月日の経つのは早いもので、もう1年の最後の月・12月も中を過ぎ、「年の瀬」の慌しい時期となってきた。
日本では、旧暦12月を師走(しわす)または極月(ごくげつ、ごくづき)と呼び、現在では師走は、新暦12月の別名としても用いれ、その由来は僧侶(師は、僧侶の意)が仏事で走り回る忙しさ(しはす=師馳す。平安後期編『色葉字類抄』)からという説がある。また、言語学的な推測として「年果てる=年果つ(としはつ)」、四季の果てる月「四極(しはつ)や1年の最後になし終える意味の「為果つ(しはつ)」等から「しわす」に変化したなどという説もある。
年末の事をいう「年の瀬」も中々趣きのある言葉だ。『瀬』と言うと百人一首に出てくる以下の崇徳院の恋歌を思い出す。
「瀬を速(はや)み岩にせかるる滝川の われても末に逢はむとぞ思」(歌の意味は以下参考の※1参照)
この「瀬」とは、本来、「淵」の対義語。歩いて渡れるほど浅いところを「瀬」と呼ぶが、水が深くてよどんでいるところを「淵」と呼ぶ。また、川は岸が近くて浅いところほど流れが急なので、急流の意味もある。「瀬をはや(早)み」は、「~を+形容詞の語幹+み」と続くと、「~が・形容詞・なので」と理由を表す言葉になり、ここでは「川の瀬の流れが速いので」という意味であるが、浅瀬、早瀬はこの「瀬」の用例である。そこから転じて「立つ瀬がない」「浮かぶ瀬」「逢瀬」などと、場所、立場、拠り所、場合、機会の意味で「瀬」という言葉が使われるようにもなった。さらに、最後の拠り所ということを指す意味の「瀬」から、1年の最後を「年の瀬」と呼ぶようになったと言われている。余談だが、「この崇徳院の歌は久安百首には「行きなやみ岩にせかるゝ谷川の」となつていて、百首異見(天保6年刊香川景樹著)には久安百首の方が正しいといつている」・・・と、北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』にある(以下参考に記載の※2参照)。
崇徳院は、1123(保安4)年に白河法皇の影響の下、鳥羽天皇に譲位され、5歳で皇位につくが、白河法皇の死後治天の君となった父、鳥羽上皇に疎んじられ、1142(永治2)年に、鳥羽上皇の異母弟である近衛天皇に譲位させられている。保元の乱により、出家するも許されず、讃岐国に流刑に処された。そして、最後には、崇徳は後白河法皇を呪詛しながら亡くなったという。
崇徳天皇の歌は、改作によって激しい恋の歌に変貌しているが、その元歌に見られる迸る(ほとばしる)激情と崇徳天皇の悲惨な運命を重ね合わせるとそこには鬼気迫るものが感じられる。哀れな死を遂げた崇徳天皇には、古くから怨霊伝説が囁かれるようになった(怨霊伝説参照)。
このページ冒頭の画像は、讃岐に流された崇徳上皇。歌川国芳による百人一首を題材にした浮世絵である。
それにしても、年末は「岩にせかるる」の言葉の通り慌しい時期であり、「年の瀬」とは誠に言い得て妙な言葉ではある。
この慌しい12月は昔から「果ての月 」とも言うそうだ。特に、12月20日のことを「果ての二十日 」 と言い、この日は身を慎み災いを避ける忌み日 ( いみび )として 正月準備や祝事を控えてきた。
「 果ての二十日 」の由来については諸説あるようだが、京都などでは罪人の処刑をこの日に行っていたからと言われている。
♪京の五条の橋の上、
大の男の弁慶は
長い薙刀ふりあげて、
牛若めがけて切りかかる。
これは尋常小学校唱歌「牛若丸」に出てくる牛若丸こと義経と弁慶の戦いの場面である。
千本の太刀を集めることを思い立った武藏坊弁慶は毎晩、京の都で太刀を奪いとり、いよいよこれで千本めの太刀が集まるという夜、西洞院通松原にある五条天神に行き、「良い太刀を授けてください」と祈願をすると、神社すぐそばの堀川通で牛若丸(源 義経)と出会い五条の大橋で薙刀を振りまわして戦い完敗。そして、牛若丸の家来となる・・・。
義経と弁慶のことは、義経とその主従を中心に書かれた『義経記(ぎけいき)』に登場するが、この『義経記』は曾我兄弟の仇討ちを題材にした『曾我物語』と対称せられる英雄伝説的な意図の下に後世つくられた歴史物語である。作者は不明であるが、その流布本は南北朝時代から室町時代初期に成立したと考えられている。
ただし、この軍記物語『義経記』には、唱歌に歌われたような弁慶との闘い方とは異なり、太刀で闘っており、なによりも、五条橋の闘いのことは出てこない。牛若丸と弁慶の戦いの場に「五条の橋の上」が登場するのは、『義経記』を基にした御伽草子『橋弁慶』が成ったころからのようだ。
『義経記』によれば弁慶は6月17日の夜、先ず五条の天神社で出会い、義経に「是より後にかかる狼藉すな。・・・・」と嗜(たしな)められている。次に翌朝清水観音(清水寺)への参詣道の清水坂、最後の清水の舞台(本堂)では弁慶は義経に組み伏せられ、君臣の誓いをたてている(以下参考に記載の※3:「義経記」の巻第3:“弁慶洛中にて人の太刀を奪ひ取る事”参照)。
現在の東大路通の清水道交差点から清水寺までの約1.2キロの坂道は清水道(松原通の東端部分)と称され、今、道の両側には観光客向けのみやげ物店などが軒を連ねている。この道は松原通(もとの五条通)の延長である。つまり、平安時代の五条通は現在の松原通に相当することから。「五条の橋」は今の橋よりも北、現在の松原橋付近にあったことになる。
京都市内の南北の通りの一つである小川通は、北は紫明通から南は錦小路通まであるが、南の延長線上を東中筋通、別名天使突抜通(てんしのつきぬけどおり)が走る。平安京の時代には存在せず、豊臣秀吉による天正の地割で新設された通りである。
牛若丸と弁慶の像がある現在の五条通は平安京の六条坊門小路あたりにあり、秀吉が、方広寺の大仏殿を建立するにあたって鴨川に架かる五条の大橋をこの通りに移設したため、この通りが五条橋通と呼ばれるようになり、やがて「橋」の字が略され、「五条通」と呼ばれるようになった。そして、元の五条大路が松並木が綺麗な通りであったことから松原通と呼ばれるようになったそうである。(通りのことは以下参考に記載の※4:大路小路を参照)。
東中筋通を別名天使突抜通と言うが、その「天使」とは五条通との交差点近くにある五条天神社を指し、当初は「天使の宮(天使社)」と称していた。その神社の境内を貫通して道が開かれたことが通り名の由来となったようだが、後鳥羽天皇の時代に五条天神宮と改められたそうだ。
義経と弁慶が最初に出会たとされている現在の五条天神は桓武天皇の平安遷都の際、都の守護を目的に大和の国宇陀郡から天神(あまつかみ)を勧請し、当時の五条通西洞院、今の松原通西洞院の一角に建立されたのが始まりで、祭神として大己貴命(おおなむちのみこと)・少彦名命(すくなひこなのみこと)・天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀っている。造営当時は洛中最古の神社として社域も広く、南は六条まで広大な鎮守の森を有し、社殿も広壮であったが、保元の乱や、応仁の乱、蛤御門の変(禁門の変)など度重なる兵火に巻き込まれ、社殿も消失し由緒書も残っていない。戦後現在の地に移されて再建され、今は、小さな社と一対の榊のあるこぢんまりとした境内が、周囲のビルに埋もれている。(以下参考に記載の※5、※6参照)。
兼好法師の徒然草第二百三段では「勅勘の所に靫(ゆき)懸くる作法、今は絶えて、知れる人なし。主上の御悩、大方、世中の騒がしき時は、五条の天神に靫を懸けらる。」とあり、古来、靫は、矢を入れ背に負った細長い箱形道具であるが、弓矢を、羽を下にし、鏃(や‐じり=矢尻)が外に見えるようにした構造になっており、実用的ではなく、概して威嚇用の武具であり、天皇の病気平癒や世の騒擾(そうじょう。集団で騒ぎを起こし、社会の秩序を乱す。騒乱。擾乱)の静まることを祈願して、五条天神に裄を懸けたのであろう(以下参考に記載の※7:「徒然草」第二百三段参照)。
この五条天神から松原通りを東に行った新町通りを右折してすぐのところに、猿田彦命・天鈿女命(あめのうずめ)を祭神とする小社があるが、『宇治拾遺物語』の中で「五条の道祖神」(以下参考に記載の※8:「現代語訳:宇治拾遺物語」の巻一の一参照)として登場する古い歴史を持つ神社であり、かつては、五条天神宮の境内とひと続きであったと言われている。(以下参考に記載の※9:「京都PHOTO CLIP」の“洛中”に、五条天神宮と松原道祖神社の写真あり)。又、『拾遺都名所図会』巻一には、「道祖神社」として「新町通松原の角、人家の裏にあり。今首途神(いまかどでのかみ)と称す」と記載されており、現在は新町通に面した西側(新町通松原下ル藪下町)に移っている。(以下参考に記載の※6また、※10:「拾遺都名所図会データーベース」参照)。
「首途」とは旅立ち・門出(かどで)をいう。又、道祖神は路傍の神であり、五条大路(現在の松原通り)の道の神として道行人を守護する神であるとともに、その集落と神域(常世や黄泉の国)を分かち、過って迷い込まない、禍を招き入れないための結界でもあった。
松原新町はかって「十念の辻(じゅうねんのつじ)」とよばれていた。江戸時代に京都の処刑場では、「果ての二十日」 に その年最後の処刑 が行われていたようで、六角の獄舎から引き出された市中引き回しの罪人は、この辻で、十念(南無阿弥陀仏の念仏を十回唱えること)とともに引導を渡されて、粟田口の刑場(日ノ岡)に向かったという。
鴨川にかかる三条大橋を東へ行くと南北路の東大路通。さらに東へ行き、白川橋より東蹴上あたりまでが、粟田口であり、この辺りは奈良時代以前から開けた土地で粟田氏が本拠とした愛宕郡(おたぎぐん)粟田郷とよばれていたところである。
粟田氏は、小野妹子の氏である小野氏と同じ和珥氏(わにうじ)系の豪族である。海神の神使いである「ワニ」を名にし負う和珥氏は、阿曇氏と並んで海人族の雄であり、埴輪などの祭祀関係土器製作者集団の統率者で、山陵の管理と、古墳埋葬者(天皇・皇族)の事跡を語り伝える役目を有して朝廷に重きをなしていたといわれる(以下参考に記載の※13:「海神の国日本」参照)。
平安京が出来ると、ここは、京の都から東国へ出る時、必ず通る出口であることから、粟田口と呼ばれるようになり、京の七口(三条口とも言う)の一つに数えられるようになり、関所も設けられていた。
粟田口の近くには粟田神社があり、もともと粟田氏の氏神であったらしいが、ここも「旅立ちの神」として信仰されていた。牛若丸(源義経)が、金売り吉次に連れられて京都から奥州平泉へ「首途」のおりに祈念したという謂れを持つ恵比須像も、粟田神社の境内に祀られている。この像は、もと粟田山(以下参考に記載の※11:「東山三十六峰」参照)字夷谷にあったものが、明治に粟田神社へ移されたものだという(以下参考に記載の※12参照)。なお、平安末期以来この付近には、大和(奈良)から移住してきた鍛冶師が刀剣をつくっていたと言い、そのことは、粟田神社の所在地名“鍛冶町”として残っている。又、江戸時代から明治まで粟田焼と呼ばれる陶器の山地でもあった。
東海道沿いの江戸の入り口とも言える場所に設置されていた鈴ヶ森刑場や江戸の北の入口(日光街道)に設置されていた小塚原刑場などにみられるごとく、粟田口も人通りが多いので見せしめの場にもなり、粟田口を東へ行った上り坂「蹴上」(最初の峠で「日ノ岡峠」という)あたりに処刑場が置かれ、悪人はここで曝し首にもされた。
本能寺の変で三日天下を取った明智光秀は、1582(天正10)年山崎の合戦で秀吉に破れて、伏見の小栗栖(おぐりす)の藪(京都市伏見区、現在は「明智藪」と呼ばれる)まで逃れたが土民の落ち武者狩りに遭い殺害された。その首は謀反人として粟田口の刑場に晒された後、栗田口黒谷(西小物座町)に、他の数千の首と一緒に埋められたという。この粟田口の刑場で処刑された罪人の数は1万5千余人にのぼったと伝えられている。
神道では、念(思い)を残して死んだ人の霊魂を慰め鎮める祭りを行う日などが忌み日であるが、果ての二十日に何を忌むのかは諸説あって、山の神に深く関る忌み日ともされ、この日に山に入ることが忌まれる地域も多いようだ。
山で遭遇するのは、山の神だけとは限らず、いろんな妖怪に出くわすことが多いようだが、和歌山と奈良の県境の果無山脈では、皿のような目を持つ一本足の妖怪一本ダタラに遭遇することがあるとされている。この妖怪は旧暦の12月20日のみ現れるといい、この日はやはり「果ての二十日」と呼ばれ厄日とされている。果無山の果無の名の由来は「果ての二十日」に人通りが無くなるからだともいわれている。
奈良県の伯母ヶ峰山でも同様に、12月20日に山中に入ると一本ダタラに遭うといい、「果ての二十日に伯母ヶ峰を越すな。」とこの日は山に入らないよう戒められているそうだ。こちらの一本ダタラは、一本足の鬼と化した猪の妖怪(猪笹王)だ(以下参考に記載の※14:「上北山村公式ホームページ :伯母峰の一本足」参照)。
「一本ダタラ」の「ダタラ」はタタラ師(鍛冶師)に通じるが、これは鍛冶師が重労働で片目と片脚が萎えること、一本ダタラの出没場所が鉱山跡に近いことに関連するとの説があるそうだ(隻眼#神話・伝説の中の隻眼を参照)。一つ目の鍛冶神天目一箇神(あめのまひとつのかみ)の零落した姿であるとも考えられているという。
高知では「タテクリカエシ」といって、夜道を転がる手杵状の妖怪の伝承があり、伯母ヶ峰山の一本ダタラはこれと同じものとの説もあり、各地に一本ダタラの伝承はあるが、名前は同じでも、土地によって大きな違いがあるようだ。また、香川(琴南町)の民俗には、果ての二十日は山姥(ヤマウバ)が洗濯しているから山越しをしてはいけないといわれているそうだが、山姥の原型は、先住民族の末裔、木地屋(師)やサンカといった、山間を流浪する民であるとも、山の神に仕える巫女が妖怪化していったものとも考えられている。 土地によっては「山姥の洗濯日」と呼び、水を使ってはいけないとか、洗濯をしてはいけないとする日があり、例えば北九州地方では、「山姥の洗濯日」は暮れの十三日または二十日とされ、この日は必ず雨が降るため洗濯をしないという風習が残っているそうで、これは恐らく、雨を司る山神の巫女の禊(みそぎ)の日であったものの名残りであったろうという。山姥が、山岳信仰における神霊にその起源を持っているのは確かだろう。妖怪のことは以下参考に記載の※14:「国際日本文化研究センター:怪異・妖怪伝承データーベース」で検索はされるとよい。
山姥以外に鬼や天狗、河童と呼ばれるもの、あるいは不思議な能力をもった狐や狸、蛇、猫といった動物たち----、昔の人はこれらを「もののけ(物の怪)」とか「化け物」、「変化・魔性の物」などと呼んで恐れていた。
これらには、相次ぐ政争による敗北者の怨霊や念を遺して亡くなった人の霊、はたまた、農業中心の世界観の中で、中世には、境界的な空間に生活の場・方便を得ていた、山の民や川の民、雑芸能民たち(農業以外での生活者)の少なからぬ数をも「異類異形」(以下参考に記載の※19参照)の名でこの中に引き込んでいった。
果ての二十日(Ⅱ)へ
果ての二十日参考へ
日本では、旧暦12月を師走(しわす)または極月(ごくげつ、ごくづき)と呼び、現在では師走は、新暦12月の別名としても用いれ、その由来は僧侶(師は、僧侶の意)が仏事で走り回る忙しさ(しはす=師馳す。平安後期編『色葉字類抄』)からという説がある。また、言語学的な推測として「年果てる=年果つ(としはつ)」、四季の果てる月「四極(しはつ)や1年の最後になし終える意味の「為果つ(しはつ)」等から「しわす」に変化したなどという説もある。
年末の事をいう「年の瀬」も中々趣きのある言葉だ。『瀬』と言うと百人一首に出てくる以下の崇徳院の恋歌を思い出す。
「瀬を速(はや)み岩にせかるる滝川の われても末に逢はむとぞ思」(歌の意味は以下参考の※1参照)
この「瀬」とは、本来、「淵」の対義語。歩いて渡れるほど浅いところを「瀬」と呼ぶが、水が深くてよどんでいるところを「淵」と呼ぶ。また、川は岸が近くて浅いところほど流れが急なので、急流の意味もある。「瀬をはや(早)み」は、「~を+形容詞の語幹+み」と続くと、「~が・形容詞・なので」と理由を表す言葉になり、ここでは「川の瀬の流れが速いので」という意味であるが、浅瀬、早瀬はこの「瀬」の用例である。そこから転じて「立つ瀬がない」「浮かぶ瀬」「逢瀬」などと、場所、立場、拠り所、場合、機会の意味で「瀬」という言葉が使われるようにもなった。さらに、最後の拠り所ということを指す意味の「瀬」から、1年の最後を「年の瀬」と呼ぶようになったと言われている。余談だが、「この崇徳院の歌は久安百首には「行きなやみ岩にせかるゝ谷川の」となつていて、百首異見(天保6年刊香川景樹著)には久安百首の方が正しいといつている」・・・と、北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』にある(以下参考に記載の※2参照)。
崇徳院は、1123(保安4)年に白河法皇の影響の下、鳥羽天皇に譲位され、5歳で皇位につくが、白河法皇の死後治天の君となった父、鳥羽上皇に疎んじられ、1142(永治2)年に、鳥羽上皇の異母弟である近衛天皇に譲位させられている。保元の乱により、出家するも許されず、讃岐国に流刑に処された。そして、最後には、崇徳は後白河法皇を呪詛しながら亡くなったという。
崇徳天皇の歌は、改作によって激しい恋の歌に変貌しているが、その元歌に見られる迸る(ほとばしる)激情と崇徳天皇の悲惨な運命を重ね合わせるとそこには鬼気迫るものが感じられる。哀れな死を遂げた崇徳天皇には、古くから怨霊伝説が囁かれるようになった(怨霊伝説参照)。
このページ冒頭の画像は、讃岐に流された崇徳上皇。歌川国芳による百人一首を題材にした浮世絵である。
それにしても、年末は「岩にせかるる」の言葉の通り慌しい時期であり、「年の瀬」とは誠に言い得て妙な言葉ではある。
この慌しい12月は昔から「果ての月 」とも言うそうだ。特に、12月20日のことを「果ての二十日 」 と言い、この日は身を慎み災いを避ける忌み日 ( いみび )として 正月準備や祝事を控えてきた。
「 果ての二十日 」の由来については諸説あるようだが、京都などでは罪人の処刑をこの日に行っていたからと言われている。
♪京の五条の橋の上、
大の男の弁慶は
長い薙刀ふりあげて、
牛若めがけて切りかかる。
これは尋常小学校唱歌「牛若丸」に出てくる牛若丸こと義経と弁慶の戦いの場面である。
千本の太刀を集めることを思い立った武藏坊弁慶は毎晩、京の都で太刀を奪いとり、いよいよこれで千本めの太刀が集まるという夜、西洞院通松原にある五条天神に行き、「良い太刀を授けてください」と祈願をすると、神社すぐそばの堀川通で牛若丸(源 義経)と出会い五条の大橋で薙刀を振りまわして戦い完敗。そして、牛若丸の家来となる・・・。
義経と弁慶のことは、義経とその主従を中心に書かれた『義経記(ぎけいき)』に登場するが、この『義経記』は曾我兄弟の仇討ちを題材にした『曾我物語』と対称せられる英雄伝説的な意図の下に後世つくられた歴史物語である。作者は不明であるが、その流布本は南北朝時代から室町時代初期に成立したと考えられている。
ただし、この軍記物語『義経記』には、唱歌に歌われたような弁慶との闘い方とは異なり、太刀で闘っており、なによりも、五条橋の闘いのことは出てこない。牛若丸と弁慶の戦いの場に「五条の橋の上」が登場するのは、『義経記』を基にした御伽草子『橋弁慶』が成ったころからのようだ。
『義経記』によれば弁慶は6月17日の夜、先ず五条の天神社で出会い、義経に「是より後にかかる狼藉すな。・・・・」と嗜(たしな)められている。次に翌朝清水観音(清水寺)への参詣道の清水坂、最後の清水の舞台(本堂)では弁慶は義経に組み伏せられ、君臣の誓いをたてている(以下参考に記載の※3:「義経記」の巻第3:“弁慶洛中にて人の太刀を奪ひ取る事”参照)。
現在の東大路通の清水道交差点から清水寺までの約1.2キロの坂道は清水道(松原通の東端部分)と称され、今、道の両側には観光客向けのみやげ物店などが軒を連ねている。この道は松原通(もとの五条通)の延長である。つまり、平安時代の五条通は現在の松原通に相当することから。「五条の橋」は今の橋よりも北、現在の松原橋付近にあったことになる。
京都市内の南北の通りの一つである小川通は、北は紫明通から南は錦小路通まであるが、南の延長線上を東中筋通、別名天使突抜通(てんしのつきぬけどおり)が走る。平安京の時代には存在せず、豊臣秀吉による天正の地割で新設された通りである。
牛若丸と弁慶の像がある現在の五条通は平安京の六条坊門小路あたりにあり、秀吉が、方広寺の大仏殿を建立するにあたって鴨川に架かる五条の大橋をこの通りに移設したため、この通りが五条橋通と呼ばれるようになり、やがて「橋」の字が略され、「五条通」と呼ばれるようになった。そして、元の五条大路が松並木が綺麗な通りであったことから松原通と呼ばれるようになったそうである。(通りのことは以下参考に記載の※4:大路小路を参照)。
東中筋通を別名天使突抜通と言うが、その「天使」とは五条通との交差点近くにある五条天神社を指し、当初は「天使の宮(天使社)」と称していた。その神社の境内を貫通して道が開かれたことが通り名の由来となったようだが、後鳥羽天皇の時代に五条天神宮と改められたそうだ。
義経と弁慶が最初に出会たとされている現在の五条天神は桓武天皇の平安遷都の際、都の守護を目的に大和の国宇陀郡から天神(あまつかみ)を勧請し、当時の五条通西洞院、今の松原通西洞院の一角に建立されたのが始まりで、祭神として大己貴命(おおなむちのみこと)・少彦名命(すくなひこなのみこと)・天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀っている。造営当時は洛中最古の神社として社域も広く、南は六条まで広大な鎮守の森を有し、社殿も広壮であったが、保元の乱や、応仁の乱、蛤御門の変(禁門の変)など度重なる兵火に巻き込まれ、社殿も消失し由緒書も残っていない。戦後現在の地に移されて再建され、今は、小さな社と一対の榊のあるこぢんまりとした境内が、周囲のビルに埋もれている。(以下参考に記載の※5、※6参照)。
兼好法師の徒然草第二百三段では「勅勘の所に靫(ゆき)懸くる作法、今は絶えて、知れる人なし。主上の御悩、大方、世中の騒がしき時は、五条の天神に靫を懸けらる。」とあり、古来、靫は、矢を入れ背に負った細長い箱形道具であるが、弓矢を、羽を下にし、鏃(や‐じり=矢尻)が外に見えるようにした構造になっており、実用的ではなく、概して威嚇用の武具であり、天皇の病気平癒や世の騒擾(そうじょう。集団で騒ぎを起こし、社会の秩序を乱す。騒乱。擾乱)の静まることを祈願して、五条天神に裄を懸けたのであろう(以下参考に記載の※7:「徒然草」第二百三段参照)。
この五条天神から松原通りを東に行った新町通りを右折してすぐのところに、猿田彦命・天鈿女命(あめのうずめ)を祭神とする小社があるが、『宇治拾遺物語』の中で「五条の道祖神」(以下参考に記載の※8:「現代語訳:宇治拾遺物語」の巻一の一参照)として登場する古い歴史を持つ神社であり、かつては、五条天神宮の境内とひと続きであったと言われている。(以下参考に記載の※9:「京都PHOTO CLIP」の“洛中”に、五条天神宮と松原道祖神社の写真あり)。又、『拾遺都名所図会』巻一には、「道祖神社」として「新町通松原の角、人家の裏にあり。今首途神(いまかどでのかみ)と称す」と記載されており、現在は新町通に面した西側(新町通松原下ル藪下町)に移っている。(以下参考に記載の※6また、※10:「拾遺都名所図会データーベース」参照)。
「首途」とは旅立ち・門出(かどで)をいう。又、道祖神は路傍の神であり、五条大路(現在の松原通り)の道の神として道行人を守護する神であるとともに、その集落と神域(常世や黄泉の国)を分かち、過って迷い込まない、禍を招き入れないための結界でもあった。
松原新町はかって「十念の辻(じゅうねんのつじ)」とよばれていた。江戸時代に京都の処刑場では、「果ての二十日」 に その年最後の処刑 が行われていたようで、六角の獄舎から引き出された市中引き回しの罪人は、この辻で、十念(南無阿弥陀仏の念仏を十回唱えること)とともに引導を渡されて、粟田口の刑場(日ノ岡)に向かったという。
鴨川にかかる三条大橋を東へ行くと南北路の東大路通。さらに東へ行き、白川橋より東蹴上あたりまでが、粟田口であり、この辺りは奈良時代以前から開けた土地で粟田氏が本拠とした愛宕郡(おたぎぐん)粟田郷とよばれていたところである。
粟田氏は、小野妹子の氏である小野氏と同じ和珥氏(わにうじ)系の豪族である。海神の神使いである「ワニ」を名にし負う和珥氏は、阿曇氏と並んで海人族の雄であり、埴輪などの祭祀関係土器製作者集団の統率者で、山陵の管理と、古墳埋葬者(天皇・皇族)の事跡を語り伝える役目を有して朝廷に重きをなしていたといわれる(以下参考に記載の※13:「海神の国日本」参照)。
平安京が出来ると、ここは、京の都から東国へ出る時、必ず通る出口であることから、粟田口と呼ばれるようになり、京の七口(三条口とも言う)の一つに数えられるようになり、関所も設けられていた。
粟田口の近くには粟田神社があり、もともと粟田氏の氏神であったらしいが、ここも「旅立ちの神」として信仰されていた。牛若丸(源義経)が、金売り吉次に連れられて京都から奥州平泉へ「首途」のおりに祈念したという謂れを持つ恵比須像も、粟田神社の境内に祀られている。この像は、もと粟田山(以下参考に記載の※11:「東山三十六峰」参照)字夷谷にあったものが、明治に粟田神社へ移されたものだという(以下参考に記載の※12参照)。なお、平安末期以来この付近には、大和(奈良)から移住してきた鍛冶師が刀剣をつくっていたと言い、そのことは、粟田神社の所在地名“鍛冶町”として残っている。又、江戸時代から明治まで粟田焼と呼ばれる陶器の山地でもあった。
東海道沿いの江戸の入り口とも言える場所に設置されていた鈴ヶ森刑場や江戸の北の入口(日光街道)に設置されていた小塚原刑場などにみられるごとく、粟田口も人通りが多いので見せしめの場にもなり、粟田口を東へ行った上り坂「蹴上」(最初の峠で「日ノ岡峠」という)あたりに処刑場が置かれ、悪人はここで曝し首にもされた。
本能寺の変で三日天下を取った明智光秀は、1582(天正10)年山崎の合戦で秀吉に破れて、伏見の小栗栖(おぐりす)の藪(京都市伏見区、現在は「明智藪」と呼ばれる)まで逃れたが土民の落ち武者狩りに遭い殺害された。その首は謀反人として粟田口の刑場に晒された後、栗田口黒谷(西小物座町)に、他の数千の首と一緒に埋められたという。この粟田口の刑場で処刑された罪人の数は1万5千余人にのぼったと伝えられている。
神道では、念(思い)を残して死んだ人の霊魂を慰め鎮める祭りを行う日などが忌み日であるが、果ての二十日に何を忌むのかは諸説あって、山の神に深く関る忌み日ともされ、この日に山に入ることが忌まれる地域も多いようだ。
山で遭遇するのは、山の神だけとは限らず、いろんな妖怪に出くわすことが多いようだが、和歌山と奈良の県境の果無山脈では、皿のような目を持つ一本足の妖怪一本ダタラに遭遇することがあるとされている。この妖怪は旧暦の12月20日のみ現れるといい、この日はやはり「果ての二十日」と呼ばれ厄日とされている。果無山の果無の名の由来は「果ての二十日」に人通りが無くなるからだともいわれている。
奈良県の伯母ヶ峰山でも同様に、12月20日に山中に入ると一本ダタラに遭うといい、「果ての二十日に伯母ヶ峰を越すな。」とこの日は山に入らないよう戒められているそうだ。こちらの一本ダタラは、一本足の鬼と化した猪の妖怪(猪笹王)だ(以下参考に記載の※14:「上北山村公式ホームページ :伯母峰の一本足」参照)。
「一本ダタラ」の「ダタラ」はタタラ師(鍛冶師)に通じるが、これは鍛冶師が重労働で片目と片脚が萎えること、一本ダタラの出没場所が鉱山跡に近いことに関連するとの説があるそうだ(隻眼#神話・伝説の中の隻眼を参照)。一つ目の鍛冶神天目一箇神(あめのまひとつのかみ)の零落した姿であるとも考えられているという。
高知では「タテクリカエシ」といって、夜道を転がる手杵状の妖怪の伝承があり、伯母ヶ峰山の一本ダタラはこれと同じものとの説もあり、各地に一本ダタラの伝承はあるが、名前は同じでも、土地によって大きな違いがあるようだ。また、香川(琴南町)の民俗には、果ての二十日は山姥(ヤマウバ)が洗濯しているから山越しをしてはいけないといわれているそうだが、山姥の原型は、先住民族の末裔、木地屋(師)やサンカといった、山間を流浪する民であるとも、山の神に仕える巫女が妖怪化していったものとも考えられている。 土地によっては「山姥の洗濯日」と呼び、水を使ってはいけないとか、洗濯をしてはいけないとする日があり、例えば北九州地方では、「山姥の洗濯日」は暮れの十三日または二十日とされ、この日は必ず雨が降るため洗濯をしないという風習が残っているそうで、これは恐らく、雨を司る山神の巫女の禊(みそぎ)の日であったものの名残りであったろうという。山姥が、山岳信仰における神霊にその起源を持っているのは確かだろう。妖怪のことは以下参考に記載の※14:「国際日本文化研究センター:怪異・妖怪伝承データーベース」で検索はされるとよい。
山姥以外に鬼や天狗、河童と呼ばれるもの、あるいは不思議な能力をもった狐や狸、蛇、猫といった動物たち----、昔の人はこれらを「もののけ(物の怪)」とか「化け物」、「変化・魔性の物」などと呼んで恐れていた。
これらには、相次ぐ政争による敗北者の怨霊や念を遺して亡くなった人の霊、はたまた、農業中心の世界観の中で、中世には、境界的な空間に生活の場・方便を得ていた、山の民や川の民、雑芸能民たち(農業以外での生活者)の少なからぬ数をも「異類異形」(以下参考に記載の※19参照)の名でこの中に引き込んでいった。
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