「俳句は、一度で詠み切り完成しています。一切推敲はしません。」とは、俳句の先生の作風である。仮に一発完成型と呼んでおこう。これには、「一度限りで二度目は無い」とばかり、精神を集中することが必須の技である。
先代の俳句の先生は、推敲する句を自宅の柱に短冊にして掲げ、朝な夕な暫くの間推敲を重ねるという作風だった。これを推敲型と呼んでおこう。
一発完成型と推敲型との二つの流儀が世の中にあるのだ。しかし、一発完成型は少数派で、主流は推敲型だと今でも思っている。
話し変わって、水墨画教室では、下書き、試し描き、本描きとしている。そして、これまでは本描きを数枚描くのが通例である。しかし、殆どの場合、最終的に完成品として残るのが、最初の1枚目の本描きである。
この現象は、先生はもとより、古参のお弟子さん達も押しなべて同じ見解である。
皆さんが「二枚目以降は欲が出て、綺麗に描こう、あそこをこうしようなど、色々な思いが錯綜し、かえって筆の走りを悪くしてしまい、絵に生命力というか力のない作品になってしまう。」と言っている。
最近ようやく小生もこのようなことが理解出来始めたので、今年の春から本描きを1枚に限定することにした。そして、これは成功だったと思ったので、今後も続けることにした。
話を戻す、俳句も同様に7月の句会分から、推敲しないで出句することを始めた。あとから手直しが出来ないという気持ちで詠む事は、それなりの緊張感のある詠み方が出来たし、その上不思議なことに達成感と爽快感があり、やり残しがあるのではという残余感から解放された。とにかく、すっきりした感覚が良かったので、ひき続いて継続することにした。
あとからの手直しを前提に句を詠むということは、中途半端な出来で良いという甘えた気持ちが先行し、「詠み切った」という達成感や爽快感が得られないことに気がついた。
小生の生き方全般について、改めなければならないことだと思った。「一度限りで二度目無し」と、短期間に集中して物事を完了させる生き方は、後戻りできない身であるアラ古希いは、残り少ない人生を有効に生きる方策ではないだろうか思っているのである。今後ともうまくいけばよいのにと思っている。
また、小生のようにあれこれ沢山の事に手を出していると、必然的に時間不足をきたしている。
この時間不足を少しでも解消できる有力な手段が、この短期一点集中型処理方法である。遅きに失したり、古希にしてようやく気が付いたのである。