昨日より今日を!今日より明日を! 夢と希望がある限り命輝かせて生きていこう!

「夢を描こう!」「 夢を語ろう!」 「夢を形にしよう!」 楽しもう76歳を!

戦争という名の青春。

2009-08-14 23:27:18 | ひとりごと
終戦記念日が近づいてくるとテレビや新聞の報道も
戦争にまつわる特集が組まれる。

今夜は七時半からNHKで中居正広さんが司会の
「忘れないで わたしたちの戦争」をみた。

当時、青春まっただ中の20歳代だった若者たちが
何を信じ、何を失ったのか。

いま80歳を過ぎた元兵士たちの戦争証言をもとに
戦場で散った若者の命の意味や生きて64年間思い
続けてきたこと等、取材証言が紹介されていた。

会場には当時の若者と同じ二十代の現役若者が参加
戦争を体験されたゲスト三人(作家の五木寛之さん
俳優の奈良岡朋子さん、俳人の金子兜太さん)が
それぞれの戦争体験を語っていた。

たまたま、今日、書店で見つけた

「昭和二十年夏、僕は兵士だった」 
  梯久美子著 角川書店

を買って読み始めたところだったので番組と重なって
青春を戦争で失った著名人のメッセージに胸のつまる思い
をした。
(金子さん、三国連太郎さん、水木しげるさん等)

はじめての経験、恥ずかしい!

2009-08-13 17:36:56 | ひとりごと
いずれ、その日がくることはわかっていたが
でも、実際に経験してみると
恥ずかしかった!

30歳くらい丸顔の女性だった

(なんの話や?って?)

あまり大きな声では言えないことだが
お盆のことだし特別に
ここだけの話ということで

(・・なにをもったいぶってる!)

その女性と目があったとたん
すっと立ち上がって

次で降ります、どうぞ!

三人がけ優先座席の左隅に座っていた
その女性が席を譲ってくれた

”ありがとう”

と大きな声で気持ちよくお礼を言って
座らせてもらった

奈良の燈花会帰りの地下鉄車内のこと

初めての体験は69歳と121日目。


ウオーキング倶楽部では
この間の舞鶴行きの時もそうだが
メンバーがよく気を使ってくれて
座らせてくれる

しかし
いまでも自分が譲るほうの意識でいて
お年寄りに譲ることもあるので

譲られてみて
こそばゆいような
なんだか周囲に恥ずかしかった

それでも
気持ちよくお礼を言って座るのも
悪くないなあ・・・

上手な譲られ方をしよう。

奈良燈花会に行って。

2009-08-12 23:37:22 | ウォーキング
奈良の夏の風物詩としてすっかり定着している「燈花会」に行った
2001年から毎年欠かさずだから9回目。
燈花会は今年で11年目というから自分の燈花会史?はかなり古い!

盆地の奈良の夏は暑い。
昼間の暑さから夕べが迫まり日が暮れる頃、奈良町、奈良公園一帯は
灯りがつき涼を誘う。

この燈花会は有名になり観光バスで訪れる人などで大変な人出
浴衣姿の女の子たちも目立って多い。

自分のために、たった一つだけの灯りの花を咲かせてみませんかと
「一客一燈」の燈花会は、ろうそくの灯りで彩る神秘的で懐かしくて
まほろばのほのぼのとした気分にしてくれるのでとても気に入っている。


いつもは近鉄なんばから近鉄奈良駅を経路にして行くのだが
あえてJR大阪駅からJR大和路線を利用してJR奈良駅へ
ここから奈良町あたりを散策して猿沢のほとりをスローウォーク
夜の燈花会にそなえ池のほとりは夕涼みがてら待機する人でいっぱいで
外人さんの姿もたくさん見られる。


興福寺の前に行くといつになくたくさんの鹿に遭遇、出産時期を終えて
かわいいバンビ達が観光客を楽しませていた。

せんべいよりハンバーガーが好きらしい、子供から奪っていた。


主の阿修羅さまが九州へ出張中の興福寺国宝館前を通って二月堂へ向かう。


燈花会の始まる前の楽しみは二月堂から生駒山へ没する夕陽を眺める
ことだが、時間に余裕があったために鹿さんたちと遊んでしまって
(遊ばれたのかも)うっかり時間を忘れ夕日は沈んだあとだった。


それでも大好きな二月堂でくつろいで、写真もたくさん撮ることができた
二月堂から正面に見える東大寺大仏殿が闇に包まれてくると燈花会の
会場は灯りが灯される。




いよいよ燈花会めぐりに出発。
東大寺から春日野園地、浅茅ケ原、ここは灯りの海、広い公園の芝に
灯りがどこまでも続く。
東大寺

春日野園地


浮御堂、興福寺、猿沢池へ、大変な人出の中をデジカメで撮り続けた。
浮御堂

猿沢の池と興福寺五重の塔

興福寺五重の塔


戻ってきて撮った写真を確認したら、お粗末な写真ばかりでがっかり
新しいデジカメの使用方法をマスターしておらず、それが原因だと言い訳
して納得させた、お粗末!。

こうして真夏の奈良の燈花会は終わった、約2万歩、さすがに暗くて人ごみの
道は疲れた。商店街に出てそばを食べて近鉄で戻ってきた。

青春18きっぷ舞鶴ウオーキング。

2009-08-11 12:12:57 | ウォーキング
お世話をしているウオーキング倶楽部8月例会は恒例の青春18きっぷでウォーク、今年は京都府の「舞鶴」へ向かった。

大阪駅を7時21分にスタートしたが、最初の福知山線で人身事故がありダイヤは乱れ、途中の福知山駅で約50分も足止めされた時はどうなることやら・・・。急行を利用すれば予定の時間に到着するのだが、青春18きっぷにこだわるのでそれはできなかった。

(福知山駅特急 左・北近畿 - 右・はしだて)

・福知山駅の喫茶店に入り全員モーニングコーヒーで腹ごしらえをしてそれはそれで楽しいひとときだった。こんな旅も仲間がいると楽しい。

目的地の東舞鶴駅についたのは12時前、予定より1時間15分ほども遅れてしまった。帰路の時間は変更できないので、予定していたコースを大幅に変更しなければならない。
今回は、ミステリーウォークということで、メンバーには、コースをまったく知らせていなかったので、強い雨が降り続ける駅前で、資料をもとにコースとウォークポイントの説明をした。

コースは①引揚記念館→②海上自衛隊護衛艦見学→③レンガ倉庫群見物

往復ウォーキングを予定していた引揚記念館へは片道をバスで行くことにした。

今回の目玉は「舞鶴引揚記念館」、メンバーをどうしても連れていきたかったところ。ちょうど終戦記念日前、テレビや新聞で特集が組まれる時期だから過去の痛ましい戦争、敗戦、戦後の長い歴史を戦後生まれのメンバーには感じてほしいと思った。自分にとっても20年ぶりくらいになるのでかねがねもう一度行ってみたいと思っていた。「引揚船」のことは小、中、高校時代のことでよく覚えている。


(舞鶴引揚記念館のパンフレットより引用)
昭和20年(1945)第二次世界大戦の終結にともない、当時海外に残された日本人は660万人以上ともいわれ、これらの方々をすみやかに帰国させなければならなくなりました。これを”引き揚げ”といいます。
舞鶴港は、政府が指定した引揚港の一つとして、昭和20年10月7日引き揚げ第一船の入港から、昭和33年(1958)9月7日の最終船まで、実に13年間の長きにわたり、その使命を果たしました。昭和25年以降は唯一の引揚港として「引き揚げの町・舞鶴」の名を全国に広めました。
舞鶴引揚記念館は、いろいろな方々のご支援で、昭和63年(1988)
4月に開館し、年々通ざかりつつある戦争や「引き揚げ」の史実を語り継ぎ「平和の尊さ、平和の祈り」のメッセージを発信し続けていいます。今後とも、多くの人の心に、その輪が広がることを念願するものです。
・・・・・・・・・・・・
自分が二度も訪れていた粗末な引揚記念館は、広い引揚記念公園の中で立派な建物に変わっていた。
一歩記念館に足を踏み入れると、辛く悲しい抑留生活の様子が展示されていた。舞鶴は13年間で66万4351人の引揚者と1万6269柱の遺骨を受け入れたというが、その膨大な海外からの引揚という史上例をみない民族の悲惨な大移動の様子が写真やデータ、手紙、絵、紙芝居党で展示、説明されていて、言葉にもならなかった。


また、舞鶴は、肉親との再会の、そして、いまだ帰らぬ我が子、我が夫を待つ夫人の姿がいつしか「岸壁の母・妻」といわれ、再会は明暗と哀歓を織りまぜた人生の一大ドラマがたくさん紹介されていた。


厳冬のロシア・シベリアで収容所での悲惨な生活の様子。


引揚記念公園内の高台にある展望台へ雨の中を上ってみた。
「異国の丘・岸壁の母」の歌詞がほられた記念碑がたてられ、望郷の碑も立っていた。





はるかか眼下、右下に引揚桟橋も見えた。


実は、わが家内も終戦は満州で迎え(父親はシベリアへ送られまま不明)、現地人に奪われないように頭を丸め男の子の格好をして終戦後帰国したと家内の叔母から聞かされた、中国人に渡しておれば残留孤児になってもおかしくなかったという。

展望台からは、これから行く海上自衛隊の艦船の姿には複雑な思いがした。

時間が1時半になっていた。帰りの時間は16時40分。
この時間の中で海上自衛隊桟橋まで雨中行軍をしなければならない。1時間でレンガ館手前まで行きたい。距離にして6キロはあるだろう。メンバーにはっぱをかけて、雨の中をバスできた道を引き返す。

傘をさし雨中をスピードを落とさないために交代で先頭にペースメーカー役をつくり一列で歩く、ペースメーカーが疲れると交代する・・・もちろんトップは自分が範を示さないといけない。

先頭を歩く訓練にもなるのであえて一番歩力のないおかわり君に二番手をさせた。この区間でメンバーの歩力も確認できた。もう、みな健脚といっても差支えない。

レンガ倉庫群の前を素通りして、先に時間制限が16時の自衛隊桟橋に行った。
去年、個人で来た時に見た護衛艦より大きな補給艦が停泊していた。残念だったのは、一部艦内はみせてもらえたが、雨のため船上見学ができなかったことで外から眺めるだけになった。艦内をみたのは「補給艦・ましゅう」で、全長221m、13,500トンの大型船でとても写真には納まらなかった。


イージス艦前で記念撮影、177は2007年に千葉県沖でマグロはえ縄漁船「清徳丸」と衝突事件をおこした「なだしお」長さ165m、7,750トン。


あわただしく自衛隊桟橋を離れて、最後のコース、舞鶴レンガ倉庫群は中の見学しないで素通り、レンガ博物館で着替え休憩、をし、東舞鶴駅を目指してウオーキング、とうとう雨は上がらなかったが、全員無事に東舞鶴駅へゴール。


16時40分、帰りの電車へ乗った。ここから長い電車の旅が始まった。帰路は、朝とは、別コース、これがまた楽しい、綾部、園部、京都で乗り換え大阪組は19時43分に大阪駅に戻ってきた。復路3時間3分、とても疲れた。

●Y君の感想(倶楽部の掲示板より)
飢えと寒さと重労働に苦しめられた抑留者が家族に宛てた手紙はどれも自分のことより家族のことを思いやるものばかり。
家族が必死になって嘆願し抑留者を引き上げさせた経過を見るうち、戦争の悲惨さを伝え平和を祈ることの大切さを知りました。
●Pさんの感想
引揚記念館の展示では、ほんの六十数年前の日本の姿に改めて身の引き締まる思いがしました。ウチには「岸壁の母」のLPがあり、また母が子供のころには蓄音器の周りに家族が集って、SP版の「岸壁の母」を聴いていたという話もあって、ここがその地なのかと感慨ひとしおでもありました。
●M君の感想
記念館での紙芝居は特に引きつけられ普段こういった展示物はさらっと見て終わり
なのですが最初から最後まで全部読んでしまいました。いつもこの時期思いますが止める事は出来なかったんでしょうかね。と言いながらイージス艦を実際に見てしまうと、「すっげーな~」とわくわくしてしまいました・・・・

いよいよ夏の大移動が始まった!

2009-08-08 21:24:19 | ひとりごと
甲子園の高校野球が始まった
関西では高校野球が始まると暑くなるという

「熱闘甲子園」

熱湯に例えられるような熱戦が繰り広げられる
からそういうのだろうと思うが
今日の大阪市の最高気温が36.3度、暑かった!

新大阪駅もごったがえしてきた
夏の大移動がはじまってきたのだ
ふるさとへ向かう人たち
大阪へ戻ってくる人たち

今朝の新大阪からの下り「のぞみ」の
乗車率が140%だったとか

リュックを背負った子供たちが
お母さんの手をしっかり持って
家族歩きしているのをみると
なんともかわいい

高校野球の応援団も新幹線で行き来する
閉幕するまでは仕事場のある新大阪はにぎわう

今日もふた組の道案内をした
自称新大阪の案内人も忙しくなる。

99段の階段。

2009-08-07 22:15:10 | ひとりごと
ビルの7階に仕事場があるが
急ぐ場合を除き歩いて上り下りしている

もう4年になる

ビルの管理組合の理事長に推されて
館内の管理の一環として階段を歩き始めたが
それがいつのまにか日常的になって

いまでは当たり前のこと
1日に3回、4回往復することもある

階段の数を年齢を置き換えると
69歳の年齢に該当する66段目は
ちょうど5階になる

7階まで99段あるから
99段、99歳
まだ30段、30年ある

わっ!こりゃ大変!

以前ブログで紹介した
ローマの世界体操選手権の女子で
日本人初の金メダリスト池田敬子さん(75歳)が
歳をとってから、階段を上るのはいいが
下りはひざに負担がかかるのでやらないと言っていた

そのことが気になってエレベーターに乗ることもあるが
やっぱり歩いて下りてしまう・・・
それがリズムなのだろう
習慣とは力なり・・・われながら驚く

おかけで
ウオーキングでも
少々の上りは平気だ。

ヒロシマとひばりさんを結ぶ歌。

2009-08-06 20:57:05 | 輝いて生きる
博多の友人Yさんのブログに美空ひばりさんの
「一本の鉛筆」
という歌をラジオで聞いたと書いてあった。

「一本の鉛筆」については
去年の7月21日にこのブログで書いているが
ヒロシマとかかわりのある歌で
8月6日の今日、ラジオで流されたのはよくわかる。

1974年の第1回広島平和音楽祭でひばりさんが
「今日の私の歌が皆様の心の少しでも慰めになりましたら
幸せだと思います」と
「一本の鉛筆」
を歌ったのが始まりらしい。

あなたに聞いてもらいたい

あなたに読んでもらいたい

あなたに歌ってもらいたい

あなたに信じてもらいたい

一本の鉛筆があれば 私はあなたへの愛を書く

一本の鉛筆があれば 戦争はいやだと私は書く

その後、大病で入院をし復帰は絶望的だと思われていたが
15年後、再び広島平和音楽祭に参加することになり
1988年の第15回広島平和音楽祭で一本の鉛筆を歌った。

一本の鉛筆があれば 8月6日の朝と書く

一本の鉛筆があれば 人間のいのちと私は書く

これが、美空ひばりさん最後のステージとなり
翌年の1989年6月、52歳で亡くなった。

ひばりさんがステージで歌った最後の曲だという
しかし
ひばりさんの平和を思う気持ちは
8月6日のヒロシマで生き続けていくことだろう。

明日は祈りの日。

2009-08-05 19:17:57 | ひとりごと
明日8月6日は広島の原爆記念日
ふるさとを離れて50年を過ぎても
広島県人であることは変わりない
むしろ
時間がたつほどその念を強くするのは
ヒロシマが特別な存在だからだろうか

そんな大事な日を前にして
気になるこんなニュースが入ってきた。

アメリカのカトリック神父らが広島、長崎原爆記念日に合わせ
被爆地へ「謝罪」の旅を計画しているということだ
両市での平和式典にも参加し、被爆者とも対面する予定という。

アメリカ国内で依然、原爆投下を正当化する意見が多い中で
このニュースは注目したい。

一方で米・キニピアック大学の世論調査研究所の調査で
広島、長崎への原爆投下について
アメリカ人の61%が「投下は正しかった」と考えており
投下を支持しない人は22%にとどまったという。

オバマ大統領は「核なき世界」の実現を訴えているのに
アメリカでは依然、原爆投下を肯定する意見が根強い
ことが浮き彫りになっている。

男性の72%が投下を支持し
女性は51%が投下支持という結果らしい。

年齢層別では
18~34歳では半数が「正しかった」とし
「間違っていた」は32%で
55歳以上では73%が投下を支持いるという。

政党支持者別では
共和党支持者の74%が投下を支持しており
民主党支持者では49%だった
政党には格差があることがわかる。 

相変わらずの数字が出ているが
若い人に少しずつ投下を支持しない人が増えている
ことに救われた気がする。

カトリック神父らの広島、長崎への「謝罪」の旅が
どんな結果をもたらすか大いに注目したい。

2000年から限定8月6日のHPを公開している。
http://www.human-dy.com/hirosima

まもなく熱闘甲子園!

2009-08-04 23:01:31 | 輝いて生きる
昼過ぎに新大阪駅団体待合室の前を通ったら
大勢の人だかり、マイクから話が流れてきた

甲子園の高校野球に出場するチームの歓迎会だろう
もしかしてわがふるさとチームでは?

きっと広島の代表チームだ!

近づいてみるとその通り

広島県代表の「如水館」高校の選手が一列に並び
周辺をぐるりと大勢の大人たちが取り囲んで
歓迎と激励のスピーチが行われていた

おっ、迫田監督もいる!

迫田さんは、かって広島商業を全国優勝させた名将
自分よりかなり年上のはず、真っ黒な顔、元気そうだ


去年も同じ場所で広陵高校が同じような歓迎を受けて
いたのに遭遇していたので、その予感があたった。

催していたのは近畿広島県人会だ

8日から今年も全国高校野球選手権大会が始まるが
この時期の新大阪駅にはふるさと代表の高校球児が
次々とやってくる

いよいよ関西も高校球児の熱闘で暑さ本番

仕事場のあるビルに隣接するSホテルは
春夏ずっと宮城県代表の宿泊所になっている
今年は東北高校だったかな・・・?

かってダル君も由規君も泊まっていた
よく知っていて女子高生が来ていた
今年の甲子園にはどんなドラマが待っているか
待ち遠しい。


梅雨が明けて・・・

2009-08-03 19:38:36 | ひとりごと
今日は久しぶりの快晴
近畿地方の長い梅雨がやっと明けた

それなのになぜか蝉の声が聞こえない
先日はうるさいほど鳴いていたのに
どうしたのやら

今朝五時に目が覚めた
トイレではなく背中が痛い
実は昨日からずっと続いていた
それに言葉では表現できない気持の悪さ

七時に血圧を測ったら
最近では珍しく高いので気になった

古橋さんのこともある

時間を合わせて
かかりつけの病院へ行った

昨日からめまいがしていたのも
血圧のせいだったのかもしれないが
きのう、おとつい
思わぬ対応ばかりに終始して
本来の自分が反乱をおこしたのだろう

今日は八月最初の月曜日
梅雨も明けた

思い切って
ネクタイをとって
上着もとって
半袖にしてみた

気持ちがいい

八月はこれで行くことにした。


「フジヤマのトビウオ」古橋さん亡くなる。

2009-08-02 23:58:10 | 輝いて生きる
日本人選手が活躍中の世界水泳選手権が開かれているローマで
日本オリンピック委員会元会長の古橋広之進さんが亡くなった。

我々世代以上には、古橋広之進さんといえば「フジヤマのトビウオ」と
言ったほうがわかりやすい。

古橋さんは、戦後の復興期に水泳で世界記録を連発して多くの日本人を
勇気づけたなつかしい人で忘れられない。

昭和24年に招かれたロサンゼルスでの全米水泳選手権に出場して
自由形の中、長距離で驚異的な世界新記録を連発
アメリカのメディアが「フジヤマのトビウオ」と名付けたそうだ。

古橋選手と同じ日大の橋爪四郎とペアで世界に水泳ニッポンを
広めたことを小学生だったがいまでも覚えている。

昭和27年の戦後初めて参加したヘルシンキオリンピックでは
すでに全盛期を過ぎたフジヤマのトビウオは400メートル自由形で
8位に終わった、雑音の多いラジオの実況放送を必死で聞いたもんだ
6年生の夏休み中だったように思うが・・・。

国際水泳連盟の副会長、国際水泳殿堂入りも果たされるなど
日本のスポーツ界を支え世界に顔が効く人だった。
去年は文化勲章を受章されている。

その古橋広之進選手の当時の世界記録が
1500メートル自由形で18分36秒だった
いま世界記録が14分34秒56だからその進歩に時代を感ずる。

ご冥福をお祈りします。


命が泣いた土曜日。

2009-08-01 23:57:37 | ひとりごと
朝、ひさしぶりにテレビの川柳をみていたら
面白くて面白くて今度投書してみたくなった

川柳はいい、思わずひとりで大笑い・・・

雨の心配もなさそうなので午後からのんびりと
近場のお寺めぐりでもと資料をとりに仕事場へよって
うっかりパソコンを開いたのがまずかった

なんだか気になるメールが数通来ている
携帯メールにも入ってきて
携帯とパコンの両刀づかいをしているうちに
お寺巡りに行く気にならなくなった

ご丁寧にトイレ中に携帯の留守電に
女性の声で書類の件をお願いしたいと
メッセージが入っていた

聞いた名前でも声にも覚えがないが
親しそうな話ぶりに
いたずらではなさそうなので
折り返しかけてみると
全然関係ない、間違い電話だった

近くをぐるり散歩してこようと
ビルの前まで出たら急に大雨が降ってきた

ちょつと間違えばずぶぬれになったところ
あわてて仕事場へ戻って
またパソコンの相手

7時から9時までの
神様に選ばれた試合いま蘇る真夏の名勝負
高校野球特集を完全に忘れていた

おまけに滅多に連絡のない息子からの
携帯メールにも気がつかなくて
問い合わせに返事もしてやれなかった

教え子たちがみているのに
恥ずかしい終末の貴重な土曜日を浪費して
命が一日へっていること忘れるな!