今日(11月19日)は「ペレの日」
ブラジル・サンパウロ市郊外のサントス市が1995(平成7)年に制定。
1969年、サントスFCで活躍したサッカー選手・ペレが、1000号ゴールの偉業を達成した。
ペレ KBE(Pelé KBE)の 本名は、エドソン・アランテス・ド・ナシメント。ブラジル出身の元サッカー選手であるが、20世紀最高、あるいはサッカー史上最高と評されている選手で、「サッカーの王様」と称されてる。
ペレのプレースタイルは、「パーフェクトバランス」という言葉に集約されているとおり、左右の足を完璧に、強弱の差なく使いこなした唯一のプレーヤーであるともいわれる。また、サッカー選手としては、171センチと小柄ながら並外れた跳躍力で打点の高いヘディングも得意としており、さらに100メートルを10秒台で走る俊足を持ち合わせているなど、サッカー選手に必要な全ての才能を持ち合わせていたといい、その一方で、自分勝手で傲慢なプレーに走ることは決してなく、自らのゴールを減らしてでも周りの選手の能力を最大限に引き出す献身的なプレイヤーでもあったそうだ。
ブラジル代表デビューは1957年7月7日で、当時まだ16歳の時。ワールドカップには、1958年のスウェーデン大会に17歳で初出場。準決勝でジュスト・フォンテーヌを擁するフランスを相手にハットトリックを達成し、世界中を驚かせた。その後計4大会に出場し、3度の優勝に大きく貢献した。
ペレが所属していたチームは、サントスFC。リーグ黎明期の主軸選手であった日本の三浦知良も在籍していたチームである。クラブとの契約期限が切れる1974年10月、ファンから惜しまれながらこのサントスFC引退。それから9か月後、アメリカ合衆国にサッカーを根付かせようと、北米サッカーリーグ(NASL)のニューヨーク・コスモスに入団をして世界を驚かせた。 そして、1968年北米サッカーリーグが発足。彼の名声と衰えない技巧が、米国人にサッカーへの目をひらかせるとともに、各国の大物スターのNASL参加をも促し、リーグの人気を高めた。そして、ペレが引退した1977年には、ドイツの“皇帝”フランツ・ベッケンバウアーもコスモスに加わっている。1977年、「ペレ・サヨナラ・イン・ジャパン」と銘打った日本での引退試合、コスモスー日本代表戦が9月14日夜、東京・国立競技場で行われた。「サッカーの神様」ペレを見ようと集まったファンは約65000人で超満員。日本のファンには複雑な思いだが、日本バックスの徹底的なマークで、この日、背番号10のペレはノーゴールに終わってしまったという(朝日クロニクル、週刊20世紀)。このとき、ベッケンバウアーも、一緒に試合に出ていたはず。
1954年に14歳でデビューしてから1977年に引退するまで、実働23年。生涯通算成績、1363試合に出場、1281ゴール。 公式記録として残っているものの中では、世界最高の記録である。 1試合5得点が6回、4得点が30回、ハットトリックはなんと92回。1試合最多得点は8点。ペレは人格的にも非常に尊敬されており、引退後も仕事が後をたたなかった。この為ペレが生涯稼いだ金は現役時代よりも、引退後の仕事で得た報酬のほうが多いという。
ただ、ブラジルの国民的英雄のひとりではあるが、ブラジル中に隠し子がいるというスキャンダルもあり、ブラジル人からはペレよりジーコ(Zico)の方がより英雄視されているという。
ジーコ・・・そう、あの1991年に住友金属サッカー部(現・鹿島アントラーズ)に入団。旧2部リーグの弱小チームを日本を代表するサッカークラブに成長させ、Jリーグを盛り上げ、2002年7月、サッカー日本代表チーム監督に就任したあのジーコである。彼の本名は、アルトゥール・アントゥネス・コインブラ。「Zico」は「やせっぽち」の意味で、より原音に近い表記をすればズィーコとなるらしい。
リオデジャネイロを代表するサッカーチームで、ブラジルリーグの名門、フラメンゴのミッドフィールダーとして活躍。FIFAワールドカップでは1978年、1982年、1986年の3大会に出場。1982年のスペイン大会ではソクラテス、ファルカン(元日本代表監督)、トニーニョ・セレーゾ(前鹿島監督)とともに「クワトロ・オーメンズ・デ・オーロ(黄金の4人)」を形成。今も「ブラジルサッカー史上最も魅了したチーム」と称えられる。自身はスルーパスとフリーキックを武器に世界中のファンを魅了した。ホームスタジアムから「マラカナンの英雄」といわれ、また、同じくブラジルサッカー界の英雄であるペレになぞらえ、「白いペレ」とも呼ばれていた。
2003年には母国ブラジルで過去30年で最も輝いた選手としてジーコが1位に選ばれたそうで、2位のロナウドとはダブルスコアの大差でペレに次ぐブラジル歴代代表3位に輝いたという。飛躍的に向上した日本サッカー文化への貢献とネームバリューから、ペレと同じ様に日本では「サッカーの神様」と呼称される事も多いが、ジーコ自身はカトリック教徒であるため、この呼称を好ましくは思っていないそうだ。
ジーコがサッカー日本代表チーム監督となり、期待された、2006年6月12日、ドイツでのワールドカップ本大会初戦ではオーストラリア戦に1-3の逆転負け。続くクロアチア戦には0-0で引き分け、わずかな望みをつないだ。最後のブラジル戦は戦う前から日本のファンやマスコミのフィーバーぶりは異常だった。強豪ブラジルに4-1やか3-1で勝つのだといって湧に湧いていた。私個人は、日本のサッカーの実力からして、その逆はあってもそのような勝ち方が出来るわけはないと醒めた目で見ていた。そして、結果は、日本が、先制するもたちまち逆転され1-4の惨敗F組最下位に終わった。本大会、1分け2敗と日本のファンの期待を裏切る結果になってしまったジーコは、その後日本代表監督を退任した。
ジーコジャパンへの期待は、日韓大会で采配を振るった徹底してシステムに選手をはめ込んだいわゆる「ロボットのようなサッカー」を展開したトルシエからの脱却にあったようだ。
2002年7月、サッカー日本代表チーム監督なって以来、ジーコが提示してきたものは「自由で攻撃的なサッカー」であった。つまり、選手に自由を与え、考えるサッカーをさせようとしたのである。このことは、以下参考の「[ジーコ・ジャパン ドイツへの道] 2006年 ドイツW杯総括 」にも書かれているように、”1991年に鹿島アントラーズの前身である住友金属に選手として来日して以来、10数年間日本サッカーを見てきたジーコが、日本人選手の「与えられたことは十分こなすことができるがイマジネーションに欠ける」という特性に気がついた結果であり、考えてプレーさせることで、サッカーというゲームに重要なこの一面を引き出すことができると考えた。”そして、自由を与えて大人扱いする選手へのアプローチや代表チームでの練習などジーコ監督の手法は、ブラジル代表のそれに通じるものであった。
しかし、問題は、欧州有数の強豪リーグで揉まれたペレやジーコ他大勢の優秀な選手が大半を占めていたようなブラジル代表と日本代表では余りにも選手の技量にレベルが違いが有りすぎていたのである。
サッカー (Soccer) は、複数あるフットボールのうちの一つであるが、ボール以外に特に重要な道具を必要とせず、ルールも単純なため、ラテンアメリカやヨーロッパを中心に、世界中のあらゆる地域でプレーされており、世界中の殆どの国でナショナルチームが組織されている。競技人口および国際的な認識が最も高いスポーツの一つであるといわれている。特に盛んなイギリス・ブラジル・アルゼンチン・イタリアなどの国ではその国の文化と密接な関係を持っている。(サッカー文化を参照)そのような中で、日本のサッカーが、野球のように本当に多くのファンから、注目を集めるようになったのは、1993年Jリーグが華々しく開幕してからの事である。それまで、アマチュアの日本リーグ(JSL)が行われていたとはいえ、まだ、歴史も浅く、選手層も薄かったのである。そのくせ、急激なJリーグ人気からかマスコミなどにも持ち上げられ、選手自身も皆一人前の選手の積もりでいたのである。
ジーコジャパンが、トルシエのシステム、偏重から個を生かしたクリエイティブなサッカーを目指そうとしたのは分かる気もするが、それは、あまりにもジーコが、日本の「個」の能力を信じすぎたといえるだろう。日本のサッカーは、まだまだ、これからといえるだろう。いつペレのようなサッカーの神様といわれるような選手が現れるだろうか・・・?
「ペレの日」なのに、ペレと同じ様に「サッカーの神様」といわれたジーコに引きいられたチームが、ドイツでのワールドカップ本大会で屈辱的な敗北を喫した事を思い出し、つい、そのことをダラダラと書いてしまった。日本のサッカーのこれからは、オシムに期待することにしよう。
(画像は「ペレ・サヨナラ・イン・ジャパン」に出場の中央背番号10のペレ。朝日クロニクル、週刊20世紀より)
参考:
ペレ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%AC
ジーコ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%82%B3
ジーコ公式サイト
http://sports.nifty.com/zico/
2006FIFAワールドカップ オフィシャルサイト
http://fifaworldcup.yahoo.com/06/jp/index.html
[ジーコ・ジャパン ドイツへの道] 2006年 ドイツW杯総括
http://number.goo.ne.jp/soccer/japan/road_to_germany/20060703.html
サッカー - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC
BRAZIL
http://www.fcjapan.co.jp/KSL.new/nation/002.html
サッカーの歴史
http://www.britishcouncil.org/jp/japan-sport-footballculture-history-index.htm
日本プロサッカーリーグ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B5%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B0
サッカーの王様ペレが銅像に
http://today.reuters.co.jp/news/articlenews.aspx?type=topNews&storyid=2006-08-30T125408Z_01_NOOTR_RTRJONC_0_JAPAN-226527-1.xml&src=rss
「サッカーの王様」の目に涙=麻薬組織の一員だった息子=「慙愧の念に堪えない」と心情吐露
http://www.nikkeyshimbun.com.br/050609-22brasil.html
イビチャ・オシム - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%93%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%82%B7%E3%83%A0
オシム語録
http://www.geocities.jp/j1koramu/03koramu/osimu.goroku.html
ブラジル・サンパウロ市郊外のサントス市が1995(平成7)年に制定。
1969年、サントスFCで活躍したサッカー選手・ペレが、1000号ゴールの偉業を達成した。
ペレ KBE(Pelé KBE)の 本名は、エドソン・アランテス・ド・ナシメント。ブラジル出身の元サッカー選手であるが、20世紀最高、あるいはサッカー史上最高と評されている選手で、「サッカーの王様」と称されてる。
ペレのプレースタイルは、「パーフェクトバランス」という言葉に集約されているとおり、左右の足を完璧に、強弱の差なく使いこなした唯一のプレーヤーであるともいわれる。また、サッカー選手としては、171センチと小柄ながら並外れた跳躍力で打点の高いヘディングも得意としており、さらに100メートルを10秒台で走る俊足を持ち合わせているなど、サッカー選手に必要な全ての才能を持ち合わせていたといい、その一方で、自分勝手で傲慢なプレーに走ることは決してなく、自らのゴールを減らしてでも周りの選手の能力を最大限に引き出す献身的なプレイヤーでもあったそうだ。
ブラジル代表デビューは1957年7月7日で、当時まだ16歳の時。ワールドカップには、1958年のスウェーデン大会に17歳で初出場。準決勝でジュスト・フォンテーヌを擁するフランスを相手にハットトリックを達成し、世界中を驚かせた。その後計4大会に出場し、3度の優勝に大きく貢献した。
ペレが所属していたチームは、サントスFC。リーグ黎明期の主軸選手であった日本の三浦知良も在籍していたチームである。クラブとの契約期限が切れる1974年10月、ファンから惜しまれながらこのサントスFC引退。それから9か月後、アメリカ合衆国にサッカーを根付かせようと、北米サッカーリーグ(NASL)のニューヨーク・コスモスに入団をして世界を驚かせた。 そして、1968年北米サッカーリーグが発足。彼の名声と衰えない技巧が、米国人にサッカーへの目をひらかせるとともに、各国の大物スターのNASL参加をも促し、リーグの人気を高めた。そして、ペレが引退した1977年には、ドイツの“皇帝”フランツ・ベッケンバウアーもコスモスに加わっている。1977年、「ペレ・サヨナラ・イン・ジャパン」と銘打った日本での引退試合、コスモスー日本代表戦が9月14日夜、東京・国立競技場で行われた。「サッカーの神様」ペレを見ようと集まったファンは約65000人で超満員。日本のファンには複雑な思いだが、日本バックスの徹底的なマークで、この日、背番号10のペレはノーゴールに終わってしまったという(朝日クロニクル、週刊20世紀)。このとき、ベッケンバウアーも、一緒に試合に出ていたはず。
1954年に14歳でデビューしてから1977年に引退するまで、実働23年。生涯通算成績、1363試合に出場、1281ゴール。 公式記録として残っているものの中では、世界最高の記録である。 1試合5得点が6回、4得点が30回、ハットトリックはなんと92回。1試合最多得点は8点。ペレは人格的にも非常に尊敬されており、引退後も仕事が後をたたなかった。この為ペレが生涯稼いだ金は現役時代よりも、引退後の仕事で得た報酬のほうが多いという。
ただ、ブラジルの国民的英雄のひとりではあるが、ブラジル中に隠し子がいるというスキャンダルもあり、ブラジル人からはペレよりジーコ(Zico)の方がより英雄視されているという。
ジーコ・・・そう、あの1991年に住友金属サッカー部(現・鹿島アントラーズ)に入団。旧2部リーグの弱小チームを日本を代表するサッカークラブに成長させ、Jリーグを盛り上げ、2002年7月、サッカー日本代表チーム監督に就任したあのジーコである。彼の本名は、アルトゥール・アントゥネス・コインブラ。「Zico」は「やせっぽち」の意味で、より原音に近い表記をすればズィーコとなるらしい。
リオデジャネイロを代表するサッカーチームで、ブラジルリーグの名門、フラメンゴのミッドフィールダーとして活躍。FIFAワールドカップでは1978年、1982年、1986年の3大会に出場。1982年のスペイン大会ではソクラテス、ファルカン(元日本代表監督)、トニーニョ・セレーゾ(前鹿島監督)とともに「クワトロ・オーメンズ・デ・オーロ(黄金の4人)」を形成。今も「ブラジルサッカー史上最も魅了したチーム」と称えられる。自身はスルーパスとフリーキックを武器に世界中のファンを魅了した。ホームスタジアムから「マラカナンの英雄」といわれ、また、同じくブラジルサッカー界の英雄であるペレになぞらえ、「白いペレ」とも呼ばれていた。
2003年には母国ブラジルで過去30年で最も輝いた選手としてジーコが1位に選ばれたそうで、2位のロナウドとはダブルスコアの大差でペレに次ぐブラジル歴代代表3位に輝いたという。飛躍的に向上した日本サッカー文化への貢献とネームバリューから、ペレと同じ様に日本では「サッカーの神様」と呼称される事も多いが、ジーコ自身はカトリック教徒であるため、この呼称を好ましくは思っていないそうだ。
ジーコがサッカー日本代表チーム監督となり、期待された、2006年6月12日、ドイツでのワールドカップ本大会初戦ではオーストラリア戦に1-3の逆転負け。続くクロアチア戦には0-0で引き分け、わずかな望みをつないだ。最後のブラジル戦は戦う前から日本のファンやマスコミのフィーバーぶりは異常だった。強豪ブラジルに4-1やか3-1で勝つのだといって湧に湧いていた。私個人は、日本のサッカーの実力からして、その逆はあってもそのような勝ち方が出来るわけはないと醒めた目で見ていた。そして、結果は、日本が、先制するもたちまち逆転され1-4の惨敗F組最下位に終わった。本大会、1分け2敗と日本のファンの期待を裏切る結果になってしまったジーコは、その後日本代表監督を退任した。
ジーコジャパンへの期待は、日韓大会で采配を振るった徹底してシステムに選手をはめ込んだいわゆる「ロボットのようなサッカー」を展開したトルシエからの脱却にあったようだ。
2002年7月、サッカー日本代表チーム監督なって以来、ジーコが提示してきたものは「自由で攻撃的なサッカー」であった。つまり、選手に自由を与え、考えるサッカーをさせようとしたのである。このことは、以下参考の「[ジーコ・ジャパン ドイツへの道] 2006年 ドイツW杯総括 」にも書かれているように、”1991年に鹿島アントラーズの前身である住友金属に選手として来日して以来、10数年間日本サッカーを見てきたジーコが、日本人選手の「与えられたことは十分こなすことができるがイマジネーションに欠ける」という特性に気がついた結果であり、考えてプレーさせることで、サッカーというゲームに重要なこの一面を引き出すことができると考えた。”そして、自由を与えて大人扱いする選手へのアプローチや代表チームでの練習などジーコ監督の手法は、ブラジル代表のそれに通じるものであった。
しかし、問題は、欧州有数の強豪リーグで揉まれたペレやジーコ他大勢の優秀な選手が大半を占めていたようなブラジル代表と日本代表では余りにも選手の技量にレベルが違いが有りすぎていたのである。
サッカー (Soccer) は、複数あるフットボールのうちの一つであるが、ボール以外に特に重要な道具を必要とせず、ルールも単純なため、ラテンアメリカやヨーロッパを中心に、世界中のあらゆる地域でプレーされており、世界中の殆どの国でナショナルチームが組織されている。競技人口および国際的な認識が最も高いスポーツの一つであるといわれている。特に盛んなイギリス・ブラジル・アルゼンチン・イタリアなどの国ではその国の文化と密接な関係を持っている。(サッカー文化を参照)そのような中で、日本のサッカーが、野球のように本当に多くのファンから、注目を集めるようになったのは、1993年Jリーグが華々しく開幕してからの事である。それまで、アマチュアの日本リーグ(JSL)が行われていたとはいえ、まだ、歴史も浅く、選手層も薄かったのである。そのくせ、急激なJリーグ人気からかマスコミなどにも持ち上げられ、選手自身も皆一人前の選手の積もりでいたのである。
ジーコジャパンが、トルシエのシステム、偏重から個を生かしたクリエイティブなサッカーを目指そうとしたのは分かる気もするが、それは、あまりにもジーコが、日本の「個」の能力を信じすぎたといえるだろう。日本のサッカーは、まだまだ、これからといえるだろう。いつペレのようなサッカーの神様といわれるような選手が現れるだろうか・・・?
「ペレの日」なのに、ペレと同じ様に「サッカーの神様」といわれたジーコに引きいられたチームが、ドイツでのワールドカップ本大会で屈辱的な敗北を喫した事を思い出し、つい、そのことをダラダラと書いてしまった。日本のサッカーのこれからは、オシムに期待することにしよう。
(画像は「ペレ・サヨナラ・イン・ジャパン」に出場の中央背番号10のペレ。朝日クロニクル、週刊20世紀より)
参考:
ペレ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%AC
ジーコ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%82%B3
ジーコ公式サイト
http://sports.nifty.com/zico/
2006FIFAワールドカップ オフィシャルサイト
http://fifaworldcup.yahoo.com/06/jp/index.html
[ジーコ・ジャパン ドイツへの道] 2006年 ドイツW杯総括
http://number.goo.ne.jp/soccer/japan/road_to_germany/20060703.html
サッカー - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC
BRAZIL
http://www.fcjapan.co.jp/KSL.new/nation/002.html
サッカーの歴史
http://www.britishcouncil.org/jp/japan-sport-footballculture-history-index.htm
日本プロサッカーリーグ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B5%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B0
サッカーの王様ペレが銅像に
http://today.reuters.co.jp/news/articlenews.aspx?type=topNews&storyid=2006-08-30T125408Z_01_NOOTR_RTRJONC_0_JAPAN-226527-1.xml&src=rss
「サッカーの王様」の目に涙=麻薬組織の一員だった息子=「慙愧の念に堪えない」と心情吐露
http://www.nikkeyshimbun.com.br/050609-22brasil.html
イビチャ・オシム - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%93%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%82%B7%E3%83%A0
オシム語録
http://www.geocities.jp/j1koramu/03koramu/osimu.goroku.html
僕はサッカーがどうも好きになれません。理由は故意にオフサイドを誘うような卑怯なプレー(トラップっていうのですか)が認められていたり(ラグビーでは反則になります)、一寸したコンタクトで大袈裟に倒れて相手がいかにもファウルをしたようにアピールする選手が多いこと、サポーターと称する人の馬鹿騒ぎ(何処かのプロ野球チームのファンと称する人たちと共通していますね)が大嫌いなんです。
余り、紳士的なスポーツとは言えないようですね。