400年以上もの歴史ある深野和紙(松阪市飯南町深野)、
伝統産業であった手漉き和紙の保存に、深野和紙保存会が結成されています。
保存会の活動の一環として、
深野和紙を町内の学校の郷土学習に取り上げ、
子供たちが自分の卒業証書を紙漉きで作成します。
一般の人々にも、
郷土の産業、深野和紙の歴史学習と紙漉き体験を行っています。
こうした活動が、今年度の松阪市地域の元気応援事業に選ばれています。
私も初めての紙すき体験を楽しんできました。
紙漉き舟から簾に紙料液をすくい、揺り動かす。
簡単そうでむずかしい、でも楽しい!
子供たちも楽しんでいます。
紙のついた簾の水切りをして、
本来は天日干しですが、今日は乾燥機です。
味のある私の和紙が完成です。
今日は紙漉きという和紙作りの最後の工程、
この紙料液を作るまでの作業の大変さはビデオで学びました。
原料の刈り取り、皮はぎ、釜たき、
水にさらして、チリをとって、石の上で叩いて、
石臼でついて、
秋から春への寒い季節、
仕事場も道具も現代とは違う過酷な環境のなか、
生きるための人々の知恵、努力に頭が下がります。
そして今、それを伝えるために頑張ってくださる方々に感謝します。
和紙和牛センターに咲く和紙の原料ミツマタの花。
保存会の方に教えていただいた深野和紙の歴史。
安土桃山時代後期、慶長4年(1599)、
美濃の里より紙漉き職人を招き導入されました。
製品は松阪商人の手で江戸、京大坂へ、
深野村250戸の内200戸が紙漉きだったという。
文政6年(1823)、
紀州藩の銀札御用紙となり、
明治初期の藩札廃止に伴なう新円交換の際、
松坂銀札は一両が1円の等価で換金され、一躍有名となりました。
高品質な深野和紙は、明治4年(1871)、
日本最初の郵便切手用紙として採用されました。
明治年間まで最盛期だった深野和紙も、
生活様式の変化、洋紙の普及に押され
昭和30年代初期には、漉き屋は1戸もなくなりました。
和紙は長寿です、白くきれいな手漉き和紙に欠かせないのが、
「冷たくきれいな水」鉄分を含まない水、
白猪山を源流とする深野の水は、今も昔も変わりません。
深野のだんだん田はこちらから⇒
深野棚田まつりはこちらから⇒
伝統産業であった手漉き和紙の保存に、深野和紙保存会が結成されています。
保存会の活動の一環として、
深野和紙を町内の学校の郷土学習に取り上げ、
子供たちが自分の卒業証書を紙漉きで作成します。
一般の人々にも、
郷土の産業、深野和紙の歴史学習と紙漉き体験を行っています。
こうした活動が、今年度の松阪市地域の元気応援事業に選ばれています。
私も初めての紙すき体験を楽しんできました。
紙漉き舟から簾に紙料液をすくい、揺り動かす。
簡単そうでむずかしい、でも楽しい!
子供たちも楽しんでいます。
紙のついた簾の水切りをして、
本来は天日干しですが、今日は乾燥機です。
味のある私の和紙が完成です。
今日は紙漉きという和紙作りの最後の工程、
この紙料液を作るまでの作業の大変さはビデオで学びました。
原料の刈り取り、皮はぎ、釜たき、
水にさらして、チリをとって、石の上で叩いて、
石臼でついて、
秋から春への寒い季節、
仕事場も道具も現代とは違う過酷な環境のなか、
生きるための人々の知恵、努力に頭が下がります。
そして今、それを伝えるために頑張ってくださる方々に感謝します。
和紙和牛センターに咲く和紙の原料ミツマタの花。
保存会の方に教えていただいた深野和紙の歴史。
安土桃山時代後期、慶長4年(1599)、
美濃の里より紙漉き職人を招き導入されました。
製品は松阪商人の手で江戸、京大坂へ、
深野村250戸の内200戸が紙漉きだったという。
文政6年(1823)、
紀州藩の銀札御用紙となり、
明治初期の藩札廃止に伴なう新円交換の際、
松坂銀札は一両が1円の等価で換金され、一躍有名となりました。
高品質な深野和紙は、明治4年(1871)、
日本最初の郵便切手用紙として採用されました。
明治年間まで最盛期だった深野和紙も、
生活様式の変化、洋紙の普及に押され
昭和30年代初期には、漉き屋は1戸もなくなりました。
和紙は長寿です、白くきれいな手漉き和紙に欠かせないのが、
「冷たくきれいな水」鉄分を含まない水、
白猪山を源流とする深野の水は、今も昔も変わりません。
深野のだんだん田はこちらから⇒
深野棚田まつりはこちらから⇒
初めての紙漉き、楽しかったです。
他にも孫と一緒に、いろんなイベントに参加させていただきました。
紙漉き、しめ縄、もち花、染物・・・
消えていった産業を伝えようと頑張る保存会の方々、
子供たちにいろんな体験を教えてくれる方々、
皆、仕事を終えた我々の世代です。
私も孫や子供に何かを伝えていかないと。