「障害の重いとみなされる子こそ、先に」と書いた(メモ4)。
その前に、「子どもたちのつながりは、大人の不甲斐なさを補ってくれる」とも書いた(メモ2)。
それは物語の「半分」だと気づいた。
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障害の重い子ほど、親と一緒に通学したり、学校の中で付き添う場面が多い。
そのとき子どもたちは、はじめて出会う「障害」のある子と同時に、親のまなざしを目にする。
そこには「障害のあるふつうの子どもであるわが子」をみる親のまなざしがある。
「うちの子がいちばんかわいい」という、無条件の親のまなざしがある。
同じまなざしをあびて育った子どもには、その「同じ」がみえる。
ともちゃんのときも、たっくんのときも。
ゆうりちゃんのときも、けいちゃんのときも、そうだった。
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入学してすぐのころは、「小さい子」のように接する子も多い。
はじめは何でもやってあげたがる子も多いが、それも親にもらった「同じ」おくりもの。
保育園から一緒の育った子は、一歩先をいく。
小学校に入学後、友だちの様子を聞かれた女の子は、母親にこう答えた。
「はなれてみてる」
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「離れてみてる」。
相手の主体を受けとめ、大事にみまもる。
その信頼とうれしさは、その子も自分の親からもらったもの。
言葉で教えられたようにでなく、自分がされたように、自分が感じたままに。思いを受け継いでいく。
学校だけ、エレベーターを後回しにする社会。
人手が足りないと、親の手だけに頼る学校。
そうした不甲斐なさを、子どもたちのつながりが補ってくれる。
だから、「何もしなくていい」、「いるだけでいい」と自信をもって言えた。
親と子の「つながり」がみえる子どもは、やがて自分たちのつながりに新しい花を咲かせる。
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