同窓生を念頭において書きます。一般の読者には一部分かりにくい点がありますが、ご容赦いただきたい。
2年生の夏休み、山岳部が新入部員獲得イベントとして、招待登山を開催した。五十人くらいの招待者とホストを務める男女三十人くらいの部員が、一団となって、1950メートルくらいの剣山に登った。
小生は、持久力には自信があった、特に、マラソンなど脚力では人に負けないと自負していた。したがって、ゆっくりと5時間程度だった手ぶらに登山は、お手の物。 その夜は、大学の山小屋泊りであった。上げ膳据え膳で、てんてこ舞いしたのは、男女部員達であった。
夕方から、風雨が強くなり、畳1枚につき二人の勘定で就寝、当然部員達が、担ぎ上げた毛布に包まって寝た。
午前1時か2時頃であろう、なんとなく騒々しい、目が覚めた。医学部の部員一人が、山小屋に救援を求めてきた。なんと遭難事故。遭難は、風雨の中、往復丸一日くらいかかる縦走中に起きた、1名が体温を失い凍死し、2名が歩行困難であるとのことだった。
同級生のY君は、直ちに編成の救助隊の一員として参加したように記憶している。
この悲しい出来事が、小生の「中途半端登山暦」の始まりとなった。
その後、入部しようと、自主的に20kgくらいの砂をリュックにつめ、平地での歩行練習をしてみた。ところが、数キロを歩くと、両手が紫色に変色し、痺れが酷くてリュックを投げださなくてはならない自分に気がついて愕然とした。
当時、体重は50kgそこそこ、当然自分の上半身はがりがりであった。 この痩せた肩にリュックの紐が食い込んで血行不良を起こしていたのである。
タオルを巻いたり、アテ布をしたりしたが、結局解決することはなかった。その頃、女子部員でも30kgを背負い何時間もの登山をしていた。
ついに、山岳部入りをあきらめた。
こんなことがあった翌年の早春、“石鎚山に登るがついて来るか”と、山岳部の部長だったW教授から誘いがあった。二つ返事で、同行をお願いした。
ズック靴に軍手、伯父から貰った古ぼけたリュックと、いかにもみすぼらしい格好だったように思う。 よく知られている行場の鎖は、雪で濡れた軍手の上に日本手ぬぐいを巻いて、かじかみながら登ったように記憶している。
幸い残雪は少なく、深いところでも腰程度で、ラッセルはベテラン部員が交代と、またもや楽な登山となった。
途中、雪渓を横断中、上方から男性ひとりが滑落してきた。ベテラン達は、ピッケルを手にすばやく滑落者に飛びつき事なきを得た。この救助がなければ、おそらく、数百メートル下の立ち木や岩に衝突して、大事に至っていたように思う。
その後、幾度となく、教授からお声がかかり、「腰ぎんちゃく」は数名のベテランと共に登山を経験した。何度かは、Y君もメンバーだったように記憶している。
なぜ小生だけが、部員でもないのに、お供をおおせつかったのか、今でも"なぞ"である。
感激した雲・山・立ち木・雪・夕焼け・ススキなど沢山の白黒写真を今でも大切に保管している。時々、アルバムを見ては、その当時を振り返っている。
またあの当時に戻りたいものである。
2年生の夏休み、山岳部が新入部員獲得イベントとして、招待登山を開催した。五十人くらいの招待者とホストを務める男女三十人くらいの部員が、一団となって、1950メートルくらいの剣山に登った。
小生は、持久力には自信があった、特に、マラソンなど脚力では人に負けないと自負していた。したがって、ゆっくりと5時間程度だった手ぶらに登山は、お手の物。 その夜は、大学の山小屋泊りであった。上げ膳据え膳で、てんてこ舞いしたのは、男女部員達であった。
夕方から、風雨が強くなり、畳1枚につき二人の勘定で就寝、当然部員達が、担ぎ上げた毛布に包まって寝た。
午前1時か2時頃であろう、なんとなく騒々しい、目が覚めた。医学部の部員一人が、山小屋に救援を求めてきた。なんと遭難事故。遭難は、風雨の中、往復丸一日くらいかかる縦走中に起きた、1名が体温を失い凍死し、2名が歩行困難であるとのことだった。
同級生のY君は、直ちに編成の救助隊の一員として参加したように記憶している。
この悲しい出来事が、小生の「中途半端登山暦」の始まりとなった。
その後、入部しようと、自主的に20kgくらいの砂をリュックにつめ、平地での歩行練習をしてみた。ところが、数キロを歩くと、両手が紫色に変色し、痺れが酷くてリュックを投げださなくてはならない自分に気がついて愕然とした。
当時、体重は50kgそこそこ、当然自分の上半身はがりがりであった。 この痩せた肩にリュックの紐が食い込んで血行不良を起こしていたのである。
タオルを巻いたり、アテ布をしたりしたが、結局解決することはなかった。その頃、女子部員でも30kgを背負い何時間もの登山をしていた。
ついに、山岳部入りをあきらめた。
こんなことがあった翌年の早春、“石鎚山に登るがついて来るか”と、山岳部の部長だったW教授から誘いがあった。二つ返事で、同行をお願いした。
ズック靴に軍手、伯父から貰った古ぼけたリュックと、いかにもみすぼらしい格好だったように思う。 よく知られている行場の鎖は、雪で濡れた軍手の上に日本手ぬぐいを巻いて、かじかみながら登ったように記憶している。
幸い残雪は少なく、深いところでも腰程度で、ラッセルはベテラン部員が交代と、またもや楽な登山となった。
途中、雪渓を横断中、上方から男性ひとりが滑落してきた。ベテラン達は、ピッケルを手にすばやく滑落者に飛びつき事なきを得た。この救助がなければ、おそらく、数百メートル下の立ち木や岩に衝突して、大事に至っていたように思う。
その後、幾度となく、教授からお声がかかり、「腰ぎんちゃく」は数名のベテランと共に登山を経験した。何度かは、Y君もメンバーだったように記憶している。
なぜ小生だけが、部員でもないのに、お供をおおせつかったのか、今でも"なぞ"である。
感激した雲・山・立ち木・雪・夕焼け・ススキなど沢山の白黒写真を今でも大切に保管している。時々、アルバムを見ては、その当時を振り返っている。
またあの当時に戻りたいものである。