12月16日の今日は第35代横綱双葉山こと時津風・元日本相撲協会第3代目理事長の1968(昭和43)年の忌日である。
双葉山 定次(本名:龝吉 定次〔あきよし さだじ〕)は、1912(明治45)年2月9日大分県宇佐郡天津村布津部(現在の宇佐市下庄)出身。双葉山時代は無敵の69連勝を記録し、この記録は現在も破られていない。しかも、当時は年2場所しか行われていなかったため、3年間にわたって勝ち続けたことになる。
双葉山は、少年時代は成績優秀で普通に出世を目指していたらしいが、家庭の事情から父親の事業(海運業)を手伝っているとき県警の双川喜一部長(のち明治大学専務理事)に才能を見出され、その世話で1927(昭和2年)年、立浪部屋に入門。同年3月場所初土俵を踏む。
四股名の双葉山は「栴檀(センダン)は双葉より芳し」のことわざ(諺)からだが「栴檀は二葉より香し」ともいうそうだ。このことわざの栴檀はセンダンではなく、栴檀は白壇(ビャクダン)の中国名でもあるそうで、白檀は発芽のころから香気を放つことから、将来大成する人物は幼少のときから優れているという喩(たと)え。一般に「いろはかるた」などでは犬も歩けば棒に当る」などことわざを使ったものが有名で良く知られているが、これは江戸版(いわゆる犬棒かるた)で、この京都版の「い」は「一寸先は闇」。京都版の「せ」に「栴檀は二葉より香し」がある(以下参考に記載の※1参照)。この諺から、中国語では「英雄出少年」と言うそうだ(以下参考の※2参照)。良い四股名をつけてもらったものだ。しかし、双葉山は、入幕以前は目立った力士ではなく、大きく勝ち越すことがない一方で負け越しもなく、年寄・春日野(元横綱栃木山)から、「誰とやってもちょっとだけ強い」と評されていたのだという。
1931(昭和6)年5月場所には19歳3ヶ月で新十両に昇進。翌年2月場所、春秋園事件での関取の大量脱退により繰り上げ入幕(十両6枚目から前頭4枚目へ)となるが、相撲が正攻法すぎて上位を脅かすまでには至らず、ただ足腰が非常に強い為攻め込まれても簡単には土俵を割らず土俵際で逆転することが多く「うっちゃり双葉」と皮肉られていたそうだ。1935(昭和10)年1月場所には小結に昇進するが4勝6敗1分と負け越して前頭筆頭に落ち、5月場所も4勝7敗と負け越すなど、この頃までは苦労の連続だったという。
だが、1935(昭和10)年に、蓄膿症の手術を機に体重が増え、それまでの取り口が一変し、一見、相手より遅れて立つように見えながら先手を取る「後の先をとる」立合いを地で行き、右四つに組みとめた後、吊り寄り、乃至必殺の左上手投げで相手を下すようになったそうだ。
そして、翌・1936(昭和11)年1月場所6日目、双葉山の台頭以前に一時代を築いていた横綱玉錦に敗れるが、翌7日目前頭4枚目の瓊ノ浦(のち両國)を下すと残りを連勝して9勝2敗。新関脇で迎えた同年5月場所では9日目に玉錦を初めて破って11戦全勝で初優勝し大関に昇進。以後、大関は全て全勝で通過し、1937(昭和12)年5月、全勝で連続全勝優勝し横綱に昇進。
1938(昭和13)年5月、5場所連続全勝優勝し、この場所で双葉山の前の記録保持者である江戸時代の大横綱谷風の63連勝(引分・預り・休場を挟んだ記録)を、約150年ぶりに塗り替えた。
そして、3年間、負ける事を忘れたかのように勝ち続けてきた大横綱双葉山が次の1939(昭和14)年1月場所4日目(1月15日)、勝てば連続70勝となる「世紀の大一番」で、当時平幕の安藝ノ海(あきのうみ)に左外掛けであっけなく敗れ連勝記録は69で終わってしまったが、双葉山は約3年ぶりの黒星で連勝記録を阻止tされたにもかかわらず、普段通り一礼をし、まったく表情も変えずに東の花道を引き揚げていったという。
実は、この1939(昭和14)年1月場所、前年の満州巡業でアメーバ赤痢に感染して体重が激減、体調も最悪だったことから、双葉山は当初、休場を考えていたらしいが、力士会長の横綱玉錦が虫垂炎を悪化させて急死(1938年12月)した為、双葉山が2代目会長になり、責任感の強い双葉山は強行出場したようだ。
さらに、当時の出羽海部屋では、打倒双葉を目指して場所ごとに作戦会議を開き、その中から、「どうやら双葉山は右に食い付かれるのを嫌がる」「無理な投げを打って体勢を崩すこともあるので、そこを掬(すく)うか足を掛けるかしてはどうか」という作戦が生まれ、双葉山とは稽古もしたことがなく、弱点も知られていない。それに入幕して初の挑戦者となる安藝ノ海が打倒双葉の期待を担う事になっていたという。実は、双葉山は、少年時代の負傷が元で右目がほとんど見えていなかったという。そこを突いた作戦が見事功を奏したというわけだ。
ラジオの実況中継を担当していたNHKアナウンサー和田信賢は、この日に双葉山の連勝が途切れるなどとは予想もしておらず、双葉山が外掛けに倒れた時に控えのアナウンサーに「双葉負けたね!確かに負けたね!」と繰り返し確認してから、「双葉散る! 双葉散る! 旭日昇天まさに69連勝、70連勝を目指して躍進する双葉山、出羽一門の新鋭安藝ノ海の左外掛けに散る! 時に、昭和14年1月15日、双葉山70連勝ならず!まさに70 、古希やはり稀なり!」と絶叫したという。いや~、なかなかの名解説!今時のアナウンサ~ならどんな放送をするんだろう?
この70連勝を阻まれた日の夜、双葉山が心の師に対し打った電報は「イマダモッケイタリエズ(未だ木鶏たりえず)」であったという。この心の師は陽明学者の安岡正篤とされており、以下参考に記載の※3:安岡正篤「1日1言」:名横綱双葉山と木鶏の逸話では、安岡が欧米の東洋専門の学者や当局者達と話し合いをするためにヨーロッパへ船旅をしているときに、双葉山より電報が入ったと書いている(安岡正篤『人物を修める』の中で)らしいが、Wikipediには、実際には双葉山に安岡正篤を紹介してくれた友人へ打った電報をその友人が取り次いだものだともいわれていると書いている。以下YouTubeの動画は、昭和14年1月場所4日目、安藝ノ海に敗れるまでの69連勝を記録したものであるが、最後の場面に出てくる電報の宛名には「コウベシ ナカヤ セイイチ殿」となっている。この人が双葉山の友人であり、その知らせを友人が安岡に転送したのでははないか・・・と私は思っている。
双葉山の69連勝ーYouTube
http://www.youtube.com/watch?v=2sC6OBedhr8
以下参考に記載の※3には、「列子」と「荘子」に出てくる「木鶏」の話が詳しく解説されているので、読まれると良い。ここに出てくる木で彫った鳥(木鶏)のように驕りも高ぶりもない境地 相撲人生・・・それが双葉山の最後まで求めた境地であった。
尚、この「世紀の一番」は大相撲史上で最初の号外として伝えられた、と言われているようだが、この号外の紙面は現存しないそうだ。
双葉山と同じく昭和の大横綱である大鵬、北の湖や千代の富士(現九重)でさえ届かなかったこの連勝記録は、おそらく永久に破られることのない不滅の記録であろうと言われていた。そして、若乃花(今は実業家・タレント花田 勝)・貴乃花の兄弟横綱が相撲界から去って後は、強い日本人力士はいなくなり、日本の国技とまで言われていた大相撲界に陰りが見え始めた中、今では三役など上位を占めているのは殆どが外国人力士となってしまった情けない状況にある。
そのような中で、双葉山の69連勝達成から70年余り経った今年・2010(平成22)年1月場所14日目から62連勝を続けてきた白鵬(モンゴル出身。宮城野部屋)が、同年11月九州場所で、初日栃ノ心を上手投げで破り、江戸時代の大横綱谷風に並ぶ63連勝を達成した。いよいよ昭和の大横綱双葉山の不滅といわれた連勝記録が外国人力士白鵬によって達成される可能性が出てきた。そんな記録達成への期待とそれが外国人力士によって行なわれようとしていることへの日本人として、又、大相撲を日本の国技として愛してきた者の悔しさや情けなさ・・・。記録達成には色々な感情が渦巻いていただろうが、いずれにしても、白鵬の連勝記録に多くの人が関心をもっていたことだろう。しかし、期待された白鳳は2日目、なんと双葉山同様に、平幕(前頭筆頭)の稀勢の里に正面から真っ直ぐ寄り切られ土俵下まで転落し、完敗を喫し、連勝記録は63でストップしてしまった。
ところが、1年半ほど前の読売新聞の『よみうり時事川柳』に、この稀勢の里の連勝ストップに関して予言めいた一句が載っていたそうである。その川柳とは、「稀勢の里君(きみ)が何とかせにゃいかん (投稿者:東京・後藤克好〉」だそうである(「11月16日付 編集手帳 : 社説・コラム : YOMIURI ONLINE」より)。
大の大相撲ファンだった私も、若・貴兄弟が相撲界から去り、国技と言われた日本の伝統ある大相撲に期待できる日本人力士がいなくなり、上位は殆ど外国人が占めるようになってからは、今の相撲に興味が薄れテレビも余り見なくなってしまったので、白鵬に勝った稀勢の里については何も知らなかったが、Wikipediaによれば、彼は、中学卒業と同時に(鳴戸部屋)に入門。低迷する日本人力士の希望として親方衆やファンの期待も大きく、関取昇進以前から将来の飛躍を確実視されていた逸材だそうだ。彼も精進し、2004(平成16)年九州場所、貴乃花に次ぐ年少2番目の記録(18歳3カ月)で番付を駆け上がり新入幕を果たし、この時これまで本名(萩原寛)のままで取っていた四股名を「稀勢の里」と改名したという。この四股名は、「稀な勢いで駆け上がる」という意味を込めて師匠が提案、本人も納得してつけられたものだという。
双葉山の70連勝の記録を阻止した安藝ノ海は、その後、「双葉山に勝った自分がみっともない相撲は取れない」と稽古に励み、1943(昭和18)年1月照國と同時に横綱に昇進した。
白鵬を破り自身3個目の金星を獲得した稀勢の里は、最終的には10勝5敗となり、殊勲賞を受賞した。稀勢の里もこの後精進して、一日も早く平成の日本人大横綱として大相撲界をリードして行ってもらいたいものだ。私もこれから応援したい。
双葉山の69連勝にチャレンジした白鳳と双葉山両者の記録を単純に比較するには余りにも環境が違っている。
大相撲の場所数が年6場所になったのは、名古屋場所が本場所となった1958(昭和33)年からのこと。1949(昭和24)年に東京の2場所に大阪場所が加わり年3場所となり、1953(昭和28)年からは年4場所、九州場所が本場所となった1957(昭和32)年に年5場所であった。
大相撲の場所数は江戸時代から10日間の本場所が年2回と相場が決まっており、双葉山が三役に上がった昭和10年代でもそうであった。
場所の取り組み日数は10、11、13、15日間と時代とともに増えていったが、双葉山時代、一場所の取組日数は11日だったが、双葉山人気が凄まじく、1月場所でも徹夜で入場券を求めるファンが急増した為、1937(昭和12)年5月場所から日数が13日となり、さらに1939(昭和14)年5月場所から現在と同じ15日となった。だから、双葉山は実に3年も掛けて白星を積みかさね69連勝を達成したのだ。それに、当時は、ライバルに強豪力士も多く存在していた。
立浪部屋所属の横綱・双葉山は、その実績が評価され現役力士のまま弟子の育成ができる二枚鑑札を許可され、1941(昭和16)年5月に立浪部屋から独立して双葉山相撲道場を設立した。そして、1942(昭和17)年から1944(昭和19)年にかけて4連覇、36連勝もしている。
1945年(昭和20年)11月場所限りで現役引退して12代目となる年寄・時津風を襲名するとともに、時津風部屋と改称した。1957(昭和32)年に相撲協会理事長に就任。横綱17場所の成績は180勝24敗、勝率8割8分2厘、優勝12回、全勝を8回している。
12月1日スポニチの記事((以下参考に記載の※:4参照)によれば、今年の大相撲九州場所で5場所連続17度目の優勝を飾った横綱・白鵬は、11月30日、観光大使を務める鹿児島県霧島市で前田終止(しゅうじ)市長を訪問し、連勝が63で止まった現在の心境について「われいまだ白鵬たりえず」と明かしたという。「知人に言われた言葉」と前置きした上での発言だったそうだが、モチーフとしているのは尊敬する双葉山が69連勝で止まった際に残した「われいまだ木鶏たりえず」という名言であり、双葉山は、どんな時でも無心に戦う天下無敵の鶏「木鶏」を引き合いに出したが、白鵬は「理想の自分」を追い求める意思をその言葉に込めたもので、「途中から勝ちにいってスキができた」と振り返った稀勢の里戦の敗北を糧に「また69連勝を目指したい」と誓ったそうだ。
場所数、取り組み日数も増えた今なら双葉山の69連勝の記録は「1年足らずで超える」ことが可能だが、横綱としての人間双葉山を超えるのは容易ではないだろうが、同じモンゴル出身の外人力士ながら、朝青龍などと違ってただ強いだけではなく、日本の大相撲に溶け込もうと一生懸命精進もしているようであり、相撲態度も立派な横綱・白鳳なら日本の伝統相撲の頂点に立って相撲界をリードしてゆく資格は十分にある。出来ることなら日本人力士によって双葉山の記録を更新して欲しいが、白鳳が2度目のチャレンジで更新するのであれば、私も素直に認めることが出来そうだ。
最後に、YouTubeで戦後の連合国軍占領下の厳しい制約下の中で相撲協会映画部において制作された映画「双葉山物語」の一部が以下で見ることができる。
双葉山物語1
双葉山物語 2
双葉山物語 3
双葉山物語 4
(冒頭の画像は双葉山。Wikipediaより)
参考:
※1:ゲーム研究室「かるたの部屋」
http://www.asahi-net.or.jp/~rp9h-tkhs/carta.htm
※2:日本を経由して中国に入ってきた西洋の言葉
http://japanese.china.org.cn/jp/txt/2010-05/20/content_20083155.htm
※3:安岡正篤「1日1言」:名横綱双葉山と木鶏の逸話
http://www.chichi-yasuoka.com/episode03.html
※4:新たな名言?「われいまだ白鵬たりえず」(12月1日スポニチ)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101201-00000039-spn-spo
ことわざ辞典:栴檀は双葉より芳し
http://www.proverb.jp/proverb3271.html
大相撲コラム集(大相撲名言集) - goo 大相撲
http://sumo.goo.ne.jp/ozumo_joho_kyoku/yomu/003/146.html
双葉山定次 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8C%E8%91%89%E5%B1%B1%E5%AE%9A%E6%AC%A1
双葉の里
http://www.jaoic.net/oitausa/page/futabayama.html
双葉山 定次(本名:龝吉 定次〔あきよし さだじ〕)は、1912(明治45)年2月9日大分県宇佐郡天津村布津部(現在の宇佐市下庄)出身。双葉山時代は無敵の69連勝を記録し、この記録は現在も破られていない。しかも、当時は年2場所しか行われていなかったため、3年間にわたって勝ち続けたことになる。
双葉山は、少年時代は成績優秀で普通に出世を目指していたらしいが、家庭の事情から父親の事業(海運業)を手伝っているとき県警の双川喜一部長(のち明治大学専務理事)に才能を見出され、その世話で1927(昭和2年)年、立浪部屋に入門。同年3月場所初土俵を踏む。
四股名の双葉山は「栴檀(センダン)は双葉より芳し」のことわざ(諺)からだが「栴檀は二葉より香し」ともいうそうだ。このことわざの栴檀はセンダンではなく、栴檀は白壇(ビャクダン)の中国名でもあるそうで、白檀は発芽のころから香気を放つことから、将来大成する人物は幼少のときから優れているという喩(たと)え。一般に「いろはかるた」などでは犬も歩けば棒に当る」などことわざを使ったものが有名で良く知られているが、これは江戸版(いわゆる犬棒かるた)で、この京都版の「い」は「一寸先は闇」。京都版の「せ」に「栴檀は二葉より香し」がある(以下参考に記載の※1参照)。この諺から、中国語では「英雄出少年」と言うそうだ(以下参考の※2参照)。良い四股名をつけてもらったものだ。しかし、双葉山は、入幕以前は目立った力士ではなく、大きく勝ち越すことがない一方で負け越しもなく、年寄・春日野(元横綱栃木山)から、「誰とやってもちょっとだけ強い」と評されていたのだという。
1931(昭和6)年5月場所には19歳3ヶ月で新十両に昇進。翌年2月場所、春秋園事件での関取の大量脱退により繰り上げ入幕(十両6枚目から前頭4枚目へ)となるが、相撲が正攻法すぎて上位を脅かすまでには至らず、ただ足腰が非常に強い為攻め込まれても簡単には土俵を割らず土俵際で逆転することが多く「うっちゃり双葉」と皮肉られていたそうだ。1935(昭和10)年1月場所には小結に昇進するが4勝6敗1分と負け越して前頭筆頭に落ち、5月場所も4勝7敗と負け越すなど、この頃までは苦労の連続だったという。
だが、1935(昭和10)年に、蓄膿症の手術を機に体重が増え、それまでの取り口が一変し、一見、相手より遅れて立つように見えながら先手を取る「後の先をとる」立合いを地で行き、右四つに組みとめた後、吊り寄り、乃至必殺の左上手投げで相手を下すようになったそうだ。
そして、翌・1936(昭和11)年1月場所6日目、双葉山の台頭以前に一時代を築いていた横綱玉錦に敗れるが、翌7日目前頭4枚目の瓊ノ浦(のち両國)を下すと残りを連勝して9勝2敗。新関脇で迎えた同年5月場所では9日目に玉錦を初めて破って11戦全勝で初優勝し大関に昇進。以後、大関は全て全勝で通過し、1937(昭和12)年5月、全勝で連続全勝優勝し横綱に昇進。
1938(昭和13)年5月、5場所連続全勝優勝し、この場所で双葉山の前の記録保持者である江戸時代の大横綱谷風の63連勝(引分・預り・休場を挟んだ記録)を、約150年ぶりに塗り替えた。
そして、3年間、負ける事を忘れたかのように勝ち続けてきた大横綱双葉山が次の1939(昭和14)年1月場所4日目(1月15日)、勝てば連続70勝となる「世紀の大一番」で、当時平幕の安藝ノ海(あきのうみ)に左外掛けであっけなく敗れ連勝記録は69で終わってしまったが、双葉山は約3年ぶりの黒星で連勝記録を阻止tされたにもかかわらず、普段通り一礼をし、まったく表情も変えずに東の花道を引き揚げていったという。
実は、この1939(昭和14)年1月場所、前年の満州巡業でアメーバ赤痢に感染して体重が激減、体調も最悪だったことから、双葉山は当初、休場を考えていたらしいが、力士会長の横綱玉錦が虫垂炎を悪化させて急死(1938年12月)した為、双葉山が2代目会長になり、責任感の強い双葉山は強行出場したようだ。
さらに、当時の出羽海部屋では、打倒双葉を目指して場所ごとに作戦会議を開き、その中から、「どうやら双葉山は右に食い付かれるのを嫌がる」「無理な投げを打って体勢を崩すこともあるので、そこを掬(すく)うか足を掛けるかしてはどうか」という作戦が生まれ、双葉山とは稽古もしたことがなく、弱点も知られていない。それに入幕して初の挑戦者となる安藝ノ海が打倒双葉の期待を担う事になっていたという。実は、双葉山は、少年時代の負傷が元で右目がほとんど見えていなかったという。そこを突いた作戦が見事功を奏したというわけだ。
ラジオの実況中継を担当していたNHKアナウンサー和田信賢は、この日に双葉山の連勝が途切れるなどとは予想もしておらず、双葉山が外掛けに倒れた時に控えのアナウンサーに「双葉負けたね!確かに負けたね!」と繰り返し確認してから、「双葉散る! 双葉散る! 旭日昇天まさに69連勝、70連勝を目指して躍進する双葉山、出羽一門の新鋭安藝ノ海の左外掛けに散る! 時に、昭和14年1月15日、双葉山70連勝ならず!まさに70 、古希やはり稀なり!」と絶叫したという。いや~、なかなかの名解説!今時のアナウンサ~ならどんな放送をするんだろう?
この70連勝を阻まれた日の夜、双葉山が心の師に対し打った電報は「イマダモッケイタリエズ(未だ木鶏たりえず)」であったという。この心の師は陽明学者の安岡正篤とされており、以下参考に記載の※3:安岡正篤「1日1言」:名横綱双葉山と木鶏の逸話では、安岡が欧米の東洋専門の学者や当局者達と話し合いをするためにヨーロッパへ船旅をしているときに、双葉山より電報が入ったと書いている(安岡正篤『人物を修める』の中で)らしいが、Wikipediには、実際には双葉山に安岡正篤を紹介してくれた友人へ打った電報をその友人が取り次いだものだともいわれていると書いている。以下YouTubeの動画は、昭和14年1月場所4日目、安藝ノ海に敗れるまでの69連勝を記録したものであるが、最後の場面に出てくる電報の宛名には「コウベシ ナカヤ セイイチ殿」となっている。この人が双葉山の友人であり、その知らせを友人が安岡に転送したのでははないか・・・と私は思っている。
双葉山の69連勝ーYouTube
http://www.youtube.com/watch?v=2sC6OBedhr8
以下参考に記載の※3には、「列子」と「荘子」に出てくる「木鶏」の話が詳しく解説されているので、読まれると良い。ここに出てくる木で彫った鳥(木鶏)のように驕りも高ぶりもない境地 相撲人生・・・それが双葉山の最後まで求めた境地であった。
尚、この「世紀の一番」は大相撲史上で最初の号外として伝えられた、と言われているようだが、この号外の紙面は現存しないそうだ。
双葉山と同じく昭和の大横綱である大鵬、北の湖や千代の富士(現九重)でさえ届かなかったこの連勝記録は、おそらく永久に破られることのない不滅の記録であろうと言われていた。そして、若乃花(今は実業家・タレント花田 勝)・貴乃花の兄弟横綱が相撲界から去って後は、強い日本人力士はいなくなり、日本の国技とまで言われていた大相撲界に陰りが見え始めた中、今では三役など上位を占めているのは殆どが外国人力士となってしまった情けない状況にある。
そのような中で、双葉山の69連勝達成から70年余り経った今年・2010(平成22)年1月場所14日目から62連勝を続けてきた白鵬(モンゴル出身。宮城野部屋)が、同年11月九州場所で、初日栃ノ心を上手投げで破り、江戸時代の大横綱谷風に並ぶ63連勝を達成した。いよいよ昭和の大横綱双葉山の不滅といわれた連勝記録が外国人力士白鵬によって達成される可能性が出てきた。そんな記録達成への期待とそれが外国人力士によって行なわれようとしていることへの日本人として、又、大相撲を日本の国技として愛してきた者の悔しさや情けなさ・・・。記録達成には色々な感情が渦巻いていただろうが、いずれにしても、白鵬の連勝記録に多くの人が関心をもっていたことだろう。しかし、期待された白鳳は2日目、なんと双葉山同様に、平幕(前頭筆頭)の稀勢の里に正面から真っ直ぐ寄り切られ土俵下まで転落し、完敗を喫し、連勝記録は63でストップしてしまった。
ところが、1年半ほど前の読売新聞の『よみうり時事川柳』に、この稀勢の里の連勝ストップに関して予言めいた一句が載っていたそうである。その川柳とは、「稀勢の里君(きみ)が何とかせにゃいかん (投稿者:東京・後藤克好〉」だそうである(「11月16日付 編集手帳 : 社説・コラム : YOMIURI ONLINE」より)。
大の大相撲ファンだった私も、若・貴兄弟が相撲界から去り、国技と言われた日本の伝統ある大相撲に期待できる日本人力士がいなくなり、上位は殆ど外国人が占めるようになってからは、今の相撲に興味が薄れテレビも余り見なくなってしまったので、白鵬に勝った稀勢の里については何も知らなかったが、Wikipediaによれば、彼は、中学卒業と同時に(鳴戸部屋)に入門。低迷する日本人力士の希望として親方衆やファンの期待も大きく、関取昇進以前から将来の飛躍を確実視されていた逸材だそうだ。彼も精進し、2004(平成16)年九州場所、貴乃花に次ぐ年少2番目の記録(18歳3カ月)で番付を駆け上がり新入幕を果たし、この時これまで本名(萩原寛)のままで取っていた四股名を「稀勢の里」と改名したという。この四股名は、「稀な勢いで駆け上がる」という意味を込めて師匠が提案、本人も納得してつけられたものだという。
双葉山の70連勝の記録を阻止した安藝ノ海は、その後、「双葉山に勝った自分がみっともない相撲は取れない」と稽古に励み、1943(昭和18)年1月照國と同時に横綱に昇進した。
白鵬を破り自身3個目の金星を獲得した稀勢の里は、最終的には10勝5敗となり、殊勲賞を受賞した。稀勢の里もこの後精進して、一日も早く平成の日本人大横綱として大相撲界をリードして行ってもらいたいものだ。私もこれから応援したい。
双葉山の69連勝にチャレンジした白鳳と双葉山両者の記録を単純に比較するには余りにも環境が違っている。
大相撲の場所数が年6場所になったのは、名古屋場所が本場所となった1958(昭和33)年からのこと。1949(昭和24)年に東京の2場所に大阪場所が加わり年3場所となり、1953(昭和28)年からは年4場所、九州場所が本場所となった1957(昭和32)年に年5場所であった。
大相撲の場所数は江戸時代から10日間の本場所が年2回と相場が決まっており、双葉山が三役に上がった昭和10年代でもそうであった。
場所の取り組み日数は10、11、13、15日間と時代とともに増えていったが、双葉山時代、一場所の取組日数は11日だったが、双葉山人気が凄まじく、1月場所でも徹夜で入場券を求めるファンが急増した為、1937(昭和12)年5月場所から日数が13日となり、さらに1939(昭和14)年5月場所から現在と同じ15日となった。だから、双葉山は実に3年も掛けて白星を積みかさね69連勝を達成したのだ。それに、当時は、ライバルに強豪力士も多く存在していた。
立浪部屋所属の横綱・双葉山は、その実績が評価され現役力士のまま弟子の育成ができる二枚鑑札を許可され、1941(昭和16)年5月に立浪部屋から独立して双葉山相撲道場を設立した。そして、1942(昭和17)年から1944(昭和19)年にかけて4連覇、36連勝もしている。
1945年(昭和20年)11月場所限りで現役引退して12代目となる年寄・時津風を襲名するとともに、時津風部屋と改称した。1957(昭和32)年に相撲協会理事長に就任。横綱17場所の成績は180勝24敗、勝率8割8分2厘、優勝12回、全勝を8回している。
12月1日スポニチの記事((以下参考に記載の※:4参照)によれば、今年の大相撲九州場所で5場所連続17度目の優勝を飾った横綱・白鵬は、11月30日、観光大使を務める鹿児島県霧島市で前田終止(しゅうじ)市長を訪問し、連勝が63で止まった現在の心境について「われいまだ白鵬たりえず」と明かしたという。「知人に言われた言葉」と前置きした上での発言だったそうだが、モチーフとしているのは尊敬する双葉山が69連勝で止まった際に残した「われいまだ木鶏たりえず」という名言であり、双葉山は、どんな時でも無心に戦う天下無敵の鶏「木鶏」を引き合いに出したが、白鵬は「理想の自分」を追い求める意思をその言葉に込めたもので、「途中から勝ちにいってスキができた」と振り返った稀勢の里戦の敗北を糧に「また69連勝を目指したい」と誓ったそうだ。
場所数、取り組み日数も増えた今なら双葉山の69連勝の記録は「1年足らずで超える」ことが可能だが、横綱としての人間双葉山を超えるのは容易ではないだろうが、同じモンゴル出身の外人力士ながら、朝青龍などと違ってただ強いだけではなく、日本の大相撲に溶け込もうと一生懸命精進もしているようであり、相撲態度も立派な横綱・白鳳なら日本の伝統相撲の頂点に立って相撲界をリードしてゆく資格は十分にある。出来ることなら日本人力士によって双葉山の記録を更新して欲しいが、白鳳が2度目のチャレンジで更新するのであれば、私も素直に認めることが出来そうだ。
最後に、YouTubeで戦後の連合国軍占領下の厳しい制約下の中で相撲協会映画部において制作された映画「双葉山物語」の一部が以下で見ることができる。
双葉山物語1
双葉山物語 2
双葉山物語 3
双葉山物語 4
(冒頭の画像は双葉山。Wikipediaより)
参考:
※1:ゲーム研究室「かるたの部屋」
http://www.asahi-net.or.jp/~rp9h-tkhs/carta.htm
※2:日本を経由して中国に入ってきた西洋の言葉
http://japanese.china.org.cn/jp/txt/2010-05/20/content_20083155.htm
※3:安岡正篤「1日1言」:名横綱双葉山と木鶏の逸話
http://www.chichi-yasuoka.com/episode03.html
※4:新たな名言?「われいまだ白鵬たりえず」(12月1日スポニチ)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101201-00000039-spn-spo
ことわざ辞典:栴檀は双葉より芳し
http://www.proverb.jp/proverb3271.html
大相撲コラム集(大相撲名言集) - goo 大相撲
http://sumo.goo.ne.jp/ozumo_joho_kyoku/yomu/003/146.html
双葉山定次 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8C%E8%91%89%E5%B1%B1%E5%AE%9A%E6%AC%A1
双葉の里
http://www.jaoic.net/oitausa/page/futabayama.html