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二葉亭四迷長編小説『浮雲』の第一篇が刊行された日

2011-06-20 | 歴史

二葉亭四迷の浮雲左から一編、ニ編、三編(画像クリックで拡大)

1887(明治20)年6月20日、近代小説の先駆とされる二葉亭四迷の長編小説『浮雲 』の第一篇(冒頭の画像)が刊行された。
明治維新後、文明開化による西欧文明の輸入と近代国家の建設が進められると、文学にも大きな影響を与え、「文学」という概念が生まれたのもこの時代である。そして、西欧近代小説の理念が輸入され、現代的な日本語の書き言葉が生み出された。
一般に、近代文学は、坪内逍遥の文学改革に始まるといわれるが、逍遥は、理論を語ったのであって、その実践応用をしたのは二葉亭四迷の『浮雲』であるとされている(四迷の『浮雲』他小説の原本等は以下参考の※1:国立国会図書館「近代日本人の肖像」で見ることが出来る)。
文芸創作に関しては、明治に入ってしばらくは、江戸時代と同様の文芸活動、つまり、戯作文学が流行していた。そして、明治10年代になってさかんに西欧小説が移入され、川島忠之助が翻訳したヴェルヌの『八十日間世界一周』(1878年)など翻訳文学が広まっていた。又、同時期自由民権運動の高まりとともに新聞・雑誌を使っての政治思想の宣伝が政治小説と言う型で書かれるようにもなった。
坪内逍遥(本名:坪内 雄蔵)は、1859(安政6)年に、尾張藩領だった、美濃国加茂郡太田宿(現・岐阜県美濃加茂市)に生まれ、1870(明治3)年に尾張藩の設立した藩校である洋学校(現・愛知県立旭丘高等学校)、東京大学予備門(のちの第一高等学校)を経て、上京し、開成学校(現東京大学の前身)に学ぶ。父は太田代官所手代だったが、母は芸術好きの商人の子で、小さい頃から本に親しみ、名古屋に一家で移住してからは貸本屋「大惣」(※2参照)の本を全部読み漁ったともいわれる江戸文学好きであったようだが、新時代の西洋重視の文化状況の中では、遅れをとっていた。
そんな彼が、西洋文学の勉強を人一倍やった末に、26歳の時、日本で初めての近代小説論『小説神髄』(1885年 ~1886年に松林堂から刊行。※3参照。逍遥の小説『小説神髄』等の原本は以下参考の※1:国立国会図書館「近代日本人の肖像」で見ることが出来る)を発表した。同書では、上巻において、「小説の主脳は人情なり、世態風俗これに次ぐ。・・・・・・・」と、それまでの中心文学だった戯作文学や政治小説の道徳や功利主義的な面を文学から排して、小説で大切なことはまず人情を描くことで、次に世の中の様子や風俗の描写であると論じ、心理的写実主義を提唱。下巻において具体的な方法を示し、日本の近代文学の誕生に大きく寄与した(『小説神髄』の解説などについては※4、※5を参照)。
しかし、理論の実践として発表された『当世書生気質』〔1989年〕などは、それを、実現する文章としては、文体には戯作の影響が強く、内容も通俗的な側面もあったので、もう一歩新鮮さが足りず、『小説神髄』やロシア文学の影響を受けて、『浮雲』を書いた逍遥の弟分二葉亭四迷の筆力にはかなわなかった。この四迷の初の言文一致体の小説『浮雲』により、近代日本文学が成立したとされている。
言文一致とは、日常に用いられる話し言葉に近い口語体を用いて文章を書くこと、もしくはその結果、口語体で書かれた文章(口語文)のことを指し、この言文一致運動の高揚からそれまで用いられてきた文語文に代わって行われるようになった。
当時は四迷以外にも、多くの作家が言文一致の新文体を模索していた。ツルゲーネフらのロシア文学の翻訳を通して言文一致体を思いついたらしい四迷は、『浮雲』を書く上で、第一編を書く際には、その文体について、逍遥の考えをとり入れ、落語家の初代三遊亭圓朝の落語口演筆記を参考にしたり、徳富蘇峰の意見をきいたりもした。又、自分とは別派である山田美妙における「です・ます」調も試みてみたようだが四迷の文体には合わなかったようだ。
そんな四迷が初めて言文一致を書いたときの由来は、19年後の1906(明治39)年5月の『文章世界』に所載の『余が言文一致の由來』に書かれている。又、その2年後の1908(明治41)年6月の『文章世界』に所載の『予が半生の懺悔』には、「文章は、上巻の方は、三馬(ば)、風来(ふうらい。※平賀源内のことだろう)、全交(ぜんこう)饗庭(あえば)さんなぞがごちゃ混ぜになってる。中巻は最早(もう)日本人を離れて、西洋文を取って来た。つまり西洋文を輸入しようという考えからで、先ずドストエフスキーガンチャロフ等を学び、主にドストエフスキーの書方に傾いた。それから下巻になると、矢張り多少はそれ等の人々の影響もあるが、一番多く真似たのはガンチャロフの文章であった」・・とあり色々な試みがなされたようだ。
二葉亭四迷(本名:長谷川 辰之助)は逍遥より5年後の1864年4月4日(元治元年2月28日)、江戸市ヶ谷に生れる。父は尾張藩士・鷹狩り供役を勤めていたという。
逍遥も通っていた尾張藩藩校である洋学校卒業後、当時、ロシアとの間に結ばれた千島樺太交換条約をうけて、ロシアに対する日本の危機感を持ち、陸軍士官学校を受験するも不合格になったため、軍人となることを諦め、外交官となる決意をしたという。
そして、外交官を目指し1881(明治14)年、東京外国語学校(現:東京外国語大学)露語科に進学し、次第にロシア文学に心酔するようになるが、東京外国語学校が東京商業学校と合併し、四迷の在学していた東京外国語学校露語科は東京商業学校(現一橋大学)第三部露語科となった。四迷は、この合併に伴い東京商業学校校長に就任した矢野二郎に対し悪感情を持つようになったらしく、1886(明治19)年1月に同校を中退したという(Wikipedia。矢野二郎と矢野が校長をしていたときの状況等は※6参照)。
そんな四迷が尾張藩で先輩の坪内逍遥を訪ねたのは、同年2月のことであり、以後毎週通うようになる。そして、逍遥の援助で、同年6月『小説総論』(青空文庫のここ参照)を『中央学術雑誌』に発表(別号の冷々亭主人名義)。
これは逍遥の『小説神髄』の欠点を補い、逍遥の『当世書生気質』論の序文的な形で書かれたものであり、形(フォーム)と意(アイデア)の2つの用語を使って小説を整理した。小説は浮世の様々な形を描くことで意を直接に表現すべきものであるとしてリアリズム(写実主義)を主張し、作為的に善悪の二極を設定する勧善懲悪の物語を批判した。
そして、『新編浮雲』の第一編を刊行したのはその翌年・1887(明治20)年6月20日、四迷23歳、逍遥28歳の時であった。
『浮雲』は1887(明治20)年から1889(明治22)年にかけて発表されたが、一、二篇は、金港堂から刊行され、三篇は「都の花」(※7)に連載された。
しかし、冒頭の画像を見ると分かるように、『新編浮雲』の第一編は、坪内雄蔵(逍遥)の著作として発刊されているが、その序文には四迷の作であることが明記されている。当時まだ無名の作家であった場合など、出版社の販売上の都合などで、このような手段や合著という形をとることは珍しいことではなかったようだ。
第二編はこの翌年に、春の屋主人(春の屋は逍遥の号である)との合著という形で出版され、同年の7、8月号の『都の花』に、二葉亭四迷の名で連載中に、四迷の自信喪失で中絶している。
『浮雲』は私小説的な最初の本格的リアリズム小説だと言われている。
『浮雲』の主人公である内海文三は下級の官吏であるが、融通の利かない男である。とくに何かをしくじったわけでもないが、役所を免職されてしまうが、プライドの高さゆえに上司に頼み込んで復職願いを出すことも出来ずに苦悶する。そんな文三と、世才にたけ、出世する同僚の本田昇との社会的対立関係を、お勢をめぐる人情世態(せいたい)において描写している。一時は文三に気があった従妹のお勢の心も昇の方を向いていく。そして、お勢の母親のお政からも愛想を尽かされる中、お勢の心変わりが信じられない文三は、昇やお勢について自分勝手に様々な思いを巡らしながらも、結局何もできないままである。
この文三の性格は、作者自身のそれを一部分発展させたものだが、この境遇は直接的には、四迷の東京外国語学校および東京商業学校での親友で、芝浦製作所(現:東芝)専務等を務めた後に、各地で水力電気会社を設立した大田黒重五郎をモデルにしたといわれる。
『浮雲』に見られる文三や昇の辿った道は、当時の士族の子弟の多くが辿った道でもあったようだ。
明治維新は、幕末の頃におかれていた半開状態のわが国を、急激に文明国に進めようという国家的必要性を満たすことを使命として起されたクーデターによってなされたといって良い。従って、当時の知識階層(インテリ)が競って身につけたのは、西洋の学問であり、幕末から明治初年にかけ、日本の「新・知識階級」を名乗り得たのは、かつて武士身分の中でも「門閥制度は親の敵」とすら考えていた下層の武士出身者であり、福沢諭吉森有礼らが結成していた「明六社」の知識人や、外山正一らの西欧渡航経験者たちであった。
彼等の知識を必要としていた明治新政府は、かつての対立関係なども忘れて彼らに肩入れした。近代日本の第一次知識階級と呼ばれている彼らは、その知識によって、日本の国家、行くべき道を示唆し、その強烈な個性で舵取りをし、国も政府も、そして時代もそれに期待し尊敬の念を惜しまなかった。
そして、幕府が設立した蕃書調所が開成校になり、1877(明治10)年には東京帝国大学になっていった「大学」等の教育機関の道筋が開けていった。
そして、森鴎外(森 林太郎)が東大の医学部を卒業したのは、1881(明治14)年であり、坪内逍遙(坪内雄蔵)が文学部を出たのは2年後の1883(明治16)年であった。この時代には医学士、文学士などは、まだかなり世間から重んじられたのであり、逍遙もそんな文学士の一人であった。

上記画像(クリックで拡大)は坪内逍遙の『小説真髄』であるが、文学士坪内雄蔵とある。逍遙が『当世書生気質』(1885年~1886年)を発表したとき、そんな文学士が小説を書いた・・・ことが世間を驚かせたという。
この頃は、まだこのような知識階級の活躍出来る、幸福な環境が存在した時節であったが、その変革期でもあり、国家建設が進み、秩序化・支配体制が整うに連れて、知識階級の幸福な時節は明治20年までに、無惨なほど速やく崩れていった。
つまり、西南戦争からの10年のうちに、西洋の学藝や藝術に学んで偉くなろう、出世しようという希望を抱いて郷里を出てきた人たちが大都市に集中し、海外にまで学びに出た人は幾らでもいるようになった。そして、各分野での専門教育が進み、大学やそれに準じた学校も増えていたため、書生・学生が、維新の初期に比べ、比較にならぬほど増えていたのだ。
そうなると、当然、「知識・才能の希少価値」は相対的に下落し、逆に能力が求め迎えられるどころか、相応の「地位」を官途に獲得することにもこの当時は非常に苦労するようになっていた。
しかも迎えられ方が、明治初期とはまるで違い、国や政府は、専門の知識を持って唯々諾々(いいだくだく。少しも逆らわずに他人の言うままになる)と言うことを聞く、道具に等しい単に技術者としてしか彼等を用いなくなっていた。
それ以上に、なまじ意見や主張・理想のある知識階級などは、むしろ、うるさい無用の存在となっており、したがって、この当時の知識階級は、黙々と車を牽く車夫同然の存在に甘んじて、職を得て出世を狙うか、その路線から転落し、いたずらに零落(れいらく。落ちぶれる)するしかなかったのだ。
その最初の典型が、1887(明治20)年の今日(6月20日)、四迷が刊行した『浮雲』の主人公・内海文三であった。
彼等は禄をはなれて貧困の淵に沈んだ家を興し、苦労した母親に孝養をつくさねばならぬ義務を負って、学校を卒業し、社会に第一歩を踏み出すが、彼と社会とのあいだには、当時の知識階級が例外なく味わった間隙(かんげき。人間関係の隔たり)がすでに存在していたことは、『浮雲』第一編 ”第二回 風変りな恋の初峯入(はつみねいり) 上”にも書かれている。まず文三が勤務先で与えられた仕事は、「身の油に根気の心(しん)を浸し、眠い眼を睡(ね)ずして得た学力を、こんなはかない馬鹿気た事に使うのかと、思えば悲しく情なく・・・」なるようなものであり、文三が学校で考えていたような思想や条理は、実世間の行動の規準としてはまったく無価値になっていた。
彼は、上長の求めるままに従順な車夫に成りきれない存在として、落ちぶれて前途も見えない敗北者になってゆく。その一方で、如才ないあたかも上の自由になりきった道具のような本田昇は出世街道を軽やかに歩んでゆくのである。
文三の悲劇は、時代も変化した当時の資本主義社会の中で、封建道徳に固執する者のそれと言えるだろう。
『浮雲』は未完のまま終ったといわれるが、第三篇の末尾には「終」と明記されている。それでも未完とされるのは続編の構想と思われる四迷の書き残したプランが発見されたかららしい。それによると、文三はお勢を昇に奪われた上、老母の死、あるいはほかの災難にあい、発狂することになっていたそうだ。
四迷は『浮雲』を中絶した後、語学力を生かした仕事に20年近く従事し、1906(明治39)年10月から東京朝日新聞に『其面影』を連載して文壇に復帰、翌年の東京朝日新聞に『平凡』を連載したが、1909(明治42)年、ロシア赴任からの帰国途中、ベンガル湾上で客死した。
ところで、二葉亭四迷の筆名の由来は、「小説家になりたい」と言った時、文学に理解のなかった士族の父に「お前みたいな奴は くたばってしまえ」と激怒されたからこの名を思い付いたといわれているが、これは俗説のようであり、確証も無い。
彼は、『浮雲』が世間で好評であったに係らず、自分では作品に卑下を感じるくらい自信が無かったようであるが、お金欲しさに逍遥の名を借りて出版していたことに、自分自身で愛想の尽きた下らない人間だと自覚し、自ら放った声が、「くたばって仕舞(しめ)え(二葉亭四迷)!」だったことが、『予が半生の懺悔』の中で書かれている。
四迷の『浮雲』の解説などは以下参考の、※8、※9、※10が詳しく参照されるとよい。又、ネットで、『浮雲』を読むなら、※11が良いのではないか。
(冒頭の画像、二葉亭四迷『浮雲』。画像は国立国会図書館:「近代日本人の肖像」より借用)
参考:
※1:国立国会図書館:「近代日本人の肖像」・人名一覧
http://www.ndl.go.jp/portrait/contents/list.html
※2:蔵書印の世界:大野屋惣八(大惣)
http://www.ndl.go.jp/zoshoin/zousyo/09_ouno.html
※3:小説神髄- Yahoo!百科事典
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%B0%8F%E8%AA%AC%E7%A5%9E%E9%AB%84/
※4:坪内逍遥著・小説神髄・ノート1(ノート4まであり)
http://y-kyorochann.at.webry.info/200808/article_10.html
※5:『小説神髄』-史料日本史(1083)「小説の原点」
http://www.eonet.ne.jp/~chushingura/p_nihonsi/siryo/1051_1100/1083.htm
※6:国立の達人:一橋大学:矢野二郎
http://www.hit-press.jp/kikaku/kunitachist/university_yj.html
※7:都の花- Yahoo!百科事典
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E9%83%BD%E3%81%AE%E8%8A%B1/
※8:中村光夫「知識階級」(日本ペンクラブ電子文藝館編輯室、2001年)
http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/study/nakamuramitsuo.html
※9:電子版 秦恒平・湖の本 エッセイ25:私の私・知識人の言葉と責任 他
http://umi-no-hon.officeblue.jp/e_umi_essay25.htm
※10:二葉亭四迷論 目次
http://www2.odn.ne.jp/~cat45780/ftabateishimei.html
※11:二葉亭四迷『浮雲』 [第一篇] [第二篇] [第三篇]
http://www.eonet.ne.jp/~log-inn/futabatei/ukigumo.htm

青空文庫:総合インデックス
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/index_top.html

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2 コメント

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philosophy (noga)
2011-06-22 22:34:32
現実の内容ばかりを述べていると、進歩はない。閉塞感にさいなまれる。
日本語には、時制がない。いうなれば、日本語は現実構文ばかりの言語である。
「あるべき姿」を実現させようと努力すると、「今ある姿」の内容は頭の中から消えてなくなる。
だから、日本人の現実対応策には破たんが生ずる。後には、現実離れのした空理空論だけが残る。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812
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Unknown (よーさん)
2011-06-27 16:54:31
ま!そういうことでしょうね、
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