左遷の日
2005-01-25 | 歴史
今日(1月25日)は、右大臣・菅原道真(すがわらのみちざね)が醍醐天皇によって九州の大宰府に左遷された日。
菅原道真(845年-903年)は、代々学者の家系に生まれ、18歳で文章(もんじょう)生。33歳で文章博士となる。宇多天皇の信任が厚く、藤原氏を抑えるために重用された。42歳の時讃岐の国司に赴任。4年後に帰国すると宇多天皇の下、昇進を重ねた。894年、50歳の時、遣唐大使に任ぜられるが、道真の提言により、遣唐使は廃止になった。899年左大臣藤原時平(ふじわらのときひら)と並んで右大臣に任ぜられた。学者出身の人物としては異例の出世であり、これに反発した左大臣・藤原時平らは、道真が醍醐天皇の廃立を画策していると上奏、901(延喜元)年1月20日、菅原道真を太宰権帥(だざいごんのそち)に左遷、筑紫国に流罪することとなった。
道真は、梅の花を好み、邸内にはたくさんの梅を植えていたので、邸宅は「紅梅殿」とも呼ばれていた。都落ちの時を迎えて、道真は紅梅との別れを惜しんで「東風吹かば匂ひ送来せよ梅の花 主無しとて春な忘れそ」と詠み、この日都を旅立った。その梅は菅原邸から太宰府の庭まで飛んで行きそこに根づいたという「太宰府の飛梅」伝説がある。道真は失意のまま、2年後の903(延喜3)年2月25日に配所先で亡くなった。
道真の死後、都では落雷などの天災、また、藤原時平一族の早世が相次いだため、人々は、これを「道真の怨霊のしわざだと…」と噂するようになり、その霊を慰めるため、その罪を取り消して太政大臣の位を贈るとともに、京都・北野に道真を祭神とする天満宮(947年)が建てられ、「北野天神」として祀った。天神とは、もともと、地神(くにつかみ)のたいする天神(あまつかみ)の総称で、道真以前にも北野には天神が祀られ(「続日本後紀」)、藤原基経は毎年北野の雷公に年穀(ねんこく)豊穣を祈っており(「西宮記(さいぐうき)」)、天神信仰とは農耕祈雨と深く結びついた雷神信仰であった。道真が大宰府で没後、先に述べた落雷などによる災害、藤原時平一族の早死などから当時流行していた、非業の死を遂げた死者の怨霊を神に祀り上げて鎮めようとする御霊信仰や雷神信仰と結合して、道真の霊を祭神とする天神信仰が京都・大宰府を中心におこり、以後、全国的に天神信仰がひろがった。
京都・北野天満宮所蔵の「北野天神縁起絵巻 」には、雷神が清涼殿の藤原時平を襲う様子が描かれている。不気味なまでの黒雲が朱塗りの柱を覆い、赤身の裸身に褌(たふさぎ)をはき、背に連太鼓を負った異様な形相の雷神が雷を落としている。逃げまどう殿上人や公卿たち。一方、気丈な時平は、凛々しく太刀を振りかざし「われ1人相手いたさん」と虚空をにらんでいる。
菅原道真が生まれたのが6月25日、太宰府に左遷されたのが1月25日、亡くなったのが2月25日であったことから、毎月25日が天神の縁日となった。この中、1月25日は、1年の最初なのでお初天神と呼ばれてれる。
編著には『日本三代実録』『類聚国史』『新撰万葉集』漢詩文集に『菅家文草』『菅家後集』などがある。
(画像は、道真の怨霊、火雷神となって御所の清涼殿を襲う。「北野天神縁起絵巻」の部分。北野天満宮蔵。週間朝日百貨・日本歴史掲載分より)
参考:
菅原道真リンク(人物)
http://www1.linkclub.or.jp/~yukos/dazaifu/person/linkmich.htm
大宰府天満宮
http://www.dazaifutenmangu.or.jp/
北野天満宮
http://www.kitanotenmangu.or.jp/
菅原道真公収録データリスト
http://www2u.biglobe.ne.jp/~gln/77/7722/772201.htm
文化デジタルライブラリー「菅原伝授手習鑑」
・菅原伝授手習鑑コース・天神信仰コース・菅原道真コース
http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/exp2/w/000.html
菅原道真(845年-903年)は、代々学者の家系に生まれ、18歳で文章(もんじょう)生。33歳で文章博士となる。宇多天皇の信任が厚く、藤原氏を抑えるために重用された。42歳の時讃岐の国司に赴任。4年後に帰国すると宇多天皇の下、昇進を重ねた。894年、50歳の時、遣唐大使に任ぜられるが、道真の提言により、遣唐使は廃止になった。899年左大臣藤原時平(ふじわらのときひら)と並んで右大臣に任ぜられた。学者出身の人物としては異例の出世であり、これに反発した左大臣・藤原時平らは、道真が醍醐天皇の廃立を画策していると上奏、901(延喜元)年1月20日、菅原道真を太宰権帥(だざいごんのそち)に左遷、筑紫国に流罪することとなった。
道真は、梅の花を好み、邸内にはたくさんの梅を植えていたので、邸宅は「紅梅殿」とも呼ばれていた。都落ちの時を迎えて、道真は紅梅との別れを惜しんで「東風吹かば匂ひ送来せよ梅の花 主無しとて春な忘れそ」と詠み、この日都を旅立った。その梅は菅原邸から太宰府の庭まで飛んで行きそこに根づいたという「太宰府の飛梅」伝説がある。道真は失意のまま、2年後の903(延喜3)年2月25日に配所先で亡くなった。
道真の死後、都では落雷などの天災、また、藤原時平一族の早世が相次いだため、人々は、これを「道真の怨霊のしわざだと…」と噂するようになり、その霊を慰めるため、その罪を取り消して太政大臣の位を贈るとともに、京都・北野に道真を祭神とする天満宮(947年)が建てられ、「北野天神」として祀った。天神とは、もともと、地神(くにつかみ)のたいする天神(あまつかみ)の総称で、道真以前にも北野には天神が祀られ(「続日本後紀」)、藤原基経は毎年北野の雷公に年穀(ねんこく)豊穣を祈っており(「西宮記(さいぐうき)」)、天神信仰とは農耕祈雨と深く結びついた雷神信仰であった。道真が大宰府で没後、先に述べた落雷などによる災害、藤原時平一族の早死などから当時流行していた、非業の死を遂げた死者の怨霊を神に祀り上げて鎮めようとする御霊信仰や雷神信仰と結合して、道真の霊を祭神とする天神信仰が京都・大宰府を中心におこり、以後、全国的に天神信仰がひろがった。
京都・北野天満宮所蔵の「北野天神縁起絵巻 」には、雷神が清涼殿の藤原時平を襲う様子が描かれている。不気味なまでの黒雲が朱塗りの柱を覆い、赤身の裸身に褌(たふさぎ)をはき、背に連太鼓を負った異様な形相の雷神が雷を落としている。逃げまどう殿上人や公卿たち。一方、気丈な時平は、凛々しく太刀を振りかざし「われ1人相手いたさん」と虚空をにらんでいる。
菅原道真が生まれたのが6月25日、太宰府に左遷されたのが1月25日、亡くなったのが2月25日であったことから、毎月25日が天神の縁日となった。この中、1月25日は、1年の最初なのでお初天神と呼ばれてれる。
編著には『日本三代実録』『類聚国史』『新撰万葉集』漢詩文集に『菅家文草』『菅家後集』などがある。
(画像は、道真の怨霊、火雷神となって御所の清涼殿を襲う。「北野天神縁起絵巻」の部分。北野天満宮蔵。週間朝日百貨・日本歴史掲載分より)
参考:
菅原道真リンク(人物)
http://www1.linkclub.or.jp/~yukos/dazaifu/person/linkmich.htm
大宰府天満宮
http://www.dazaifutenmangu.or.jp/
北野天満宮
http://www.kitanotenmangu.or.jp/
菅原道真公収録データリスト
http://www2u.biglobe.ne.jp/~gln/77/7722/772201.htm
文化デジタルライブラリー「菅原伝授手習鑑」
・菅原伝授手習鑑コース・天神信仰コース・菅原道真コース
http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/exp2/w/000.html
土師氏出身だからか、土師ノ里と言う所に天神さんがあります。菅公のおばさんか誰かが住んでらっしゃったそうですよ。今日は鷽替え祭りが行われます。お参りをして鷽鳥を入れた袋を貰います。そして太鼓の合図で次から次へと「替えましょう、替えましょう」と言いながら周囲の人と袋を交換して行きます。殆どが木彫りの鷽なんですが、中に金の鷽もあるそうです。終了の太鼓がなったときに手にあるものが自分の鷽になります。お守りですね。2回ほど行きましたが未だ金の鷽をお目にかかったことはありません。
僕の子供の頃から母が月1回お参りをしてきました。母が動けなくなってからは僕が代わりにお参りをしていました。亡くなった今でも、何かしらお参りをしないと気持ちが悪いので月1回は必ずお参りをします。だいたい、無心論者だったはずなんですが。
優しいご主人の声が聞こえてまいるようでございますわね(微笑)