「コミュニケーション障害」という「障害」が相手にある、とみなすことで、コミュニケーションの可能性を幾重にも遮断すること
長いタイトルになってしまったけれど、いまはこれしか思いつきません。
先日買った竹内敏晴さんの『「出会う」ということ』の中に、「ことばはコミュニケーションのための道具―ではない?」という章があります。
「コミュニケーションとはなにか?
原義にさかのぼれば、
ラテン語で『共に分かちあう』となるが、
では、なにを『共に分かつ』のか?」
(『「出会う」ということ』竹内敏晴 藤原書店)
◇
コミュニケーションが「共に分かちあう」ことであれば、
コミュニケーションが「障害」されるというのは、
「共に分かちあわない」ことを意味しています。
そこで問題になるのは、「ことばがない」ことや「ことばでのやり取りが苦手」ということではありません。
「ことばがない」子を、「共に分かちあわない」子とみなし(コミュニケーション障害と一方的に名付け)、
その子から「共に分かちあう」世界を奪ってしまうことこそが問題なのです。
一方的に、相手に「コミュニケーションの障害」がある、とみなすこと、がコミュニケーションをなくしているのです。
相手が、日本語を話さない、とか英語を話さない、という言い方はあるのでしょう。
相手が、指点字で話す場合や、手話で話す場合もあります。
でも、その場合、障害名は「盲ろう」や「ろう」と言われるのであって、「コミュニケーション障害者」とは言いません。
相手が、ことばを話さない、ことはあります。
でもことばを話さない、ことは「コミュニケーション」の障害ではありません。
赤ちゃんもことばを話しません。
でも、赤ちゃんは、コミュニケーション障害とは言いません。
なのに、その赤ちゃんが、数年後、ことばを話さないと、コミュニケーション障害と名付ける人がいます。
いつ、どこから、その子が「共に分かちあわない」子になったように見えるのでしょう?
………
◇
「コミュニケーションとはなにか?
原義にさかのぼれば、ラテン語で『共に分かちあう』となるが、
では、なにを『共に分かつ』のか?」
竹内さんは直接その答えを書いていません。
仕方ないので、一晩、自分で考えました。
◇
コミュニケーションとは、共に分かちあうこと。
共に分かちあう。
何を?
ここで 共に 生きる 喜びを 分かちあう。
ここに、あなたと 私が いる。
だから、あなたも わたしも、一人じゃない。
孤独じゃない。
その 生きる 喜びを 分かちあう。
その 出会う 喜びを 分かちあう。
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