ワニなつノート

べてると、りんごと、統合教育 (4)



りんごの続きです。
はじめにまた、向谷地さんの文章をそのまま引用します。


        

【木村さんの農法には、常に「何をしなければいけないか」から、
「何をしてはいけないか」という目線がある。

そのよい例が、木村さんに共感して弟子入りし、
自然農法に取り組んでいた農家のりんごの葉が落ち、
病気が蔓延するという異変が起きた時である。

現場にかけつけた木村さんは、その原因を即座に突き止めた。

それは、手作業を省き、大型機械を畑に入れたことによって
土が固くなり、根の成長を妨げたことが原因であった。

どんな時でも、現場に足を運び、
「答えはりんごに聴く」姿勢を貫いている木村さんの農業のあり方は、
浦河生まれのプログラムの一つである「当事者研究」にも似ている。

「自分自身と仲間の経験の中に、今の生きづらさを解消し、
問題を解決するヒントがある」という理念を基に、
お互いテーマを出し合い「研究」する活動は、
木村さんの自然農法と相通じるものがある。

木村さんには、なすべきことを為し、なすべからざることを為さず、
そして、その両者を的確に見極める知恵がある。

雑草の中に植えられたりんごの木の前で、
「私は育てない、手助けするだけ」と、
柔和な表情で語る木村さんのひと言は、
『べてるの家の非援助論・・助けないという助け方』で語られた世界が
そのままに生きている。

(『べてるな人びと』向谷地生良 一麦出版社 )


「何をしなければいけないか」と「何をしてはいけないか」を
ちゃんと見極めること。

この言葉は、「統合教育」を考える上でも、
とても大切なことを教えてくれます。

普通学級で、仲間と一緒に学ぶことを求める時に、
どういうわけか、「なにもしなくていいのか」と問う人がいます。
子どもが学校に行く話をしているのに、
「何もしない」という発想が私にはわかりませんが、
「いるだけでいいのか」という言葉は、嫌になるほど聞いてきました。

こうした言葉を使う人は、「相手の痛いところ」を
攻撃していると思っているところがあります。

でも、「いるだけ」がどんなにすごいことかを、
知っている私たちには、痛くも何ともない言葉です。
だから、相手に応じて、「いるだけでいい」「何もしなくていいから」と
答えるときもあります。

私たちが自信をもってそう言えるのは、
そこにある「土」を何より信頼しているからでした。

地域の子どもたちが通う、普通学級という場の力、「土の豊かさ」を信じ、
子どもが自分のなかの芽を出し伸びていく力があると信じているからこそ、
私たちは地域の学校に子どもを送り出すのです。

だから、ときに「余分な農薬」のような先生が
「いるだけでいいのか」と言う時には、
「(クラスの仲間と一緒に)いるだけで十分です」
「(先生のおせっかいや余計なことは)、何もしなくていい」と、
堂々と言えるのでした。

それらが間違いでなかったことは、
子どもたちが20歳、30歳になり、
今を堂々と生きている姿を見れば明らかなことです。

私が20代30代のころに出会った「子ども」たちが、
いま20代、30代です。
普通学級でよかったと心から思います。
道が違えば、違う人生になります。

障害のある子どものために「何をしなければいけないか」と聞かれれば、
「よく分かりません」というしかありません。
でも、子どもに「何をしてはいけないか」と聞かれれば、
「子どもを分けてはいけない」「兄弟を分けてはいけない」ということは、
はっきりと分かります。

『木村さんには、なすべきことを為し、なすべからざることを為さず、
その両者を的確に見極める知恵がある。』

私もその知恵に少しでも近づきたいと思います。
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