今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

甘酒の日

2010-01-20 | 記念日
日本記念日協会の今日・1月20日の記念日をみると、「甘酒の日」があった。
由緒をみると、“日本の伝統的な飲み物であり発酵食品である甘酒の良さ、おいしさを多くの人に知ってもらいたいと、1969年から瓶入りの甘酒を販売してきた森永製菓株式会社が制定。日付は、甘酒は疲れを癒し、身体が温まる飲み物として大寒の頃がもっとも飲まれていることから。”・・・とあった。
甘酒(あまざけ、醴)は日本の伝統的な甘味飲料の一種で、見た目はどぶろく(濁酒)に類似する白濁液である。
米を酒にするには、大まかな製造工程としては、先ず、蒸した米に麹を加えて、米のデンプン糖化させると、甘味が得られ、「甘酒」に近いもの出来る。次に、この糖化した米を水と合わせ、乳酸菌発酵させて甘酸っぱい液体にすると、この時、液が酸性になるため雑菌が死滅する。最後に、これを酵母により発酵させ、糖をアルコールに変えると濁酒(「どぶろく」)になる。「どぶろく」は、米を使った酒類では最も素朴な形態の物と言われ、これを沈殿濾過して透明にすれば清酒になる。
いわば、酒造過程で言えば、どぶろくになる前の状態の最も初期段階の過程で出来るものが甘酒に近いものである。日本で、いつ穀物による醸造酒が造られ始めたかは定かではないが、近年、中国から北九州地方に稲作が渡来したのは、紀元前2~3世紀頃といわれている。その際、を利用した酒づくりの方法も含めて伝わっていたのではないかともいわれているが、日本に酒が存在することを示す最古のものは、3世紀に書かれた中国の史書『魏志倭人伝』(中国の正史『三国志』中の「魏書」にかかれている東夷伝倭人条の通称)の倭人の風俗について書かれているところに「人性嗜酒(人の性【情】は、酒をたしなむ)」と記述されているものであるが、この酒が具体的に何を原料とし、またどのような方法で醸造したものなのかまでは、窺い知ることはできないが、喪に当たっては弔問客が「歌舞飲酒」をする風習があることも述べおり、ここに酒と宗教が深く関わっていたことを示す記載があることは、酒造りが巫女(みこ)の仕事として始まったことをうかがわせる一つの根拠ともなっているようだ(※:邪馬台国の会 HP【魏志倭人伝】】また、※:古代史獺祭 メインメニューより魏志倭人伝参照)。
日本で最初に米で酒を造った記述が出てくるのは、日本に伝存する最古の正史日本書紀』(720年作成)の神代紀の中のあり、神吾田鹿葦津姫(カムアタカアシツヒメ:『木花開耶姫【コノハナサクヤヒメ、】)が「狭名田(さなだ)の稲を以て、天甜酒(あめのたむざけ)を醸(か)みて、嘗(にへ)す」と記されている。(以下参考の※:「古代史獺祭「日本書紀」メニュー」より卷第二 第九段 一書第三又、参照)
狭名田とは神稲を作るために占いで決めた田のことで、「天甜酒」の「天」は天上界とか神の世界を意味し、「甜酒」は美酒を意味しているそうだ。「嘗(にへ)」とは、神又は天皇陛下の召し上り物、調理した食物の事をいふ。ここで言う「嘗(にへ)」はにいなへ(新嘗)であり、その年の新穀と新酒を神前に供えする儀式を指しているようだ。これは、現在は勤労感謝の日と名を変えている新嘗祭(にいなめさい)のようなものではないか。 新嘗祭は古くから天皇がその年に収穫された新穀や新酒を天照大神(アマテラスオオミカミ)をはじめとする天地の神(天神地祇)に供え農作物の恵みに感謝し、自らも食す儀式であった。以下参考の青空文庫※:「作家別作品リスト:No.933[折口 信夫]」の中の大嘗祭の本義や、ほうとする話 祭りの発生 その一など参照)。記紀神話の時代には、神吾田鹿葦津姫のような酒の神様がたくさんいたようだ。酒づくりの祖神は神吾田鹿葦津姫とその父である大山祇神(オオヤマツミ)。大山阿夫利神社(神奈川県伊勢原市)、梅宮大神(京都市右京区)のほか、全国の三島神社の総本山大山祇神社(愛媛県大三島町)、三島鴨神社(大阪府高槻市)などが、この父娘を祭った神社として崇められている。
日本では、古くから五穀の収穫を祝う風習があり、その年の収穫物は国家としてもそれからの一年を養う大切な蓄えとなることから、大事な行事として飛鳥時代の皇極天皇の御代(642年)に始められたとされている。
この日本書紀に出てくる「天甜酒」は通説では、米を口で噛んで唾液の中の酵素を利用して造ったいわゆる「口噛(くちか)み酒」と言われているもので、先に酒の製造工程で書いたようなどぶろくになる前の状態の低いアルコール度の甘酒のようなものであったらしい。
ご飯を噛むと、米の中のデンプンが唾液に含まれるアミラーゼ(糖化酵素)の働きでブドウ糖に変わる。これを壷などに入れておくと、ここに空気中の野生酵母が入って来て発酵し、酒になるという原始的な醸造法によるものが「口噛み酒」 だが、 これについての最古の記述は、『三国志』の時代から約500年も後の日本の風土記の1つである『大隅国風土記』逸文(713年以降)にあり、“大隅国(今の鹿児島県東部)では村中の男女が水と米を用意して生米を噛んでは容器に吐き戻し、一晩以上の時間をおいて酒の香りがし始めたら全員で飲む風習があったことが記されており、彼らはその酒を「口嚼ノ酒」と称していたという。この甘酒のようなものは、一晩でできることから「一夜酒(ひとよざけ)」また「醴酒(こさけ、こざけ(「濃い酒」の意))」とも呼ばれたようである。
しかし、同じ奈良時代の『播磨国風土記』(716年頃)には、神棚に備えた御饌(みけ:米飯)が水に濡れてカビが生えたので、それを用いて酒を醸して神に捧げ、あと宴を催した」という記述が見えるという。こちらはコウジカビ(麹カビ)の糖化作用を利用した醸造法であり、現代の日本酒製造に相通じるものであり、この当時すでに米を原料に酒を造るころを承知していたようである。このように、奈良時代同時期に口噛みによるものと麹によるものというまったく異なる醸造法が記録されている。
『日本書紀』応神天皇19年(288年)冬10月1日には、“国樔人(くずひと)が醴酒(こざけ)を天皇に奉り、歌を詠んで言った。
「白檮(かし)の生(ふ)に横臼(よくす)を作り横臼に醸(か)みし大御酒(みき)うま(甘)らに聞こしもち食(を)せまろ(我)が父(ち)」。
(樫の林で横臼を造り、その横臼に醸した大御酒を、美味しく召し上がれ、我が父よ。といった意らしい。以下参考の※:「古代史獺祭巻第十」、※:「私本日本書紀:巻十第三話 兄媛の嘆き」等参照)。
「口噛み酒」は、一度に大量に造れない。『日本書紀』のこの記録や前記『魏志倭人伝』の記載等をも勘案すると、この当時大勢の人が多くの量の酒を飲んでいたようでもあり、当時の酒造りの一般的であったものは、口噛みより一歩進んだ技術である麹カビを利用した、後者の方法で造られていたと解する方が良いようだ。前者は、この当時よりもっと古い大隅という辺境の地にたまたま残っていた風習を記録したものと解すべきではないかといわれている(Wikipedia)。
酒を造ることを「かもす(醸す)」と言うが、この言葉は古語である「醸(か)む」が同音の「噛(か)む」」から来た言葉だともいわれている。酒を醸す役目はもともとはもっぱら女性の役目であったようだ。今でも妻のことを「カミサン」と呼ぶのはこの「かむ」からきたといわれているという。また「キサキ(后)」も「酒栄き(きさき)」から出た語で神への供物にするために良い酒が仕上がるように祈る意味が込められているのだとか(以下参考の※:「お酒の事典 月桂冠」”日本酒のいわれ”参照)。
甘酒は、昔から手作りの飲み物として親しまれていたものであるが、今日の雛祭りなどで子供にも飲める用に造られているアルコールド1%未満の甘酒よりは、アルコールドは高かったのではないだろうか?
かつては夏に、冷やしたもの、または、熱したものを暑気払いに飲む習慣があり、俳句では現在でも夏の季語となっているそうだが、現在は冬に温めて飲むのが一般的である。
湯に酒粕を溶いて煮込み、甘味に砂糖を加えれば、造れるので、一般家庭では、このような簡略製法で家で造るところが多いのではないか。その際、酒粕の良し悪しが味の決め手にもなるし、アルコールドにも影響する。良い酒かすで作った甘酒は本当に美味しい。
ビタミンB1 、ビタミンB2、ビタミンB6、パントテン酸、すべての必須アミノ酸、そして大量のブドウ糖が含まれているが、これらの栄養は病院の点滴とほぼ同じ内容であり、ブドウ糖以外は本格製法か上記のような家での簡略製法によるかによる差異も少ないそうだ(製法参照)。
寒い冬には体が温まるの良い飲み物ではあろう。しかし、酒造メーカー巡るなどしたときに貰ったり買ったりしてきた良い酒かすはアルコール度も結構残っているので、美味しいが、酒の弱い人や子供は注意しないといけないよね。


(画像は森永製菓の甘酒)
参考:
※:邪馬台国の会 HP【魏志倭人伝】
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/wazinnden.htm
※:古代史獺祭  メイン メニュー 
http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/sitemap/sitemap.htm
※:私本日本書紀:目次
http://info.loops.jp/~asukaclub/syoki.html
※:作家別作品リスト:No.933[折口 信夫]
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person933.html#sakuhin_list_1
※:月桂冠:お酒の事典
http://www.gekkeikan.co.jp/enjoy/encyclopedia/index.html
日本酒の歴史 - 志太広域事務組合
http://www.shida.or.jp/book/no2/4_02.asp
甘酒 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%98%E9%85%92
日本書紀 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80
魏志倭人伝 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F%E5%BF%97%E5%80%AD%E4%BA%BA%E4%BC%9D
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html
風土記 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E8%A8%98
新嘗祭 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%98%97%E7%A5%AD
甘酒|森永製菓
http://www.morinaga.co.jp/amazake/

この町が好き

2010-01-17 | ひとりごと
2010(平成22)年の今日1月17日は、1995(平成7)年に起きた阪神・淡路大震災発生から丁度15年になる。
毎年1月17日は、東遊園地などの広場・協会などにおいて追悼式典が行われている。発生時刻の午前5時46分と、その12時間前と12時間後の午後5時46分に黙祷を行う。また、伊丹市昆陽池公園では、発生時刻の12時間前にあたる16日午後5時46分に黙祷を行い、ロウソクを発生時刻にあたる17日午前5時46分まで点灯している。神戸市中央区三宮にある東遊園地では広場に6,000本の灯篭で模った「1.17」が北側の神戸市役所庁舎正面に掲示される。また1995(平成7)年より毎年12月に、開催されている神戸ルミナリエの装飾は、イタリア人のヴァレリオ・フェスティ(Valerio Festi)と神戸市在住の今岡寛和の共同作品であるが、阪神・淡路大震災の発生を契機に鎮魂と追悼、街の復興を祈念して震災で激減した神戸への観光客を呼び戻す目的で毎年開催されているものである。
春は魚たちが とびはねる
さくらふぶきながす 芦屋川
夏は子どもたちが あそんでる
白いヨットはしる あしや浜
海と山をそめて きょうもまた日が昇る
この町がすき あなたがいるから
ひまわりのような えがおに あえるから
「この町がすき」作詞・作曲:後藤悦治郎
この歌は毎朝、芦屋市役所の始業時に流れている曲である。
芦屋市PTA協議会が、震災後に、市民を元気付けようと、「わたしの街芦屋」をテーマに市内の小学生から詩を募り、集まった詩をもとに「冬が来る前に」(1977年)などのヒット曲で知られているフォークデュオ紙ふうせんの後藤悦治郎さん(兵庫県西宮市在住)が、詩を書き直し、それに曲を付けたもので、この歌が出来たのは震災3年後の冬のことだと聞いている。
芦屋市内では、震災で建物は半数以上が全半壊し、死者も444名を出している。当時まだ、小学校の運動場には仮設住宅が残っていただろう。子どもたちが書いた詩を基に作られたこの歌は、芦屋市の庁舎だけでなく、市内の小学校でも唄われている。いわば、芦屋市の歌であり、CDには収められれおらず、広くは知られていないが、地元のコーラスグループなどの間で歌い継がれている。最後のフレーズの「この町がすき あなたがいるから ひまわりのような えがおに あえるから」…が好き。いい歌ですよ。 以下で歌が聞けるので聞いてみてください。
芦屋物語  http://www.ceres.dti.ne.jp/~mat/
阪神・淡路大震災では、全体で、死者:6,432名 行方不明者:3名 負傷者:43,792名の大惨事となった。大都市直下を震源とする日本で初めての大地震で、マグニチュード7.3、震度7の激震を記録した初めての地震であり、兵庫県南部を中心に大きな被害を出し、死者数は日本の戦後最多となった。被害状況等は阪神淡路大震災関連情報データーベース(総務省消防庁)神戸市 災害と戦災 資料館|阪神・淡路大震災震災記録写真(大木本美通撮影)等を参照ください。
私の住んでいる神戸市内では、家屋の倒壊の上に、火災が重なった。特に木造住宅が密集していた長田地域などを中心に、地震直後発生した火災の被害が甚大で、近隣の建物に次々と延焼。須磨区東部から兵庫区にかけても6,000棟を越す建物が焼失してしまった。私の家は山手にあり、難を逃れたが、家から火災にあった街を見下ろす感じになるが、町全体が火の海であり 、その火災から逃れて山の方へ避難してくる人達の群で町はごった返していた。救助の為の人員も足らず、水も無く、倒れた家屋の下敷きになったまま、助け出すことも出来ずに、火炎の中で生きたまま焼け死んでいった人達も多くいたと後に消防隊員などの話を聞いたが、今その時の光景を思い浮かべれば、それは正に火炎地獄図である。
今年は、震災から15年と言うことで例年以上に各地での追悼行事が行われている。
マスコミなどでは、良く神戸は復興した復興したといわれる。時の経過と共に道路網も整備され、家も建ち、表面上は復興したかに見えるが、それは外見的なことだけである。特に、建物倒壊と火災等により壊滅状態になった神戸の西部地域は道路網などの復旧も遅れ、又、土地・建物等の権利関係の複雑さも絡み、企業や商店の復興も遅れた為、優良な企業や商店そして、人なども比較的復興の早かった神戸東部の灘区や芦屋市あるいは西宮市方面へ移転し開業、また住み着いてしまった人達も多い。そのようなことから西部地域は商店街等再開はしても消費が回復していないところへリーマンショック以来の不況が重なり、未だに、かっての活況は取り戻せていないところが多い。住宅街も、かって建物の建っていたところが駐車場となっているところが非常に多いし、空き地のままとなっているところもまだまだ多い。震災以降、地域格差が広がった様に思う。神戸の灘区や芦屋市のような東部地域は確かにこの15年で、復興し、震災時より人口も増えているところが多い。その反面、西部地域は回復が遅れ、人口も減少したままだ。
私は、神戸生まれの神戸育ち、明治開港以来、港を中心に繁栄を続けてきた神戸の町が、そして、自分達が子供時代から過ごしてきたこの町が大好きである。早く元気に明るくなった町を見たいものだ。
神戸市長田区のJR新長田駅南の若松公園には、阪神大震災からの復興のシンボルとして作られた鉄人28号の実物大モニュメント(高さ18メートル、重さ50トン)も完成し、昨年12月4日には完成式典も行なわれたが、同式典で井戸知事は「震災15年を迎えるのにふさわしい長田の新たな守り神ができた。街に元気を与え続けることを期待する」と述べていたが、私も心からそれを願っている。今日1月17日には新長田・鉄人28号前からラジオ関西による震災関連生放送などもされているはずだ。多くの人が参加してください。
(画像左:神戸市広報課発行「震災10年~神戸の記録~」より、須磨区被災状況4。右:コレクションより、1986・10・21ピッコロシアター【正式名称:兵庫県立尼崎青少年創造劇場】での紙風船リサイタルのチラシ。後藤悦治郎と泰代の夫婦デュオ)
参考:
紙ふうせん - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%99%E3%81%B5%E3%81%86%E3%81%9B%E3%82%93
阪神・淡路大震災 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%AA%E7%A5%9E%E3%83%BB%E6%B7%A1%E8%B7%AF%E5%A4%A7%E9%9C%87%E7%81%BD
芦屋物語
http://www.ceres.dti.ne.jp/~mat/
神戸 災害と戦災 資料館|阪神・淡路大震災
http://www.city.kobe.lg.jp/safety/hanshinawaji/index.html
震災記録写真(大木本美通撮影)
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/directory/eqb/photo/oogimoto/index.html
阪神淡路大震災 芦屋の記録~マグニチュード7,3の世界~
http://www.city.ashiya.hyogo.jp/quake/index.html
阪神淡路大震災関連情報で^ターベース(総務省消防庁)
http://sinsai.fdma.go.jp/search/index.html
ラジオ関西:阪神淡路大震災15周年関連特番
http://jocr.jp/event/shinsai/index.html
鉄人28号 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E4%BA%BA28%E5%8F%B7

囲炉裏の日

2010-01-16 | 記念日
日本記念日協会の今日の記念日を見ると、1月16日に「囲炉裏の日」 があった。由来は、”1 と16 で「いい炉」と読む語呂合わせから、囲炉裏を囲んで暖かい会話を楽しもうと囲炉裏の愛好家らが制定し”たものだそうだ。
「いろり」(「囲炉裏」、「居炉裏」は当て字)とは、日本の地方の伝統的な民家などにおいて床を四角に切りぬいてつくった炉(ろ)のこと。火を蓄え、暖を取り、又、物を煮炊きするのに用いられる。地炉(じろ、ちろ)ともいうが、地方により特有の形態を持つ囲炉裏は、当然のことながらその呼び名も地方により異なり、相当な数の呼び名があった(以下参考の※:囲炉裏と火鉢の道具 田中商店 囲炉裏と道具のお話参照)。
もっとも単純な形の炉は、石を火の周囲に積み上げた物で、旧石器時代には炉は屋外にしかなかったが、時代とともに屋内へ持ち込まれれるようになり、家の中の「炉」の跡は、縄文時代初期からみられ、当時の遺構にその痕跡が見られる。日本では、古墳時代前期までは、たんに地面を浅く掘って火を燃やす地床炉が用いられるケースが多かったが、それが、炉の周りを石で囲んだ石囲炉、甕(かめ)を埋め込んだ埋甕炉(うめがめろ)へと、だんだん複雑な形式へと変化した。また、住居の形が丸から四角い形に変化するにつれ、炉の位置が竪穴住居の中央から次第に端へ移っていった。
しかし、このような炉は当初、煮炊きする機能より、むしろ明かりや暖をとることが役目の中心であった。それが建物の上部構造の進歩とともに、住宅内で煮炊きする炉や(かまど)に発展していった。縄文時代には発展途上の炉と食料を貯蔵する貯蔵穴、煮炊きに必要な道具を収納する場所が同時に竪穴式住居に揃い、水を使う以外の台所機能がすでに存在していたわけで、炉は住宅の設備として最初から備えられたものであり、当時の人にとってどれだけ火が重要だったかがわかる。
「いろり」を漢字で書く場合に「裏」の代わりに「裡」を使い「囲炉裡」ともか書く。炉を囲んで座るとか居るとかで「囲炉」また「居炉」の字を充てるのは、良く分るが、それに「裏」「裡」の字をつけているのは、「裏」「裡」はいずれも、表に対して裏を表す言葉であり、又、「秘密裏(裡)」等の言葉にもあるように、字音語の下に付いてその状態・条件にあることを表す語でもある。
火や炉に神性を認めて、それを家の守護神とする信仰は古くから世界にひろく分布していることでもあり、炉の中は、神の住む神聖な世界、この世とは違う世界を表す意味で裏(裡)という字を当てたという説がある。
長い歴史のなかで、囲炉裏の四方には、そこに居るべき人の座が決まっていた。先ず、家の主・戸主の座だが、土間の上がり口から最も遠く(奥)の場所で、土間に面したヨコザ(横座)と言う位置、つまり、土間の方に向かって囲炉裏を前にして座るからであろう。ほぼ全国的な名になっているようだが、この上座とは言わずにヨコザと呼ばれる位置に戸主が座るのは、囲炉裏の火の管理者としての主が座る場所、言いかえれば、火の神の司祭としての家長が座る神聖な席とする決まりが厳密に守られてきたものである(以下参考の※:「火の神」参照)。このことから、多くの場合、ヨコザは神棚や仏壇の前にあり、戸主はこれを背にして座ることになる。その向かい側、つまり家の表口に近い土間側は薪を置くキジリ(木尻)と呼ばれ、使用人や年少者また若い嫁が座る場である。若い嫁の席がこことされたのは嫁を下人とみたのではなく、昔は、若い女にはの日(月経など)が多いので、神や仏から遠ざけたようだ。残る左右の席のうち、座敷に近い方がカカザであり、家の火の管理者、つまり、カカザの名のとおり家長の奥方が座る場で、神聖な火を絶やさないように守る巫女の座とされたのである。火の神を祭るいろりの火は絶やしてはならぬとされていたので、燃料となる木は途切れることのないよう常に用意され、主婦は、寝るときに火種をいろりの灰の中に埋め、埋火(うずみび)にして、翌朝まで火種を守ったようだ。火の管理はそのころの主婦の大切な仕事だったのである。その向かいが、客座、オトコザ、あるいは向こう座と呼ばれ、客の座る場所だった。
原始時代の生活は地炉(じろ)の火を囲んでの一家団欒であったが、昔は火を起こすことが困難をきわめた為、炉はなににもまして火種を保存する大切な場所であり、現在でも地方の民家に残る囲炉裏は、「人の居場所」「火所」を意味しているようだ。「いろり」の語尾の「り」はそのような機能を「伝える行為」、つまり、「言い伝え」の意でもあるのだろう。
囲炉裏は炊事専門のかまど、暖を取るための属人的な火鉢とともに、日本の伝統家屋の火の座を構成したが、冬期に積雪の多い地方の伝統的な農家などでは大きな広間を中心に囲炉裏は庭と台所の境界に接して設けられ、庭や台所から直接、土足のままでも使えるように作られており、その広間に接して、座敷や寝所も配置された(以下参考の※:「住居の原型【PDF】」参照)。そして、食時・家族の団らん又、交際のための場ともなる囲炉裏のある広間を中心にすべての炊事や調理ができるよう、炉や流し、竈が設けられている場合が多いのに対し、気候的に暖かい南西日本では、火をできるだけ起居の場から遠ざけるために別棟に台所を設け調理用のかまど(竈)を設けられるようになった。
「泥草鞋踏み入れて其処に酒をわかすこの国の囲炉裏なつかしきかな」
これは、明治から昭和初期の旅と酒を愛した歌人若山牧水(本名:繁)の「木枯紀行」の中で詠まれている歌である(以下参考の※:「作家別作品リスト:No.162作家名: 若山 牧水」の木枯紀行を参照)。
牧水は、早稲田大学文学部英文学科を卒業後、東京で文学への道を志す。1912年(明治45年)、歌人・太田水穂の親族である長野出身の太田喜志子と結婚後、1920年(大正9)年沼津の自然を愛し、特に千本松原の景観に魅せられて、一家をあげて沼津に移住。数々の作品を残しているが、1923(大正12)年10月末から11月中旬にかけて、御殿場から山梨、長野を巡り、さらに千曲川上流から十文字峠を越えて、栃本、秩父へと抜けた17日間の旅に出た時の様子を日付入りの紀行文としてまとめたものが、「木枯紀行」である。
牧水は酒が大好きで、旅先では、地元の名物料理や名酒を探して飲み食いしていたようであるが、この旅でも地元料理を楽しみ、飲食店の亭主や宿屋の亭主と、囲爐裏の焚火を囲みながら酒を大いに飲んで楽しんでいる様子が良く描かれている。
「幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく」
牧水の有名な代表歌の1つであるが、この歌は、牧水が早稲田大学英文学科を卒業したと同時に、出版(1908年【明治41年】)した処女歌集『海の声』に収められている。この歌は、同歌集の中の“旅ゆきてうたへる歌をつぎにまとめたり 思ひ出にたよりよかれとて”・・・として中国地方を巡り歩いた時の、10首の中の1つとして、
「けふもまたこころの鉦をうち鳴しうち鳴しつつあくがれて行く」の歌に続いて書かれている。
この「けふもまた」の歌は、“今日もまた、巡礼者が鉦(かね)を鳴らすように、私もこころの鉦を鳴らし鳴らししながら、どこまでもあこがれの旅を続けている。”・・・と言った意味であるが、以下参考の※:「養育ネットひむか:若山牧水」のなかでこの歌の「あくがれ」についての解説に、“「あくがれ」の語源は「在所」を「離る」、つまり、魂が今在るところを何かに誘われ離れ去って行くという意味であった。そこから「思いこがれる」という今日の意味が生れたが、牧水はその言葉本来の意味で「あくがれ」の歌人だった。「あくがれ」の心を育てたのは生れ故郷の東郷町坪谷であり、牧水は坪谷の山や川でよく遊んだ。・・・その坪谷を十二分に愛しつつ、牧水の心は一方広い世界への「あくがれ」に満ちていた。遠くのものを見て胸をときめかす牧水の性格は一生涯変わることはなかった。先に挙げた、有名な「幾山河」の1首も青年牧水の「あくがれ」の歌と言える。”・・・とある。
先に挙げた有名な「幾山河」の歌は1907(明治40)年、牧水が早稲田大学英文科学生の時に郷里の宮崎への帰省の途次、岡山県から広島県への国境二本松峠を越える際その傍にあった旅館を兼ねた茶店『熊谷屋』に泊まったときに詠んだ歌だそうだ。
このときの中国地方巡りより1年前の1906(明治39)年、牧水は、神戸の友人宅に立ち寄ったときとに園田小枝子という美しい女性に出会ったが、彼女は複雑な家庭環境にあったようであり、彼女は、若くしてすでに結婚をしていたようだ。そんな、彼女に、牧水は一目ぼれしていたと言われている。牧水が歩いた当時は、恐らく幾山河越えなければならぬ難関であったらしい二本松峠を越える時の牧水の心の中は恋する女性のことで一杯ではなかったろうか。
彼女との間でどのような話の遣り取りがあったか知らないが、牧水は1908(明治40)年の暮れから翌1909(明治41)年正月にかけて、彼女と房総半島の南端、千葉県安房根本の海岸で新春を迎え、10日余り滞在をしていたという。その時、相聞歌(恋の歌)「安房にて」49首が、処女歌集『海の声』の中に含まれている。その連作には、息も詰まるよう激しい恋の模様が窺える(以下参考の※:「海の声:若山牧水【明治41年刊。初版本】」参照)。しかし、5年にあまる恋の語らいの後小枝子は牧水のもとを去って行くことになるのだが、この彼女との出会いが牧水の歌人としての生涯を大きく変えたようだ。彼女への恋慕が牧水を山野や渓谷へ導くようになり、そして実らぬ恋の果てに牧水は酒浸りの日々を送るようになったが、その苦悶に満ちた牧水の恋心こそ、牧水の創作活動の大きなエネルーギーとなっていたようだ。その後、太田喜志子と結婚。良妻を得た牧水は、心おきなく旅と酒を愉しみ歌を詠みつづけることとなったが、1927(昭和2)年、妻と共に朝鮮へ揮毫旅行に出発し、約2ヶ月間にわたって珍島金剛山などを巡る(朝鮮での様子は以下参考の※:「【朝鮮と日本の詩人-44-】若山牧水」参照) が、体調を崩し帰国、翌1928(昭和3)年夏頃より病臥し、自宅で死去。享年43歳の若さであった。死因は酒の飲みすぎが原因での、肝臓悪化であった。
ちなみに大学を出てからの牧水の旅は1433日間、死ぬまでの5日に1日は旅の空にあったというが、牧水が残した歌の中には、「幾山河」の歌の中にもある「国」という言葉が非常に多く出てくるが、その国は、信濃の国とか豊後の国というときの国であり、それは、牧水の記憶にずっと残っている故郷の山河であり、山川草木であろう。
そしてまた、先にも紹介した「泥草鞋踏み入れて其処に酒をわかすこの国の囲炉裏なつかしきかな」の歌にも見られる囲炉裏のある民家での生活を想像してのものだろうと思う。、
寒い冬の食べ物は・・?と言うと日本では「鍋物」である。「鍋物」というと、家族が、囲炉裏や、食卓で、同じ鍋を囲んで和気藹々と調理しながら食べている風景が思い浮かべられ、これこそかっての日本の食事の原風景であるが、今日誰もが想像するようなおでんやすき焼き、ちり鍋などが広く普及し始めたのは、以外に歴史は浅く江戸も末期にさしかかる頃になってからのことである。だが、その原点は暖をとるために囲炉裏を囲んでの食時などが始まりではある。
現在の日本のように豊富な種類の鍋物のある国は世界の中でも日本だけだと言う。囲炉裏以来引き継がれた家族団欒そのものが戦後の住環境や生活環境の変化などとともに衰退しつつあるのを見ていると、牧水ではないが、私の家には囲炉裏はなかったが、長火鉢や炬燵などを取り囲んで家族で食時をしていた子供時代の生活が非常に懐かしく思い出された。
若山牧水については以前にこのブログ9月17日「牧水忌」歌人・若山牧水の忌日また、10月1日「日本酒の日」でも書いた。また、以下参考の※:「牧水の風景」が詳しく書いているので参考になるよ。
(画像は囲炉裏。Wikipediaより)
参考:
※:火の神 ひのかみ
http://www.tabiken.com/history/doc/P/P144C100.HTM
※:収蔵資料のご紹介-埼玉県埋蔵文化財調査事業団
http://www.saimaibun.or.jp/database/data/95-11.html
※:住居の原型【PDF】
http://www.takumikoubou.jp/minkasaisei/kohoku-genkei.pdf#search='広間型住居'
※:作家別作品リスト:No.162作家名: 若山 牧水
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person162.html#sakuhin_list_1
※:牧水の風景 
http://www.kodawari.co.jp/bokusui/bokusuinohukei.html
※:養育ネットひむか:若山牧水
http://himuka.miyazaki-c.ed.jp/db/kyouzai/public/wakayama/boku/index.htm
※:【朝鮮と日本の詩人-44-】若山牧水
http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2007/06/0706j1126-00003.htm
※:海の声:若山牧水【明治41年刊。初版本】
http://www.konan-wu.ac.jp/~kikuchi/akiko/umi.html
かまど - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%83
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html
若山牧水 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A5%E5%B1%B1%E7%89%A7%E6%B0%B4
縄文時代 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3
工房釜神 【釜神の伝説】
http://www.kamagami.sakura.ne.jp/densetu.htm
幾山河の碑
http://www.geocities.jp/ushikunuma/prvt/okayama/tessei.htm
正津勉ゼミのサイト、B-semi>Library>■恋歌 恋句>34. 若山牧水
http://homepage1.nifty.com/B-semi/library/koiku/34wakayama.htm
若山牧水 - ウラ・アオゾラブンコ
http://uraaozora.jpn.org/wakayama.html
若山牧水(東郷町若山牧水顕彰会)
http://www.bokusui.jp/index.html
牧 水 の 風 景 
http://www.kodawari.co.jp/bokusui/bokusuinohukei.html
囲炉裏と火鉢の道具 田中商店 囲炉裏と道具のお話
http://www.aikis.or.jp/~t-hiro/hibachi/ohanashi.html

寅年

2010-01-02 | ひとりごと
新年明けましておめでとうございます。
元旦は、神社・お寺等へのお参りはされましたか。私は、仏教徒なので、お寺にお参りし、今年1年良い年であるようお祈りをしてきました。
昨年は大変な年でしたが今年は本当によくなってほしいですね。
今年は寅(虎)年。
強者の象徴である寅(虎)には古来、千里を行き、千里を無事帰るという勇猛さを示す言い伝えがあるようで、これが十二支にまつわる相場格言「辰巳(たつみ)天井、午(うま)しり下がり、未(ひつじ)辛抱、申酉(さるとり)騒ぐ。戌(いぬ)は笑い、亥(い)固まる、子(ね)は繁栄、丑(うし)はつまずき、寅(とら)千里を走り、卯(うさぎ)は跳ねる」にもなっているのだという。
私は占いなど信じないが、昨年の丑(うし)年は経済的のたしかにつまづいたが、後半は、前自民党政権の景気浮揚策等により、株式相場そのものは、少し持ち直したかに見えるが、エコノミストなどには、今年2番底もあるとの予想も多い。
確かに景気の回復には不安も多い年であるが、民主党連立政権は、何とか、寅(虎)千里を行くとして欲しいものですね。
このブログ。松の内は、1月中旬頃まで、休憩し、その後再開予定ですが、その際は、又、よろしく御願いします。
今年、皆さんにとって良い年である事を、心からお祈り申しあげます。
参考:
寅 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%85
『住・建関連業者の集い』家とは?
>http://e-mokken3.blog.so-net.ne.jp/2009-12-31-1