ワニなつノート

私が普通学級にこだわって生きてきた訳(006)


7クール目の治療の間に考えたこと…


《女の子の声》

「もうすぐ がっこうにいくんだ」
女の子はおもっていた。
「春になったら、お兄ちゃんといっしょに学校にいける。もうすぐ一年生」

          ◇

「いつになったらお兄ちゃんといっしょの学校に行けるんだろ」
「お兄ちゃんは歩いて行くのに、私はいつもお父さんと車で小学校にいく」
「この教室でべんきょうしたら、お兄ちゃんと同じ学校に行けるって」
「…でも、いつになったら行けるのかな?」

          ◇
 
ある日女の子は、車の中で言ってみた。
「わたしも、お兄ちゃんといっしょにあるいていきたいな」
お父さんはびっくりしてた。
私がそんなこと思ってるって知らなかったみたい。

          ◇

それから、お父さんとお母さんは先生のところに話しに行ってくれた。
お兄ちゃんと同じ小学校に行きたいんです。
でも、夏休みが終わっても、クリスマスになっても、2年生になっても、私はお父さんと車で遠くの学校に通った。

           ◇

もうすぐわたしは3年生。お兄ちゃんは6年生。
「いつになったらお兄ちゃんといっしょの学校に行けるんだろ」

           ◇

今日、お父さんとお母さんがお願いに行ったのは学校じゃなかった。
知らない人ばかりだったから、私はお父さんとお母さんのあいだで絵を描いてた。
お父さんがわたしのことを話してる。
わたしはお絵かきをしてる。
お父さんと話してるおじちゃんが、だいじょうぶですよというのが聞こえた。
わたしはお母さんに小さな声できいた。
「いける? だいじょうぶ?」

            ◆

《道しるべ》


20代のころから徳永進さんのファンだったから、癌の患者さんの本をいっぱい読んできました。
さらに自分が癌になって半年余り、本屋に行くとつい今までなら読まなかった本にも手がのびました。
今月に入って、『看取り先生の遺言』という本を読んで、自分が何にとまどっていたのかを少し整理できた気がします。

この本で紹介されている岡部医師は、宮城県立がんセンター呼吸器科医長をやめて、在宅緩和ケア専門の診療所を作り、2千人以上の日人の在宅で看取ってきました。
そしてご自身が胃癌になったあとに癌の治療や抗がん剤のこと、そして自らの死について語っています。

『自分ががんになって、初めてケアされる側に立たされてからわかったことがずいぶんある。そのひとつが、人が亡くなるときに伴う“闇に降りていく感覚”である。

がんになって、いざ死んでいくことを考えたとき、闇のほうにどうやって降りていけばいいのか、その“道しるべ”がないことに気づいた。
…私は自分が生まれた一九五〇年当時の平均寿命を越してたのだから、十分長生きしたという感覚があり、自分ががんになって死に直面していることは、それほど受け入れがたいことではなかった。

それよりも、長い間、緩和ケアという仕事をやってきていながら、いざ自分ががん患者になってみると、どのように闇に降りていけばいいのか、その道しるべがまったくないことに愕然としたのである。

……痛みをとる治療や心のケアや、生きることばかりで、死にゆく人の道しるべがない。
見送る先があってこそ緩和ケアなのに、闇に降りていく道しるべを示せなければ、本当の意味の緩和ケアなどできなのではないか』


               ◆

《がんになってよかったこと》


そんなころ、『「がんになってよかった」。4度のがん手術を経験したジャーナリストの鳥越俊太郎さん(72)の言葉がずっと気になっていた。』という新聞記事が目に入りました。
http://kids.ap.teacup.com/alicemiller/753.html


がんになってよかったと思うことが、いくつか思い浮かびました。
がんになってみて、がんになるということがどういうことか、自分の身で分かったこと。
いままで、分からなかったことがわかったこと。
いままで、どんな感じで分かっていなかったかが、たしかに分かったこと。

去年、がんがわかったあと、すぐに思い出したのが、私がまだ20代のころ、生徒が書いた作文でした。
作文の課題は、「手について」というものでした。


   ☆


《私の手というか腕は思い出があるんです。
全て苦い思い出だけどそれを克服して現在の私がいるんです。

私の腕には血管が浮き出ていません。
抗がん剤で焼けてしまいました。2~3年前私は中休みを少し入れて約一年半入院していました。
つらい治療だったけど生活は楽しかったです。

で、治療となると点滴で薬を入れるため腕に針を入れるんです。
最初は一発で入りました。
先生に「いい血管してる」と言われていたのに、五回目くらいになってくると血管が焼けて細くなって点滴するのに手をお湯につけてもみ、真っ赤になった時にギューっとゴムでしばり、血管を探すんです。
うまくささるとだいたい三十分で終わるのに血管が逃げたりして違う所にささってしまったりすると2時間ぐらいプスプスやるんです。

これが私の腕(手)の思い出です。
家だと今では笑い話になるんですけど、当時は皆さんに迷惑をかけたものです。』



これを書いてくれたのは高2の生徒ですが、私はほとんど話したこともなく、病気のこともまったく知りませんでした。そのあともほとんど話すことはありませんでした。
でも、この作文はずっと心に残っていました。何より、こうして書いてくれたことについて、まるで受けとめようもない自分が情けなかったのかもしれません。

がんになってよかったこと。
あのとき、この作文に書かれていた言葉の意味が、私には微塵もわかっていなかったとわかったこと。
その分からなさを、分かったふりをしなくてよかったと思えたこと。
いまなら、少しだけ、彼女の言葉が私に伝わってくると思えたこと。

実際、ここに作文を打ち込んでいる間に、私自身の左腕の「しびれ」がどんどん強まるのを感じられたこと。


           ◇


がんになってよかったこと。
8歳のときに、もうこの学校にいられないと思ったとき、「もうおしまい」と感じた気持ちが、改めて感じられたこと。
それまでの自分と自分の人生と自分の世界と自分の大好きな人たちとすべてが「もうおしまい」と感じた。
その「おしまいかもしれない感じ」、は確かなものだったと、ガンになってこの一年、いろんなことを考えつづけてきてようやくわかりました。

「癌です。ステージはⅢb。リンパ節転移あり。血管への転移あり…」
具体的な意味も分からないまま説明を聞き、最悪のことも考えなきゃいけないのかな、と感じた思いと、普通学級から分けられるかもしれないと分かったときに感じた思い、その二つが、私の人生のなかで確かに重なりました。


             ◆


《通房(トンバン)》

人の存在そのものを感じたくなる



【「北のスパイ」として祖国留学中に逮捕された徐勝(ソスン)さん………、焼身自殺を試みて全身に大きなやけどを負い、一度は死刑の宣告を受けながらも、十九年間を獄中で生き貫いた……。
……どうしても徐勝さんに会いたいと思った。

……「人間が生きていく上で、どうしても必要なものは何か」と尋ねた。

徐さんは答えた。

「まずご飯です。一合のご飯です。ご飯と言っても、米と麦と豆の入ったカタ飯です」

「次に布団です。韓国の冬は寒い。だのに十分の長さと幅のある布団が与えられない。下の布団がないことがある」

「それから、やっぱり『通房(トンバン)』でしょうか。
これは見つかったら処罰されますから大変ですが、いろんな方法で囚人同士が連絡し合うことを言います。

一番いいのは、宙に字を書くことです。
「おはよう」と書くと相手も「おはよう」と宙に書く。
コミュニケーションが持てるということがどんなにうれしいか。
人間って生物的だけじゃなく、社会的な存在ですよ」

反抗したり、抵抗したりすると、誰もいない舎へ移されるそうだ。
そこは深海のようでほんとに誰もいない。

そんな監房に一~二カ月入れられると、コミュニケーション以前に、人の顔が見たくなるそうだ。
後姿でもいい、足音だけでもいい、
人の存在そのものを感じたくなるのだそうだ。


生きてゆくのになくてはならないもの、という質問の答えの最後に、徐さんは「ほこり」を挙げた。

人間的な扱いを受けられない場面がいくつもある。
そこを乗り越えるのに人間としての自尊心がとても大切になる、と言った。】


(『心のくすり箱』徳永進 岩波書店)


           ◇

特殊教育といい、特別支援教育といい、障害児のための専門的な教育という。
でも、私は思う。
「コミュニケーション」が一対一で学べるか?
コミュニケーションが「個別」で学べるか?


子どもたちを分けて育てることで、「おなじ子ども」「おなじ仲間」と感じる子ども時代に、分けて育てることで、その感覚を鈍らせ失わせることが、どれほどの「コミュニケーション障害」を生み出していることか。

子ども同士のあいだに、「なかまの存在そのものを感じたくなる」思いを生み出す環境をつくりだしていることを、多くの大人たちが気づかないままでいます。

ただ一緒にいること、一緒に育ちあう共通の場さえあれば育ちあう感性と、一人のひとりの子どものほこりを、どこまでも大事にしたい。

「いける? だいじょうぶ?」と、まっすぐに大人を信じる子どもに、迷いなくこたえたい。

「だいじょうぶだよ。行けるから。お兄ちゃんといっしょに学校に行けるよ。お友だちのいるところへいけるよ」


           ◆

【ある人類学者が、たった一人で離れ小島にあがって住み、そこの人たちの習慣を研究しようとしたが、数カ月たっても、どうしてもそこの人たちに、自分の言葉を分からせることができなかったという。

それは、その島の住民が、流れ着いた学者を、自分たちと同じ人間だと考えなかったことが原因だった。

人間でないものが、どんなふうな音を出そうと、その音の意味を解き明かそうと、まじめに考える人は少ない。

その反対に、相手を同じ人間だと考えるところからは、なんとかして、自分の身にひきくらべて、相手の身振りの意味を考えてゆくから、お互いの言葉など全然知らないなりに、言葉は通じてゆくものなのだ。】


(『ひとが生まれる』鶴見俊輔著  筑摩書房 )
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「分けられること」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事