今日(1月23日)は「真白き富士の嶺の日」
1910(明治43)年1月23日、神奈川県の逗子開成中学のボート部の生徒等12人の乗ったボートが遭難。七里ヶ浜で全員溺死。遺体操作には5日もかかったという。この事件は社会的事件として新聞で大々的に扱われた。2月6日同行校庭で大追弔会が開かれ12人の霊を弔った。式後、この悲報に接した姉妹校・鎌倉高女の三角教諭が作詞した「真白き富士の根 緑の江ノ島」を三角自身がオルガンを弾き、鎌倉高女生が合唱した。
「真白き富士の根」
真白き富士の根 緑の江の島
仰ぎ見るも 今は涙
帰らぬ十二の 雄々しきみたまに
捧げまつる 胸と心
ボートは沈みぬ 千尋(ちひろ)の海原(うなばら)
風も浪も 小(ち)さき腕に
力もつきはて 呼ぶ名は父母
恨は深し 七里が浜辺
この歌は、6番まで続くが、このボート転覆事故の死者を弔うために作られた歌であるため、別名「七里ヶ浜の哀歌」といわれるが、当時は単に「哀歌」という題名だったそうだ。
作詩は、オルガン伴奏をする同校の教諭、三角壽々(みすみすず)。後に、常盤松女学校(現・トキワ松学園)を創立した女性運動家の三角錫子(すずこ)のことである。
当時逗子に住んでいてこの悲報に接した三角は一夜で作詩。メロディは1890(明治23)年の「明治唱歌 五」 に大和田建樹によって「夢の外(ほか)」として訳出されていたもので、当時女学校では非常に人気のあったアメリカ人作曲の讃美歌の曲に合わせ、鎌倉女学校の生徒が合唱したものである。と言うよりも、「夢の外(ほか)」として訳出ていたものの詩をアレンジして作ったものらしい。この、「夢の外(ほか)」の原曲は、イギリスの舞踏曲のひとつであり、アメリカの作曲家であるジェレミー・インガルス(Jeremiah Ingalls)が1805年に賛美歌集「クリスチャン・ハーモニー」の中に 「GARDEN(讃美歌)」の曲名として採集して紹介していたものだった。
「真白き富士の根」は、大正期に入って、当時の「演歌(バイオリン演歌)」の世界でも好んで歌われ、メロディも短調に移されるなどの変化が加えられた。題名も元はただの「哀歌」であったものが、その後「哀悼の歌」「七里ヶ浜の仇浪」「真白き富士の嶺」などさまざまな題名がつけられた。
又、歌詞詩の「真白き富士の根」はよく「富士の嶺」と書かれるが「富士の根」が原作だそうで、元の賛美歌の作曲者がガーデンとするものは歌のタイトルと混同した誤りである。
遭難した中学生といっても、当時、義務教育は4年制の尋常小学校までであり、一般の子供達は通常、ここで学業を終え働きに出た。その後、裕福な家庭の子だけが、さらに4年の高等小学校に上がり、6年生の中学に進むわけだから、中学生はエリートである。そしてこのとき亡くなったのは中学5年生くらいと言うから19歳くらいになる。そして、死亡した12人のうち4人は徳田家の兄弟で、この中の1人は兄に連れられて乗った小学生(高等小学2年生10歳)だった。エリートとよばれた最愛の息子たち4人を失った父の徳田省三は、実業家として著名人だったそうだ。彼等の遺体が発見されたとき、兄は前から弟を抱きしめ、弟は兄の首にしがみついた姿で収容され、2人を引き離すのに苦労したという。前途有望な少年達の死は世間を大いに騒がせた事件であったが、彼等の遺体が発見されるに及んで深い感銘を人々に与え、稲村ヶ崎の遭難碑の上には、徳田兄弟が抱き合うブロンズ像が立ち、肉親愛の感動を今に伝えている。そして、その台座にはこの「七里ヶ浜の哀歌」の詩が刻まれている。逗子開成のOBには、徳間康快氏(徳間書店、大映社長、逗子開成学園理事長)や、谷啓さん(元クレージーキャッツ、「ガチョーン」で有名)、吉村明宏さんがいるそうだ。
逗子開成中学のボート遭難事件とそれにまつわる映画は、1935(昭和10)年、松竹が「真白き富士の根」 の名で映画化。戦後の1954(昭和29)年には大映が「真白き富士の嶺」として映画化をしており、ここでも、”根”と”嶺”の違いがある。どちらが正しいのかは知らないが、今のところは、”根”に統一されているようだ。
この歌は私も学生時代歌った記憶があるが、物悲しい歌だがしんみりといい歌だよね。以下にMIDIがあるので歌ってみる・・・?
七里ケ浜の哀歌」
(画像は、2月6日逗子開成中学校庭での大弔会の模様。毎日新聞。朝日クロニカル・週刊20世紀より)
参考:
真白き富士の根ーd-score
http://www.d-score.com/ar/A02112001.html
ああ我が心の童謡~ぶらり歌碑巡り第25回『七里ヶ浜の哀歌』
http://www.maboroshi-ch.com/old/edu/ext_34.htm
童(どう).謡(よう).のなぞ 12(フナハシ学習塾)
http://homepage3.nifty.com/funahashi/sonota/hoka18.html
演歌師による七里ヶ浜の仇浪(七里ヶ浜の哀歌)(真白き富士の根)
http://blogs.yahoo.co.jp/teds3d/5402558.html
真白き富士の嶺(1954)ーgoo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD24099/comment.html
1910(明治43)年1月23日、神奈川県の逗子開成中学のボート部の生徒等12人の乗ったボートが遭難。七里ヶ浜で全員溺死。遺体操作には5日もかかったという。この事件は社会的事件として新聞で大々的に扱われた。2月6日同行校庭で大追弔会が開かれ12人の霊を弔った。式後、この悲報に接した姉妹校・鎌倉高女の三角教諭が作詞した「真白き富士の根 緑の江ノ島」を三角自身がオルガンを弾き、鎌倉高女生が合唱した。
「真白き富士の根」
真白き富士の根 緑の江の島
仰ぎ見るも 今は涙
帰らぬ十二の 雄々しきみたまに
捧げまつる 胸と心
ボートは沈みぬ 千尋(ちひろ)の海原(うなばら)
風も浪も 小(ち)さき腕に
力もつきはて 呼ぶ名は父母
恨は深し 七里が浜辺
この歌は、6番まで続くが、このボート転覆事故の死者を弔うために作られた歌であるため、別名「七里ヶ浜の哀歌」といわれるが、当時は単に「哀歌」という題名だったそうだ。
作詩は、オルガン伴奏をする同校の教諭、三角壽々(みすみすず)。後に、常盤松女学校(現・トキワ松学園)を創立した女性運動家の三角錫子(すずこ)のことである。
当時逗子に住んでいてこの悲報に接した三角は一夜で作詩。メロディは1890(明治23)年の「明治唱歌 五」 に大和田建樹によって「夢の外(ほか)」として訳出されていたもので、当時女学校では非常に人気のあったアメリカ人作曲の讃美歌の曲に合わせ、鎌倉女学校の生徒が合唱したものである。と言うよりも、「夢の外(ほか)」として訳出ていたものの詩をアレンジして作ったものらしい。この、「夢の外(ほか)」の原曲は、イギリスの舞踏曲のひとつであり、アメリカの作曲家であるジェレミー・インガルス(Jeremiah Ingalls)が1805年に賛美歌集「クリスチャン・ハーモニー」の中に 「GARDEN(讃美歌)」の曲名として採集して紹介していたものだった。
「真白き富士の根」は、大正期に入って、当時の「演歌(バイオリン演歌)」の世界でも好んで歌われ、メロディも短調に移されるなどの変化が加えられた。題名も元はただの「哀歌」であったものが、その後「哀悼の歌」「七里ヶ浜の仇浪」「真白き富士の嶺」などさまざまな題名がつけられた。
又、歌詞詩の「真白き富士の根」はよく「富士の嶺」と書かれるが「富士の根」が原作だそうで、元の賛美歌の作曲者がガーデンとするものは歌のタイトルと混同した誤りである。
遭難した中学生といっても、当時、義務教育は4年制の尋常小学校までであり、一般の子供達は通常、ここで学業を終え働きに出た。その後、裕福な家庭の子だけが、さらに4年の高等小学校に上がり、6年生の中学に進むわけだから、中学生はエリートである。そしてこのとき亡くなったのは中学5年生くらいと言うから19歳くらいになる。そして、死亡した12人のうち4人は徳田家の兄弟で、この中の1人は兄に連れられて乗った小学生(高等小学2年生10歳)だった。エリートとよばれた最愛の息子たち4人を失った父の徳田省三は、実業家として著名人だったそうだ。彼等の遺体が発見されたとき、兄は前から弟を抱きしめ、弟は兄の首にしがみついた姿で収容され、2人を引き離すのに苦労したという。前途有望な少年達の死は世間を大いに騒がせた事件であったが、彼等の遺体が発見されるに及んで深い感銘を人々に与え、稲村ヶ崎の遭難碑の上には、徳田兄弟が抱き合うブロンズ像が立ち、肉親愛の感動を今に伝えている。そして、その台座にはこの「七里ヶ浜の哀歌」の詩が刻まれている。逗子開成のOBには、徳間康快氏(徳間書店、大映社長、逗子開成学園理事長)や、谷啓さん(元クレージーキャッツ、「ガチョーン」で有名)、吉村明宏さんがいるそうだ。
逗子開成中学のボート遭難事件とそれにまつわる映画は、1935(昭和10)年、松竹が「真白き富士の根」 の名で映画化。戦後の1954(昭和29)年には大映が「真白き富士の嶺」として映画化をしており、ここでも、”根”と”嶺”の違いがある。どちらが正しいのかは知らないが、今のところは、”根”に統一されているようだ。
この歌は私も学生時代歌った記憶があるが、物悲しい歌だがしんみりといい歌だよね。以下にMIDIがあるので歌ってみる・・・?
七里ケ浜の哀歌」
(画像は、2月6日逗子開成中学校庭での大弔会の模様。毎日新聞。朝日クロニカル・週刊20世紀より)
参考:
真白き富士の根ーd-score
http://www.d-score.com/ar/A02112001.html
ああ我が心の童謡~ぶらり歌碑巡り第25回『七里ヶ浜の哀歌』
http://www.maboroshi-ch.com/old/edu/ext_34.htm
童(どう).謡(よう).のなぞ 12(フナハシ学習塾)
http://homepage3.nifty.com/funahashi/sonota/hoka18.html
演歌師による七里ヶ浜の仇浪(七里ヶ浜の哀歌)(真白き富士の根)
http://blogs.yahoo.co.jp/teds3d/5402558.html
真白き富士の嶺(1954)ーgoo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD24099/comment.html
神長瞭月発行のバイオリン楽譜(大正12年、発行者神長源ニ郎、定価金五十銭)にも七里ヶ浜の仇浪として記載されています。でも一部の歌詞は今とは異なります。
♪真白き~ぃ、富士~ぃの嶺ぇ、緑の~ぉ江ノ~島♪
数少ない僕のカラオケのレパートリーです。子供の頃、親父に教えてもらったのですが、今のカラオケの歌詞とは少し違っています。
僕がカラオケ(あまり好きじゃありません)で歌うのは七里ガ浜哀歌、旧制高校の寮歌ぐらいです。今の歌は知りませんのでみんなをしらけさせてしまいます。
真白き富士の嶺の原曲が賛美歌だったのですか? 初めて知りました(^_^.)
(^0^)
「真白き富士の嶺の日」いい歌ですね。
若いころよく歌いましたよ。
韓国の客船事故、
いち早く逃げ出した、船長はちょおとひどいですね。
しかし、船会社その他観光の今の状況がすべて金金金の世の中になっていて、現代の国のあり方そのものに思お題があるように感じられますね。
日本も気をつけなくてはいけないですね。
だんだんと日本も似た状況になってきているように思われます。