≪ふ≫
普通学級は、「障害のあるふつうの子ども」の
「ふつうの子ども」を育てるところ。
これは、子どもが将来、地域で普通に生活していくために、
親や教師が、忘れてはいけない大切なことです。
「障害児」だから、「援助」が必要なのではありません。
「ふつうの子ども」の生活を体験するために、
必要な「援助」があるのです。
障害のあるふつうの子どもも、障害のないふつうの子どもも、
子どもはみんな、人と人のつながりのなかで、
多くのことを「見て」「観察して」「経験して」、成長します。
障害のあるふつうの子どもにとっても、ふつうの子ども集団のなかで、
ふつうの子どもとして受けとめられながら、
多くのことを「見て」「観察して」
「経験」を重ねることが、育ちの基本です。
誰一人、ふつうの子どもとみてくれなければ、
子どもが自分をただのふつうの子どもだと感じることはできません。
「障害」は、一人の子どもにとっては「部分」でしかありません。
「障害児」と呼ぶことで、
子どものすべてのように名付けるのは間違っています。
だから、わたしはできるだけ、
「障害のあるふつうの子ども」という言い方をします。
誰かに向かって使うというより、
自分に言い聞かせるために使っています。
そうしないと、子どもはみんなただの子どもだということを、
つい忘れてしまうから。
子どものもつ「障害」が、
ふつうの子ども体験(生活体験)を損ねないようにするために、
「援助の手立て」(スキル)を必要としているのは、
むしろ私たち大人の方です。
障害児が、「できない」から「援助」が必要なのではなく、
普通学級が「障害のあるふつうの子ども」の
「ふつうの子ども」を育てるところであるために、
私たちが「援助の手立て」を知っていることが必要なのです。
≪せ≫ 先生も落第してきたの?
北村小夜さんは教師半ばにして学芸大学の特殊教育過程に通い、
養護学校教諭免許状を取得しました。
小夜さんが新しい中学に赴任し、教室に行くと、Hくんが言いました。
「先生も普通学級落第してきたの?」
とっさのことに驚いて返事ができないでいると、彼は肩をたたいて
「大丈夫よ、また試験受けて普通学級に戻れば」と励ましてくれました。
小夜さんは、そこで気づいたと言います。
ああ、この子たちはここに来たくなかったのかと。
≪い≫ 一緒がいいならなぜ分けた
北村小夜さんは、子どもたちの「分けられた悲哀」を少しでも減らすため、
先生方に根回しして「交流」を進めました。
でも、子どもたちは交流に乗り気ではありませんでした。
「同じ学校の生徒なんだから一緒に学芸会やろうよ」。
そう言うと、Hくんはまじまじと小夜さんの顔を見て言いました。
「一緒がいいんなら何で分けた?」
☆(上記≪せ≫≪い≫は、
『一緒がいいならなぜ分けた』北村小夜・現代書館より。)
