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江夏豊(えなつ ゆたか)は、1948(昭和23)年5月15日生まれ、兵庫県尼崎市出身。大阪学院高校から同年導入された第1次ドラフトで阪神タイガースより1位指名され入団し、新人として、1年目の1967(昭和42)年は12勝13敗だったが、豪速球を武器に奪三振225の最多奪三振を記録(リーグ1位)で華々しくデビューをした。そして、2年目の1968(昭和43)年25勝12敗で最多勝に輝き、大リーグ記録を上回るシーズン奪三振401個を記録。正に、怪童と言ってよかった。
江夏は、2年目のこのシーズン、9月17日の甲子園球場における対巨人戦では、王貞治の打席で稲尾和久の日本記録に並ぶ353奪三振を記録した後、後続の打者は投手も含めて全ての打者を意図的に三振以外で打ち取り、再び王の打席が回ってきた時に、記録更新となる354個目の三振を奪う離れ業をやってのけた(この時の画像は、このブログ最後のYouTube-江夏豊投手 全盛期の記録映像の中にある)。
江夏が、王からの奪三振にこだわったのは、当時阪神のエースだった村山実が、節目の記録となる三振を常に長嶋茂雄から奪うようにしていたことを真似たものと言われている。
戦後、日本のプロ野球が復活し、隆盛を極めたころダイナマイト打線を擁する阪神(このころ大阪タイガースを名乗っていた)も大活躍をし1947(昭和22)年に優勝もしていた。しかし、1950(昭和25)年2リーグ制が導入されたが、セリーグでは、初年度こそ優勝を松竹ロビンスに譲ったものの1951(昭和26)年~1959(昭和34)年まで、9年間巨人が8度優勝していた。その後も、巨人が、1960(昭和35)年三原脩三監督率いる大洋ホエールズ(現:横浜ベイスターズ)に敗れこそするが、1958(昭和33)年入団の長島、1959(昭和34)年入団の王がON砲と呼ばれるコンビを組むようになり、1965(昭和40)年から、9連覇し、日本シリーズでも9年勝ち続けた。そんな中で、阪神は1962(昭和37)年、1964(昭和39)年こそリーグ優勝を果たすがその他は2位、3位の成績に甘んじていた。村山はそんな阪神に入団した新人シーズンの1959(昭34)年6月25日の天覧試合で小山正明をリリーフした際、学生時代からのライバル視していた巨人の長嶋に左翼ポール際へのサヨナラ本塁打を打たれた。これは微妙な判定であったが、村山は死ぬまで「あれはファールだった」と言って悔しがり、以来、村山対長嶋のライバル関係が出来あがっていたのだ。その時の天覧試合の様子は、以下で見ることができる。
YouTube天覧試合(村山本人、捕手山本、打者長島が司会徳光和夫と伴に同席した画像) ⇒ ここ
話しは元に戻るが、江夏は10月8日の対中日戦では新宅洋志から、383個目の三振を奪い、シーズン奪三振世界記録を達成。これまでの記録はドジャースのサンディー・コーファックスが1963(昭和38)年に達成した382個であった。この記録は、同シーズン中に更新し、10月10日、401個を達成した。
奪三振の多さから「ドクターK」の異名をとった野茂英雄でさえ400どころか300に達したことはない(スコアブックでは三振をKで表すことから、Kは三振を意味している)。
江夏のこの「シーズン最多奪三振記録」は、日本は勿論のこと、メジャーリーグでも最高の記録であり、未だに、更新はされていない。因みに、メジャーリーグでの「シーズン最多奪三振」記録は、ノーラン・ライアンがエンゼルス在席時の1973(昭和48)年に達成した383個である。なお、「通算最多奪三振」記録は、1966(昭和41)年~1993(平成5)年の間にノーラン・ライアンが達成した5714個。日本では、金田正一が1950(昭和25)年~1969(昭和44)年の間に達成した4490個が最高である(最多奪三振参照)。
江夏が阪神に入団した1968(昭和43)年ころより、エースの村山が右腕の血行障害に悩まされていたことから、入団後いきなり頭角を現した江夏がその後、村山に代わって阪神のエースの座に就き、最多勝利2度、最優秀防御率1回、沢村賞1回の他、20勝以上4回、6年連続リーグ最多奪三振など華々しい記録を作りあげ、名実共にセ・リーグを代表するピッチャーとして活躍した。4年目の1970(昭和45)年には通算1000奪三振を記録するが、これは通算奪三振の日本プロ野球記録保持者、金田正一を上回る最短記録であった。
又、村山がむきになって長島と勝負していたように阪神入団2年目に王との勝負で奪三振記録を更新して以降、江夏も王との勝負に固執し、通算で57の三振を奪ったが、直球勝負で挑んでいたため、20本の本塁打も打たれている。王から最も多く三振を奪った投手は江夏だが、江夏から最も多く本塁打を打った打者もまた王であった。そんな王に対し江夏は一度しか死球を与えていないという。なにかと言うと敬遠の多い最近の野球を見慣れていると、このような堂々と真っ向勝負していた野球がなつかしい。
こんな脱三振のことばかりを書いていると、江夏が、ただ闇雲に剛速球を駆使し三振を取るために打者と勝負していたように思われがちだが、球が速いだけでなくコントロールもよかった。その上、相当な研究熱心であったようだ。
しかし、先にも書いたように、江夏が阪神にいた当時は巨人が前人未到の9連覇を成し遂げている真っ只中であり、優勝戦線に加わることはあったものの、ペナントをその手にすることは遂にできなかった。その上、生まれつきの心臓疾患、血行障害が悪化。肩痛・肘痛を抑えるために服用していた痛み止めなどの影響で体重も激増した。そのようなことから同世代のライバルであった巨人・堀内恒夫に先んじて通算150勝を達成するも、成績は年々下降。一匹狼的な性格もありチーム内で孤立していた彼は、1976(昭和51)年、江本孟紀・島野育夫らとの交換トレードで、追い出されるように南海ホークス( 現:福岡ソフトバンクホークス)へ移籍させられた。その後、血行障害や心臓疾患などから長いイニングが投げられずリリーフ投手に転向。この南海時代以降、投球も阪神時代のような三振に打ち取るピッチングから、打者の心理を読み取って変化球を巧みに使い分ける技巧派投手へ変化した。その後、1977(昭和52)年オフには、金銭トレードで広島へ移籍し活躍。
1979(昭和54)年11月4日の日本シリーズ第7戦が大阪球場で近鉄-廣島戦が行なわれた。9回裏に1点リードながら無死満塁と言う絶体絶命のピンチ(自ら招くも)を背負いながらも江夏の意地の投球によってこれを0点に抑え廣島が4-3で近鉄を下し初の日本一に。この江夏投手の投球技術は、球史に残る好投と讃えられた。冒頭掲載の右画像は、挟殺する廣島・水沼四郎捕手。左端が江夏投手である(朝日クロニクル「週刊20世紀」)。
廣島の日本一を決めたことを表現するのに「江夏の21球」という名文句がある。
この言葉を最初に使ったのは、山際淳司であった。1980(昭和55)年、文藝春秋社が満を持してスポーツグラフィック・マガジン「ナンバー」を創刊したとき、この創刊号に載った一篇のドキュメントが話題になったが、それが彼の『江夏の21球』である。
これは、先に書いた日本シリーズ「近鉄対広島」第7戦の9回裏の江夏豊が投げた21球だけをドキュメントしたものであった。広島が4対3の、1点リードで迎えた9回裏、1アウト満塁のピンチの場面で江夏がどのように投球したかを、そのときのバッターや監督、又、江夏自身に取材しながら構成したものである。江夏はスクイズをフォークに見えるような下に落ちるカーブではずして、3塁走者を殺し2アウトをとり、さらに最後の打者石渡茂を三振に切って落として広島を優勝に導いたのだった。その緊迫した場面の回想シーンを江夏が語る動画が以下で見れる。
YouTube-江夏の21球 (1979年)
http://www.youtube.com/watch?v=Ux1w_4zHjfQ&feature=related
この回想シーンの中で、印象に残る一場面は一塁を守っていた同僚、衣笠祥雄とのやりとりである。絶対絶命の場面で、古葉竹識監督は同点にされることを意識し、既に次の攻撃・打席の(江夏に打順が回る可能性があった)ことを考え、代えのピッチャーに準備・肩慣らしをさせていた。それを見た江夏はまだ信用を勝ち取ってなかったのかと心中で悔しさを爆発させていた。そこに一塁の衣笠は、「俺もお前と同じ気持ちだ。ベンチやブルペンのことなんて気にするな、やめるなら一緒に辞めよう」と声をかけたという。
絶体絶命のピンチを、1人の左腕の意地によって歓喜のドラマに変えた。そして、万年Bクラスで低迷していた廣島は、勢いに乗って翌年も頑張り、日本シリーズ2連覇を成し遂げた。
廣島の後、日本ハムファイターズの大沢啓二監督から押さえの切り札としての要請もあり、移籍後、活躍をみせチームを優勝に導いたことなどから『優勝請負人』の異名も取り、今でも“20世紀最高の投手の一人”との呼び声が高く、Yahoo! JAPANが企画した「20世紀日本プロ野球ベストナイン」の投手部門でも、沢村栄治、金田正一、稲尾和久ら往年の名投手や野茂 英雄らを抑えて1位に選出されている(以下参考の「VisualBASEBALL」のセンチュリーベストナイン 最終結果参照)。
しかし、そんな江夏が、プロ野球選手としては珍しく、大阪学院大学高等学校入学まで本格的な野球の経験がなく、中学時代は砲丸投の選手として活躍していたというのは驚きだ。阪神のスカウト陣は、そんな彼の直球も良かったが、頭の使える選手であるところを見込んで、ドラフト1位に指名したのだという。当時の阪神のスカウト陣の見る目は確かだったのだ。そんな、頭を使った上手い投球ができるからこそ、剛速球が衰えた後もリリーフとして活躍できたのだろう。
1983(昭和58)年オフ、日本ハムの大沢監督勇退に伴ない、西武ライオンズへ移籍させられるが、一匹狼的な性格の江夏は厳格な選手管理で有名な西武の広岡達朗監督との確執もあり、又、監督が将来を見据えての若手中心の選手起用を行っていたことから、ベテラン江夏の出番は与えられず、史上初の通算200セーブ、通算3000奪三振が目前だったが、1984(昭和59)年限りで西武を退団する。その後メジャー挑戦の夢も持っていたが、かなわず、引退後は、解説者、評論家などを努めていたが覚せい剤取締法違反で現行犯逮捕されて懲役の実刑判決を受けたりもしたが、現在も解説者、評論家として活動している。
「史上唯一の延長戦でのノーヒットノーラン」「オールスターゲームにおける9連続奪三振」など超一流ピッチャーとして数々の伝説を残している彼は、投げるだけではなくホームランも打てる万能選手であった。そんな彼の往年の活躍ぶりは以下で見られる。
YouTube-江夏豊投手 全盛期の記録映像
http://www.youtube.com/watch?v=veCdvfazkKA&feature=related
YouTube-阪神時代:江夏豊 通算2000奪三振の実況
http://www.youtube.com/watch?v=OJNzcG2vBAE&feature=player_embedded
YouTube-廣島時代:江夏豊晩年のピッチング(1980~1982年)
http://www.youtube.com/watch?v=2t3AS0vbNWM&feature=related
(画像向かって左:、元阪神タイガース:江夏豊投手。 右:プロ野球1979年の日本シリーズ第7戦11月4日大阪球場で行なわれ、廣島が4-3で近鉄を下し初の日本一に。1点差で迎えた江夏投手の投球技術は、球史に残る好投と讃えられた。写真は挟殺する水沼四郎捕手。左端江夏投手。いずれも。朝日クロニクル週刊20世紀「スポーツの100年」「1979年 038号」より)
参考:
江夏豊 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E5%A4%8F%E8%B1%8A
阪神タイガース ホームページ
http://hanshintigers.jp/
VisualBASEBALL
http://visualb.hp.infoseek.co.jp/index.html
ライバル列伝 江夏豊
http://members2.jcom.home.ne.jp/big1project/enatu.htm
松岡正剛の千夜千冊『スローカーブを、もう一球』山際淳司
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0609.html
江夏は、2年目のこのシーズン、9月17日の甲子園球場における対巨人戦では、王貞治の打席で稲尾和久の日本記録に並ぶ353奪三振を記録した後、後続の打者は投手も含めて全ての打者を意図的に三振以外で打ち取り、再び王の打席が回ってきた時に、記録更新となる354個目の三振を奪う離れ業をやってのけた(この時の画像は、このブログ最後のYouTube-江夏豊投手 全盛期の記録映像の中にある)。
江夏が、王からの奪三振にこだわったのは、当時阪神のエースだった村山実が、節目の記録となる三振を常に長嶋茂雄から奪うようにしていたことを真似たものと言われている。
戦後、日本のプロ野球が復活し、隆盛を極めたころダイナマイト打線を擁する阪神(このころ大阪タイガースを名乗っていた)も大活躍をし1947(昭和22)年に優勝もしていた。しかし、1950(昭和25)年2リーグ制が導入されたが、セリーグでは、初年度こそ優勝を松竹ロビンスに譲ったものの1951(昭和26)年~1959(昭和34)年まで、9年間巨人が8度優勝していた。その後も、巨人が、1960(昭和35)年三原脩三監督率いる大洋ホエールズ(現:横浜ベイスターズ)に敗れこそするが、1958(昭和33)年入団の長島、1959(昭和34)年入団の王がON砲と呼ばれるコンビを組むようになり、1965(昭和40)年から、9連覇し、日本シリーズでも9年勝ち続けた。そんな中で、阪神は1962(昭和37)年、1964(昭和39)年こそリーグ優勝を果たすがその他は2位、3位の成績に甘んじていた。村山はそんな阪神に入団した新人シーズンの1959(昭34)年6月25日の天覧試合で小山正明をリリーフした際、学生時代からのライバル視していた巨人の長嶋に左翼ポール際へのサヨナラ本塁打を打たれた。これは微妙な判定であったが、村山は死ぬまで「あれはファールだった」と言って悔しがり、以来、村山対長嶋のライバル関係が出来あがっていたのだ。その時の天覧試合の様子は、以下で見ることができる。
YouTube天覧試合(村山本人、捕手山本、打者長島が司会徳光和夫と伴に同席した画像) ⇒ ここ
話しは元に戻るが、江夏は10月8日の対中日戦では新宅洋志から、383個目の三振を奪い、シーズン奪三振世界記録を達成。これまでの記録はドジャースのサンディー・コーファックスが1963(昭和38)年に達成した382個であった。この記録は、同シーズン中に更新し、10月10日、401個を達成した。
奪三振の多さから「ドクターK」の異名をとった野茂英雄でさえ400どころか300に達したことはない(スコアブックでは三振をKで表すことから、Kは三振を意味している)。
江夏のこの「シーズン最多奪三振記録」は、日本は勿論のこと、メジャーリーグでも最高の記録であり、未だに、更新はされていない。因みに、メジャーリーグでの「シーズン最多奪三振」記録は、ノーラン・ライアンがエンゼルス在席時の1973(昭和48)年に達成した383個である。なお、「通算最多奪三振」記録は、1966(昭和41)年~1993(平成5)年の間にノーラン・ライアンが達成した5714個。日本では、金田正一が1950(昭和25)年~1969(昭和44)年の間に達成した4490個が最高である(最多奪三振参照)。
江夏が阪神に入団した1968(昭和43)年ころより、エースの村山が右腕の血行障害に悩まされていたことから、入団後いきなり頭角を現した江夏がその後、村山に代わって阪神のエースの座に就き、最多勝利2度、最優秀防御率1回、沢村賞1回の他、20勝以上4回、6年連続リーグ最多奪三振など華々しい記録を作りあげ、名実共にセ・リーグを代表するピッチャーとして活躍した。4年目の1970(昭和45)年には通算1000奪三振を記録するが、これは通算奪三振の日本プロ野球記録保持者、金田正一を上回る最短記録であった。
又、村山がむきになって長島と勝負していたように阪神入団2年目に王との勝負で奪三振記録を更新して以降、江夏も王との勝負に固執し、通算で57の三振を奪ったが、直球勝負で挑んでいたため、20本の本塁打も打たれている。王から最も多く三振を奪った投手は江夏だが、江夏から最も多く本塁打を打った打者もまた王であった。そんな王に対し江夏は一度しか死球を与えていないという。なにかと言うと敬遠の多い最近の野球を見慣れていると、このような堂々と真っ向勝負していた野球がなつかしい。
こんな脱三振のことばかりを書いていると、江夏が、ただ闇雲に剛速球を駆使し三振を取るために打者と勝負していたように思われがちだが、球が速いだけでなくコントロールもよかった。その上、相当な研究熱心であったようだ。
しかし、先にも書いたように、江夏が阪神にいた当時は巨人が前人未到の9連覇を成し遂げている真っ只中であり、優勝戦線に加わることはあったものの、ペナントをその手にすることは遂にできなかった。その上、生まれつきの心臓疾患、血行障害が悪化。肩痛・肘痛を抑えるために服用していた痛み止めなどの影響で体重も激増した。そのようなことから同世代のライバルであった巨人・堀内恒夫に先んじて通算150勝を達成するも、成績は年々下降。一匹狼的な性格もありチーム内で孤立していた彼は、1976(昭和51)年、江本孟紀・島野育夫らとの交換トレードで、追い出されるように南海ホークス( 現:福岡ソフトバンクホークス)へ移籍させられた。その後、血行障害や心臓疾患などから長いイニングが投げられずリリーフ投手に転向。この南海時代以降、投球も阪神時代のような三振に打ち取るピッチングから、打者の心理を読み取って変化球を巧みに使い分ける技巧派投手へ変化した。その後、1977(昭和52)年オフには、金銭トレードで広島へ移籍し活躍。
1979(昭和54)年11月4日の日本シリーズ第7戦が大阪球場で近鉄-廣島戦が行なわれた。9回裏に1点リードながら無死満塁と言う絶体絶命のピンチ(自ら招くも)を背負いながらも江夏の意地の投球によってこれを0点に抑え廣島が4-3で近鉄を下し初の日本一に。この江夏投手の投球技術は、球史に残る好投と讃えられた。冒頭掲載の右画像は、挟殺する廣島・水沼四郎捕手。左端が江夏投手である(朝日クロニクル「週刊20世紀」)。
廣島の日本一を決めたことを表現するのに「江夏の21球」という名文句がある。
この言葉を最初に使ったのは、山際淳司であった。1980(昭和55)年、文藝春秋社が満を持してスポーツグラフィック・マガジン「ナンバー」を創刊したとき、この創刊号に載った一篇のドキュメントが話題になったが、それが彼の『江夏の21球』である。
これは、先に書いた日本シリーズ「近鉄対広島」第7戦の9回裏の江夏豊が投げた21球だけをドキュメントしたものであった。広島が4対3の、1点リードで迎えた9回裏、1アウト満塁のピンチの場面で江夏がどのように投球したかを、そのときのバッターや監督、又、江夏自身に取材しながら構成したものである。江夏はスクイズをフォークに見えるような下に落ちるカーブではずして、3塁走者を殺し2アウトをとり、さらに最後の打者石渡茂を三振に切って落として広島を優勝に導いたのだった。その緊迫した場面の回想シーンを江夏が語る動画が以下で見れる。
YouTube-江夏の21球 (1979年)
http://www.youtube.com/watch?v=Ux1w_4zHjfQ&feature=related
この回想シーンの中で、印象に残る一場面は一塁を守っていた同僚、衣笠祥雄とのやりとりである。絶対絶命の場面で、古葉竹識監督は同点にされることを意識し、既に次の攻撃・打席の(江夏に打順が回る可能性があった)ことを考え、代えのピッチャーに準備・肩慣らしをさせていた。それを見た江夏はまだ信用を勝ち取ってなかったのかと心中で悔しさを爆発させていた。そこに一塁の衣笠は、「俺もお前と同じ気持ちだ。ベンチやブルペンのことなんて気にするな、やめるなら一緒に辞めよう」と声をかけたという。
絶体絶命のピンチを、1人の左腕の意地によって歓喜のドラマに変えた。そして、万年Bクラスで低迷していた廣島は、勢いに乗って翌年も頑張り、日本シリーズ2連覇を成し遂げた。
廣島の後、日本ハムファイターズの大沢啓二監督から押さえの切り札としての要請もあり、移籍後、活躍をみせチームを優勝に導いたことなどから『優勝請負人』の異名も取り、今でも“20世紀最高の投手の一人”との呼び声が高く、Yahoo! JAPANが企画した「20世紀日本プロ野球ベストナイン」の投手部門でも、沢村栄治、金田正一、稲尾和久ら往年の名投手や野茂 英雄らを抑えて1位に選出されている(以下参考の「VisualBASEBALL」のセンチュリーベストナイン 最終結果参照)。
しかし、そんな江夏が、プロ野球選手としては珍しく、大阪学院大学高等学校入学まで本格的な野球の経験がなく、中学時代は砲丸投の選手として活躍していたというのは驚きだ。阪神のスカウト陣は、そんな彼の直球も良かったが、頭の使える選手であるところを見込んで、ドラフト1位に指名したのだという。当時の阪神のスカウト陣の見る目は確かだったのだ。そんな、頭を使った上手い投球ができるからこそ、剛速球が衰えた後もリリーフとして活躍できたのだろう。
1983(昭和58)年オフ、日本ハムの大沢監督勇退に伴ない、西武ライオンズへ移籍させられるが、一匹狼的な性格の江夏は厳格な選手管理で有名な西武の広岡達朗監督との確執もあり、又、監督が将来を見据えての若手中心の選手起用を行っていたことから、ベテラン江夏の出番は与えられず、史上初の通算200セーブ、通算3000奪三振が目前だったが、1984(昭和59)年限りで西武を退団する。その後メジャー挑戦の夢も持っていたが、かなわず、引退後は、解説者、評論家などを努めていたが覚せい剤取締法違反で現行犯逮捕されて懲役の実刑判決を受けたりもしたが、現在も解説者、評論家として活動している。
「史上唯一の延長戦でのノーヒットノーラン」「オールスターゲームにおける9連続奪三振」など超一流ピッチャーとして数々の伝説を残している彼は、投げるだけではなくホームランも打てる万能選手であった。そんな彼の往年の活躍ぶりは以下で見られる。
YouTube-江夏豊投手 全盛期の記録映像
http://www.youtube.com/watch?v=veCdvfazkKA&feature=related
YouTube-阪神時代:江夏豊 通算2000奪三振の実況
http://www.youtube.com/watch?v=OJNzcG2vBAE&feature=player_embedded
YouTube-廣島時代:江夏豊晩年のピッチング(1980~1982年)
http://www.youtube.com/watch?v=2t3AS0vbNWM&feature=related
(画像向かって左:、元阪神タイガース:江夏豊投手。 右:プロ野球1979年の日本シリーズ第7戦11月4日大阪球場で行なわれ、廣島が4-3で近鉄を下し初の日本一に。1点差で迎えた江夏投手の投球技術は、球史に残る好投と讃えられた。写真は挟殺する水沼四郎捕手。左端江夏投手。いずれも。朝日クロニクル週刊20世紀「スポーツの100年」「1979年 038号」より)
参考:
江夏豊 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E5%A4%8F%E8%B1%8A
阪神タイガース ホームページ
http://hanshintigers.jp/
VisualBASEBALL
http://visualb.hp.infoseek.co.jp/index.html
ライバル列伝 江夏豊
http://members2.jcom.home.ne.jp/big1project/enatu.htm
松岡正剛の千夜千冊『スローカーブを、もう一球』山際淳司
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0609.html