で呼ぶのでしょうか?それをするのは対象を馬鹿にする時に決まっており、皇室に対して一々不敬な強い意志は日本においては左翼にしか存在しません(今は不敬罪はありませんから、こうした連中は野放しになります)。元々歴史学はマルクス主義の影響が強いところがあって、その名残がまだ残っているのだと考えられます。一々厩戸皇子だろうと推定して歴史を修正する姿勢は史料を重んじ、当時の文脈を重んじているとは到底言えず、失礼したい以外に何か理由あるの?という話です。伝説を事実そのものと教えることに賛成はしませんが、伝説が史料に載っていることはしばしばあり、一々呼びかえるなんて馬鹿のすることだと思っています。中国の史書で例えると(日本の話だと揉めやすいので)、殷の紂王がやったことを丸々事実そのものと認定する人はさすがにほとんどいないと思いますが、本当は帝辛だなどと言うならば、中国の史書そのものを丸々疑わねばならず、じゃあ何をやった人なの?ということになります。まぁそんなに悪人でもないということを言いたいのかもしれませんし、そうなのかもしれませんが、紂王で検索して帝辛と言われれば「誰だよ?」ってことになりますよね。同様にかつて聖徳太子のお札があったのに、いやあれは厩戸皇子のお札だと言われれば「誰?」ということになります。聖徳太子のお札は1984年まで発行されており、筆者も昔は見たような記憶があります。10人の話を聞いたなどという話は○ン○ク○ー○の話のようなもので大人が信じることもないでしょうから、聖徳太子を聖徳太子と呼んで何が不都合なの?要らんことするなです。数々の史料に載る伝説的な人物を教えずして何を歴史学は教えようとしているのか、サッパリ理解できません。最近は聖徳太子に言及しないとか言いますが、世界遺産である法隆寺を建立した(とされる)人物を教えずして、あの時代に他に教えることがあるのでしょうか?勉強ができる馬鹿そのものだと思います。
②西軍盟主は石田三成ではない(毛利輝元である)
事実ですが、毛利輝元は担ぎ上げられただけで盟主というと誤解を招くところがあります。東軍の盟主は明らかに徳川家康ですが、西軍の真の盟主がいるとすれば豊臣家でしょうし、そもそも決起した首謀者が最後まで戦わないというようなことは有り得ません(毛利軍は関ヶ原にいただけで参加していません)。そのような文脈があって、盟主的存在の毛利家は長門・周防に押し込められるだけで済み、じゃあ真の首謀者は?ということで、石田三成だということになったようです。最近の研究で石田三成が真の首謀者であるかは怪しいところがあるとなったようであり(信憑性が比較的薄い史料にしかその手の話はないようです)、歴史学でそれは別に構わないのですが、その辺(毛利輝元が総大将であるという話になった訳ではなく、石田三成が真の総大将であるという話が怪しくなった)を曖昧にしていると、いい加減な話がまた広まるのではないかと思います。石田三成が首謀者と言えなくなったからといって、毛利輝元が首謀者に昇格する訳ではありません。断定的なことを学問が言えなくなることは分かりますが、西軍の総大将は?などと問いかけること自体が意地悪な引っかけ問題と言えます。専門家の傲慢ではないでしょうか?
③縄文時代は狩猟生活ではなく、農耕・定住生活だった
狩猟も採集もやっていたでしょうし、農耕をやっていたというのは新発見でしょうが(そんなに新しい発見でもありません)、別に狩猟民だと思っていた人はそんなにいないのではないかと思います。定住しない狩猟民が縄文時代を特徴づける貝塚をつくるなどということが有り得るか疑問でしょう。それはともかく、従来の通説通り弥生時代と縄文時代の間には大きな違いがあると思います。基本的には灌漑稲作を中心とする生活が広がると弥生時代と言えると思います(例えば本州最北の農耕の始まり 弥生時代とはどんな時代か NIKKEI STYLE 2016/10/27)。言いたいことは時代は少しづつ連続的に変わったと認識し弥生時代と縄文時代の区別をしない「新しい考え」こそが誤りだろうということです。
ここからは個人的見解ですが、筆者の場合大体言語で大まかな歴史の流れを見る癖があり、縄文時代と弥生時代に境目がないとすると、言語の分化はもの凄いことになって、日本という国は成立しなかったろうと思っています。別に縄文時代を全否定するつもりもありませんが、比較的近い時代に日本人が広がったからこその日本成立だという認識ですね。比較言語学が歴史的経緯から嫌われているところがあり、その辺が分かりにくくなっていると思っています。沖縄人も含めて基本的に日本は弥生文化の継承者であるはずです。こう書くと弥生人=朝鮮人と勘違いする人が現れますが、朝鮮語と日本語の系統関係は立証できず、朝鮮人は朝鮮人、日本人は日本人でしょう(恐らく縄文時代後期に灌漑農耕を覚えた北部九州人が日本人の大元であるはずです)。ただし、邪馬台国は普通に大和で近畿であると思います(論拠多数で確信していますが詳述しません)。日向国に関しても意見はありますが、特に書いたりはしないつもりです。
④鎖国は無い
これが実は一番言いたかったことですが、完全に(極めて有害な)誤りだと思います。鎖国をしろと書いた法律はなかったでしょうが、そんなことはどうでもいいことです。禁教令はありましたし、平戸や出島もあったのに鎖国が無かったも何もないはずです。こんな大嘘他にありません。鎖国が無かったら開国もありません。ペリーは日本に遊びに来たんでしょうか?当時は汽船ですし捕鯨船(日本のじゃありません!)などの補給港がほしいという理由で(他にもいろいろあったでしょうが)、日本は圧力をかけられ開国しろとなった訳です(日米和親条約批准書交換証書(文化遺産データベース)。鎖国は無かったなどという言葉遊びは有害無益以外の何ものでもありません。別に鎖国が日本の専売特許でもありません(鎖国という用語でそう勘違いする人がいるとすればそれも有害です)。当時は明から始まった海禁政策がアジアに広がっていた訳であり、そこからいち早く脱却して変わる情勢に対応したのが日本であったというのが常識的かつ事実に基づく歴史観で、一々それに挑戦したがる馬鹿は何を考えているのだろうかと思わざるを得ません。日本が一番近代化が早かったということが気に食わない連中(反射的に左翼じゃないのと思ってしまいます)が言葉遊びして素人を騙そうとしているのかもしれませんが、鬱陶しいことこの上ないです。
⑤日本最初の原人の名も教科書から消え去った
港川原人がいないとか書いていますが、筆者が知る限り港川人は原人じゃありませんし、その存在は否定されていません。それはともかく、本当のことが書かれていません。旧石器捏造事件で藤村という人が原人の捏造をし、バレたことが。これは日本考古学界最大の醜聞とされ、2000年の話ですから筆者もよく覚えています。これは日本の恥と言えますが、それが嫌なら原人に触れなければいいのであって、わざわざ新常識とかいう本で「新たなる大発見を期待したいところです」じゃねーよ、わざとやってんのかと言いたくなります。「新たなる大発見」なんて許さねーよ。本を買った時にここは読んでいませんでしたが、これは鎖国無かった論に劣らずムカつきますね。超特大の醜聞に触れた上、新たなる発見に期待するとは、何人が書いたよ?と言いたくなります。
⑥ヤマト政権
大和政権でいいでしょ。どうせ同じなんだから。邪馬台だろうが、倭だろうが、当時の日本人は中国人が使ったイメージの良くない漢字を嫌って、イメージの良い漢字に書き換えた訳です。日本語の読みが重要なのであって、史料の無かった時代もヤマトと呼んでいることに違いはありませんから、表記を一々変える必要もありません。あえて変えるなら倭・大倭が当時の用語だと思いますが、これではワと呼んでしまう人が出てきてしまいます。明らかにヤマトが日本人の自称であり、ヤマトという表記だって当時の表記でないという意味で大和と全く同じです。じゃあ中国を支那と読んでいた時代は支那と呼びかえるのかという話になるでしょう(支那と呼ぶなら全て支那にするのが妥当です)(まあ支那より漢や唐、つまりカラと中国のことを呼んできたと思いますが同じことです。漢も唐もカラだから全部カラに直しますか?)。同じものを一々違う表記にするのが誤りであり、当時無かった表記をわざわざ捏造する必要はありません。
どうでもいいですが、筆者はメモを結構片仮名でとる癖があります。これは漢字を省略するためであり、平仮名よりは片仮名の方が何となく使いやすいからです(平仮名は女手とも言われ柔らかいイメージがあって、無意識に片仮名の方を使ってしまうのでしょう)。そもそも平仮名も片仮名も漢字を崩す過程で生まれたとされます。筆者は崩し字を習っておらず、単に字が汚いことを正当化する意図はありませんが、日本語を楷書で書かないのはわりと伝統的なスタイルだと思います(専門家以外で昔の手紙の類を読める人います?)。意味が分かればいいのであって(時々自分の字が分からなくなりますが)、書道をやっている訳ではありません(勿論字が綺麗なのは良いことです。誤解なきよう)。英語でも筆記体の方が(外国の実情を知らない筆者のイメージですが)寧ろ一般的でしょう?これを全部ブロック体で書けというのが、楷書で全部書けという人達に例えられると思います。いずれにせよ、字が汚い筆者は敗北必至ですが、今の時代で良かったなとは思っています。せめて自分で見るために書いているんだよ!と遠吠えさせてもらいます。筆者の昔のノートを見れば筆記体を使いたがる癖を確認できると思います。
以下続く?
①聖徳太子→厩戸皇子の書き換え
聖徳太子にまつわるいろいろな議論があるのは承知していますが、厩戸皇子と呼びかえるのは感心しません。歴代天皇を諡号で呼ばず、名前で呼ぶのは外国人か左翼に決まっています。厩戸皇子も正式名称かもしれませんが、広く知られた通称でもある諡を一々呼びかえる姿勢は失礼そのものです。今は皇室以外で諡的な使われ方をする名前はないと言えますからやや現代においてはズレる例えになりますが、そういう人はペンネームで知られた作家を一々本名で呼ぶのでしょうか?それをするのは対象を馬鹿にする時に決まっており、皇室に対して一々不敬な強い意志は日本においては左翼にしか存在しません(今は不敬罪はありませんから、こうした連中は野放しになります)。元々歴史学はマルクス主義の影響が強いところがあって、その名残がまだ残っているのだと考えられます。一々厩戸皇子だろうと推定して歴史を修正する姿勢は史料を重んじ、当時の文脈を重んじているとは到底言えず、失礼したい以外に何か理由あるの?という話です。伝説を事実そのものと教えることに賛成はしませんが、伝説が史料に載っていることはしばしばあり、一々呼びかえるなんて馬鹿のすることだと思っています。中国の史書で例えると(日本の話だと揉めやすいので)、殷の紂王がやったことを丸々事実そのものと認定する人はさすがにほとんどいないと思いますが、本当は帝辛だなどと言うならば、中国の史書そのものを丸々疑わねばならず、じゃあ何をやった人なの?ということになります。まぁそんなに悪人でもないということを言いたいのかもしれませんし、そうなのかもしれませんが、紂王で検索して帝辛と言われれば「誰だよ?」ってことになりますよね。同様にかつて聖徳太子のお札があったのに、いやあれは厩戸皇子のお札だと言われれば「誰?」ということになります。聖徳太子のお札は1984年まで発行されており、筆者も昔は見たような記憶があります。10人の話を聞いたなどという話は○ン○ク○ー○の話のようなもので大人が信じることもないでしょうから、聖徳太子を聖徳太子と呼んで何が不都合なの?要らんことするなです。数々の史料に載る伝説的な人物を教えずして何を歴史学は教えようとしているのか、サッパリ理解できません。最近は聖徳太子に言及しないとか言いますが、世界遺産である法隆寺を建立した(とされる)人物を教えずして、あの時代に他に教えることがあるのでしょうか?勉強ができる馬鹿そのものだと思います。
②西軍盟主は石田三成ではない(毛利輝元である)
事実ですが、毛利輝元は担ぎ上げられただけで盟主というと誤解を招くところがあります。東軍の盟主は明らかに徳川家康ですが、西軍の真の盟主がいるとすれば豊臣家でしょうし、そもそも決起した首謀者が最後まで戦わないというようなことは有り得ません(毛利軍は関ヶ原にいただけで参加していません)。そのような文脈があって、盟主的存在の毛利家は長門・周防に押し込められるだけで済み、じゃあ真の首謀者は?ということで、石田三成だということになったようです。最近の研究で石田三成が真の首謀者であるかは怪しいところがあるとなったようであり(信憑性が比較的薄い史料にしかその手の話はないようです)、歴史学でそれは別に構わないのですが、その辺(毛利輝元が総大将であるという話になった訳ではなく、石田三成が真の総大将であるという話が怪しくなった)を曖昧にしていると、いい加減な話がまた広まるのではないかと思います。石田三成が首謀者と言えなくなったからといって、毛利輝元が首謀者に昇格する訳ではありません。断定的なことを学問が言えなくなることは分かりますが、西軍の総大将は?などと問いかけること自体が意地悪な引っかけ問題と言えます。専門家の傲慢ではないでしょうか?
③縄文時代は狩猟生活ではなく、農耕・定住生活だった
狩猟も採集もやっていたでしょうし、農耕をやっていたというのは新発見でしょうが(そんなに新しい発見でもありません)、別に狩猟民だと思っていた人はそんなにいないのではないかと思います。定住しない狩猟民が縄文時代を特徴づける貝塚をつくるなどということが有り得るか疑問でしょう。それはともかく、従来の通説通り弥生時代と縄文時代の間には大きな違いがあると思います。基本的には灌漑稲作を中心とする生活が広がると弥生時代と言えると思います(例えば本州最北の農耕の始まり 弥生時代とはどんな時代か NIKKEI STYLE 2016/10/27)。言いたいことは時代は少しづつ連続的に変わったと認識し弥生時代と縄文時代の区別をしない「新しい考え」こそが誤りだろうということです。
ここからは個人的見解ですが、筆者の場合大体言語で大まかな歴史の流れを見る癖があり、縄文時代と弥生時代に境目がないとすると、言語の分化はもの凄いことになって、日本という国は成立しなかったろうと思っています。別に縄文時代を全否定するつもりもありませんが、比較的近い時代に日本人が広がったからこその日本成立だという認識ですね。比較言語学が歴史的経緯から嫌われているところがあり、その辺が分かりにくくなっていると思っています。沖縄人も含めて基本的に日本は弥生文化の継承者であるはずです。こう書くと弥生人=朝鮮人と勘違いする人が現れますが、朝鮮語と日本語の系統関係は立証できず、朝鮮人は朝鮮人、日本人は日本人でしょう(恐らく縄文時代後期に灌漑農耕を覚えた北部九州人が日本人の大元であるはずです)。ただし、邪馬台国は普通に大和で近畿であると思います(論拠多数で確信していますが詳述しません)。日向国に関しても意見はありますが、特に書いたりはしないつもりです。
④鎖国は無い
これが実は一番言いたかったことですが、完全に(極めて有害な)誤りだと思います。鎖国をしろと書いた法律はなかったでしょうが、そんなことはどうでもいいことです。禁教令はありましたし、平戸や出島もあったのに鎖国が無かったも何もないはずです。こんな大嘘他にありません。鎖国が無かったら開国もありません。ペリーは日本に遊びに来たんでしょうか?当時は汽船ですし捕鯨船(日本のじゃありません!)などの補給港がほしいという理由で(他にもいろいろあったでしょうが)、日本は圧力をかけられ開国しろとなった訳です(日米和親条約批准書交換証書(文化遺産データベース)。鎖国は無かったなどという言葉遊びは有害無益以外の何ものでもありません。別に鎖国が日本の専売特許でもありません(鎖国という用語でそう勘違いする人がいるとすればそれも有害です)。当時は明から始まった海禁政策がアジアに広がっていた訳であり、そこからいち早く脱却して変わる情勢に対応したのが日本であったというのが常識的かつ事実に基づく歴史観で、一々それに挑戦したがる馬鹿は何を考えているのだろうかと思わざるを得ません。日本が一番近代化が早かったということが気に食わない連中(反射的に左翼じゃないのと思ってしまいます)が言葉遊びして素人を騙そうとしているのかもしれませんが、鬱陶しいことこの上ないです。
⑤日本最初の原人の名も教科書から消え去った
港川原人がいないとか書いていますが、筆者が知る限り港川人は原人じゃありませんし、その存在は否定されていません。それはともかく、本当のことが書かれていません。旧石器捏造事件で藤村という人が原人の捏造をし、バレたことが。これは日本考古学界最大の醜聞とされ、2000年の話ですから筆者もよく覚えています。これは日本の恥と言えますが、それが嫌なら原人に触れなければいいのであって、わざわざ新常識とかいう本で「新たなる大発見を期待したいところです」じゃねーよ、わざとやってんのかと言いたくなります。「新たなる大発見」なんて許さねーよ。本を買った時にここは読んでいませんでしたが、これは鎖国無かった論に劣らずムカつきますね。超特大の醜聞に触れた上、新たなる発見に期待するとは、何人が書いたよ?と言いたくなります。
⑥ヤマト政権
大和政権でいいでしょ。どうせ同じなんだから。邪馬台だろうが、倭だろうが、当時の日本人は中国人が使ったイメージの良くない漢字を嫌って、イメージの良い漢字に書き換えた訳です。日本語の読みが重要なのであって、史料の無かった時代もヤマトと呼んでいることに違いはありませんから、表記を一々変える必要もありません。あえて変えるなら倭・大倭が当時の用語だと思いますが、これではワと呼んでしまう人が出てきてしまいます。明らかにヤマトが日本人の自称であり、ヤマトという表記だって当時の表記でないという意味で大和と全く同じです。じゃあ中国を支那と読んでいた時代は支那と呼びかえるのかという話になるでしょう(支那と呼ぶなら全て支那にするのが妥当です)(まあ支那より漢や唐、つまりカラと中国のことを呼んできたと思いますが同じことです。漢も唐もカラだから全部カラに直しますか?)。同じものを一々違う表記にするのが誤りであり、当時無かった表記をわざわざ捏造する必要はありません。
どうでもいいですが、筆者はメモを結構片仮名でとる癖があります。これは漢字を省略するためであり、平仮名よりは片仮名の方が何となく使いやすいからです(平仮名は女手とも言われ柔らかいイメージがあって、無意識に片仮名の方を使ってしまうのでしょう)。そもそも平仮名も片仮名も漢字を崩す過程で生まれたとされます。筆者は崩し字を習っておらず、単に字が汚いことを正当化する意図はありませんが、日本語を楷書で書かないのはわりと伝統的なスタイルだと思います(専門家以外で昔の手紙の類を読める人います?)。意味が分かればいいのであって(時々自分の字が分からなくなりますが)、書道をやっている訳ではありません(勿論字が綺麗なのは良いことです。誤解なきよう)。英語でも筆記体の方が(外国の実情を知らない筆者のイメージですが)寧ろ一般的でしょう?これを全部ブロック体で書けというのが、楷書で全部書けという人達に例えられると思います。いずれにせよ、字が汚い筆者は敗北必至ですが、今の時代で良かったなとは思っています。せめて自分で見るために書いているんだよ!と遠吠えさせてもらいます。筆者の昔のノートを見れば筆記体を使いたがる癖を確認できると思います。
以下続く?