「南京事件 日本人48人の証言」阿羅健一(小学館文庫)は、南京大虐殺がなかったことを明らかにするために、著者が当時南京にいたジャーナリスト、軍人、外交官を訪ね歩いて集めた証言集である。しかしながら、著者の意図に反し、証言のなかには、南京大虐殺を裏付けるような証言がたくさん含まれている。ここでも、それらをいくつか拾い出して考えてみたい。
証言はすべて、同書からの抜粋である。(○印は著者の質問、「 」のついた文章が証言者のものである)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
讀賣新聞・森博カメラマンの証言
・・・
○日本兵よる中国兵に対する殺戮があったと言われていますが…。
「ありました」
○ご覧になったのですか。
「見てませんが、兵隊から聞きました」
○どんなことですか。
「捕虜を揚子江の淵に連れていって、どこかに行けと放したが、結局、殺したということです。岸が死体でいっぱいだったとも聞きました。それは本当だと思います。市民に対しては何もありませんが、中国兵に対してのそういうことはありました」
○南京にいて聞いたのですか。
「ええ、南京にいる時です。何カ所かで聞きました」
○なぜやったのでしょうか。
「捕虜を捕まえたが、捕虜にやる食糧がないし、収容するところがない、放してもまた兵隊になる。それで困ってやったと言っていました。中国の兵隊は日本と違って、食えないから愛国心がなくとも兵隊になります。事実放すと、すぐどこかで兵隊になっています。
また、中国には便衣隊がいて、日本兵はこれを恐れていましたから、やってしまおうということになったのだと思います」
○どの位の捕虜をやったのですか。
「相当多数だ、と聞きました」
○上の命令でやったのですか。
「下士官が単独でやったのだと思います。分隊長クラスの下士官です。もしかすると、もう少し上の方も知っていたのかもしれません。
その頃、捕虜を扱う国際法か何かあったと思いますが、兵隊は捕虜をどう扱うのか知らなかったし、自分たちは捕虜になったら死ぬものだと思っていたので、捕虜は殺すものと思っていたのでしょう。
陸軍の下士官の中には何年も軍隊にいて、軍隊のことは何もかも知っていて、新任の少尉が小隊長で来ても、上官とも思わず馬鹿にしている悪い奴がいました。彼らが新しく入ってきた兵隊を殴っていじめていたのですが、そういった下士官がやったのだと思います。
私も何年かして、前線を進撃しながら、捕まえた捕虜を斬っているところに出くわし、下士官から斬ってみないか、と言われたことがあります。戦争ですから、殺す、殺されるのは当然ですが、やらなくともいいことまでやったと思います」
○下士官全体がそうだったのですか。
「いや、一部の下士官です。陸軍は国民全部が兵隊になりますから、一般社会では使いものにならない悪い奴も入ってきて、これが陸軍を悪くしていました。そういうやつがああいうことをしたのだと思います。私はカメラマンとして従軍していましたから、一度も軍隊に入らずに済みましたが、そういうのを見ていましたから、いつも軍隊には入りたくないと思っていました。…」
・・・
○下士官は残虐なことをやっているという気持ちはなかったのでしょうか。
「日本兵は捕虜をやっても悪いことをやっているというとは思っていなかったと思います。私もその頃は日本が戦争に敗けるなどと思っていませんし、敗ける時は死ぬ時だと思っていました。戦争は勝つか、そうでなければ死ぬものだと思っていたわけです。兵隊もそうだったと思います。ですから、兵隊は捕虜をやったことを隠してませんし、悪いと思っていなかったし、自分が生きるため仕方なかったと思います」
○虐殺に関して、直接、何かを見ましたか
「話だけで、実際は何も見てません。南京では、見てませんが、その後の作戦で、攻撃の途中、日本兵が民家に入って、床をはがして飯盒の焚きつけにしているのは見たことがあります。また、出発する時、家をわざわざ壊したり、中には放火をしているのを見たことがあります。その時、兵隊に聞いたところ、敗残兵が入っているからだ、と言ってました」
○略奪もあったと言われますが…。
「南京ではどうだったかわかりませんが、略奪といいますか、そういうことは兵隊だけでなく記者もやっていました。作戦が始まる時、連隊本部からは従軍記者も何日か分の食糧をもらいます。しかし、重いですから2、3日の食糧しか持たずに従軍して、なくなれば後は民家に入って探します。食糧をとるのは悪いとは思っていませんでしたから、そういうことは兵隊も記者もやっていました。
記者の中には食糧以外のものを略奪する人もいて、上海の博物館から勝手に持っていった記者もいたといいます。もっともそこにあるのはイミテーションで、本物は重慶にあったと言いますが」
・・・
○その時、南京での事件をほかの記者もしっていましたか。
「よく仲間とはお茶を飲みに行ったりしましたが、話題にはしてませんでした。しかし、知っていたと思います」
○なぜ誰も話題にしなかったのですか。
「戦争だから殺しても当然だと思っていたし、戦場ですから死体を見ても気にしていませんでした。ですから話題にしなかったのだと思います。そういうことで記者は突っ込んで取材しようとはしませんでしたし、われわれも軍から、中国兵も日本兵も死体を撮ってはだめだ、と言われていましたから撮りませんでした。死体のことを書いても撮っても仕事にならなかったからだと思います」
・・・
「南京大虐殺」を考える上で、「森博カメラマンの証言」は極めて重要だと思う。特に「兵隊は捕虜をどう扱うのか知らなかったし、自分たちは捕虜になったら死ぬものだと思っていたので、捕虜は殺すものと思っていたのでしょう」や「私も何年かして、前線を進撃しながら、捕まえた捕虜を斬っているところに出くわし、下士官から斬ってみないか、と言われたことがあります」という証言は、南京戦当時の多くの日本兵の意識や日本軍の実態をよくあらわしていると思う。彼の証言で、「略奪」の事実も否定できないものであることがわかる。
「同盟通信・新井正義の証言」の中には、
「15日に旧支局に入った。旧支局は街の中で、すぐそばに金陵女子大学があった。旧支局に入ってから、女子大学の学長か寮長かが来て、婦女子の難民を収容しているが日本兵が暴行する、同盟さんに言えばなんとかなると思ってきました、と言う。そこでわれわれは軍司令部にそのことを伝えに行った」
との証言がある。これは、金陵大学緊急委員会委員長の名前で1937年12月16日、南京日本大使館宛に提出された、下記のような報告を含む文書が事実であることを裏付けるものだと思う。金陵大学の関係者は、あらゆる手を尽くして、下記のような被害を防ごうとしていたものと思われる。
(1)12月14日。兵士らは、わが農業経済系敷地(小桃園)の門上の米国旗と米大使館の正式掲示を引き裂き、そこに居住する教師、助手数人から強奪し、鍵のかかっているドア数個を破った。
(2)12月15日。上述の場所に兵士らが数回来て、安全を求めてきていた避難民の金や物品を盗み、婦女子複数を連れ去った。
(3)12 月15日。本学新図書館では1500人の一般人を世話しているが、婦女4名がその場で強姦され、2名が連行されて強姦後に釈放された。3名は連行されたま ま戻らず、1名は連れていかれたが大使館近くの貴軍憲兵によって釈放された。彼ら兵士の行いは、被害者の家族、隣人 および市内のこの地区すべての中国人に苦痛と恐怖とをもたらした。今朝、私は安全区内の他の地区で百以上も同様の事件が起きている旨の報告を受けた。学外の件については今私の関係するものではありませんが、ただ貴館に隣接する本学での上記の問題が、兵士による強奪と強姦という民衆の大きな苦難のごとく一例 にすぎないのを示すために言及したのです。
「同盟通信映画部・浅井達三カメラマンの証言」には
「南京に行く途中、銀行があり、金庫を爆破したら中国の紙幣がどっさり出てきたというので、それで飯盒炊さんした兵隊もいました」と証言があるが、
「中国紙幣を焚きつけするというのは作り話かと思いましたが、本当なんですね」との言葉に
「本当です。金庫を爆破したというのは見てませんが、焚きつけにするのは見ました。租界に持っていけば通用するのにね。常州だったと思います」と答えている。「略奪」の常態化をあらわしている証言ではないかと思う。
○「浅井さんご自身がご覧になったことは?」
「中国人が列になってぞろぞろ引かれていくのは見ています。その姿が眼に焼きついています。その中には軍服を脱ぎ捨て、便衣に着がえている者や、難民となって、南京にのがれてきた農民もいたと思います。手首が黒く焼けていたのは敗残兵として引っぱられていったと思います」
連行され処刑された中国人の中に、南京に逃れてきた農民が含まれているということも見逃すことができない。
○捕虜の連行とか城内の様子は撮らなかったのですか
「陥落や城内に入った直後はいろいろ撮りましたが、一段落してからは撮りませんでした。撮っても仕事になりませんから。…」
○虐殺の現場はどの社も撮ってませんか。
「誰も撮ってないでしょう。記録はないと思います。私は死体は撮りたくないから、現場を見ても撮らなかったでしょう。ずっと戦場にいましたが、戦闘は撮っても死体は撮ったことがありません。それからやらせを一度もやったことがありません。南京でも占領して万歳している写真というのはやらせです。占領した瞬間というのは戦闘の続きですから万歳どころじゃないですよ。…」
捕虜の連行を写真に撮っても仕事にならないので撮らなかったというのは、当時の従軍カメラマンの立場をよく示していると思う。たとえ撮っても決して報道されることはないからであろう。また、国際法違反の処刑場面を撮るなどということも同様なのだと思う。日本軍の検閲を通過し報道されることは考えられないことなのだと思う。「森博カメラマンの証言」のなかにも、「われわれも軍から、中国兵も日本兵も死体を撮ってはだめだ、と言われていましたから撮りませんでした」と、同じような証言があった。
○戦後、松井大将を撮る訳ですが、松井大将は死刑になりますね。
「私は日本を代表して最初から東京裁判を撮っていました。南京のことが起訴状にあった時、それは当然だと思いましたよ。ある程度はありましたからね。また、ピラミッドの頂点だった松井大将は仕方ないと思います。ただ、20万人もの虐殺といっていますが、数の面ではそうは思いません。南京の人口の大半がいなくなる数ですから」
浅井カメラマンが、松井大将の処刑は仕方ないと受け止めていることも、南京の問題を考える上で重要だと思う。
「同盟通信・細波孝無電技師の証言」
○南京では虐殺があったと言われていますが、ご覧になっていますか。
「言っていいですか」
○ぜひ、
「虐殺なのかどうか。誰にも言ったことがないのです。揚子江のところに下関という広い場所があってね」
○南京の船着き場ですね?
「そうです。城門を出た河川敷の土手のところです。ここには塹壕やトーチカがありました。揚子江に向かっていますが、中には逆に南京に向いているトートかもありました。コンクリート製で、真四角の水車小屋のようなものです。中国では守りのため、重要なところにはこういうのが一つ二つはありました。
中国軍はここで戦おうとしたんでしょうが、結局ここから逃げてしまいました。蒋介石なども下関から逃げたようです。私が下関に行った時、ここでやったらしく、まだ家具などが燃えていました」
○やっているのを見たのですか。
「いや、やったすぐ後のことだと思います。やっているところは見せないでしょうからね。トーチカに捕虜を詰め込んで焼き殺したと思います。トーチカの銃眼から苦しそうに息をしてこちらを見ている中国兵がいたことが、今も印象に残っています。苦しそうに鼻をふんふんいわせてね」
○トーチカには何人位いましたか。
「2、30人は入るんじゃないかな。家具などが詰めてありました。そういうのが三つか四つありました。たぶん焼いたと思います。銃弾はもったいないので、家具にガソリンをかけて焼いたのだと思いますよ。トーチカの中だけでなく、揚子江岸にも死体はありました。中には針金で縛って繋いでたのもありました」
○死体の数はどの位ですか。
「さあ、どの位か、百人位でしょうか。湯山の捕虜をやったのでしょう」
○湯山から連れてきてですか。
「たぶんそうだと思います。私が南京に入ってから捕虜が連れていかれるのを見ましたから。あれが湯山の捕虜だと思います」
細波孝無電技師の証言も、南京大虐殺の一部を目撃したという証言であると思う。揚子江岸の下関というところは、いろいろな人の証言にたびたび出てくる。虐殺現場のひとつに間違いないと思う。多数の死体が目撃されているのに、下関での中国兵との戦闘の証言や記録は目にしないからである。
細波無電技師が何日か南京にいて、上海に戻るために湯山を通った時には捕虜はいなかったというのも、虐殺されたということではないかと思われる。
新愛知新聞の南正義記者は、「捕虜をやったと言われていますが…」と聞かれて、
「その時『決戦に捕虜なし』という言葉があって、捕虜という考え方は日本軍にはなかたと思います。」と答えている。
福岡日々新聞・三苫幹之介記者は、「揚子江を下られたのですね」との著者の言葉に、
「揚子江を下る途中、川の中の一つの島にどうやら部隊がいるようでしたから、艇を着けてもらいました。地図を按ずると、左岸ちかくに鳥江という地名がのっています。楚の項羽のの故事で名高いあの土地です
川中島には右翼の有名な橋本欣五郎大佐(野戦重砲兵第十三連隊長)が陣地を構築していました。『上からの命令があったので、今しがた英艦をやっつけてやった』と、昂然たる態度でした」と返しているが、この証言は、一般的に言われている「英艦砲撃」が誤爆ではないことを物語っている。上からの命令の真偽はわからないが、誤爆ではなく、意図的に砲撃したということである。「日本軍が中国籍の船と誤認して砲撃」というのは、事実に反するいいわけであることを示しているといえる。
都新聞・小池秋羊記者の証言には、下記のような著者とのやりとりがある。
○その時の南京の様子はどうでした?
「その時のことだと思いますが、難民区に行くと、補助憲兵というのがいて、難民区に潜入している敗残兵を連れだしていました。連れていかれる中国人の親か兄弟かが、兵隊でない、と補助憲兵にすがっているのもいましたが、その光景はまともに見ることができませんでした。それでも補助憲兵は連れていったようです」
○何人位の敗残兵をつれていったのですか。
「10人か20人かにまとめて連れていきました。たぶん射殺したと思います」
○どこでですか。
「直接見ていませんが、郊外に連れていって射殺したのではないでしょうか」
・・・
○先ほどの話では、外人記者に会ったということですが…。
「彼らは一人が一台ずつ車を持ってて、城内の掃蕩作戦や火事の現場を撮ったり、難民区にも入って写真を撮ってました。あまり頻繁に撮っているのでびっくりしたほどです。
私は一度、十六師団の城内掃蕩作戦で兵隊が略奪しているのを見ていますし、食べ物の掠奪は上が黙認していたようなので、これらが記事になっては大変だと思い、このことをたぶん、馬淵(逸雄)中佐)さんだったと思いますが、報告に行きました。すると、すぐに調べると言って、各城門で外人記者をおさえようとしたらしいのです。しかし、実際やろうとした時には記者がもう上海に帰ったあとでした。それが『シャンハイ・イブニング・ポスト』とか『ノースチャイナ・デイリー・ニューズ』に記事になって出ました。先ほど言ったように『ニューヨーク・タイムズ』などの海外の新聞にも出た訳です」
○ 『シャンハイ・イブニング・ポスト』や『ノースチャイナ・デイリー・ニューズ』などを小池さん自身ごらんになったのですか。
「ええ、上海に戻ってから見ました。そういった中立国系の」新聞だけでなく、中国新聞にも「出ていました」
○それはどういう内容でした。
「はっきり覚えていませんが、日本軍が南京で掠奪をやったとかそういうものだったと思います」
この証言で、都新聞の小池記者が従軍記者として、日本軍の立場で仕事をしていたことがわかる。事実としての日本兵の掠奪を、海外で報道されないように報告に行っているからである。記者でありながら、自ら軍の報道統制に協力しているのである。それは、彼自身が日本軍に不都合なことは決して記事にしないということだと思う。したがって、当時の日本の国民が、南京事件を知らなくても不思議はないということであろう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
”http://hide20.web.fc2.com” に それぞれの記事にリンクさせた、投稿記事一覧表があります。青字が書名や抜粋部分です。ところどころ空行を挿入しています。漢数字はその一部を算用数字に 変更しています。(HAYASHI SYUNREI) (アクセスカウンター0から再スタート:ブログ人アクセス503801)
twitter → https://twitter.com/HAYASHISYUNREI