今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

「世界のこどもの日(Universal Children's Day)」

2005-11-20 | 記念日
今日(11月20日)は、「世界のこどもの日(Universal Children's Day)」
1954(昭和29)年の国連総会で制定。国際デーの一つ。各政府が適当と考える日を「世界こどもの日」に選んで記念するよう提案されている。「児童の権利に関する条約」は、1959年に採択された「児童の権利に関する宣言」(総会決議1386(XIV))の30周年に合わせ、1989年11月20日に国連総会で採択された国際条約。我が国は、1990年9月21日にこの条約に署名し、1994年4月22日に批准を行っている。(同年5月22日に我が国について効力発生)。
条文は、前文と本文54ヶ条からなり、児童(18歳未満)の権利を包括的に定めており、簡単に言えば、生存、保護、発達、参加という4つの権利を子どもに保障している。
1. 生きる権利 ・・・防げる病気などで命を奪われないこと。病気やけがをしたら治療を受けられることなど
2. 育つ権利 ・・・ 教育を受け、休んだり遊んだりできること。考えや信じることの自由が守られ、自分らしく育つことができることなど。
3. 守られる権利・・・あらゆる種類の虐待や搾取などから守られること。障害のある子どもや少数民族の子どもなどは特別に守られることなど。
4. 参加する権利・・・ 自由に意見を表したり、集まってグループを作ったり自由な活動を行ったりできることなど。
私も、5月5日のこどもの日は知っているが、この記念日のことについては良く知らなかったので、今回いろいろ調べていて、恥ずかしいな~と思ったことがある。それは、以下参考HP「ユニセフが訴えていること」の「子ども買春・子どもポルノ」を見て、そのなかにいまも、東南アジアを中心に、世界各地で多くの日本人が子どもを買春しているというのだ。そして、ユニセフから、「児童買春等禁止法改正に関する要望書」が政府に提出されているという。恥ずかしいことだ。早急に何とかして欲しいものだ。又、国内でも、少女への猥褻行為の強要や小さな子供を虐待する親のことなどが新聞やTVで報道されるのを見ていつも心を痛めている。
しかし、それと、同時に、この頃では、少年犯罪の若年化や凶悪化も問題となっている。これらの少年犯罪には、児童が犯罪を犯すだけの、社会的な背景や家庭内の問題など、それなりの原因が多くあるのだろうとは思うが、一方で、悪質な犯罪を犯す児童には、児童としての義務や責任といったものはないのだろうかといった疑問も感じられないことはない。
「最近の少年犯罪が凶悪化したか否か」という点に関しては、少年が凶悪犯で捕まる率が、ここ10年で3倍になったという事実があるとのこと。少年非行の概要について警察庁は「補導少年の増加、凶悪化は戦後の少年犯罪至史上で第4の上昇期を迎えた」と分析しているという。
このことについては、以下参考の「戦後の「少年犯罪多発期の特徴」で考察されているので、以下に要点を抜粋してみた。
「第一次少年犯罪多発期」─「貧しさ」ゆえの少年犯罪多発期
それは、1951(昭和26)年で、あの悲惨な戦争で日本は敗戦(1945年)し、都市は焼け野原と化した。そして都市部を中心とする子供たちは彼らを育てはぐくむ家庭や親を失い、飢え、また、大人たちも、敗戦の混乱の中で自らが生きることすら困難であり、そのような子どもたちに手を差し伸べることもできなかったことが起因している。
第二次少年犯罪多発期」──「寂しさ」ゆえの少年犯罪多発期
 戦後二度目の犯罪多発期の宣言が出されたのは、あの東京オリンピックの年、1964(昭和39)年であった。経済成長と共に、日本各地から多くの若者が労働者として京阪神などの工業地帯に、集められた。そして、日本の都市部各地に団地が造られ、彼等には、この団地での生活が文化的な理想の生活・・との夢となったが、夫一人の収入ではかなわず、「共稼ぎ」をする夫婦が増えた。そのような状況の中で「鍵っ子」が生まれ、この子たちは、夕方親のいない家に帰り、当時、一般の家庭ではテレビもない状況下で、ただただ寂しく親の帰りを待っていた。日本の「核家族化」の第一歩であり、子どもたちに人生を語る祖母や祖父もいなくなった。このような中から、寂しさを紛らわすために、家から外に出、同じ環境の仲間たちと夜遊びをはじめる子供たちがでてきた。そして、さまざまな非行や犯罪を犯し始めた。
「第三次少年犯罪多発期」──「落ちこぼれ」ゆえの少年犯罪多発期
 それは、1983(昭和58)年である。この年は戦後の中で、最も学校での非行・犯罪が多発した年だという。校内でのいじめ、暴力行為、器物損壊など、全国各地で学校が荒れた。日本は1970年代中頃から、高度経済成長も軌道に乗り、「一億総中流」といわれる時代を迎えた。この経済的な安定の中で多くの親たちが、「教育ママ」「教育パパ」と化し、又、その多くの親たちが我が子を少しでもいい学校に入れ、少しでもいい会社に就職をと血眼になった。そして、「受験戦争」を迎えた。本来、子どもたちは無限の多様な可能性を持った存在であるはずだが・・・。この頃から、人間をはかる物差しが、学力や知識量に偏重してしまった。その結果、学業の成績の悪い子は「落ちこぼれ」にさせられ、その子どもたちが、学校内を中心に非行・犯罪を繰り広げたのがこの時期であった。
「第4次少年犯罪多発期」ー今の時期を迎えたが、今では、○窃盗などの軽犯罪の天文学的増加 、○性非行、性犯罪の増加 、○女子非行・女子犯罪の増加 、○凶悪犯罪・異常犯罪の増加 、○薬物乱用 といったとんでもない犯罪が起こっている。
この背景には、まず、少年たちの規範意識の低下をあげることができ、これは、家庭や学校、地域社会の教育力が低下したことに起因しているという。次に、少年たちが自らきちんと物事を考えることができなくなってきていることにも原因があり、今や少年たちは幼児期より、受け身で生きる教育を受けている。親に振り回され、テレビ・ゲームに遊ばれ、学校では集団のなかで息をつく暇もなく生きている。・・・このような少年たちは、物事を自分で考えることが出来なくなっている。そのことから、彼らは常に周りを見回し、みんなのまねをしていく。それが「万引き」でも「薬物乱用」でも「暴走」でも「いじめ」でも……。自分の行為が、結果としてどのような状況を生み出すのかも考えていないのだと・・。また、いま少年たちは、メディアからの様々な情報に無防備なままさらされている。性に関しても、薬物に関しても、私たち良識のある大人ならば眉を潜めてしまうような情報が氾濫している。しかし、それらに対して、きちんと判断できる知識や良識を教えるべき家庭や学校が何もしておらず、ただ、それらを見ないように、見せないように、制限をかけようとしているだけではないかとの疑問を投げかけている。
実際、私なども、テレビなどを見ていても、どのマスメディアも、いつも、政治や社会のことについて、批判だけは一人前にやっている。しかし、自分達の扱っている番組がどれほど、低俗化し、子供たちに悪影響を及ぼすものを扱っているか・・・の反省はない。特に、最近のインターネット上には、下劣で悪質なものが多くある。しかし、自由主義社会・情報化社会といわれる今日において、情報を制御することは非常に困難である。それでは、今の、子供たちに、一体、家庭や学校、地域社会は、どのように係わっていくべきか・・・?私には、よく分からないが、本当に、皆で、考えなければならない時期に来ていると思う。そして、少年達が犯罪を起こさないような社会にしてゆかなければならないと思う。
(画像は、映画「暴力教室」1976年製作、配給 : 東映、主演:松田優作。DVD)
参考:
児童の権利条約(児童の権利に関する条約) ・・・外務省HP
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/jido/
児童の権利に関する条約ーWikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%90%E7%AB%A5%E3%81%AE%E6%A8%A9%E5%88%A9%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E6%9D%A1%E7%B4%84
子供の権利条約・京都市情報館
http://www.city.kyoto.jp/hokenfukushi/kodomosos/stopgyakutai/rights/
ユニセフが訴えていること
http://www.unicef.or.jp/kenri/kenri.htm


歌手・松島詩子(マロニエの木蔭) の忌日

2005-11-19 | 人物
1996年 の今日(11月19日)は、歌手・松島詩子 の忌日。<91歳>
松島詩子と言っても、その名を知っている人は少ないかもしれないな~。
本名は内海シマ。1905(明治38)年5月12日、山口県柳井(ひづみ)市の生まれ。柳井高等女学校(いまの柳井高校)卒業後、教員をしていたが、1931(昭和6)年音楽勉強のため上京、「月の砂漠」の作曲などで知られる作曲家・佐々木すぐるに勧められ歌手になることを決心し、1932(昭和7)年、「ラッキーセブンの唄」で日本コロムビアから歌手デビュー(このときの芸名は柳井はるみ)。その後、ニットー、リーガル、テイチク、キングなどで吹込み、芸名は千早淑子、東貫美子などの変名を多数使用していたという。芸名「松島詩子」は、デビューして間もない頃、作曲家・山田耕筰氏(こうさく)に命名されたもので、キングレコード専属歌手となって以来、生涯使用。1937(昭和12)年に「マロニエの木蔭」がヒットしてようやく人気歌手となる。流行歌手となった後もクラシック声楽を学び続け、オペレッタやシャンソンなど幅広く活動したという。1951(昭和26)年には、第1回NHK紅白歌合戦出場。このときの歌は「上海の花売娘」。以来第2回を除き、1960(昭和35)年の第11回まで続けて計10回出場している。
空はくれて 丘の涯(はて)に
  輝くは 星の瞳よ
  なつかしの マロニエの木蔭に
  風は想い出の 夢をゆすりて
  今日も返らぬ 歌を歌うよ
松島詩子の代表歌、「マロニエの木蔭」
作詞:坂口 淳、作曲:細川潤一。(二木 紘三MIDI歌声喫茶より) ここでは、「マロニエの木蔭」が聞けるよ。(歌詞付)
歌に出てくる「マロニエ」は、ギリシアやブルガリア付近が原産で、パリを始めヨーロッパ各地の街路樹などとしてよく植えられていることは、フランス映画などの情景でよく知られている。
海外旅行など夢のまた夢であった戦前の日本。当時、ヨーロッパ映画は円熟した文化を垣間見られる唯一の“窓”だったのである。
1930年代はフランス映画の黄金期。1931(昭和6)年ルネ・クレール監督の映画「巴里の屋根の下」がヒット。続いて、1933(昭和8)年「巴里祭」(原題名「14 Juillet」)が封切られた。この映画は、貧しいけれども清純な花売り娘とタクシー運転手の若者との可憐な恋の物語。背景に流れるモーリス・ジョーベールの主題歌が、実に情緒があっていい。 この映画も大ヒットし、この年から、フランスの革命記念日、建国記念日の7月14日を「巴里祭」と呼ぶようになったという。他に、ルナールの小説を映画化した「にんじん」(1932年)、ジャン・ルノワール監督の「どん底」(1936年)、名優ジャン・ギャバンの渋い演技が光る「望郷」(1937)など印象深い作品が多い。これらの映画は当時、わが国の知識人、学生を中心にパリ熱を蔓延させることとなり、フランス映画やシャンソン、さらにはフランス語への関心が高まることとなったという。 日本では、映画のことをシネマ「 (Cinéma)」と言っているがこれもフランス語である。アメリカでは、アート系の作品を、「シネマ」と呼び、娯楽作品は「ムービー」と呼ぶらしい。フランス映画にはアート系が多いからであろう。
萩原朔太郎の詩、「旅上」に、
「ふらんすへ行きたしと思へども  ふらんすはあまりに遠し  せめては新しき背広をきて  きままなる旅にいでてみん 」
とあるように、戦前の日本のインテリの間には、フランス、とくにパリへの強い憧れがあったそうだ。1937(昭和12)年にヒットした松島詩子の「マロニエの木蔭」も、シャンソンぽい雰囲気が受けたのだろう。松島詩子は、ほかにも『喫茶店の片隅で』(1960=昭和35年)などシャンソン風の歌がいくつかある。
大戦後世界では、アメリカ映画が人気を得るようになるが、日本ではまだ、フランス映画賞賛という傾向があった。1960年代前半に、アメリカに先駆けて、フランス映画には、ヌーヴェルヴァーグという新しい感覚の映画の流れが起き、1960年代後半には、アラン・ドロン、ジャン・ポール・ベルモンド、リノ・バンチェラなどそうそうたる顔ぶれが、フィルム・ノワール(虚無的・悲観的・退廃的な指向性を持つ犯罪映画)で活躍するようになる。なんか、松島詩子の歌のこと書こうと思っているうちに、フランス映画の話になってしまったな~。でも、私が、社会へ出た昭和30年代前半は、音楽の世界でもシャンソンが流行っており、町のあちこちにシャンソン喫茶と呼ばれるものが有ったよ。私も、多少、文学青年ぶって、大阪のそんな、シャンソン喫茶にはよく行ったよ。そして、「喫茶店の片隅で」・・・でぼんやりと一人、静かに本など読みながらイベット・ジローやジルベール・ベコーの歌を聞いていた・・・。
(画像は、レコードジャケット「マロニエの木蔭」松島詩子。キング)
参考:
松島詩子記念館
http://www.city-yanai.jp/utako/
二木 紘三MIDI歌声喫茶
http://www5f.biglobe.ne.jp/~futakoz/index.htm
映画 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A0%E7%94%BB

もりとふるさとの日

2005-11-18 | 記念日
今日(11月18日)は、「もりとふるさとの日」
国土保全奨励制度全国研究協議会が制定。1994(平成6)年の同協議会の設立日だそうだ。
「国土保全奨励制度全国研究協議会 」HPを見ると、我が国の食料の安定供給、国土・自然環境の保全、景観の維持など、多くの公益的機能を有し、国民の経済・生活に大きな役割を果たしてきた、農山村地域を取り巻く環境は、農林業の不振、過疎化・高齢化の進行などにより一段と厳しくなっており、この農山村地域の人々の役割を積極的に評価して、担い手を確保し、森林・農地を適正に管理していこうというものだそうだ。

二日前に山の絵見しが
今朝になりて
にはかに恋しふるさとの山

山の子の
山を思ふがごとくにも
かなしき時は君を思へり

ふるさとの山に向ひて    
言ふことなし        
ふるさとの山はありがたきかな

石川啄木「一握の砂」より
故郷は遠きにありて思うもの・・・とは、昔の人はよく言ったものであるが、この啄木の歌も、彼が、東京朝日新聞に勤めていた時代に詠んだもので、 従来、一行で発表した短歌を三行書きに改め、新作を加えて、551首とし、「一握の砂」として1910(明治43)年に刊行された。その郷愁を誘う詩は、多くの人に親しまれている。
ふるさとの山は岩手富士、南部富士とも呼ばれる岩手山であろう。故郷にいたときは標高2041メートルのこの山を見上げて話しかけていたのかもしれない。ひたすらに山を思って、山によって自分をいやしている。同じ、岩手県の出身で、詩人で童話作家の宮沢賢治の作品にも登場する、大きく美しい山も岩手山であるが、賢治が故郷にとどまり理想を求めたのに対して、啄木は「ふるさと」をあとにしている。啄木の山を恋うる歌、望郷の歌からは、わずか26歳で夭折した彼の内面深くを見るおもいがする。望郷の思いは、地方から都会へ出てくる多くの青年の心にあるものだが、啄木にはそれがことさら強かったようである。そして、故郷への思いは幼い頃に親しんだ山や森に結びつくことが多いようだ。
日本の森林の面積は約2,500万ヘクタールで、これは国土の面積の67%にも当たる。経済協力開発機構(OECD)加盟国のなかで国民1人当たりの国内総生産が1万ドル以上の国は21カ国あるが、森林の割合が60%を超えるのは、日本のほかにはスウェーデンとフィンランドだけだそうだ。だから、工業先進国でありながら、日本の森林資源は世界に誇れる素晴らしいものなのだという。この日本の森林の内、国有林と公有林が合わせて2/5。残りの3/5に当たる1,457万ヘクタールが民有林。また、天然林は日本の森林の3/5。残りの約1,000万ヘクタールは人工林が占めており、因みに1,000万ヘクタール以上の人工林を持つ国は世界で4ヵ国だけだそうだ。森林は石油のような化石燃料などと違い、再生産が可能な資源。天然資源に乏しいわが国にとっては貴重な財産なのである。又、この森林は単なる木材の供給の場や遊びの場だけでなく、土砂崩壊や水害の防止機能といった役割がある。最近は、地球温暖化などの環境問題などもありこの山や森林の重要性が見直されている。
この森を形成する重要な役割をしているものの一つがブナ林である。ブナは、ヨーロッパでは“繁栄の象徴”とされ、「クィーン・オブ・ザ・フォレスト(森の女王様)」と尊ばれ、肥沃な土壌をつくることから「土壌の母」、女性的で優美な樹相から「森の母」、ブナが下木の成長を助けることから「森の医者」などと呼ばれることもあるという。またブナは、様々な樹種が山々に育った後、最後に育つ木であり、生態系で見れば「完成された森」でもあるという。しかし、ブナは漢字で「木」偏に「無」と書き、生育が遅く腐り易く割れ易いことから、日本では、過去、この大切なブナが、国の森林政策・環境政策の誤りから、使い道の無い木として扱われブナを伐採して代わりに杉を植林することが奨励されてきた。 そして、多くのブナの原生林が根こそぎ切られ、山が破壊されてきた。今では、ブナノ代わりに植林された杉の木も用途が減り、手入れもされず放置されたままの状態であり、春にだけは、杉の木花粉で世間の注目を集めている。
日本では、未来へ伝えるべき人類共通の貴重な「世界自然遺産」として、ユネスコに白神山地と屋久島が登録されている。これまで人手が加えられたことのない白神山地のブナの原生林、一方の屋久島は樹齢1000年を超える長命な屋久杉で知られているが、両方に共通するキーワードは「ブナの森」だといわれている。
広葉樹のブナ林は特に保水力が高く他の木の成長を助けているのである。ブナ林に入ると、そのみずみずしい木々の生命力が肌で感じられるという。そして、ブナの原生林は全ての源である水を貯えた「水瓶」の役割を果たし川の流域に住む住民の生活を支えてきたのであった。
ブナは、使い道のない木であるどころかもっとも大切な木だったのである。形が悪いブナの木は材には不適当と、粗末に扱われたが、見てくれだけで判断は困るよ・・・。人間もそうだけれども、かわいいばかりの外見だけじゃなく、その中身(実質)をもっとしっかり見極めて対応ておかないと、後で、後悔するようになるよ・・・。
兎に角、こうしたブナ林の重要性を認識し大事に育ててゆかないとね。そして、人間の心の故郷でもある森を大切にしたいものだ。
今、日本でナンバーワンのチェーンストアーとなったイオンでは、随分前より、店舗を中心としたさまざまな活動を展開し、地域社会に根づいた環境保全や社会貢献に積極的に取り組んでいるが、日本や海外のショッピングセンターの敷地内に、お客さまや地域の皆さんと共に「イオン ふるさとの森づくり」の植樹をしている。要するにあちこちに森を作ろうというのである。今では、509ヶ所572万本(2005年9月30日現在)もの植樹をしたという。「イオンふるさとの森づくり」植樹祭の実施にあたっては、マウンドのつくり方から苗木の植え方にいたるまで、植生学の世界的権威で、「ほんものの緑による環境創造」を提唱している横浜国立大学名誉教授・宮脇 昭 先生の指導を受け、植樹する樹種についても同先生に選定してもらっているのである。やはり、成長する企業は、金儲けだけではなく、将来を展望した環境問題へもしっかりと取り組んでいるところは、立派だね~。
(画像は童謡「故郷」童謡・唱歌の世界より借用。歌詞はここ
参考:
国土保全奨励制度全国研究協議会
http://www.kokudohozen.jp/
歌集:啄木『一握の砂』
http://www.geocities.jp/jinysd02/itiaku.html
日本の森/NW 森林(もり)いきいき
http://www.nw-mori.or.jp/izanai/toc.html
ブナの森の不思議
http://members.jcom.home.ne.jp/bunanomori1/
MIDI/童謡・故郷(ふるさと) 高野辰之作詞・岡野貞一作曲/文部省唱歌(六年)歌詞つき、
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/furusato.html
イオン「 ふるさとの森づくり」
http://www.aeon.info/environment/furusato/index.html

将棋の日

2005-11-17 | 記念日
今日(11月17日)は「将棋の日」
将棋(本将棋)は、囲碁とともに、戦争の要素を反映して作られたゲームでもあり、家康が重視したため、江戸時代には幕府の公認となり、碁所・将棋所を名乗るようになった。1612(慶長17)年に、幕府は本因坊算砂・大橋宗桂らに俸禄を支給することを決定した。寛永年間(1630年頃)には、将棋の家元御三家(大橋本家・大橋分家・伊藤家)の棋士を江戸城によび、将軍御前で指す「御城将棋」が行われるようになり、将棋の家元である名人らにも俸禄が支払われた。そして、八代将軍徳川吉宗のころ、年に1度、11月17日に、「御城将棋」を行うことが制度化されたという。このことから、日本将棋連盟がこの日を「1975(昭和50)年に「将棋の日」に制定した。
わざわざ年に一度の「御城将棋の日」を定めたことでも窺えるように、あのTVドラマ「暴れん坊将軍」で有名な八代将軍・徳川吉宗公は、江戸時代の歴代将軍の中では家康と並んで最も将棋好きであったらしい。
江戸時代を通じて、お城将棋・碁の対局者には大名を歓待する時並みの料理が用意されるほどに遇された様で、そのため、将棋にしても碁にしても、それぞれの家元は血筋とは無関係に優秀な人材を発掘して、最も優秀な弟子に家督を譲りレベルを維持した。これは、華道、茶道、歌舞伎などの世襲制を採っているところは皆同じようなものだ。
極めて卓越した実力を持つ人は「名人」の称号を受けていた。最初の頃、名人というのは常に存在しておらず、それに値する人がいなければ空席になっていたそうだが、後に将棋の世界ではこの名人というのが将棋界の最高位に君臨する人の称号とされ、名人は大橋家・大橋分家・伊藤家が持ち回りで世襲していた(初代~十一世)。そして、名人を襲位した棋士は、江戸幕府に詰将棋の作品集を献上するのが慣わしとなっていたそうだ。幕府の瓦解とともに、家元名人制は終焉を迎えた。
しかし、現在でも名人の称号は「名人戦」というタイトルに残されている。
ただし、明治・大正・昭和前期においては、将棋界の年功ある実力者が推薦されて名人を名乗った(名誉称号)。1898(明治31)年、十二世名人を小野五平が襲名。1921(大正10)年十八世名人を関根金次郎が襲名。関根金次郎・・・・・と言えばなにか思い出しませんか?
あの有名な映画『王将』・・・阪田三吉と関根金次郎との因縁の対局を描いた名画である。阪田三吉は、1913(大正2)年4月、来阪していた関根金次郎八段と対局、相方譲らぬ熱戦の末、終盤近く、阪田三吉の打ち込んだ窮余の一手二五銀が決めてとなり、阪田は関根に勝利する。この対局において後に阪田は『銀が泣いている』という有名な言葉を残している。この一戦で阪田三吉の名は天下に轟いた。その後、無学門であった阪田も長年の修練で人間的にも成長していた。そして、関根は八段、阪田は七段になり、名人位をかけた一戦も阪田の勝ちとはなったが、そのとき病床に臥していた女房小春の望みもむなしく、名人位は関根八段に冠せられたのであった。その関根八段に祝辞をのぶべく病床に臥している小春に内緒で上京した阪田は、関根名人との会見で自分で編んだぞうりを渡す。名人となった関根八段も酒田三吉のあまりにも律儀な態度に感銘を受ける。その席上、自分をここまで仕立ててくれた最愛の妻小春のふ報を聞かねばならなかった。阪田三吉を演じる坂東妻三郎が電話を小春のほうに向けさせ、「お題目を唱えるから」と言って、「南無妙法蓮華経」と必至に何度も唱えだす。小春も目を開け、うれしそうな顔をする。しかし、力尽きて、臨終ということになるが、付き添っていた娘が布団を開けてみると、小春は合掌していて、力尽き、その手が開くと中から将棋の王将の駒がこぼれ堕ちる。電話で必至に女房小春に呼びかけ、お経を唱える迫真の演技が感動を呼んだ。私はこの映画を何度見ただろう。涙腺の弱くなった私は、いつも最後は泣かされる。
その後、1925(大正14)年、京阪神の財界有力者八十余名の主唱者により名人に推薦され、坂田三吉は「大阪名人」を名乗る。このことが名人僭称とされ、棋界を追放される原因ともなった。
1935(昭和10)年、関根金次郎十三世名人は、それまでの世襲制名人位に異を唱え、その時その時に最高の実力を持つ人が名人を名乗るという実力制名人の制度を導入した。その第1期名人戦(当時の正式名称は名人決定大棋戦)はそれから2年にわたって行われた。阪田三吉も1937(昭和12)年に和解し、将棋大成会(現在の日本将棋連盟)に復帰した。同年2月、阪田の復帰を記念し、読売新聞社主催の特別対局が行われることになった。当時の名人は関根であったが、高齢のため、関根の弟子であった木村義雄が対局に臨むことになった。
対局の舞台は京都の南禅寺。2月5日から7日間、持ち時間は30時間。現在の公式戦で持ち時間が最も長い名人戦が9時間であるから、この長い時間の闘いは、66歳の阪田にとって当初より厳しい闘いになることが予想されていた通り、結果は、木村の勝ちとなった。この年、木村義雄が初代名人(十四世名人)となった。タイトル戦の始まりである。
阪田は復帰後、名人戦挑戦者リーグに参加、その後引退した。
阪田三吉は、数多くの舞台や映画,、ドラマ化されたが、歌のモデルにもなった。
「吹けば飛ぶよな 将棋の駒に 賭けた命を 笑えば笑え うまれ浪花の 八百八橋 月も知ってる 俺らの意気地」
作詞:西条八十、作曲:船村徹、歌手:村田英雄のMIDI(歌詞付)が聴けるよ
MIDI>王将
http://www.biwa.ne.jp/~kebuta/MIDI/MIDI-htm/Ousho.htm
最近、将棋界を賑わしている人物がいる。アマチュアの強豪・瀬川晶司さん(35歳、横浜市)が、プロ入りをかけてプロ棋士6名との六番勝負を行い、3勝で合格となるプロ編入試験・・11月6日の第5局で、高野秀行五段を破り、見事3勝勝目をあげて合格。念願のプロ棋士になることができた。26歳の時、11年余り席を置いた、プロ棋士養成機関の奨励会を年齢制限でやむなく退会していたが、プロへの願望が強く、その後の努力が実を結び、厳しいプロ編入試験にこぎつけたもの。システムエンジニアーとして働いていたものが、プロデビューして勤めをやめると、新たなプロ将棋の世界では、勝てなければ収入は半減する。それでも、好きな、将棋の世界で自分の可能性を求めてのチャレンジであった。是非、名人になってほしい人物である。今、世の中には、自分が、「何をしたいのか分らない」「したいことがない」などと、馬鹿げたことを言って、働きもせず、親の脛をかじってフラフラしている若者が大勢いるという。この人の爪の垢でも煎じて飲めよ・・・と言いたいね~。
(画像は、高野秀行五段(左)を破り、プロに合格した瀬川晶司さん。11月7日朝日新聞朝刊より)
参考:
日本将棋連盟
http://www.shogi.or.jp/
将棋ーWikipedia
a.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%86%E6%A3%8B
名人戦(将棋) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E4%BA%BA%E6%88%A6_%28%E5%B0%86%E6%A3%8B%29

幼稚園記念日

2005-11-16 | 記念日
今日(11月16日)は「幼稚園記念日」
1876(明治9)年11月16日、日本初の官立幼稚園である東京女子師範学校附属幼稚園(現在のお茶の水女子大学附属幼稚園)が東京・神田に開園した。
幼稚園とは、3歳から小学校就学までの幼児を保育し、年齢に相応しい適切な環境を整え、心身の発達を助長するための教育施設のことである。
幼稚園の生みの親は、19世紀前半に活躍したドイツの教育者、フリードリヒ・フレーベルと言われており、彼が作った小学校に上がる前の幼児のための学校が最初の幼稚園であり、幼稚園という語は、彼の作った学校の名前であるKindergartenを翻訳して出来たそうだ。
日本の最初の幼稚園はおそらく寺子屋のなかにあったのではないかと思うが、それが明治に入って、東京女子師範学校の付属施設として本格化し、これは、その後、名称も東京模範幼稚園と改称され各地の幼稚園の模範とされた。
ただ、国の手で建てられ、モデル園となったこの東京女子師範学校附属幼稚園はフレーベルを源流としているものの、フレーベルが創設した幼稚園とは些か異なった性格を帯びて誕生した。西洋先進諸国の保育施設の場合は,機械制工場生産の発展に伴って,働かなければならない母親の子どもを対象にして,託児所的な保育施設が生まれ,フレーベルの創設した幼稚園へと発達した。しかし,東京女子師範学校附属幼稚園は、建物も、当時としてはモダンな建物であり、建坪225坪あり,平屋の西洋造りで、洋館の少い其の頃、人々の注目を浴びた。そして,施設内には遊戯室,開遊室,員外開遊室,縦覧室,応接室,職員室,事務室,小使室兼附添人控室もあったといい、エリートのための幼稚園として誕生した。そのため幼稚園の普及もチチとして進まなかったというが当然であろう。やがて明治20年代に入ると、民間の篤志家が幼稚園や保育所をつくるようになる。それは、庶民でも入り易い幼稚園であった。ただ、施設を作っても肝心の保姆が居らず、保姆の養成が必要であった。幼児教育の必要性を感じた神戸基督教会(現日キ教団神戸教会)の婦人会は、その専門家の派遣を米国に訴え、これに応えてアンニー・ハウが来日、1889(明治22)年10月「頌栄保母伝習所」(現在の保育者養成機関としては日本で最も古い一つ)を、2週間遅れて頌栄幼稚園を開設・開園した。これが模範となってキリスト教関係者による養成機関が各地に作られるようになったという。明治の私学創立運動の多くがそうであったように、クリスチャンが多いことも日本の幼稚園づくりの初期の特色のひとつだったそうだ。
現在、日本の場合、幼稚園は文部科学省所管の学校であり、保育所は厚生労働省所管の児童福祉施設ということになっている。
日本の幼稚園における保育内容は、幼稚園教育要領の第1章 総則1 幼稚園教育の基本で、
(1)幼児は安定した情緒の下で自己を十分に発揮することにより発達に必要な体験を得ていくものであることを考慮して、幼児の主体的な活動を促し、幼児期にふさわしい生活が展開されるようにすること。
(2)幼児の自発的な活動としての遊びは、心身の調和のとれた発達の基礎を培う重要な学習であることを考慮して、遊びを通しての指導を中心として第2章に示すねらいが総合的に達成されるようにすること。
として、第2章のその内訳は「健康」「人間関係」「環境」「言語」「表現」となっている。
現在の幼稚園の実態は、ほとんどがフレーベルの構想の中にあったもので、ボール遊び、積み木、お遊戯、鳥や小動物と触れ合い、母親の家事の手伝い、言葉遊び、花壇での花や野菜の栽培など、すべて体系的にフレーベルの著作の中にあるものだという。
このように日本の幼稚園は自由遊びが中心であり、教師はやさしく,子どもたちの逸脱行動について厳しくしかることもなく、子どもたちは楽しくのびのびとした幼児期を過ごしているが、その、教科学習的な内容がカリキュラムに組み込まれることは少ないという。
しかし、今、幼稚園には、1、経済階層、2、宗教、3、経営母体(公・私立)、という3つの要因があり、1の要因では、経済的に比較的余裕のある階層の子どもたちが多く通う幼稚園は,ゆったりとした敷地に十分な教材が準備され、教師も他の仕事に忙殺されることなく子どもたちと関わる時間的余裕がある。一方勤労者階級の子どもたちが通う幼稚園は、財政上の制約から十分な資源を確保することが難しく、また、教師も雑事に追われて子どもたちと関わる時間を充分にとることが難しい。こうした物質的な条件の影響を受けることで、子どもたちの幼稚園での生活はずいぶん異なる。2の要因では、キリスト教系幼稚園、神道系幼稚園さらに仏教系幼稚園では、当然ながら、各宗教の持つ志向性の違いが、幼稚園を特徴づけることになる。3の要因では、公立幼稚園は文部省(現文部科学省)の意向が直接カリキュラムに反映されやすいものの,自分たちのプログラムの魅力をうまく伝えることも含め,市場の要請に対して迅速に対応できないでいる。一方私立幼稚園は文部省のコントロールから相対的に自由であり,また生き残りをかけて親にアピールし続ける。少子化によって縮小した市場で子どもを奪い合う結果、魅力のあるプログラムを提供している。・・・・等々、それぞれの幼稚園に特色があり、そこで、受ける教育内容に差がある。
今、子供の教育問題ではが、幼児教育が重視されてきているが、小学校への入学前の幼稚園での教育内容は、小学校へ入学後のスタートラインで、既にある種の差をつけてているのではないだろうか?私の孫も、郊外に住んでいるため、幼稚園が少なく、仕方なく、キリスト教系の幼稚園に入園させている。運動会などに行ってみていても、開始前と最後には、神への感謝の祈りをしているというよりさせている。息子の嫁に聞くと、教育方針も、殆ど、遊びばかりで、自由気ままに野放しにして育てる方針だという。それは、それでよいのだろう。しかし、家人の話などでは、幼稚園によっては、既に、英語の教育をしているところもあるのだという。このような、教育内容の差が、小学校に入ってから、どのような形で現れてくるのかは、じいじいとしては、気になるところである。
(画像は幼稚園の運動会「玉入れ」)
参考:
幼稚園-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%BC%E7%A8%9A%E5%9C%92
幼稚園教育要領
http://www.mext.go.jp/b_menu/shuppan/sonota/990301a.htm
ヨウチエン
http://www.psy.osaka-kyoiku.ac.jp/Holloway/aboutbook.htm
幼稚園制度の普及について
http://www.kgef.ac.jp/ksjc/kiyo/960030k.htm
Die Bueches Listen ueber Spielgaben in Japan(フレーベル教育遊具関係書籍リスト)
http://froebel.child.edu.yamaguchi-u.ac.jp/hon/hon.html
頌栄保育学院
http://www.k-doumei.or.jp/member/shouei-hoiku.htm