私が愛読している「天声人語」に先日“ある行為がすたれるために忘れられていく動詞がある。燃やすために、物を火の中に入れることを云う「くべる」(漢字では【焼べる】)もその1つである」・・と、時代・生活様式の変化と共に、昔と言っても、私たちが子供時代までは普通に使われていたような言葉が次々と消えてゆくと共に、その言葉の持つ意味や言葉が表す文化そのものも消えてゆくことへの感慨が書かれていた(以下参考の※:「asahi.com(朝日新聞社):天声人語 2010年2月12日(金)」参照)
私も、常々そう思っているのだが、今日何を書こうかと思っていると、以下参考の※:「hi-ho日めくりカレンダー」の<松下幸之助一日一話>の中の今日・3月13日の一話は「よしみを通じる」についてであった。抜粋すると以下の通り。
「最近は商売の上での競争が大変激しくなり、同業者どうしでも、ともすればお互いを競争相手とばかり考えているようです。もちろん競争意識は必要でしょうが、考えてみれば、誰も争うために商売をしているわけではありません。ですから、近所に新しく同業者のお店ができたからといって、目にカドを立てるのでなく、おおらかに迎える。新しいお店の方も、先輩に対し謙虚な気持でいわば“仁義”をきる。そういう好もしい姿は、お客さまのお店全体に対する信用を高めることになるでしょう。だから一方で適正な競争をしつつも、同じ道にたずさわるお店どうし、お互いによしみを通じていくことが大切だと思うのです。 」・・・と。本当にその通りだがなかなか難しいことだよね。
「よしみを通じる」・・・この言葉も、懐かしい言葉だ。「くべる」(焼べる)同様、「よしみ」(漢字で書けば【好・誼】)と言う言葉も、まだ若いころはよく使っていたものだが、改めて振り返ってみると、このような言葉も余り聞かなくなくなったように思う。「よしみ」は、広辞苑に書かれているように、①親しい交わり。親しみ。公誼(こうぎ)。「-を結ぶ」「-を通ずる」②ちなみ。ゆかり。因縁。「昔のーで」といった意味で使われる。
戦後以降時代とともに、人間関係が希薄になり、友人関係や親戚関係いや兄弟の間でも①のような良い意味での公誼は薄れたようだ。あるのは、②のゆかりや、因縁でのお付き合いで使われることが多くなったようだ。
ただ、先日(2月13日)の衆院予算委員会の質問の中で与謝野馨元財務相が、鳩山首相に対して、弟の「鳩山邦夫さんがぼやくんですよ」と切り出し、「うちの兄貴はしょっちゅう、おかあさんのところへ行って『子分に配る金が必要だ』とお金をもらっていた」と言う話を聞いたと披露。鳩山首相はそんなことを言っことがないと気色ばんでいた。実際にどのような話し方をしたのか、中身がどうであったかなどその真実がどのようなものであったかは知らないが、考え方や政治信条の違いで、兄弟が異なる政党に属し、政策面などで討論をするのは結構なことだが、同じ親から生まれた兄弟が、テレビというマスメディアの前で恥ずかしげもなく、家庭の中のことを暴露してまで、自分の兄弟を苦境に追い込もうとし、兄弟でそんなことを言った言わないなどともめている光景ほどほど見ていて気持ち悪いものもない。そこには②で結うところの「兄弟のよしみ」と言ったものさえ微塵も窺えない。立派な家庭の立派な大学を出たエリートの政治家がこれなのだから、それを見て育つ日本の子供たちはさぞ立派な人間に育つだろうよ。鳩山兄弟だけではない。そんな話を公の場で披露して得意になっている与謝野馨の祖父母である歌人の与謝野鉄幹・晶子も政治家の「よしみ」なんて言葉さえも教えてやらなかったのかと息子の馨(はちやま兄弟の父)をあの世で叱咤しているのではないだろうか。
こんな話はあまり書きたくないので少し話題を変えよう。今日・3月13日は、戦国の武将・上杉謙信の1578(天正6)年の忌日である。
謙信は、上杉氏の下で越後の守護代を務めた長尾氏出身で初名(しょめい)は長尾景虎。長尾家家臣団のなかでは、後継問題で兄弟の対立が起り、家中分裂の危機を迎えたが、主君の越後守護・上杉定実の仲介のもとに兄である晴景の養子となって長尾氏の家督を継いだ。上杉定実から見て「正妻の甥」且つ「婿の弟」にあたる。のちに関東管領上杉憲政から上杉氏の家督を譲られ、上杉政虎と名を変えて上杉氏が世襲する関東管領に任命される。また、将軍足利義輝より偏諱(へんき)を受けて最終的には上杉輝虎と名乗った。周辺の武田信玄、北条氏康、越中一向一揆(越中大乱参照)、織田信長、佐野昌綱らと合戦を繰り広げた。特に5回に及んだとされる武田信玄との川中島の合戦(川中島の戦い)は、後世たびたび物語として描かれており、よく知られているところである。天正5年9月23日(1577年11月3日)加賀国の手取川での合戦((手取川の戦い)において上杉謙信軍が織田信長軍を撃破した後、春日山城に帰還したあと、翌年次なる遠征に向けて準備中に春日山城で倒れ、3月13日急死した。
後世で「軍神」などと評されているそんな謙信には妻や子はなく、生前に景勝と景虎という2人の養子を迎え、後継者を景勝(実父は長尾政景)と定めてはいたようであるが、後継者指名が不徹底であったことや、越後の長尾諸家(越後長尾氏参照)を中心とした、何代にも渡る権力争いなどの複雑な事情が背後に絡んで、謙信の死後、上杉家では、その家督の相続争いから家中を真っ二つに割った内乱(御館の乱)を引き起すこととなった。
世継ぎ候補の1人景虎は、元亀元年(1570年)10月、輝虎(謙信)が北条氏康と和睦して越相同盟が結ばれた際に、謙信の養子(人質)として上杉家に入ったものであり、北条氏の当主である氏政の弟であった。御館の乱においては当初、戦局は景勝有利であったが、景虎は実家の後北条氏へ援軍を要請。北条方では景虎の上杉家相続を応援し、甲相同盟を結ぶ甲斐国の武田勝頼(父は武田信玄。母は信玄の側室諏訪頼重の娘)に、景虎支援を要請。この要請を受けた勝頼が、越後国へ出兵したため、形成は逆転し、景虎側の有利となり、一転して景勝は窮地に陥った。しかし、景勝は、東上野の割譲と多量の黄金譲渡を条件として武田氏と和睦。これによって武田家の後ろ盾を得た景勝が戦局を覆した。またこのときに勝頼の異母妹菊姫と婚約し、翌年9月には正室として迎えることで甲越同盟を結び、武田家との関係を強化した。この後、勝頼は、景勝側との同盟により外交方針を転換し、景勝を応援して景虎を追い詰め、ついに自刃させてしまった。
「武田との誼(よしみ)もこれまで!」と、弟を殺された北条氏政が激怒したのは当然のこと。
天正3年(1575年)5月に、武田勝頼軍は織田・徳川連合軍との長篠の戦いで大きな損害を受けるが、さらに、勝頼が「武田とのよしみ」を反故にして、上杉景勝と甲越同盟を締結し、北条氏との甲相同盟を破綻させてしまうという外交政策の誤りを招いたことにより、駿河や東上野において武田と北条は再びもとの対立関係に戻る。北条氏は、徳川家康と同盟。武田氏は西の織田氏・東の北条氏を同時に敵に回してしまい、衰亡への道を歩むこととなる。
この間、勝頼は第一次高天神城の戦いで手に入れた高天神城の拡張を行って縄張りを西側の峰・現在の高天神社の範囲まで広げ、城代として今川氏(今川義元)の旧臣であり、戦上手で知られた岡部元信を任じている。
天正8年(1580年)9月、徳川家康は付城として横須賀城など6箇所の拠点を築いた上で、満を持して5千の軍勢を率いて高天神城を攻撃(第二次高天神城の戦い)。岡部元信は千程度の軍を率いて激しく抗戦するものの、兵糧攻めにあって兵の士気が大きく衰えた。これに対して、勝頼は東の北条氏政を警戒して動けず、甲斐から援軍を送ることができなかったことから城兵は餓死寸前となり、翌天正9年(1581年)3月、逃亡する城兵が続出し、城代岡部元信以下そのことごとくが城から討って出て玉砕し、高天神城は陥落したといわれる。この高天神城の攻防戦に最後まで援軍が送れなかった武田勝頼の声望は大きく低下し、翌年に木曾氏・保科氏など豪族が寝返っていく理由となったといわれている。
戦国時代の世の中で、信長を主とする織田家以外の武士団は相互扶助の関係によって出来上がっており、すわ!というときには、自分たちの主家筋が危機を救ってくれると思うからこそ、豪族たちは主家に忠誠を誓い、命を預けて戦場で戦っているのであり、このような大事のときに主家側がその約束事を履行しないならば、家臣達が主を見限るのは当然である。
本来、武士団は、広義には武士の集団をさすが、厳密には、古代末期より中世初期にかけて成立した地侍の同族結合を中核とする戦闘組織を言い、そのような、武士の発生期には、村落における豪族が血縁的に結ばれた一族の家々と強固に団結しており、その同族に従う郎党達をも含めて一個の武士団を構成していたもの。このような団結は、そもそも、その武士団の棟梁が集団を構成している武士たちの土地や権益を守ってくれるから成立しているのだから・・・。
ま、今の社会でも、武力が財力に変わっただけの似たようなものだ。戦後日本の政治において、政権政党は、その議員の数の力で予算を獲得し、それを地元の選挙民にばらまき、その「よしみ」で地元より選挙の票をもらい当選して来たといっても過言ではなかろう。又、選挙民も選挙民で、政治家に票を入れてやったよしみで、道路や空港を造ってもらった。何か、「よしみ」と言えば、余り良いことには使われていないことの方が多く目に付く。
私など現役時代、「友達のよしみ」で、仕事上の助け合いもいろいろあったが、そんな友達との「よしみ」をつなぐものと言えば、それは、お酒であったような・・・。(^0^)
「歓楽もやがて思い出と消えようもの、
古き好(よしみ)をつなぐに足るのは生(き)の酒のみだよ。
酒の器にかけた手をしっかりと離すまい、
お前が消えたって盃(さかずき)だけは残るよ!」
上記は、セルジューク朝期ペルシアの学者・詩人ウマル・ハイヤームの4行詩『ルバイヤート』の1節である(“生きのなやみ”16-25の中の21)。人生の無常、宿命、酒の賛美などが基調となっている。 日本語版では、小川亮作訳のものが、以下参考の※青空文庫で読める。
「酒をのめ、それこそ永遠の生命だ、
また青春の唯一の効果(しるし)だ。
花と酒、君も浮かれる春の季節に、
たのしめ一瞬(ひととき)を、それこそ真の人生だ!」
上記は”一瞬(ひととき)をいかせ”108-143の中の133。又、
「さきのこと、過ぎたことは、みな忘れよう
今さえたのしければよい――人生の目的はそれ。」
と144(部分)にあるが、まるで私はこの年になるまでこの詩のごとくにお酒とは切っても切れない「よしみを通じてきた」気がするよ(^0^)。
それにしても、今日は随分脱線してきたな~
(画像は、『ルバイヤート』のイラストレーション「大地は答うること能わず、嘆く海もまた然り」。Wikipediaより)
参考:
※:hi-ho日めくりカレンダー
http://kurashi.hi-ho.ne.jp/cale/index.html
※:asahi.com(朝日新聞社):天声人語 2010年2月12日(金)
http://www.asahi.com/paper/column20100212.html
※青空文庫:小川 亮作訳『ルバイヤート』:新字新仮名
http://www.aozora.gr.jp/cards/000288/files/1760_23850.html
ぶしだん【武士団】 | 学習百科事典 | 学研キッズネット
http://kids.gakken.co.jp/jiten/6/60016270.html
ウマル・ハイヤーム - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%A4%E3%83%BC%E3%83%A0
御館の乱 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E9%A4%A8%E3%81%AE%E4%B9%B1
与謝野馨 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8E%E8%AC%9D%E9%87%8E%E9%A6%A8
私も、常々そう思っているのだが、今日何を書こうかと思っていると、以下参考の※:「hi-ho日めくりカレンダー」の<松下幸之助一日一話>の中の今日・3月13日の一話は「よしみを通じる」についてであった。抜粋すると以下の通り。
「最近は商売の上での競争が大変激しくなり、同業者どうしでも、ともすればお互いを競争相手とばかり考えているようです。もちろん競争意識は必要でしょうが、考えてみれば、誰も争うために商売をしているわけではありません。ですから、近所に新しく同業者のお店ができたからといって、目にカドを立てるのでなく、おおらかに迎える。新しいお店の方も、先輩に対し謙虚な気持でいわば“仁義”をきる。そういう好もしい姿は、お客さまのお店全体に対する信用を高めることになるでしょう。だから一方で適正な競争をしつつも、同じ道にたずさわるお店どうし、お互いによしみを通じていくことが大切だと思うのです。 」・・・と。本当にその通りだがなかなか難しいことだよね。
「よしみを通じる」・・・この言葉も、懐かしい言葉だ。「くべる」(焼べる)同様、「よしみ」(漢字で書けば【好・誼】)と言う言葉も、まだ若いころはよく使っていたものだが、改めて振り返ってみると、このような言葉も余り聞かなくなくなったように思う。「よしみ」は、広辞苑に書かれているように、①親しい交わり。親しみ。公誼(こうぎ)。「-を結ぶ」「-を通ずる」②ちなみ。ゆかり。因縁。「昔のーで」といった意味で使われる。
戦後以降時代とともに、人間関係が希薄になり、友人関係や親戚関係いや兄弟の間でも①のような良い意味での公誼は薄れたようだ。あるのは、②のゆかりや、因縁でのお付き合いで使われることが多くなったようだ。
ただ、先日(2月13日)の衆院予算委員会の質問の中で与謝野馨元財務相が、鳩山首相に対して、弟の「鳩山邦夫さんがぼやくんですよ」と切り出し、「うちの兄貴はしょっちゅう、おかあさんのところへ行って『子分に配る金が必要だ』とお金をもらっていた」と言う話を聞いたと披露。鳩山首相はそんなことを言っことがないと気色ばんでいた。実際にどのような話し方をしたのか、中身がどうであったかなどその真実がどのようなものであったかは知らないが、考え方や政治信条の違いで、兄弟が異なる政党に属し、政策面などで討論をするのは結構なことだが、同じ親から生まれた兄弟が、テレビというマスメディアの前で恥ずかしげもなく、家庭の中のことを暴露してまで、自分の兄弟を苦境に追い込もうとし、兄弟でそんなことを言った言わないなどともめている光景ほどほど見ていて気持ち悪いものもない。そこには②で結うところの「兄弟のよしみ」と言ったものさえ微塵も窺えない。立派な家庭の立派な大学を出たエリートの政治家がこれなのだから、それを見て育つ日本の子供たちはさぞ立派な人間に育つだろうよ。鳩山兄弟だけではない。そんな話を公の場で披露して得意になっている与謝野馨の祖父母である歌人の与謝野鉄幹・晶子も政治家の「よしみ」なんて言葉さえも教えてやらなかったのかと息子の馨(はちやま兄弟の父)をあの世で叱咤しているのではないだろうか。
こんな話はあまり書きたくないので少し話題を変えよう。今日・3月13日は、戦国の武将・上杉謙信の1578(天正6)年の忌日である。
謙信は、上杉氏の下で越後の守護代を務めた長尾氏出身で初名(しょめい)は長尾景虎。長尾家家臣団のなかでは、後継問題で兄弟の対立が起り、家中分裂の危機を迎えたが、主君の越後守護・上杉定実の仲介のもとに兄である晴景の養子となって長尾氏の家督を継いだ。上杉定実から見て「正妻の甥」且つ「婿の弟」にあたる。のちに関東管領上杉憲政から上杉氏の家督を譲られ、上杉政虎と名を変えて上杉氏が世襲する関東管領に任命される。また、将軍足利義輝より偏諱(へんき)を受けて最終的には上杉輝虎と名乗った。周辺の武田信玄、北条氏康、越中一向一揆(越中大乱参照)、織田信長、佐野昌綱らと合戦を繰り広げた。特に5回に及んだとされる武田信玄との川中島の合戦(川中島の戦い)は、後世たびたび物語として描かれており、よく知られているところである。天正5年9月23日(1577年11月3日)加賀国の手取川での合戦((手取川の戦い)において上杉謙信軍が織田信長軍を撃破した後、春日山城に帰還したあと、翌年次なる遠征に向けて準備中に春日山城で倒れ、3月13日急死した。
後世で「軍神」などと評されているそんな謙信には妻や子はなく、生前に景勝と景虎という2人の養子を迎え、後継者を景勝(実父は長尾政景)と定めてはいたようであるが、後継者指名が不徹底であったことや、越後の長尾諸家(越後長尾氏参照)を中心とした、何代にも渡る権力争いなどの複雑な事情が背後に絡んで、謙信の死後、上杉家では、その家督の相続争いから家中を真っ二つに割った内乱(御館の乱)を引き起すこととなった。
世継ぎ候補の1人景虎は、元亀元年(1570年)10月、輝虎(謙信)が北条氏康と和睦して越相同盟が結ばれた際に、謙信の養子(人質)として上杉家に入ったものであり、北条氏の当主である氏政の弟であった。御館の乱においては当初、戦局は景勝有利であったが、景虎は実家の後北条氏へ援軍を要請。北条方では景虎の上杉家相続を応援し、甲相同盟を結ぶ甲斐国の武田勝頼(父は武田信玄。母は信玄の側室諏訪頼重の娘)に、景虎支援を要請。この要請を受けた勝頼が、越後国へ出兵したため、形成は逆転し、景虎側の有利となり、一転して景勝は窮地に陥った。しかし、景勝は、東上野の割譲と多量の黄金譲渡を条件として武田氏と和睦。これによって武田家の後ろ盾を得た景勝が戦局を覆した。またこのときに勝頼の異母妹菊姫と婚約し、翌年9月には正室として迎えることで甲越同盟を結び、武田家との関係を強化した。この後、勝頼は、景勝側との同盟により外交方針を転換し、景勝を応援して景虎を追い詰め、ついに自刃させてしまった。
「武田との誼(よしみ)もこれまで!」と、弟を殺された北条氏政が激怒したのは当然のこと。
天正3年(1575年)5月に、武田勝頼軍は織田・徳川連合軍との長篠の戦いで大きな損害を受けるが、さらに、勝頼が「武田とのよしみ」を反故にして、上杉景勝と甲越同盟を締結し、北条氏との甲相同盟を破綻させてしまうという外交政策の誤りを招いたことにより、駿河や東上野において武田と北条は再びもとの対立関係に戻る。北条氏は、徳川家康と同盟。武田氏は西の織田氏・東の北条氏を同時に敵に回してしまい、衰亡への道を歩むこととなる。
この間、勝頼は第一次高天神城の戦いで手に入れた高天神城の拡張を行って縄張りを西側の峰・現在の高天神社の範囲まで広げ、城代として今川氏(今川義元)の旧臣であり、戦上手で知られた岡部元信を任じている。
天正8年(1580年)9月、徳川家康は付城として横須賀城など6箇所の拠点を築いた上で、満を持して5千の軍勢を率いて高天神城を攻撃(第二次高天神城の戦い)。岡部元信は千程度の軍を率いて激しく抗戦するものの、兵糧攻めにあって兵の士気が大きく衰えた。これに対して、勝頼は東の北条氏政を警戒して動けず、甲斐から援軍を送ることができなかったことから城兵は餓死寸前となり、翌天正9年(1581年)3月、逃亡する城兵が続出し、城代岡部元信以下そのことごとくが城から討って出て玉砕し、高天神城は陥落したといわれる。この高天神城の攻防戦に最後まで援軍が送れなかった武田勝頼の声望は大きく低下し、翌年に木曾氏・保科氏など豪族が寝返っていく理由となったといわれている。
戦国時代の世の中で、信長を主とする織田家以外の武士団は相互扶助の関係によって出来上がっており、すわ!というときには、自分たちの主家筋が危機を救ってくれると思うからこそ、豪族たちは主家に忠誠を誓い、命を預けて戦場で戦っているのであり、このような大事のときに主家側がその約束事を履行しないならば、家臣達が主を見限るのは当然である。
本来、武士団は、広義には武士の集団をさすが、厳密には、古代末期より中世初期にかけて成立した地侍の同族結合を中核とする戦闘組織を言い、そのような、武士の発生期には、村落における豪族が血縁的に結ばれた一族の家々と強固に団結しており、その同族に従う郎党達をも含めて一個の武士団を構成していたもの。このような団結は、そもそも、その武士団の棟梁が集団を構成している武士たちの土地や権益を守ってくれるから成立しているのだから・・・。
ま、今の社会でも、武力が財力に変わっただけの似たようなものだ。戦後日本の政治において、政権政党は、その議員の数の力で予算を獲得し、それを地元の選挙民にばらまき、その「よしみ」で地元より選挙の票をもらい当選して来たといっても過言ではなかろう。又、選挙民も選挙民で、政治家に票を入れてやったよしみで、道路や空港を造ってもらった。何か、「よしみ」と言えば、余り良いことには使われていないことの方が多く目に付く。
私など現役時代、「友達のよしみ」で、仕事上の助け合いもいろいろあったが、そんな友達との「よしみ」をつなぐものと言えば、それは、お酒であったような・・・。(^0^)
「歓楽もやがて思い出と消えようもの、
古き好(よしみ)をつなぐに足るのは生(き)の酒のみだよ。
酒の器にかけた手をしっかりと離すまい、
お前が消えたって盃(さかずき)だけは残るよ!」
上記は、セルジューク朝期ペルシアの学者・詩人ウマル・ハイヤームの4行詩『ルバイヤート』の1節である(“生きのなやみ”16-25の中の21)。人生の無常、宿命、酒の賛美などが基調となっている。 日本語版では、小川亮作訳のものが、以下参考の※青空文庫で読める。
「酒をのめ、それこそ永遠の生命だ、
また青春の唯一の効果(しるし)だ。
花と酒、君も浮かれる春の季節に、
たのしめ一瞬(ひととき)を、それこそ真の人生だ!」
上記は”一瞬(ひととき)をいかせ”108-143の中の133。又、
「さきのこと、過ぎたことは、みな忘れよう
今さえたのしければよい――人生の目的はそれ。」
と144(部分)にあるが、まるで私はこの年になるまでこの詩のごとくにお酒とは切っても切れない「よしみを通じてきた」気がするよ(^0^)。
それにしても、今日は随分脱線してきたな~
(画像は、『ルバイヤート』のイラストレーション「大地は答うること能わず、嘆く海もまた然り」。Wikipediaより)
参考:
※:hi-ho日めくりカレンダー
http://kurashi.hi-ho.ne.jp/cale/index.html
※:asahi.com(朝日新聞社):天声人語 2010年2月12日(金)
http://www.asahi.com/paper/column20100212.html
※青空文庫:小川 亮作訳『ルバイヤート』:新字新仮名
http://www.aozora.gr.jp/cards/000288/files/1760_23850.html
ぶしだん【武士団】 | 学習百科事典 | 学研キッズネット
http://kids.gakken.co.jp/jiten/6/60016270.html
ウマル・ハイヤーム - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%A4%E3%83%BC%E3%83%A0
御館の乱 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E9%A4%A8%E3%81%AE%E4%B9%B1
与謝野馨 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8E%E8%AC%9D%E9%87%8E%E9%A6%A8