1945 (昭和20)年8月15日 日本の無条件降伏により、第2次世界大戦が終結した。
第2次世界大戦の後半、1941(昭和16)年12月 太平洋戦争の戦端が開かれると、前半は攻勢であったものの1943(昭和18)年5月に前年の6月より日本軍が占領していたアリューシャン列島のアッツ島に米軍が上陸。日本軍守備隊は全滅し(アッツ島の戦い)以降米軍の反撃が始まり、日本は、じりじりと敗戦に追い込まれるが、1945 (昭和20)年2月、硫黄島の戦いが始まった頃には、増援や救援の兵隊どころか、迎撃する戦闘機も、熟練した操縦士も、度重なる敗北で底を突いていた日本軍は、十分な反撃もできぬまま、本土の制空権さえも失っていく。日本軍は練習機さえ動員し、特攻による必死の反撃を行うが、この頃になると米軍は特攻への対策法を編み出していたようだ。この特攻隊員に指名された者の死亡者も多いが生還したという例も結構多いようだ(特に沖縄戦時の帰投例は全出撃の半数にも上るという)。機材故障、体調不良、天候不良、理由を付け出撃を回避、突入直前に撃墜され捕虜となる、出撃日を指定されるもその直前に終戦、等々理由は様々のようである。第二次世界大戦中に日本海軍航空隊の戦闘機パイロットで、戦後、その経験を綴った著書『大空のサムライ』が世界的ベストセラーともなった坂井三郎は、戦後、「当時の新聞等で、特攻で士気があがったと書かれているが大嘘。士気は低下しました。全員死んでこいと言われて士気があがりますか。間違いなく士気はさがったけれども、大本営と上の連中は上がったと称する。大嘘つきです。」と加藤寛一郎によるインタビュー(『零戦の秘術』講談社文庫P.304)に答えており、日本最大の撃墜王といわれた岩本徹三氏も、著書の中で特攻が知れ渡ると全軍の士気は目に見えて落ちたと述べているという(Wikipedia及び以下参考の:※:「零戦撃墜王―空戦八年の記録」のなかに書かれている読書感想文など参照)。
日本は1942(昭和17)年以降の戦局悪化で戦死者数が増加。従来、兵役法などの規定により大学・高等学校・専門学校(いずれも旧制)などの学生は26歳まで徴兵を猶予されていたが、東條内閣は1943(昭和18)年に兵力不足を補うため、在学徴集延期臨時特例(昭和18年勅令第755号)を公布・施行。高等教育機関に在籍する20歳以上の文科系学生を中心に在学途中で徴兵し出征(学徒出陣参照)させた。同年10月21日、全国を代表して明治神宮外苑競技場で文部省主催の「出陣学徒壮行会」が東條英機首相、岡部長景(東條内閣で文部大臣を勤め、学徒動員、勤労動員を実施)文相らの出席のもと実施された。文部省が壮行会を実施した目的は、学生たちを戦場に赴く決意を促し、意識を昂揚することにあった。そのため大観衆が集められ、女子学生や旧制高校生が動員されたという。2000(平成12)年8月14日、NHKスペシャル「 雨の神宮外苑〜学徒出陣・56年目の証言」では、当時のフィルムに記録された壮行会の様子を追いながら、戦争に直面した 若者たちの心の動きを生き残った人たちの証言および見送った女子学生の証言で描いているが、その証言の記録は以下参考に記載の※:「雨の神宮外苑「学徒出陣」56年目の証言」を見られると良い。この壮行会で送り出された出陣学徒25,000人のうち、3,000人以上が戦死したといわれているが、さらに、翌・1944(昭和19)年10月には徴兵適齢が20歳から19歳に引き下げられ、この大戦で、次々送り出された学徒兵の総数は13万人に及んだと推定されるようだ。その中の多くの学徒兵が戦没している。その中には敵と戦うというよりも、生きて帰って来れぬことを承知の上で、特攻隊員として、ただ機械の如く敵艦に体当たりすることを指名とされ、あたら短い命を散らしていったものも多い。このよう学徒動員を実施した東條は戦後に極東国際軍事裁判(東京裁判)で死刑判決を受け1948(昭和23)年に刑死したが、岡部は、戦後、戦犯容疑で逮捕されたが、のち東京国立近代美術館館長、国際文化振興会理事長などを務めた後、1970(昭和45)年に亡くなっているという(Wikipedia)。
戦争に駆り立てられたどちらかと言うと当時の日本においては知的エリート階級に属していた学徒兵達。そんな学徒兵達の意思を後世に伝えるため、1947(昭和22)年には東京大学の戦没学徒兵の手記をまとめた『はるかなる山河に』(東大学生自治会編)が刊行された。以下参考の※:「j-texts「はるかなる山河に」でその手記が読めるが涙なしには読めないだろう。
続いて1949(昭和24)年には、この手記を母体として東大出身者に限らず、BC級戦犯処刑者を含む日本全国の戦没学徒の手記、遺書、日記などを遺族から募ったものを精選した遺稿集として『きけ わだつみのこえ』 (副題「戦没学徒の手記」)が出版された。この本を読めば、あの暗い時代に、人間の尊厳を失わず懸命に生きた若者像が浮かび上がって来る。戦後、日本人が戦争を問い直す原点ともなったといえるだろう。以下参考の※:「愛国顕彰ホームページ:祖国日本」の中の軍事裁判>の中にBC級戦犯者とされ無実の罪で処刑された木村 久夫の遺書が記されている。学徒兵には予備学生として特攻戦死者が多い。特攻作戦は無謀残酷なものあったが、戦没者は当時のマスコミから神鷲として崇められたが、戦犯刑死者にはなんの栄誉もない。戦勝国の復讐心を満たしただけで、戦犯の汚名をそそぐすべもなく絞首台の露と消えた。この遺書を読むと、当時の為政者に戦争責任があるのは当然のこととして、それとは、別に、このような無謀な戦争に日本の軍部が突き進んでいったことには、当時のマスコミ、それに、日本の全国民にいくばくかの責任があることを知らされるだろう。
本の題名の由来は、学徒兵の遺稿を出版する際に、全国から書名を公募し、応募のあった中から京都府在住の歌人で学徒出陣兵であった藤谷多喜雄のものが採用された。藤谷氏のそもそもの応募作は「はてしなきわだつみ」であったが、応募用紙に以下の短歌は添えられていた。
なげけるか いかれるか はた もだせるか
きけ はてしなき わだつみのこえ
「わだつみ」は日本神話に登場する海の神である「ワタツミ」つまり、「わた(海)のかみ」を意味しており、この詩は同書の巻頭に記載されている。
この本は大きな反響を呼び、初版発売後版を重ねベストセラーとなっていった。その後もカッパ・ブックスや岩波文庫となって多くの読者を獲得し、2度にわたり映画化された。
この本の刊行収入を基金にして刊行元である東大消費生活協同組合を中心に、1950(昭和25)年4月22日、「日本戦没学生記念事業会」が設立された。当会はのちに「日本戦没学生記念会」(通称:わだつみ会第1次)に名称変更し、平和運動組織体へと発展し、現在に至るまで『きけ わだつみのこえ』の編集を主要な活動としている。
わだつみ会の最初の事業としては戦没学生を記念する「わだつみ像」を制作することであった。こ会の活動を全学連(1948年9月誕生)も支援した。この像の制作は、彫刻家本郷新に依頼され、同・1950(昭和25)年8月15日、日本敗戦の記念日に、反戦平和の像「戦歿学生記念像・わだつみのこえ」として完成した。しかし、この像は、東京大学構内に設置することになっていたようであるが、東大評議会が同年の12月4日「わだつみ像」の学内設置を拒否したという(朝日クロニクル「週刊20世紀」)。何故、東大評議会が「わだつみ像」の学内設置を拒否したかについて、詳しいことは分らないが、以下参考の※:「『立命館百年史』編集室だより(「わだつみ像」建立50年)」には以下のように記されていた。
“像は東京大学構内に設置することで、当時の東大総長南原繁の内諾が得られていた。その台座も工学部丹下健三助教授(当時)がデザインし、12月8 日の太平洋戦争開戦記念日を期しての除幕に向け、準備が進められていた。ところがその直前の4日になって、東大の最高議決機関である評議員会が開催され、そこで構内への建立が拒否された。拒否は明らかに政治的理由であった。GHQ(占領軍総司令部)の意向があったとも噂された。わだつみ会は直ちに「わだつみ像設立拒否反対集会」を開き、建立を求める署名活動なども行ったが、大学の拒否の姿勢は変わらなかった。東大当局のこの姿勢は、社会的にも影響し、敢えてこの像の設置をひきうける大学は現れなかった。像は、それから2年余、本郷新のアトリエでねむりつづけた。”・・・と。
反戦平和運動を標榜するわだつみ会が制作を依頼した反戦平和の像を作成中の6月に奇(く)しくも、朝鮮戦争が始まっている。
第二次世界大戦終結後、GHQは日本の「民主化・非軍事化」を推進していたことから、日本共産党も初めて合法的に活動を始めたが、その結果、労働運動が激化していた。しかし、1949(昭和24)年に中華人民共和国が成立して、朝鮮半島も不穏な情勢になると、GHQは今までとは逆に弾圧する方針に転じたことから、1950昭和25)年5月30日には日本共産党を支持するデモ隊と占領軍が東京の皇居前広場で衝突する事件(人民広場事件参照)が起り、6月に朝鮮戦争が勃発すると、戦後行われた公職追放指定者の処分解除とその逆のレッドパージが本格化した。いわゆる「逆コース」といわれるものである。そのような時世から考えて、ここに書かれているように、GHQあたりからの圧力など何らかの政治的理由があった故に、東大評議会が構内に設置することを拒否したものだろう。
わだつみ会が呼びかけた反戦平和運動は、当時の青年学生の心をとらえ、全国の大学・高校に急速にわだつみ会の支部がつくられてゆき、1951(昭和26)年春、立命館大学に「わだつみ会立命支部」が結成されると、同時期に結成された「反戦学生同盟立命支部」と共に、学友会をはじめとする学内諸団体に呼びかけ、太平洋戦争開戦10年目にあたるこの年、立命館学園関係戦没者の慰霊祭の開催を呼びかけ実行委員会により、太平洋戦争開戦日にあたる12月8日、「全立命戦没学生追悼慰霊祭」が行われ、「わだつみ像」を立命館大学に迎えることが提案され、満場一致の決議となり、2年後の1953(昭和28)年12月8日、像は広小路学舎校庭で除幕式を迎えた。この像が11月11日立命館へ到着し、立命館大生を中心とする歓迎デモ隊が市中を行進している日、立命館大において開催中の学園復興会議の集会に合流するためこれに合流しようとしていた京都大学の学生が荒神橋上にさしかかったとき、不法デモを理由として学生たちを阻止しにかかった機動隊と衝突し、多数が鴨川に転落・負傷するという事件(荒神橋事件)が発生。このことに対して京都市警に抗議デモをした学生たちと市警との間で「京都市警本部前事件」という学生運動史上に残る2つ事件が起こっている。
学園では翌1954(昭和29)年12月8日、像建立1周年を記念して、この像の前で「第1回不戦のつどい」を開催。それ以来、激動の大学紛争のさなかも含めて毎年、1度も休むことなく、全大学構成員参加の下に「つどい」が開催されてきたとう。この間、1969(昭和44)年5月20日に、「全共闘」を名乗る集団によって構内の「わだつみ像」が引き倒されて破壊されたが、新しく造り直され12月8日除幕、披露された。その後、暫くの間は、箱入り像として保護されていたようだ。(冒頭の画像左が新しく造り直されたわだつみ像右は、5月20日に破壊された像であろう。朝日クロニクル「週刊20世紀」より)
第1次わだつみ会の時代には学生層が中心となり、運動の政治化・先鋭化とそれをめぐる対立が激化したため、1958(昭和33)年の第9回大会をもっていったん解散した。
会は解散から間もない翌1959(昭和34)年6月には再結成され(第2次わだつみ会)、それまでの活動の反省を踏まえて反戦運動・政治運動からは距離を置いた。このため会の運営はやや年上の戦中派世代の知識人・著名文化人が中心となった。しかし今度は戦争経験を持たない若い世代との対立が激しくなり、1969(昭和44)年の立命館大学に設置の「わだつみ像」破壊事件などをきっかけに若い会員が大量に脱退。戦中派世代だけで再建された第3次わだつみ会では少年兵経験を持つ渡辺清が運営の中心になり、機関誌『わだつみのこえ』で「天皇制特集」を企画するなどして再び会員層を広げ、現在に至っているという(Wikipedia)。
先の戦争に対する考え方も時代、世代によって受け止め方は異なるであろうし、ベストセラーとなった同書に登場する学徒兵の戦争体験、戦死への旅立ちについての共感、反感、反省なども時代と共に評価は異なるであろう。
『きけ わだつみのこえ』は、戦争の被害者としての若い世代ということを強調しようということから、軍国主義的内容に共感を覚えたり、国家への絶対的な忠誠を誓う文章については、初版本において、編集側の方針で削除されていたよう(Wikipedia)であり、こうした文章の改編に対してすべてを客観的事実として掲載するべきであるとの批判もある。また、東大出版会の学術書刊行方針により重版が途絶えていた10年後に、再建わだつみ会(第2次わだつみ会)の最初の仕事として、光文社「カッパ・ブックス」より「新版」と銘打って発刊された(1959年10月)た後、岩波文庫からも「新版」が発刊されている。ところが、この岩波文庫の1995年版の「新版」が勝手に改変されたとして、遺族二人が同会と岩波書店を告訴をしている(以下参考の※:「日本ユニ著作権センター/裁判の記録1998下」参照)。私には、何がどのように違うのかよくわかないが、以下参考の※:「日本戦没学生の思想(PDF)」に詳しく書かれているのでそれを見られると良い。
(画像は、左:1969年5月20全共闘学生により引き倒し破壊された立命館大学構内の「わだつみ像」。右:翌年新しく作り直され12月8日序幕・披露された同像。朝日クロニクル「週刊20世紀」より)
このブログ字数制限上参考は別紙になっています以下をクリックするとこのページの下に表示されます。
クリック⇒東大評議会が「わだつみ像」の学内設置を拒否した日:参考
第2次世界大戦の後半、1941(昭和16)年12月 太平洋戦争の戦端が開かれると、前半は攻勢であったものの1943(昭和18)年5月に前年の6月より日本軍が占領していたアリューシャン列島のアッツ島に米軍が上陸。日本軍守備隊は全滅し(アッツ島の戦い)以降米軍の反撃が始まり、日本は、じりじりと敗戦に追い込まれるが、1945 (昭和20)年2月、硫黄島の戦いが始まった頃には、増援や救援の兵隊どころか、迎撃する戦闘機も、熟練した操縦士も、度重なる敗北で底を突いていた日本軍は、十分な反撃もできぬまま、本土の制空権さえも失っていく。日本軍は練習機さえ動員し、特攻による必死の反撃を行うが、この頃になると米軍は特攻への対策法を編み出していたようだ。この特攻隊員に指名された者の死亡者も多いが生還したという例も結構多いようだ(特に沖縄戦時の帰投例は全出撃の半数にも上るという)。機材故障、体調不良、天候不良、理由を付け出撃を回避、突入直前に撃墜され捕虜となる、出撃日を指定されるもその直前に終戦、等々理由は様々のようである。第二次世界大戦中に日本海軍航空隊の戦闘機パイロットで、戦後、その経験を綴った著書『大空のサムライ』が世界的ベストセラーともなった坂井三郎は、戦後、「当時の新聞等で、特攻で士気があがったと書かれているが大嘘。士気は低下しました。全員死んでこいと言われて士気があがりますか。間違いなく士気はさがったけれども、大本営と上の連中は上がったと称する。大嘘つきです。」と加藤寛一郎によるインタビュー(『零戦の秘術』講談社文庫P.304)に答えており、日本最大の撃墜王といわれた岩本徹三氏も、著書の中で特攻が知れ渡ると全軍の士気は目に見えて落ちたと述べているという(Wikipedia及び以下参考の:※:「零戦撃墜王―空戦八年の記録」のなかに書かれている読書感想文など参照)。
日本は1942(昭和17)年以降の戦局悪化で戦死者数が増加。従来、兵役法などの規定により大学・高等学校・専門学校(いずれも旧制)などの学生は26歳まで徴兵を猶予されていたが、東條内閣は1943(昭和18)年に兵力不足を補うため、在学徴集延期臨時特例(昭和18年勅令第755号)を公布・施行。高等教育機関に在籍する20歳以上の文科系学生を中心に在学途中で徴兵し出征(学徒出陣参照)させた。同年10月21日、全国を代表して明治神宮外苑競技場で文部省主催の「出陣学徒壮行会」が東條英機首相、岡部長景(東條内閣で文部大臣を勤め、学徒動員、勤労動員を実施)文相らの出席のもと実施された。文部省が壮行会を実施した目的は、学生たちを戦場に赴く決意を促し、意識を昂揚することにあった。そのため大観衆が集められ、女子学生や旧制高校生が動員されたという。2000(平成12)年8月14日、NHKスペシャル「 雨の神宮外苑〜学徒出陣・56年目の証言」では、当時のフィルムに記録された壮行会の様子を追いながら、戦争に直面した 若者たちの心の動きを生き残った人たちの証言および見送った女子学生の証言で描いているが、その証言の記録は以下参考に記載の※:「雨の神宮外苑「学徒出陣」56年目の証言」を見られると良い。この壮行会で送り出された出陣学徒25,000人のうち、3,000人以上が戦死したといわれているが、さらに、翌・1944(昭和19)年10月には徴兵適齢が20歳から19歳に引き下げられ、この大戦で、次々送り出された学徒兵の総数は13万人に及んだと推定されるようだ。その中の多くの学徒兵が戦没している。その中には敵と戦うというよりも、生きて帰って来れぬことを承知の上で、特攻隊員として、ただ機械の如く敵艦に体当たりすることを指名とされ、あたら短い命を散らしていったものも多い。このよう学徒動員を実施した東條は戦後に極東国際軍事裁判(東京裁判)で死刑判決を受け1948(昭和23)年に刑死したが、岡部は、戦後、戦犯容疑で逮捕されたが、のち東京国立近代美術館館長、国際文化振興会理事長などを務めた後、1970(昭和45)年に亡くなっているという(Wikipedia)。
戦争に駆り立てられたどちらかと言うと当時の日本においては知的エリート階級に属していた学徒兵達。そんな学徒兵達の意思を後世に伝えるため、1947(昭和22)年には東京大学の戦没学徒兵の手記をまとめた『はるかなる山河に』(東大学生自治会編)が刊行された。以下参考の※:「j-texts「はるかなる山河に」でその手記が読めるが涙なしには読めないだろう。
続いて1949(昭和24)年には、この手記を母体として東大出身者に限らず、BC級戦犯処刑者を含む日本全国の戦没学徒の手記、遺書、日記などを遺族から募ったものを精選した遺稿集として『きけ わだつみのこえ』 (副題「戦没学徒の手記」)が出版された。この本を読めば、あの暗い時代に、人間の尊厳を失わず懸命に生きた若者像が浮かび上がって来る。戦後、日本人が戦争を問い直す原点ともなったといえるだろう。以下参考の※:「愛国顕彰ホームページ:祖国日本」の中の軍事裁判>の中にBC級戦犯者とされ無実の罪で処刑された木村 久夫の遺書が記されている。学徒兵には予備学生として特攻戦死者が多い。特攻作戦は無謀残酷なものあったが、戦没者は当時のマスコミから神鷲として崇められたが、戦犯刑死者にはなんの栄誉もない。戦勝国の復讐心を満たしただけで、戦犯の汚名をそそぐすべもなく絞首台の露と消えた。この遺書を読むと、当時の為政者に戦争責任があるのは当然のこととして、それとは、別に、このような無謀な戦争に日本の軍部が突き進んでいったことには、当時のマスコミ、それに、日本の全国民にいくばくかの責任があることを知らされるだろう。
本の題名の由来は、学徒兵の遺稿を出版する際に、全国から書名を公募し、応募のあった中から京都府在住の歌人で学徒出陣兵であった藤谷多喜雄のものが採用された。藤谷氏のそもそもの応募作は「はてしなきわだつみ」であったが、応募用紙に以下の短歌は添えられていた。
なげけるか いかれるか はた もだせるか
きけ はてしなき わだつみのこえ
「わだつみ」は日本神話に登場する海の神である「ワタツミ」つまり、「わた(海)のかみ」を意味しており、この詩は同書の巻頭に記載されている。
この本は大きな反響を呼び、初版発売後版を重ねベストセラーとなっていった。その後もカッパ・ブックスや岩波文庫となって多くの読者を獲得し、2度にわたり映画化された。
この本の刊行収入を基金にして刊行元である東大消費生活協同組合を中心に、1950(昭和25)年4月22日、「日本戦没学生記念事業会」が設立された。当会はのちに「日本戦没学生記念会」(通称:わだつみ会第1次)に名称変更し、平和運動組織体へと発展し、現在に至るまで『きけ わだつみのこえ』の編集を主要な活動としている。
わだつみ会の最初の事業としては戦没学生を記念する「わだつみ像」を制作することであった。こ会の活動を全学連(1948年9月誕生)も支援した。この像の制作は、彫刻家本郷新に依頼され、同・1950(昭和25)年8月15日、日本敗戦の記念日に、反戦平和の像「戦歿学生記念像・わだつみのこえ」として完成した。しかし、この像は、東京大学構内に設置することになっていたようであるが、東大評議会が同年の12月4日「わだつみ像」の学内設置を拒否したという(朝日クロニクル「週刊20世紀」)。何故、東大評議会が「わだつみ像」の学内設置を拒否したかについて、詳しいことは分らないが、以下参考の※:「『立命館百年史』編集室だより(「わだつみ像」建立50年)」には以下のように記されていた。
“像は東京大学構内に設置することで、当時の東大総長南原繁の内諾が得られていた。その台座も工学部丹下健三助教授(当時)がデザインし、12月8 日の太平洋戦争開戦記念日を期しての除幕に向け、準備が進められていた。ところがその直前の4日になって、東大の最高議決機関である評議員会が開催され、そこで構内への建立が拒否された。拒否は明らかに政治的理由であった。GHQ(占領軍総司令部)の意向があったとも噂された。わだつみ会は直ちに「わだつみ像設立拒否反対集会」を開き、建立を求める署名活動なども行ったが、大学の拒否の姿勢は変わらなかった。東大当局のこの姿勢は、社会的にも影響し、敢えてこの像の設置をひきうける大学は現れなかった。像は、それから2年余、本郷新のアトリエでねむりつづけた。”・・・と。
反戦平和運動を標榜するわだつみ会が制作を依頼した反戦平和の像を作成中の6月に奇(く)しくも、朝鮮戦争が始まっている。
第二次世界大戦終結後、GHQは日本の「民主化・非軍事化」を推進していたことから、日本共産党も初めて合法的に活動を始めたが、その結果、労働運動が激化していた。しかし、1949(昭和24)年に中華人民共和国が成立して、朝鮮半島も不穏な情勢になると、GHQは今までとは逆に弾圧する方針に転じたことから、1950昭和25)年5月30日には日本共産党を支持するデモ隊と占領軍が東京の皇居前広場で衝突する事件(人民広場事件参照)が起り、6月に朝鮮戦争が勃発すると、戦後行われた公職追放指定者の処分解除とその逆のレッドパージが本格化した。いわゆる「逆コース」といわれるものである。そのような時世から考えて、ここに書かれているように、GHQあたりからの圧力など何らかの政治的理由があった故に、東大評議会が構内に設置することを拒否したものだろう。
わだつみ会が呼びかけた反戦平和運動は、当時の青年学生の心をとらえ、全国の大学・高校に急速にわだつみ会の支部がつくられてゆき、1951(昭和26)年春、立命館大学に「わだつみ会立命支部」が結成されると、同時期に結成された「反戦学生同盟立命支部」と共に、学友会をはじめとする学内諸団体に呼びかけ、太平洋戦争開戦10年目にあたるこの年、立命館学園関係戦没者の慰霊祭の開催を呼びかけ実行委員会により、太平洋戦争開戦日にあたる12月8日、「全立命戦没学生追悼慰霊祭」が行われ、「わだつみ像」を立命館大学に迎えることが提案され、満場一致の決議となり、2年後の1953(昭和28)年12月8日、像は広小路学舎校庭で除幕式を迎えた。この像が11月11日立命館へ到着し、立命館大生を中心とする歓迎デモ隊が市中を行進している日、立命館大において開催中の学園復興会議の集会に合流するためこれに合流しようとしていた京都大学の学生が荒神橋上にさしかかったとき、不法デモを理由として学生たちを阻止しにかかった機動隊と衝突し、多数が鴨川に転落・負傷するという事件(荒神橋事件)が発生。このことに対して京都市警に抗議デモをした学生たちと市警との間で「京都市警本部前事件」という学生運動史上に残る2つ事件が起こっている。
学園では翌1954(昭和29)年12月8日、像建立1周年を記念して、この像の前で「第1回不戦のつどい」を開催。それ以来、激動の大学紛争のさなかも含めて毎年、1度も休むことなく、全大学構成員参加の下に「つどい」が開催されてきたとう。この間、1969(昭和44)年5月20日に、「全共闘」を名乗る集団によって構内の「わだつみ像」が引き倒されて破壊されたが、新しく造り直され12月8日除幕、披露された。その後、暫くの間は、箱入り像として保護されていたようだ。(冒頭の画像左が新しく造り直されたわだつみ像右は、5月20日に破壊された像であろう。朝日クロニクル「週刊20世紀」より)
第1次わだつみ会の時代には学生層が中心となり、運動の政治化・先鋭化とそれをめぐる対立が激化したため、1958(昭和33)年の第9回大会をもっていったん解散した。
会は解散から間もない翌1959(昭和34)年6月には再結成され(第2次わだつみ会)、それまでの活動の反省を踏まえて反戦運動・政治運動からは距離を置いた。このため会の運営はやや年上の戦中派世代の知識人・著名文化人が中心となった。しかし今度は戦争経験を持たない若い世代との対立が激しくなり、1969(昭和44)年の立命館大学に設置の「わだつみ像」破壊事件などをきっかけに若い会員が大量に脱退。戦中派世代だけで再建された第3次わだつみ会では少年兵経験を持つ渡辺清が運営の中心になり、機関誌『わだつみのこえ』で「天皇制特集」を企画するなどして再び会員層を広げ、現在に至っているという(Wikipedia)。
先の戦争に対する考え方も時代、世代によって受け止め方は異なるであろうし、ベストセラーとなった同書に登場する学徒兵の戦争体験、戦死への旅立ちについての共感、反感、反省なども時代と共に評価は異なるであろう。
『きけ わだつみのこえ』は、戦争の被害者としての若い世代ということを強調しようということから、軍国主義的内容に共感を覚えたり、国家への絶対的な忠誠を誓う文章については、初版本において、編集側の方針で削除されていたよう(Wikipedia)であり、こうした文章の改編に対してすべてを客観的事実として掲載するべきであるとの批判もある。また、東大出版会の学術書刊行方針により重版が途絶えていた10年後に、再建わだつみ会(第2次わだつみ会)の最初の仕事として、光文社「カッパ・ブックス」より「新版」と銘打って発刊された(1959年10月)た後、岩波文庫からも「新版」が発刊されている。ところが、この岩波文庫の1995年版の「新版」が勝手に改変されたとして、遺族二人が同会と岩波書店を告訴をしている(以下参考の※:「日本ユニ著作権センター/裁判の記録1998下」参照)。私には、何がどのように違うのかよくわかないが、以下参考の※:「日本戦没学生の思想(PDF)」に詳しく書かれているのでそれを見られると良い。
(画像は、左:1969年5月20全共闘学生により引き倒し破壊された立命館大学構内の「わだつみ像」。右:翌年新しく作り直され12月8日序幕・披露された同像。朝日クロニクル「週刊20世紀」より)
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クリック⇒東大評議会が「わだつみ像」の学内設置を拒否した日:参考
像建立反対が政治的な色彩を帯びた銅像であることのほか、女子学生も通う大学構内に男性のヌードの銅像を立てることが出来ないとの理由がはいっているとか・・・。
いろんな人にいろんな考え方があり、ヌードがダメとというならそれはそれでその人達の考え方でしょうが、そうであれば東大では美術などの教育などはしていないのでしょうね~(^0^)。