《もっとこの子の声を聞くために》①「個人制約」
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【個人制約】
たとえば、
声を使わず、他の手立てでのコミュニケーションユーザーであるという「制約」のある子が、「声を聞かれる」とはどういう体験か?
車いすユーザーという「個人制約」のある子どもが、「声を聞かれる」とはどういう体験か?
手話ユーザーという「個人制約」のある子どもが、「声を聞かれる」とはどういう体験か?
点字ユーザーという「個人制約」のある子どもが、「声を聞かれる」とはどういう体験か?
吃音を気づかれない程度のスキルユーザーという「個人制約」のある子どもが、「声を聞かれる」とはどういう体験か?
言語以外の手立てでのコミュニケーションユーザーという「個人制約」のある子どもが「声を聞かれる」とはどういう体験か?
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いわゆる、
「個人制約」のない子、言葉があり、声があり、お話しできる子どもが、「声を聞かれる」とはどういう体験か?
私自身の《声を聞かれる私、という体験》は、とくに「個人制約」と呼ばれるものがない状態での体験だった。
「個人制約」のない多数派の子にとって、自分の声が「聞かれる」ということを、どうやって疑わずにいたか?
自分の声が、誰かに《聞こえている・届いている・受け止められている》という「確かさ」を、私はどうやって納得してきたか。
私の声を聞いている相手の、「表情、まなざし」によって。
返ってくる相手の「声と言葉」によって。
私は、相手の身体をくぐりぬけて、私の声が「聞かれている」ことを納得してきた。
それは「私一人の声の能力」ではなかった。
自分の納得のためには、誰かが「私の声が聞こえている」ことを、私が「聞く」ことが不可欠だった。