真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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「南京事件 日本人48人の証言」(阿羅健一)NO4

2015年09月18日 | 日記

 「南京事件 日本人48人の証言」阿羅健一(小学館文庫)は、南京大虐殺がなかったことを明らかにするために、著者が当時南京にいたジャーナリスト、軍人、外交官を訪ね歩いて集めた証言集である。しかしながら、著者の意図に反し、証言のなかには、南京大虐殺を裏付けるような証言がたくさん含まれている。ここでも、それらをいくつか拾い出して考えてみたい。
 証言はすべて、同書からの抜粋である。(○印は著者の質問、「 」のついた文章が証言者のものである)
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讀賣新聞・森博カメラマンの証言
 ・・・
○日本兵よる中国兵に対する殺戮があったと言われていますが…。
 「ありました」
○ご覧になったのですか。
 「見てませんが、兵隊から聞きました」
○どんなことですか。
 「捕虜を揚子江の淵に連れていって、どこかに行けと放したが、結局、殺したということです。岸が死体でいっぱいだったとも聞きました。それは本当だと思います。市民に対しては何もありませんが、中国兵に対してのそういうことはありました」
○南京にいて聞いたのですか。
 「ええ、南京にいる時です。何カ所かで聞きました」
○なぜやったのでしょうか。
 「捕虜を捕まえたが、捕虜にやる食糧がないし、収容するところがない、放してもまた兵隊になる。それで困ってやったと言っていました。中国の兵隊は日本と違って、食えないから愛国心がなくとも兵隊になります。事実放すと、すぐどこかで兵隊になっています。
 また、中国には便衣隊がいて、日本兵はこれを恐れていましたから、やってしまおうということになったのだと思います」
○どの位の捕虜をやったのですか。
 「相当多数だ、と聞きました」
○上の命令でやったのですか。
 「下士官が単独でやったのだと思います。分隊長クラスの下士官です。もしかすると、もう少し上の方も知っていたのかもしれません。
 その頃、捕虜を扱う国際法か何かあったと思いますが、兵隊は捕虜をどう扱うのか知らなかったし、自分たちは捕虜になったら死ぬものだと思っていたので、捕虜は殺すものと思っていたのでしょう。
 陸軍の下士官の中には何年も軍隊にいて、軍隊のことは何もかも知っていて、新任の少尉が小隊長で来ても、上官とも思わず馬鹿にしている悪い奴がいました。彼らが新しく入ってきた兵隊を殴っていじめていたのですが、そういった下士官がやったのだと思います。
 私も何年かして、前線を進撃しながら、捕まえた捕虜を斬っているところに出くわし、下士官から斬ってみないか、と言われたことがあります。戦争ですから、殺す、殺されるのは当然ですが、やらなくともいいことまでやったと思います」
○下士官全体がそうだったのですか。
 「いや、一部の下士官です。陸軍は国民全部が兵隊になりますから、一般社会では使いものにならない悪い奴も入ってきて、これが陸軍を悪くしていました。そういうやつがああいうことをしたのだと思います。私はカメラマンとして従軍していましたから、一度も軍隊に入らずに済みましたが、そういうのを見ていましたから、いつも軍隊には入りたくないと思っていました。…」
・・・
○下士官は残虐なことをやっているという気持ちはなかったのでしょうか。
 「日本兵は捕虜をやっても悪いことをやっているというとは思っていなかったと思います。私もその頃は日本が戦争に敗けるなどと思っていませんし、敗ける時は死ぬ時だと思っていました。戦争は勝つか、そうでなければ死ぬものだと思っていたわけです。兵隊もそうだったと思います。ですから、兵隊は捕虜をやったことを隠してませんし、悪いと思っていなかったし、自分が生きるため仕方なかったと思います」
○虐殺に関して、直接、何かを見ましたか
 「話だけで、実際は何も見てません。南京では、見てませんが、その後の作戦で、攻撃の途中、日本兵が民家に入って、床をはがして飯盒の焚きつけにしているのは見たことがあります。また、出発する時、家をわざわざ壊したり、中には放火をしているのを見たことがあります。その時、兵隊に聞いたところ、敗残兵が入っているからだ、と言ってました」
○略奪もあったと言われますが…。
 「南京ではどうだったかわかりませんが、略奪といいますか、そういうことは兵隊だけでなく記者もやっていました。作戦が始まる時、連隊本部からは従軍記者も何日か分の食糧をもらいます。しかし、重いですから2、3日の食糧しか持たずに従軍して、なくなれば後は民家に入って探します。食糧をとるのは悪いとは思っていませんでしたから、そういうことは兵隊も記者もやっていました。
 記者の中には食糧以外のものを略奪する人もいて、上海の博物館から勝手に持っていった記者もいたといいます。もっともそこにあるのはイミテーションで、本物は重慶にあったと言いますが」
 ・・・
○その時、南京での事件をほかの記者もしっていましたか。
 「よく仲間とはお茶を飲みに行ったりしましたが、話題にはしてませんでした。しかし、知っていたと思います」
○なぜ誰も話題にしなかったのですか。
 「戦争だから殺しても当然だと思っていたし、戦場ですから死体を見ても気にしていませんでした。ですから話題にしなかったのだと思います。そういうことで記者は突っ込んで取材しようとはしませんでしたし、われわれも軍から、中国兵も日本兵も死体を撮ってはだめだ、と言われていましたから撮りませんでした。死体のことを書いても撮っても仕事にならなかったからだと思います」
 ・・・ 
 「南京大虐殺」を考える上で、「森博カメラマンの証言」は極めて重要だと思う。特に「兵隊は捕虜をどう扱うのか知らなかったし、自分たちは捕虜になったら死ぬものだと思っていたので、捕虜は殺すものと思っていたのでしょう」や「私も何年かして、前線を進撃しながら、捕まえた捕虜を斬っているところに出くわし、下士官から斬ってみないか、と言われたことがあります」という証言は、南京戦当時の多くの日本兵の意識や日本軍の実態をよくあらわしていると思う。彼の証言で、「略奪」の事実も否定できないものであることがわかる。 
 
同盟通信・新井正義の証言」の中には、
 「15日に旧支局に入った。旧支局は街の中で、すぐそばに金陵女子大学があった。旧支局に入ってから、女子大学の学長か寮長かが来て、婦女子の難民を収容しているが日本兵が暴行する、同盟さんに言えばなんとかなると思ってきました、と言う。そこでわれわれは軍司令部にそのことを伝えに行った
との証言がある。これは、金陵大学緊急委員会委員長の名前で1937年12月16日、南京日本大使館宛に提出された、下記のような報告を含む文書が事実であることを裏付けるものだと思う。金陵大学の関係者は、あらゆる手を尽くして、下記のような被害を防ごうとしていたものと思われる。

(1)12月14日。兵士らは、わが農業経済系敷地(小桃園)の門上の米国旗と米大使館の正式掲示を引き裂き、そこに居住する教師、助手数人から強奪し、鍵のかかっているドア数個を破った。
(2)12月15日。上述の場所に兵士らが数回来て、安全を求めてきていた避難民の金や物品を盗み、婦女子複数を連れ去った。
(3)12 月15日。本学新図書館では1500人の一般人を世話しているが、婦女4名がその場で強姦され、2名が連行されて強姦後に釈放された。3名は連行されたま ま戻らず、1名は連れていかれたが大使館近くの貴軍憲兵によって釈放された。彼ら兵士の行いは、被害者の家族、隣人 および市内のこの地区すべての中国人に苦痛と恐怖とをもたらした。今朝、私は安全区内の他の地区で百以上も同様の事件が起きている旨の報告を受けた。学外の件については今私の関係するものではありませんが、ただ貴館に隣接する本学での上記の問題が、兵士による強奪と強姦という民衆の大きな苦難のごとく一例 にすぎないのを示すために言及したのです。

 「同盟通信映画部・浅井達三カメラマンの証言」には
 「南京に行く途中、銀行があり、金庫を爆破したら中国の紙幣がどっさり出てきたというので、それで飯盒炊さんした兵隊もいました」と証言があるが、
 「中国紙幣を焚きつけするというのは作り話かと思いましたが、本当なんですね」との言葉に
 「本当です。金庫を爆破したというのは見てませんが、焚きつけにするのは見ました。租界に持っていけば通用するのにね。常州だったと思います」と答えている。「略奪」の常態化をあらわしている証言ではないかと思う。

○「浅井さんご自身がご覧になったことは?
 「中国人が列になってぞろぞろ引かれていくのは見ています。その姿が眼に焼きついています。その中には軍服を脱ぎ捨て、便衣に着がえている者や、難民となって、南京にのがれてきた農民もいたと思います。手首が黒く焼けていたのは敗残兵として引っぱられていったと思います
 連行され処刑された中国人の中に、南京に逃れてきた農民が含まれているということも見逃すことができない。

○捕虜の連行とか城内の様子は撮らなかったのですか
 「陥落や城内に入った直後はいろいろ撮りましたが、一段落してからは撮りませんでした。撮っても仕事になりませんから。…」
○虐殺の現場はどの社も撮ってませんか。
 「誰も撮ってないでしょう。記録はないと思います。私は死体は撮りたくないから、現場を見ても撮らなかったでしょう。ずっと戦場にいましたが、戦闘は撮っても死体は撮ったことがありません。それからやらせを一度もやったことがありません。南京でも占領して万歳している写真というのはやらせです。占領した瞬間というのは戦闘の続きですから万歳どころじゃないですよ。…」
 捕虜の連行を写真に撮っても仕事にならないので撮らなかったというのは、当時の従軍カメラマンの立場をよく示していると思う。たとえ撮っても決して報道されることはないからであろう。また、国際法違反の処刑場面を撮るなどということも同様なのだと思う。日本軍の検閲を通過し報道されることは考えられないことなのだと思う。「森博カメラマンの証言のなかにも、「われわれも軍から、中国兵も日本兵も死体を撮ってはだめだ、と言われていましたから撮りませんでした」と、同じような証言があった。

○戦後、松井大将を撮る訳ですが、松井大将は死刑になりますね。
 「私は日本を代表して最初から東京裁判を撮っていました。南京のことが起訴状にあった時、それは当然だと思いましたよ。ある程度はありましたからね。また、ピラミッドの頂点だった松井大将は仕方ないと思います。ただ、20万人もの虐殺といっていますが、数の面ではそうは思いません。南京の人口の大半がいなくなる数ですから」
 浅井カメラマンが、松井大将の処刑は仕方ないと受け止めていることも、南京の問題を考える上で重要だと思う。

 「同盟通信・細波孝無電技師の証言」
○南京では虐殺があったと言われていますが、ご覧になっていますか。
 「言っていいですか」
○ぜひ、
 「虐殺なのかどうか。誰にも言ったことがないのです。揚子江のところに下関という広い場所があってね」
○南京の船着き場ですね?
 「そうです。城門を出た河川敷の土手のところです。ここには塹壕やトーチカがありました。揚子江に向かっていますが、中には逆に南京に向いているトートかもありました。コンクリート製で、真四角の水車小屋のようなものです。中国では守りのため、重要なところにはこういうのが一つ二つはありました。
 中国軍はここで戦おうとしたんでしょうが、結局ここから逃げてしまいました。蒋介石なども下関から逃げたようです。私が下関に行った時、ここでやったらしく、まだ家具などが燃えていました」
○やっているのを見たのですか。
 「いや、やったすぐ後のことだと思います。やっているところは見せないでしょうからね。トーチカに捕虜を詰め込んで焼き殺したと思います。トーチカの銃眼から苦しそうに息をしてこちらを見ている中国兵がいたことが、今も印象に残っています。苦しそうに鼻をふんふんいわせてね」
○トーチカには何人位いましたか。
 「2、30人は入るんじゃないかな。家具などが詰めてありました。そういうのが三つか四つありました。たぶん焼いたと思います。銃弾はもったいないので、家具にガソリンをかけて焼いたのだと思いますよ。トーチカの中だけでなく、揚子江岸にも死体はありました。中には針金で縛って繋いでたのもありました」
○死体の数はどの位ですか。
 「さあ、どの位か、百人位でしょうか。湯山の捕虜をやったのでしょう」
○湯山から連れてきてですか。
 「たぶんそうだと思います。私が南京に入ってから捕虜が連れていかれるのを見ましたから。あれが湯山の捕虜だと思います」
 細波孝無電技師の証言も、南京大虐殺の一部を目撃したという証言であると思う。揚子江岸の下関というところは、いろいろな人の証言にたびたび出てくる。虐殺現場のひとつに間違いないと思う。多数の死体が目撃されているのに、下関での中国兵との戦闘の証言や記録は目にしないからである。
細波無電技師が何日か南京にいて、上海に戻るために湯山を通った時には捕虜はいなかったというのも、虐殺されたということではないかと思われる。

新愛知新聞の南正義記者は、「捕虜をやったと言われていますが…」と聞かれて、
 「その時『決戦に捕虜なし』という言葉があって、捕虜という考え方は日本軍にはなかたと思います。」と答えている。

福岡日々新聞・三苫幹之介記者は、「揚子江を下られたのですね」との著者の言葉に、 
 「揚子江を下る途中、川の中の一つの島にどうやら部隊がいるようでしたから、艇を着けてもらいました。地図を按ずると、左岸ちかくに鳥江という地名がのっています。楚の項羽のの故事で名高いあの土地です
 川中島には右翼の有名な橋本欣五郎大佐(野戦重砲兵第十三連隊長)が陣地を構築していました。『上からの命令があったので、今しがた英艦をやっつけてやった』と、昂然たる態度でした」と返しているが、この証言は、一般的に言われている「英艦砲撃」が誤爆ではないことを物語っている。上からの命令の真偽はわからないが、誤爆ではなく、意図的に砲撃したということである。「日本軍が中国籍の船と誤認して砲撃」というのは、事実に反するいいわけであることを示しているといえる。

都新聞・小池秋羊記者の証言には、下記のような著者とのやりとりがある。
○その時の南京の様子はどうでした?
 「その時のことだと思いますが、難民区に行くと、補助憲兵というのがいて、難民区に潜入している敗残兵を連れだしていました。連れていかれる中国人の親か兄弟かが、兵隊でない、と補助憲兵にすがっているのもいましたが、その光景はまともに見ることができませんでした。それでも補助憲兵は連れていったようです」
○何人位の敗残兵をつれていったのですか。
 「10人か20人かにまとめて連れていきました。たぶん射殺したと思います」
○どこでですか。
 「直接見ていませんが、郊外に連れていって射殺したのではないでしょうか」
 ・・・
○先ほどの話では、外人記者に会ったということですが…。
 「彼らは一人が一台ずつ車を持ってて、城内の掃蕩作戦や火事の現場を撮ったり、難民区にも入って写真を撮ってました。あまり頻繁に撮っているのでびっくりしたほどです。
 私は一度、十六師団の城内掃蕩作戦で兵隊が略奪しているのを見ていますし、食べ物の掠奪は上が黙認していたようなので、これらが記事になっては大変だと思い、このことをたぶん、馬淵(逸雄)中佐)さんだったと思いますが、報告に行きました。すると、すぐに調べると言って、各城門で外人記者をおさえようとしたらしいのです。しかし、実際やろうとした時には記者がもう上海に帰ったあとでした。それが『シャンハイ・イブニング・ポスト』とか『ノースチャイナ・デイリー・ニューズ』に記事になって出ました。先ほど言ったように『ニューヨーク・タイムズ』などの海外の新聞にも出た訳です」
○  『シャンハイ・イブニング・ポスト』や『ノースチャイナ・デイリー・ニューズ』などを小池さん自身ごらんになったのですか。
 「ええ、上海に戻ってから見ました。そういった中立国系の」新聞だけでなく、中国新聞にも「出ていました」
○それはどういう内容でした。
 「はっきり覚えていませんが、日本軍が南京で掠奪をやったとかそういうものだったと思います」 

 この証言で、都新聞の小池記者が従軍記者として、日本軍の立場で仕事をしていたことがわかる。事実としての日本兵の掠奪を、海外で報道されないように報告に行っているからである。記者でありながら、自ら軍の報道統制に協力しているのである。それは、彼自身が日本軍に不都合なことは決して記事にしないということだと思う。したがって、当時の日本の国民が、南京事件を知らなくても不思議はないということであろう。

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「百人斬り競争」 野田・向井両少尉の遺書(日記)

2015年07月15日 | 日記

 「百人斬り競争」とは、南京攻略戦のさなか、大日本帝国陸軍の野田毅少尉と向井敏明少尉が、「南京入りまでに日本刀でどちらが早く100人を斬るか」を競ったとされる行為であり、戦後、南京大虐殺を象徴するような残虐事件として話題になることが多い。

 ところが、『新「南京大虐殺」のまぼろし』鈴木明(飛鳥新社)には、この件に関して、下記のように書かれている。
どちらにしても、アメリカ当局はこの「百人斬り」については、「東京裁判」の本裁判では無論のこと、個人の犯罪を裁く「戦時法規を無視したC級裁判」としても、このことを立証し、有罪に持ち込むことは不可能である、と判断し、起訴はしないことにした。
 であれば、その根拠となる文書や関係者の具体的な証言などを示してほしかったと思う。本当に「東京裁判」の検察側が有罪に持ち込むことは不可能であると判断し、起訴はしないことにしたのかどうか、疑問が残る。

 また、下記の野田・向井両少尉の遺書を読んでも「百人斬り競争」がまったくの「虚構」であるとか、「東京日日新聞」の浅海記者が創作した」ものであるとは思えない。野田少尉は
つまらぬ戦争は止めよ。曾つての日本の大東亜戦争のやり方は間違つていた。独りよがりで、自分だけが優秀民族だと思つたところに誤謬がある。日本人全部がそうだつたとは言わぬが皆思い上つていたのは事実だ。そんな考えで日本の理想が実現する筈がない。
と書いている。「間違つていた」というのである。「百人斬り競争」に関しては、
 ”只俘虜、非戦斗員の虐殺、南京虐殺事件の罪名は絶対にお受けできません。お断り致します。”と正当化はしているが、それは、関係指揮官や戦友が裁かれ罪に問われる可能性、また、戦後の日本の立場を慮ってのことではないかという気がするのである。
 死刑を潔く受け止めることができるは、自らの過ちを認めているからではないかと思う。「百人斬り競争」が、もし虚構であり浅海記者の創作であれば、やってもいない創作記事のために裁かれることに関して、もう少し踏み込んだ記述があって然るべきではないか、とも思う。

 向井少尉も同様に
我は天地神明に誓い捕虜住民を殺害せる事全然なし。南京虐殺事件等の罪は絶対に受けません。死は天命と思い日本男子として立派に中国の土になります。然れ共魂は大八州島に帰ります。
 と書いているが、あまりにも潔い。そして、
公平な人が記事を見れば明かに戦闘行為であります。犯罪ではありません。記事が正しければ報道せられまして賞讃されます。書いてあるものに悪い事は無いのですが頭からの曲解です。
と書いているのであるが、この文章で「百人斬り競争」の事実を否定しているのではないことがわかる。「戦闘行為」であり、「捕虜住民を殺害せる犯罪」ではないというのである。


 しかしながら、向井少尉も、野田少尉も、戦場で連日日本刀を振り回す白兵戦を強いられるような立場になかったことはよく知られている。2人は同じ第十六師団・第九連隊・第三大隊所属であり、野田少尉は第三大隊の副官、向井少尉は歩兵砲小隊の小隊長である。
 また、第十六師団を率いた中島今朝吾師団長(陸軍中将)が、その日記に「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルコトヽナシタレ共…」と書いていることもよく知られている。そして、多数の第十六師団諸聯隊の将兵が陣中日記等に捕虜殺害の事実を書き留めている(452南京事件 第16師団歩兵第33聯隊 元日本兵の証言・453南京事件 師団命令の虐殺 元日本兵の証言・454南京事件 陥落後も続く集団虐殺 元日本兵の証言等参照)。したがって、「百人斬り競争」は「捕虜殺害」の可能性が大きいのではないかと思う。
 ただ、関係指揮官や戦友が裁かれ罪に問われる可能性、また、戦後の日本の立場を考えれば、どうしても「捕虜殺害」を認めることは出来ないため、「捨て石」やむなしとして、「捕虜殺害」の「処刑」を受け入れながら、「戦闘行為」と主張したのではないか。死刑を潔く受け入れているのは、そういうことではないかと推察する。

 少なくても、「百人斬り競争」がまったくの虚構であるとか、「東京日日新聞」の浅海記者が創作したものであるということは、下記を読めば、あり得ないと思われる。向井少尉は、「野田君が、新聞記者に言つたことが記事になり……」と書いている。また、「浅海さんも悪いのでは決してありません。我々の為に賞揚してくれた人です」とも書いて言いる。さらに「浅海様にも御礼申して下さい」とまで書いているのである。浅海記者の創作記事によって処刑されることになったのであれば、そういう言葉は出てこないであろう。

  下記、資料1、野田少尉の遺書は12月20日から1月28日の日記の一部を、資料2、向井少尉の遺書は全文を、『世紀の遺書』巣鴨遺書編纂会(講談社)から抜粋した。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
              日支の楔とならん
                                野田毅 
                      鹿児島県出身 陸軍士官学校卒業 元陸軍少佐 
                      昭和23年1月28日、広東にて銃殺刑。35歳
   遺書(日記より)
    昭和22年12月20日
 公判は12月18日南京市の公会堂の様な処でありました。雪の降る寒い日でしたが聴衆が一杯でした。女子供もいました。

 日本男児として恥ずかしくない態度で終始しました。「今迄の戦犯公判では一番立派な態度でした。」と後から通訳官や其他の人から聞きました。最後の檜舞台のつもりで大音声で答弁致しました。従来の公判では死刑を宣告された瞬間拍手があつたり、或は民衆の喧々轟々たる声があつたらしいですが吾々の時は終始静粛でありました。中国の民衆も耳を傾けて吾々の云ふ事を聞いていた様で吾々に対する悪い感情といふ様な雰囲気は別に感じられませんでした。最終発言では一言一句力をこめて申し上げました。一緒に公判を受けた向井君(向井敏明少佐)は長時間ねばつて答弁しました。田中さん(田中軍吉少佐)は聴衆の方々に向かつて「私の死刑は問題ではありません。中国と日本との親善の楔となれば幸いです」と云ふ意味の熱弁を振い、将に鉄火が白熱して飛び散る観がありました。

 公判の最後に死刑の宣告がありましたが別に感動も何もなく、まるで他人事の様な気がして、自分で自分が不思議な位平然としていました。田中さんは私と同じく身動きもせず毅然としていました。帰途の自動車(トラック)の上では田中さんが「海ゆかば」を歌い向井君も之に和していました。 

12月30日
 今日は30日明31日を1日余すのみとなつた。向井君は昨夜一睡もせず田中さんは徹夜して遺書を誌した由。私は太平記を読み疲れて寝てしまつた。
 私は幼時は負け嫌いで、そのくせよく泣く神経の鋭い男だつたと思う。だが、何時の間にか神経の鈍い男になつてしまつた。寸前の死の観念が心臓にも神経にも何等響きを持つて来ない。死に対する恐怖がない。死が直前にぶらさがつていても食事前の気分、読書の気分と何等変りがない。と云つて全然死を忘却しているわけでもない。面白い心理だ。

 戦争では気がたつて興奮しているから死を考えもしなければ、たとえ死を考えても尽忠報国の気分が之を圧倒していた。
 然し平静な時に死刑を宣告されて平静心のままで居られることは私も35才にして初めて到達し得た大丈夫の心境だと思う。古今東西の聖人、賢士、哲人、高僧、偉人、武将、も結局私と同じ心境だと信ずるに到つた。

 つまらぬ戦争は止めよ。曾つての日本の大東亜戦争のやり方は間違つていた。独りよがりで、自分だけが優秀民族だと思つたところに誤謬がある。日本人全部がそうだつたとは言わぬが皆思い上つていたのは事実だ。そんな考えで日本の理想が実現する筈がない。
 愛と至誠のある処に人類の幸福がある。  
 死刑執行の前日である。爪を取る。故郷への形見である。
 天皇陛下万事!
 中華民国万歳!
 日本国万歳!
 東洋平和万歳!
 世界平和万歳!
 死して護国の鬼となる。
絶唱
 君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで 
 昭和22年12月31日 朝
  死刑執行の日                                                野 田  毅
 我は日本男児なり
 昭和22年12月31日

1月28日
 南京戦犯所の皆様、日本の皆様さようなら。雨花台に散るとも天を怨まず人を怨まず日本の再建を祈ります。万歳、々々、々々

  死刑に臨みて
 此の度中国法廷各位、弁護士、国防部の各位、蒋主席の方々を煩はしました事につき厚くお礼申し上げます。
 只俘虜、非戦斗員の虐殺、南京虐殺事件の罪名は絶対にお受けできません。お断り致します。死を賜りました事に就ては天なりと観じ命なりと諦め、日本男児最後の如何なるものであるかをお見せ致します。
 今後は我々を最後として我々の生命を以て残余の戦犯嫌疑者の公正なる裁判に代えられん事をお願ひ致します。
 宣伝や政策的意味を以つて死刑を判決したり、或は抗戦8年の恨みを晴さんが為、一方的裁判をしたりされない様祈願致します。
 我々は死刑を執行されて雨花台に散りましても貴国を怨むものではありません。我々の死が中国と日本の楔となり、両国の提携となり、東洋平和の人柱となり、ひいては世界平和が到来することを喜ぶものであります。何卒我々の死を犬死、徒死たらしめない様、これだけを祈願致します。
 中国万歳
 日本万歳
 天皇陛下万歳
                                                            野 田  毅

資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

                                                            向 井 敏 明
                                                                          千葉県。元陸軍少佐。昭和23年1月20日                                                                                           南京に於て銃殺刑。36歳
時世
 我は天地神明に誓い捕虜住民を殺害せる事全然なし。南京虐殺事件等の罪は絶対に受けません。死は天命と思い日本男子として立派に中国の土になります。然れ共魂は大八州島に帰ります。
 我が死を以て中国抗戦8年の苦杯の遺恨流れ去り日華親善、東洋平和の因ともなれば捨て石となり幸ひです。
 中国の奮闘を祈る 
 日本の敢奮を祈る

 中国万歳
 日本万歳
 天皇陛下万歳
死して護国の鬼となります。
12月31日 10時 記す                                             向 井 敏 明

遺書
 母上様不幸先立つ身如何とも仕方なし。努力の限りを尽くしましたが我々の誠を見る正しい人は無い様です。恐ろしい国です。
 野田君が、新聞記者に言つたことが記事になり死の道づれに大家族の本柱を失はしめました事を伏して御詫びすると申伝え下さい、との事です。何れが悪いのでもありません。人が集つて語れば冗談も出るのは当然の事です。私も野田様の方に御詫びして置きました。
 公平な人が記事を見れば明かに戦闘行為であります。犯罪ではありません。記事が正しければ報道せられまして賞讃されます。書いてあるものに悪い事は無いのですが頭からの曲解です。浅海さんも悪いのでは決してありません。我々の為に賞揚してくれた人です。日本人に悪い人はありません。我々の事に関しては浅海、富山両氏より証明が来ましたが、公判に間に合いませんでした。然し間に合つたところで無効でしたろう。直ちに証明書に基いて上訴しましたが採用しないのを見ても判然とします。富山隊長の証明書は真実で嬉しかつたです。厚く御礼を申上げて下さい。浅海氏のも本当の証明でしたが一ヶ条だけ誤解をすればとれるし正しく見れば何でもないのですがこの一ヶ条(一項)が随分気に掛りました。勿論死を覚悟はして居りますものゝ、人情でした。浅海様にも御礼申して下さい。今となつては未練もありません。富山、浅海御両人様に厚く感謝して居ります。富山様の文字は懐かしさが先立ち氏の人格が感じられかつて正しかつた行動の数々を野田君と共に泣いて語りました。

 猛の苦労の程が目に浮び、心配をかけました。苦労したでせう。済まないと思います。肉親の弟とは云い乍ら父の遺言通り仲よく最後まで助けて呉れました。決して恩は忘れません。母上からも礼を言つて下さい。猛は正しい良い男でした。兄は嬉しいです。今回でも猛の苦労は決して水泡ではありません。中国の人が証明も猛の手紙も見たのです。これ以上の事は最早天命です。神に召さるゝのであります。人間のすることではありますまい。母の御胸に帰れます。今はそれが唯一の喜びです。不幸の数々を重ねて御不自由の御身老体に加え孫2人の育成の重荷を負せまして不孝これ以上のものはありません。残念に存じます。何卒此の罪御赦し下さい。必ず他界より御護りいたします。二女が不孝を致しますときは仏前に座らせて言い聞かせて下さい。父の分まで孝行するようにと。体に充分注意して無理をされず永く
生きて下さい。必ずや楽しい時も参ります。それを信じて安静に送つて下さい。猛が唯一人残りました。共に楽しく暮して下さい。母及び二女を頼みましたから相当苦労する事は明らかですからなぐさめ優しく励ましてやつて下さい。いせ子にも済まないと思います。礼を言つて下さい。皆に迷惑を及ぼします。此上は互いに相助けていつて下さい。千重子が復籍致しましても私の妻に変りありませんから励まし合つて下さい。正義も二女もある事ですから見てやつて下さい。女手一つで成し遂げる様私の妻たる如く指導して下さい。可哀想に之も急に重荷を負わされ力抜けのした事、現実的に精神的に打撃を受け直ちに生きる為に収入の道も拓かねばなりますまい。乳呑子もあつてみれば誠にあわれそのもの生地獄です。奮闘努力励ましてやつて下さい。恵美子、八重子を可愛がつて良き女性にしてやつて下さい。ひがませないで正しく歩まして両親無き子です。早く手に仕事のつくものを学ばせてやつて下さい。入費の関係もありますので無理には申しません。猛とも本人等とも相談して下さい。

 母上様敏明は逝きます迄呼んで居ります。何と言つても一番母がよい。次が妻子でしょう。お母さんと呼ぶ毎にはつきりとお姿が浮かんで来ます。子供等も家も浮んで来ます。ありし日の事柄もなつかしく映つて
来ます。母上の一生は苦労心痛をかけ不孝の連続でたまらないものを感じます。赦して下さい。私の事は世間様にも正しさを知つていたゞく日も来ます。母上様も早くこの悲劇を忘れて幸福に明るく暮らして下さい。心を沈めたり泣いたりぐちを言わないで再起して面白く過ごして下さい。母の御胸に帰ります。我が子が帰つたと抱いてやつて下さい。葬儀も簡単にして下さい。常に母のそばにいて御多幸を祈り護ります。御先に参り不孝の罪くれぐれも御赦し下さい。石原莞爾様に南京に於て田中軍吉氏野田君と3名で散る由を伝達して生前の御高配を感謝していたと御伝へ願います。

日記の中より
 今日31日執行せられると言ふ朝は何一つとして頭心慾と言ふべきものは無かつた。然し之も正確には言へない弱さがある。血の流れある限りとも言ふべし。立派に武人らしく斃れよう安らかに我家に還らんと服装を正して待つた。思つたより平静で居られたのは不思議でならない。時間の経つのも長い様にも短い様にも思つた。正確には判断が出来ない。合掌をして居たと言ふ事より記憶がない。唯日常より真剣に合掌が出来たと言ふ満足があるのみで陽が西に廻つて来た頃今日はもう無いよと野田君が言ふと田中氏が奇蹟現出だ、我々は助かると喜びの声が震えて壁に打ち当つて聞える。突然生への愛着を覚えて来た。空腹を感じる。今朝向ふの人に渡した味噌が欲しくなつて来た。生きていると美味い煙草だと田中氏が笑つて呼びかけて来た。本当だ、自分も同調、明日は正月だ、3日間は大丈夫と言い合つたら各々御馳走が来るだろうと楽しみにした。楽しみつゝ早寝した。精神的の疲れとでも言おうか追ひ込まれるような眠たさだ。何時か誰かに聞いたが死ぬ前は馬鹿にねむたいと言ふ事を思ひ出した。或はそうかなとも思ひうとうとする。

 元旦、気が抜けた。未だ奥歯に物の在る元旦で限られた3日正月の様に淋しい感じがする。声を張り上げて君が代を唱つた。野田君の部屋からも聞えて来た。念仏を暁方から始めて居たが念仏を念ずるときが一番幸福だと感じた。君が代を唱つて番兵に階上に上官が寝て居るので静かにせよと注意される。やつぱり念仏に限る楽しさが増して来る。朝食前マンヂウが5ヶ宛来た、万寿とは上々と田中氏喜ぶ。味は全然無いが美味しかつた。2つは本当に呑んだやうだつた。料理が十時頃来たが獄舎で作つたとの事。80万元か90万元の料理だと言つて居たが成程とうなづけるものばかりだ。碗一杯と小皿一杯ではあつたが3人喜んで喰ふ。生きて居ないと駄目だよ、マンジウも喰はないで供えて貰ふところだつたねと、田中氏のにこにこ笑う顔が見える様だ。満腹すれば寝正月より他になし。29日、30日夜寝ずに遺書を書き念仏を唱えて居たので風邪を引き咳が出て苦しめられる。3日目の今日あたり少々楽になつて来た。3日間喰つては寝るの正月だつた。この3日が人生の一番ゆつたりとした日になるだろう。生きて居れば思い出の日だ。

 昭和23年1月28日、様子が変である。最後の様である。28日午前12時南京雨花台にて散る。
 母上様、妻子元気で幸福に生きて下さい。頑張つて下さい。さようなら。
 母上様御恩の万分の一も尽されず、先立つ不孝を御赦し下さい。孫等のためいついつまでも永生きして下さい。後をたのみます。

 皇室のいや栄を護り奉る
 天皇陛下 万歳
 日本国  万歳
 平和日本の再建
国民一同の御奮闘を祈る  
 誓つて国家を護り奉る 

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「南京大虐殺」への大疑問?NO3

2015年05月25日 | 日記

  『南京大虐殺」への大疑問』松村俊夫(展転社)には、見逃すことの出来ない指摘がある。それは「捕虜」の「釈放」に関するものであり、「日本軍の捕虜殺害と釈放」と題された文章の中にある。

 著者は「南京戦のとき、日本軍として非難されても止むを得ない捕虜殺害があったことは書いておかなければならない」と「捕虜殺害」があったことを認めている。そして、「宇都宮百十四師団の第六十六連隊第一大隊戦闘詳報」によって判明しているとして、笠原十九司氏の『南京事件』から、下記を引用しているのである。少々長いが、大事な記述だと思うので、そのまま孫引きしたい。

〔12月12日午後7時ごろ〕最初の捕虜を得たるさい、隊長はその3名を伝令として抵抗を断念して投降せば、助命する旨を含めて派遣するに、その効果大にしてその結果、我が軍の犠牲をすくなからしめたるものなり。捕虜は鉄道線路上に集結せしめ、服装検査をなし負傷者はいたわり、また日本軍の寛大なる処置を一般に目撃せしめ、さらに伝令を派して残敵の投降を勧告せしめたり。
 〔12日夜〕捕虜は第4中隊警備地区内洋館内に収容し、周囲に警戒兵を配備し、その食事は捕虜20名を使役し、徴発米を炊さんせしめて支給せり。食事を支給せるは午後10時ごろにして、食に飢えたる彼らは争って貪食せり。
 〔13日午後2時〕連隊長より左の命令を受く。
旅団(歩兵第127旅団)命令により捕虜は全部殺すべし。その方法は十数名を捕縛し逐次銃殺してはいかん。
 〔13日夕方〕各中隊長を集め捕虜処分につき意見の交換をなさしめたる結果、各中隊に等分に配分し、監禁室より50名宛連れだし、第一中隊は路営地南方谷地、第三中隊は路営地西南方凹地、第四中隊は路営地東南谷地付近において刺殺せしむることとせり。
(中略)各隊ともに午後5時準備終わり刺殺を開始し、おおむね午後7時30分刺殺を終わり、連隊に報告す。第一中隊は当初の予定を変更して一気に監禁し焼かんとして失敗せり。
捕虜は観念し恐れず軍刀の前に首をさし伸ぶるもの、銃剣の前に乗り出し従容としおるものありたるも、中には泣き喚き救助を嘆願せるものあり。特に隊長巡視のさいは各所にその声おこれり。(『南京戦史資料集』678頁)

 そして、著者はこの文章に関して

戦闘詳報によると、この捕虜は千五百名余は、12月12日に南京城外で戦っていた支那軍が味方によって城門を閉ざされ、日本軍は退路を失った彼らを城壁南側のクリークに圧迫して殲滅するばかりだった。彼らは味方にも見捨てられた哀れな兵たちだった。その内訳は、将校18、下士官1639だったとある。
 このときの旅団命令、連隊命令は確認できていないが、執行当事者の困惑ぶりが伝わってくるような気がする。これを氷山の一角と考えるか、または特異な例として直視するかは、今後、読者が判断されることである。
 なお、戦闘詳報に基づく捕虜処断を書いたから、同じく戦史に残っている鹿児島歩兵第四十五連隊第二大隊第十二中隊戦闘詳報中にある下関地区での約五千五百名の捕虜全員釈放の記録も並列して述べておかなければならない。彼らは、12月14日午前、南京の西を北上して挹江門西側に進出してきた日本軍に投降したもので、北から南下した佐々木支隊が江上に逃亡せんとしていた敗残兵を発見するより前のことだった(『南京戦史資料集Ⅱ』319頁)
 他にも釈放の記録は多いが、敢えてこれ以上触れず先へむ進。

と書いている。しかしながら、捕虜殺害にかかわる記述は、何も「宇都宮百十四師団第六十六連隊第一大隊戦闘詳報」だけではない。著者が引用している笠原十九司氏の『南京事件』では、宇都宮百十四師団第六十六連隊第一大隊の捕虜殺害の記述の前に、第十六師団の捕虜殺害の記述がある。すでに一部を抜粋しているが、捕虜殺害に関しては、第16師団歩兵第三十三聯隊同師団第二十連隊、また、第十三師団山田支隊などにもいろいろな資料がある。
 なぜ、著者は、あたかも他には捕虜殺害がなかったかのように「宇都宮百十四師団の第六十六連隊第一大隊戦闘詳報」だけを取り上げ、「これを氷山の一角と考えるか、または特異な例として直視するかは、今後、読者が判断されることである」などと、一つの事実で、読者に判断させようとするのか、疑問なのである。

 また逆に、なぜ「他にも釈放の記録は多いが、敢えてこれ以上触れず先へ進む」として、他の「捕虜釈放」の記録をきちんと示さないのであろうか。私は、南京戦に関わる陣中日記や元日本兵の手記などを読むたびに、捕虜殺害の記述をくりかえし目にしたが、「捕虜釈放」の事実を記したものは、ほとんど目にしていない。「釈放の記録は多い」とは思えないのである。

 捕虜を釈放したという「鹿児島歩兵第四十五連隊」が属していた「第十軍」には、下記のような事実や命令があったことも考慮しなければならないと思う。 

 1937年12月13日の南京陥落前日、揚子江上において、危険を避けるためにくり返し所在を日本側に伝えていた米国アジア艦隊揚子江警備船「パナイ号」を爆撃し沈没させたのは日本海軍機であったが、英国砲艦のレディーバード号及び同型艦のビー号に砲撃を加えたのは、橋本欣五郎大佐の指揮する第十軍野戦重砲兵第十三連帯であった。そして、レディーバード号旗艦艦長と領事館付陸軍武官およびビー号に乗艦の参謀長から抗議を受けているが、その時、第十軍野戦重砲兵第十三連帯を指揮する橋本大佐が、「長江上のすべての船を砲撃せよ」」との命令を受けていたという。
 それは、12月11日午後6時に、南京より退却する中国軍を撃滅するために第十軍が発した

1、敵は十数隻の汽船に依り午後4時30分南京を発し上流に退却中なり、尚今後引続き退却するものと判断せらる
2、第18師団(久留米)は蕪湖付近を通過する船は国籍の如何を問わず撃滅すべし

という命令であるという。
 この命令は、中国軍が外国国旗を掲揚して外国船に偽装した中国船に乗船したり、あるいは外国船を借用したり、さらには中国軍に味方した外国船に護送されて、南京からの脱出を図っているという情報が日本側に流布されていたために発せられたのだという。
 
 「南京より退却する中国軍を撃滅する」ということは、捕虜とした投降兵や敗残兵を「釈放」することとは相容れない。特別な事情があって、例外的に捕虜を釈放することは考えられるかもしれないが、中支那方面軍や第十軍の命令としては考えられないことだと思うのである。軍命令に含まれる「撃滅」とか「殲滅」という表現からも、「捕虜釈放」は考えにくい。だから、捕虜釈放の記録を明示すべきだと思ったのである。
 また、丁集団(第十軍)命令 (丁集作命甲号外)でも  
    一、集団は南京城内の敵を殲滅せんとす
    一、各兵団は城内にたいし砲撃はもとより、あらゆる手段をつくして敵を殲滅すべし、これがため要すれば城内を焼却し、特に敗敵の欺瞞行為に乗せられざるを要す

とある。「城内を焼却」してでも「殲滅」せよというのである。敵兵であったものは逃がさないということではないかと思う。さらに、12月2日の丁集団命令(丁集作命甲第50号)には、下記のような中国兵の退路を遮断せよとの命令もある。

六、国崎支隊ハ広徳ー建平ー水陽鎮ー太平府道方面ヨリ揚子江左岸ニ渡河シ爾後浦口附近ニ進出シ敵ノ退路ヲ遮断スヘシ

 こうした作戦や命令は、どれも「捕虜釈放」とは結びつかないのではないかと思う。

 著者が指摘している「鹿児島歩兵第四十五連隊第二大隊第十二中隊戦闘詳報」の記述の詳細を確かめるべく、『南京戦史資料集Ⅱ』を開いたが、版が違うのか、319頁は「山田栴二日記」(第十三師団、歩兵第百三旅団長:少将)の記述であった。また、文章がやや複雑で、どういう資料に記述があるのかはっきりしない面もあるが、手元の『南京戦史資料集Ⅱ』にはその記述はなかった。

 なお、「山田栴二日記」には、捕虜の釈放ではなく、逆に、下記のような「捕虜」の「始末」(殺害)(同書では「仕末」となっている)に関する記述がある。12月15日には「皆殺セトノコトナリ」とあるが、山田旅団長に命令できるのは、師団あるいは上海派遣軍、さらには、中支那方面軍ということになるのではないかと思う。
ーーー
 12月14日 晴
 他師団ニ砲台ヲトラルルヲ恐レ午前4時半出発、幕府山砲台ニ向フ、明ケテ砲台ノ附近ニ到レバ投降兵莫大ニシテ仕末ニ困ル
 幕府山ハ先遣隊ニ依リ午前8時占領スルヲ得タリ、近郊ノ文化住宅、村落等皆敵ノ為ニ焼レタリ 
 捕虜ノ仕末ニ困リ、恰モ発見セシ上元門外ノ学校ニ収容セシ所、14777名ヲ得たタリ、斯ク多クテハ殺スモ生カスモ困ツタモノナリ、上元門外ノ3軒屋ニ泊ス

 12月15日 晴
 捕虜ノ仕末其他ニテ本間騎兵少尉ヲ南京ニ派遣シ連絡ス
 皆殺セトノコトナリ
 各隊食糧ナク困却ス

 12月16日 晴
 相田中佐ヲ軍ニ派遣シ、捕虜ノ仕末其他ニテ打合ハセヲナサシム、捕虜ノ監視、誠ニ田山大隊大役ナリ、砲台ノ兵器ハ別トシ小銃5千重機軽機其他多数ヲ得タリ

 12月17日 略

 12月18日 晴
 捕虜ノ仕末ニテ隊ハ精一杯ナリ、江岸ニ之ヲ視察ス

 12月19日 晴
 捕虜仕末ノ為出発延期、午前総出ニテ努力セシム
 軍、師団ヨリ補給ツキ日本米ヲ食ス

ーーー
さらに、『南京戦史資料集Ⅰ』には、第十六師団の師団長に、下記の文章があることも、再度確認したい。
ーーー
                     中島今朝吾日記
                                  第十六師団長・陸軍中将15期

12月13日  天気晴朗 

一、天文台附近ノ戦闘ニ於テ工兵学校教官工兵少佐ヲ捕ヘ彼ガ地雷ノ位置ヲ知リ居タルコトヲ承知シタレバ彼ヲ尋問シテ全般ノ地雷布設位置ヲ知ラントセシガ、歩兵ハ既ニ之ヲ斬殺セリ、兵隊君ニハカナワヌカナワヌ

一、本日正午高山剣士来着ス
   捕虜7名アリ直ニ試斬ヲ為サシム
   時恰モ小生ノ刀モ亦此時彼ヲシテ試斬セシメ頸二ツヲ見事斬リタリ


一、大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルコトヽナシタレ共千五千一万ノ群集トナレバ之ガ武装ヲ解除スルコトスラ出来ズ唯彼等ガ全ク戦意ヲ失ヒゾロゾロツイテ来ルカラ安全ナルモノヽ之ガ一旦騒擾セバ始末ニ困ルノデ部隊ヲトラックニテ増派シテ監視ト誘導ニ任ジ13日夕ハトラックノ大活動ヲ要シタリ乍併戦勝直後ノコトナレバ中ゝ実行ハ敏速ニハ出来ズ、斯ル処置ハ当初ヨリ予想ダニセザリシ処ナレバ参謀本部ハ大多忙ヲ極メタリ

一、後ニ到リテ知ル処ニ依リ佐々木部隊丈ニテ処理セシモノ約1万5千、太平門ニ於ケル守備ノ一中隊ガ処理セシモノ約1300其仙鶴門附近ニ集結シタルモノ約7~8千人アリ尚続々投降シ来タル

一、此7~8千人、之ヲ片付クルニハ相当大ナル壕ヲ要シ中々見当ラズ一案トシテハ百 2百ニ分割シタル後適当ノケ処ニ誘キテ処理スル予定ナリ

一、此敗残兵ノ後始末ガ概シテ第十六師団方面ニ多ク、従ツテ師団ハ入城ダ投宿ダナド云フ暇ナクシテ東奔西走シツヽアリ 


ーーー
 したがって、「捕虜」の「釈放」があったとすれば、それは極めて例外的なことだったのではないかと思う。著者が”他にも釈放の記録は多いが、敢えてこれ以上触れず先へ進む。”ということが納得できない。

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「南京大虐殺」への大疑問? NO2

2015年05月18日 | 日記

 『南京大虐殺」への大疑問』松村俊夫(展転社)の著者は、その第3部『検証・ラーベの日記』の第一章の「アメリカ人に手なずけられたラーベの苦闘」のなかで、立花隆氏を批判して

「目から鱗が落ちる」という表現がある。つまり、目に「先入観」という鱗がはまっていては、立花隆といえども、いかなる文章もその鱗を通してしか理解し得ないことを意味している。

と書いている。私は、これは全く逆であると思う。著者が「南京大虐殺」はなかったという「結論」を前提(鱗)にして関連の書物を読む結果なのだと思うのである。

 第4章の中には『ラーベを信じている「日本人を知らない」日本人』という部分がある。そこでは文芸評論家・福田和也氏の「ジョン・ラーベの日記『南京大虐殺』をどう読むか」(「諸君!」平成9年12月号)のなかの文を引用して、下記のように批判している。しかし、下記の文章には2つの問題があると思う。

”<日本兵は哀れであった。ただ彼等は生命を賭けて敵と戦わなければならなかっただけではない。気の遠くなる程広い異郷の大地で、いかに収拾するかという目処も、戦争目的すらはっきりしない戦いに駆り出され、食料を得るために近隣の村を歩き回り、それでも満足に食事にありつけず、重い荷物を背に毎日50キロ近くの行軍を行い、貧弱な装備で激戦を戦い、胞輩を失い、パルチザンによる襲撃に脅えながら眠り、マラリア等の疾病に悩まされた。その上で彼等が、南京でこれまた哀れな中国人たちの財物を奪ったり、殴ったり、犯したり、殺したりしたのであれば、人としてこんなに哀れなことがあるだろうか。>
 パルチザンとはフランス語で「正規軍に属さず、ある党派・理念のために自発的に戦う人々をさし、遊撃隊員、便衣隊員などを意味する。ゲリラとほぼ同意義」(『世界歴史大辞典』教育出版センター)のことである。本文中で彼がこの語を頻出させている真意はわからない。はっきりと「便衣隊」と書けば済むことである。
 それにしても、「日本兵の哀れ」との小見出しのあるこの部分は、これから問題にする藤原彰の日本軍観と瓜二つである。(第5部第3章参照)「日本軍」ではなくて、「日本軍将兵」への個人的な誹謗になることを彼が気づいているのかどうか、当時の日本人の持っていた価値観の実情にうとい戦後派論客の所論の典型である。戦争目的もはっきりしていないのに命がけで戦えると思うことが間違いのもとである。

 ひとつは、「パルチザン」を『世界歴史大辞典』を引っ張り出して「便衣隊」と言い換える問題である。
 蒋介石は多くの幕僚の反対を押し切って無理な南京固守作戦を決定したといわれている。加えて、蒋介石によって南京戦の最高指揮官に抜擢された唐生智が、情勢を的確に把握できず、南京防衛軍全軍の撤退命令を出す時期があまりに遅かったという。そして、司令長官部がさきに撤退してしまったために南京防衛軍は指揮系統が完全に崩壊し、日本軍の猛烈な攻撃の前に総崩れとなったのである。その結果、南京防衛軍の兵士たちは、必死に南京脱出を図る敗残兵の群れとなって挹江門などに殺到した。そして、南京城から脱出できなかった敗残兵や長江の渡河手段なく城内にもどった兵士たちが、日本軍の掃蕩から逃れるために武器を捨て、軍服を脱ぎ、平服になって一般避難民と合流したのである。それは、いろいろな立場の人が記録しているが、「ニューヨーク・タイムズ」のF・ティルマン・ダーディン記者の下記の記述でも確認できる。

”日曜日(12日)夜、中国兵は安全区内に散らばり、大勢の兵隊が軍服を脱ぎはじめた。民間人の服が盗まれたり、通りがかりの市民に、服を所望したりした。また、「平服」が見つからない場合には、兵隊は軍服を脱ぎ捨てて下着だけになった。
 軍服といっしょに武器も捨てられたので、通りは小銃、手榴弾・剣・背嚢・軍靴・軍帽などで埋まった。下関門(挹江門)近くで放棄された軍装品はおびただしい量であった。交通部の前から2ブロック先まで、トラック、大砲、バス、司令官の自動車、ワゴン車、機関銃、携帯武器などが積み重なり、ごみ捨て場のようになっていた。(ニューヨーク・タイムズ38年1月9日、『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』)

 南京事件で日本が問われているのは、捕虜とした「投降兵」や「敗残兵」を殺害したり、南京陥落後、武器を捨て平服になった中国兵を避難民の中から見つけ出し、「便衣兵」として殺害したりした国際法違反の「虐殺」の問題である。日本軍に抵抗していた南京陥落前は、中国の兵は軍服であったから、陥落後日本軍の掃蕩から逃れるためにそれを脱ぎ捨てたのであろう。したがって、いわゆる「便衣兵」の殺害は、武器を手にして必死に日本軍と戦っていた陥落前の中国兵の殺害と同様に扱うことはできないはずである。

 また、陥落後の南京城内では、武器を捨て平服になった中国兵は、すでに「隊」と呼べるような組織的な動きなどしていなかったのであり、いわゆる「便衣兵」の殺害を、「パルチザン」という言葉を利用して(「便衣隊」と言い換えて)、あたかも合法であったかのように言い逃れることは許されることではないと思う。著者は、『世界歴史大辞典』を引っ張り出すことによって、パルチザンということばを「便衣隊」と言い換え、武器を捨て平服になった中国兵の殺害を合法であるかのように装っている。そういう意味では、武器を捨て、平服になった中国兵を「便衣兵」と呼ぶことさえも問題であると思う。「便衣兵」というのは、基本的には武器を所持し、抵抗の意志がある者をいうのではないかと思うのである。そして、そうした武器を所持し、抵抗の意志がある「便衣兵」が組織的に活動している時、はじめてそれを「便衣隊」と呼ぶのではないかと思う。
 著者は、「パルチザン」や「便衣隊」、「便衣兵」ということばを敢えてごちゃまぜにし、戦う意志のない「敗残兵」や「投降兵」の殺害を合法であったかのように装っていると思うのである。

 もうひとつは、南京攻略線の「戦争目的」についてである。上海派遣軍が編成されたのは、上海の在留邦人保護のためであった。それは、臨参命第73号に「上海派遣軍司令官ハ海軍ト協力シテ上海附近ノ敵ヲ掃滅シ上海竝其北方地区ノ要線ヲ占領シ帝国臣民ヲ保護スヘシ」とあることで明白である。そして、派遣された兵士の多くが予備役兵・後備役兵で、妻子を残して出征し、上海戦が終われば帰還できると思っていたという。

 「天皇の軍隊と南京事件」(青木書店)で、吉田裕氏は「上海の要衝、大場鎮の攻略を目ざす苛酷な戦闘のなかにあって、兵士たちを精神的に支えていたのは、上海を攻略すれば戦争は終結する、少なくとも自分たちの部隊は交代して故郷に帰れるという期待であった」として、「大場鎮」の陥落は、「戦争は終ったんだ、内地へ帰れるぞという噂が広がった」(第九師団歩兵十九連隊下士官、宮部一三)と、兵士の故郷への帰還の期待を噴出させた事実を示す、いくつかの記述を紹介している。

 もともと上海派遣軍は、陸軍中央が予期も準備もしていなかった日中全面戦争の開始によって、急遽予備役兵・後備役兵を召集し派遣せざるを得なかった臨時の特設師団である。陸軍中央も、まさかその派遣軍が独断で制令線を突破し、南京攻略に向かうとは予想もしていなかった。南京攻略を追認せざるを得なかった参謀総長・載仁親王の発した「大陸命第8号」には「一、中支那方面軍司令官ハ海軍ト協同シテ敵国首都南京ヲ攻略スヘシ」とだけあり、「居留民の保護」というような攻略の目的は明示されていない。当初「支那第29軍の膺懲」を目的として始まった日中戦争が、いつのまにか「対支膺懲」に変わり、南京攻略に向かう事情を、急遽召集され派遣された兵士が理解していたとは思えないのである。
 上海派遣軍司令官に任命された松井石根大将は、出発前から南京攻略の意図をもっていたようであるが、上海の在留邦人保護のために出征を余儀なくされた兵士個々人が、何の目的で他国の首都に攻め込むのか、その「戦争目的」を把握していたという根拠があるだろうか。

 著者は福田和也氏を批判するために、『京都師団関係資料集』の「上羽武一郎日記」から「新東亜建設の大理想の下に戦われたこの聖戦に参加した私の日記である」という文を引いている。そして

例え建前にしろ何にしろ、将兵も国民も、このような気概を持っていたからこそ、命がけで戦い、銃後で働いた。「戦争目的すらはっきりしない」というのは、「当時の国民感情」に対する無知をさらけ出してあまりある言葉である

と書いているが、上海居留民の保護のために急遽出征を余儀なくされた兵士が、上海居留民の保護が達成され一段落したにもかかわらず、さらに「南京攻略」に向かうこととなり、ほとんど補給のない戦場で毎日一般民家からの略奪をくり返しつつ戦うしかなかったのに、、その戦争を「新東亜建設の大理想」のための「聖戦」と受け止めて戦い続けることが可能だったのか疑問である。


 「殺戮を拒んだ日本兵”渡部良三”の歌集から」ですでに引用したが、「捕虜五人突き刺す新兵(ヘイ)ら四十八人天皇の垂れしみちなりやこれ」「縛らるる捕虜も殺せぬ意気地なし国賊なりとつばをあびさる」などという歌を思い出す。また、「夜間行軍にむさぼり眠る小休止新兵互(カタミ)にからだつなぎて」には、<註>として、新兵の夜間行軍の際は、「脱落、落伍、逃亡防止のため、ロープで新兵の体を互いにつながせた」とあった。人間扱いされないような苛酷な戦場で、「新東亜建設の大理想」が末端兵士の心に生きていたとは思えない。

 また、「刺突訓練」という捕虜殺害については、すでに別のところでも、いろいろな資料から抜粋しているが、第五十九師団・師団長・陸軍中将「藤田茂」の自筆供述調書に「兵を戦場に慣れしむる為には殺人が早い方法である。即ち度胸試しである。之には俘虜を使用すればよい。4月には初年兵が補充される予定であるからなるべく早く此機会を作って初年兵を戦場に慣れしめ強くしなければならない」「此には銃殺より刺殺が効果的である」などと、俘虜(捕虜)殺害の教育指示をしたという記述があったことも付け加えたい。訓練のために、捕虜を殺害させたのである。「刺突訓練」で、初年兵に「新東亜建設の大理想」のための「聖戦」の意識が育つとは思えない。

 また、「新東亜建設の大理想」のための「聖戦」を戦う軍隊に、下記のようなことがあり得るだろうか。

 上海戦および南京戦の間に頻発した犯罪事件を「命により」法務部や憲兵隊と連絡をとって調査し、報告書の形でまとめた国府台陸軍病院付の早尾乕雄軍医中尉の「戦場ニ於ケル特殊現象ト其ノ対策」と題した文章の中には、「東洋ノ礼節ノ国ヲ誇ル国民」が「慚愧(ザンキ)ニタエヌ」状況であることを書いた下記のような一節があった。(315「従軍慰安婦」関係文書 NO2参照)

” …勝利者ナルガ故ニ金銀財宝ノ略奪ハ言フニ及バズ、敵国婦女子ノ身体迄(マデ)汚ストハ、誠ニ文明人ノナスベキ行為トハ考エラレナイ、東洋ノ礼節ノ国ヲ誇ル国民トシテ慚愧(ザンキ)ニタエヌ事デアル、昔倭ハ上海ニ上陸シ南京ニ至ル迄、此ノ様ナ暴挙ニ出タ為メニ、非常ニ野蛮人トシテ卑メラレ嫌ハレタトイフガ、今ニ於テモ尚同ジ事ガ繰リ返サルルトハ、何トシタ恥辱デアロウ、憲兵ノ活躍ハ是ヲ一掃セントシ皇軍ノ名誉恢復ニ努力シツツアルコトハ感謝ニタヘヌ次ニ強姦事件ノ実例列挙スル

 「新東亜建設の大理想」は、著者の単なる願望であり、苛酷な戦場にあった日本軍兵士の意識や思いとはかけ離れたものだと思う。残敵掃蕩作戦に取り組んだ第十六師団の佐々木到一支隊長には、下記のような記述がある。

”…その後、俘虜続々投降し来たり数千に達す。激昂せる兵は上官の制止を肯かばこそ、片はしより殺戮する。多数戦友の流血と10日間の辛惨を顧みれば、兵隊ならずとも「皆やってしまえ」と言いたくなる。…”

 付け加えれば、著者が引用した上羽武一郎日記にも、

夕方7時我々車輌病院へ行く途中敵しうに合い生きた気持ちせず、どんどんぱちぱち。歩兵がトラック、ダンットサンに分乗、早速かけつけて何なくげきたいする。話に依れば、3百人程の兵を武装解除して倉庫に入れ、10人ずつ出して殺して居る時、此を見た中のやつがあばれ出し、7、8人で守って居た我兵の内三八の銃をもぎとられ交戦し、其れが逃げてきたらしい。彼等は武装解除して使役にでも使われると思ったらしい。

という記述がある。「10人ずつ出して殺して居る時」は、国際法違反の「捕虜殺害」の記録であろう。著者は日本軍の戦争を「新東亜建設の大理想」のための「聖戦」として戦われたとするために、読み飛ばしているのではないだろうか。

 また、「銃後」の国民はいざ知らず、こうした戦場にあった兵士が、なぜ、「対支膺懲」なのか、なぜ南京を攻略しなければならないのか、その根拠を理解し、日々「新東亜建設の大理想」のための「聖戦」を自覚して戦っていたとは考えられないし、様々な資料が、現実はそんなものでなかったことを示していると思うのである。

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南京事件 一召集兵(東史郎)の記録

2015年03月30日 | 日記

  「わが南京プラトーン 一召集兵の体験した南京大虐殺」東史郎(青木書店)の著者は、戦時中、第十六師団福知山歩兵第二十聯隊第一大隊第三中隊に所属し、歩兵上等兵として南京攻略戦に関わった人である。著者は、帰国の途次マラリアのために下船し、南京病院に入院した。そのため、数ヶ月後に一人帰国し除隊することになったおかげで、自分の行軍「日記」を持ち帰ることができたという。そして、自分自身のために、また、子孫のためにその記録を手記として残す目的で清書したという。彼はその「まえがき」で下記のように書いている。

この本は、加害者としての私の実録であるが、戦争の実相を多くの人に知っていただき、二度と再び日本人が戦争加担しないこと、そして永久に日中友好を発展させることが、戦場で命を失ったわが戦友への最高最大の慰霊であると思う。

と。なぜなら、

強姦・略奪・虐殺・放火……南京占領前後の一ヶ月に繰り広げられた日本軍の悪行を、私はみずから体験し、見聞きした。だが、こうした悪行の数々は、当時日本国民には、いっさい知らされなかった。政府のきびしい言論統制によって、戦場の実相は、国民からおおいかくされたのである。

という現実があったからであり、また、戦後も日本の政府は、そうした歴史の事実を明らかにしようとしてこなかったからであろうと思う。

 また、巻末に寿岳章子氏の「真実をみつめて」という文章があり、それは、”隠蔽からは何も生まれない。真実を知ることからこそ未来への展望がある。”という文章で終わっている。

 現在、日本国内のみならず、海外からも日本の歴史認識に懸念の声があがっている時だけに、印象深い。ここでは、南京陥落の日(12月13日)と、その次の12月21日の前半部分のみを抜粋した。

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 12月13日
 午前7時に整列した。
「南京は、すでに昨夜、陥落せり。わが部隊も、ただ今から入城する!」
中隊長が得意げに宣言した。
 おゝ!ついに落ちたか!
 兵隊たちの顔がゆるみ、肩をたたき合って祝福した。兵士たちの興奮の渦。
 私には、はたと思い当たるふしがあった。昨夜10時ごろに、ぴたりととまった敵の銃声。それが本丸の陥落とともに敗走に移った敵の合図だったのだ。
 もし、中隊長に勇気があったなら、あのとき前進して、我々の手で一番乗りの栄誉を手にできたかもしれないのだった。
 しかし、我々の夜襲によって敵の最後の抵抗は破られ、完全占領が可能になったといえる。

 わが第一分隊は、負傷者の護衛収容を命じられた。私は、分隊長代理として兵7名を連れ、城内に残った。
 残敵の襲撃にそなえ、負傷者3名を地下室へ運ぶ。
 その一人は、手と脚をやられており、昨夜から出血が止まらない。軍医も衛生兵もいないここでは、言葉でなぐさめるより外に何もしてやれない。
 外は小春日和。いたるところに敵兵の死体が転がっている。
 敵は、よほど狼狽して逃げたらしく、幾千という弾薬が封も切らずに放置されていた。
 中山門へ面した方向には、幾重にも張りめぐらされた鉄条網が朝日に光っている。
 足元に、まだ息のある敵兵を見つけた。銃を持ち直し、とどめを刺そうと構えた。
 すると、彼はかすかに目を開き、ぜいぜい鳴る息の下で何かつぶやき、重たげに手をあげた。
 私は殺すのを待った。
 彼は懐中から小さな手帳を出し、震える手で万年筆をにぎった。懸命に何かを書きつけている。それを私にさし出した。
 そこには五文字の漢字が書いてあるのだが、判読できなかった。
 彼は最後の渾身の力をふりしぼって、五文字を書くのがやっとであった。書き終えたとき、かすかな笑みが表情に浮かんだ。
 これは何だろう。本当は何と書いてあるのか。手紙か、それとも遺言だろうか。
 彼の顔には、すでに死相が出ていた。しかし、夢見るような微笑を浮かべていた。
 私は急に、この男をいとおしく感じていた。
 刺殺をためらっている様子を見て大嶋一等兵が「東さん、殺そうか」と聞いた。
「さあ……」──私はあいまいに答えた。
「どうせ死ぬんだから殺そう」と大嶋は剣をかまえた。
「待て。突かずに射ってやれ」
 銃声が響き、男はもう動かなかった。
 後方の塹壕のなかには、白粉(オシロイ)のビンや紅いハンカチ、女物の靴などが散乱していた。娘子軍がいた壕だったのだろう。全員逃げ出せたのか、死体はなかった。
 朝日のなかを我々は身も心も軽く、四方城通りの舗装路を歩いていた。
 高い城壁と堀が現れた。橋は破壊され、人一人がやっと渡れる。中央に三つの大きな門があった。夢にまで見た、あこがれの門だ。突撃する何人もの戦友が傷つき、死んだ門でもある。
「大野部隊、13日午前3時10分占領」
 おゝ、大野部隊の一番乗りだったのか。
 新聞記者がしきりと写真をとっていた。
 どの部隊の兵士の顔も明るく、髭面が笑っている。
 南京市街は、ほとんど破壊されていなかった。どの家も表戸を堅く閉ざし、住民はほとんど歩いていない。
 私たちは口笛を吹きながら歩いた。
 
 「昨日入城式があったんだよ。大野部隊代表として第一大隊が参列した。お前たちがいなかったけれど、入城式に参加したことになっているよ」
 戦友はこういった。
 「あたりまえだよ。最後まで戦闘に参加したのだし。命令で負傷者の収容に残ったのだから」
 私たちが広場に集合して歩哨配置から宿舎割に時を過ごしているうちに、突然捕虜収容の命令が来た。
 捕虜は約2万だという。私たちは軽装で強行軍した。
 夕暮が足元に広がり、やがて夜の幕が下がり、すっかり暗くなって星がまたたいても歩いていた。
 3、4里も歩いたと思われる頃、無数の煙草の火が明滅し、蛙のような喧噪をきいた。約7千人の捕虜が畑の中に武装を解除されて坐っている。
 彼らの将校は、彼ら部下を捨て、とっくに逃亡してしまい、わずかに軍医大尉が一人残っているだけである。彼らが坐っている畑は道路より低かったので、一望に見渡すことができた。

 枯枝に結びつけた2本の、夜風にはためく白旗をとり巻いた7千の捕虜は壮観な眺めである。
 あり合わせの白布をあり合わせの木枝に結びつけて、降参するために堂々と前進して来たのであろう様を想像するとおかしくもあり哀れでもある。
 よくもまあ、二個聯隊以上もの兵力を有しながら何らの抵抗もなさず捕虜になったものだと思い、これだけの兵力には相当な数の将校がいたに違いないが、一名も残らずうまうまと逃げたものだと感心させられる。我々には二個中隊いたが、もし、7千の彼らが素手であるとはいえ、決死一番反乱したら2個中隊くらいの兵力は完全に全滅させられたであろう。

 我々は白旗を先頭に四列縦隊に彼らを並べ、ところどころに私たちが並行して前進を開始した。
 綿入れの水色の軍服に綿入れの水色の外套を着、水色の帽子をかぶった者、フトンを背負っている者、頭からすっぽり毛布をかぶっている者、アンペラを持っている者、軍服をぬぎ捨て普通人に着がえしている者、帽子をかぶっている者、かぶらない者、12、3の少年兵から40歳前後の老兵、中折帽子をかぶって軍服を着ている者、煙草を分けてのむ者もあれば、一人でだれにもやらないでのむ者もあり、ぞろぞろと蟻のはうように歩き、浮浪者の群れのような無知そのものの表情の彼ら。

 規律もなく秩序もなく無知な緬羊(メンヨウ)の群れは闇から闇へこそこそとささやきつつ、歩いていく。
 この一群の獣が、昨日までの我々に発砲し我々を悩ませていた敵とは思えない。これが敵兵だと信ずることはどうしてもできないようだ。
 この無知な奴隷たちを相手に死を期して奮戦したかと思うと全く馬鹿らしくなってくる。しかも彼らの中には12、3歳の少年さえ交じっているではないか。
 彼らはしきりにかわきを訴えたので、仕方なく私は水筒の水をあたえた。これは一面彼らが哀れにも思えたからである。休憩になると、彼らは再三こうたずねた。
 「ウォデー、スラスラ?(私は殺されるのか)」
 彼らにとってもっとも重大なことは、今後いかに処置されるかである。彼らはそれが不安でならないといった顔付きである。私は、顔を横に振って、この哀れな緬羊に安心を与えた。
 夜が深まるにつれて冷えびえとした寒気が増した。
 下キリン村のとある大きな家屋に到着し、彼らを全部この中へ入れた。彼らはこの家の中が殺戮場ででもあるかのように入ることをためらっていたが仕方なくぞろぞろと入っていった。戦友のある者は、門を入っていく彼らから、毛布やフトンをむしりとろうとし、とられまいと頑張る捕虜と争っていた。

 捕虜の収容を終わった私たちは、コンクリートの柱と床だけ焼け残った家に、宿営することになった。
 翌朝わたしたちは郡馬鎮の警備を命ぜられた。私たちが郡馬鎮の警備についている間に捕虜たちは各中隊へ2、3百人ずつあて、割あてられて殺されたという。
 彼らの中にいた唯一の将校軍医は、支那軍の糧秣隠匿所を知っているからそれで養ってくれと言ったとか。

 なぜこの多数の捕虜が殺されたのか、私たちにはわからない。しかし何となく非人道的であり、悲惨なことに思えてならない。私には何となく割り切れない不当なことのように思える。7千の生命が一度に消えさせられたということは信じられないような事実である。
 戦場では、命なんていうものは、全く一握りの飯よりも価値がないようだ。
 私たちの生命は、戦争という巨大なほうきにはき捨てられていく何でもないものなのだ──と思うと、戦争にはげしい憎悪を感じる。

12月21日
 南京城内の整備を命じられ、郡馬鎮を去る。
 中山通りにある最高法院は、灰色に塗られた大きな建物である。日本の司法省にあたろうか。
 法院の前にぐしゃりとつぶれた自家用車が横倒しになっていた。道路の向こう側に沼があった。
 どこからか、一人の支那人が引っぱられてきた。戦友たちは、仔犬をつかまえた子供のように彼をなぶっていたが、西本は惨酷な一つの提案を出した。

 つまり、彼を袋の中に入れ、自動車のガソリンをかけ火をつけようというのである。
 泣き叫ぶ支那人は、郵便袋の中に入れられ、袋の口をしっかり締められた。彼は袋の中で暴れ、泣き、怒鳴った。彼はフットボールのようにけられ、野菜のように小便をかけられた。ぐしゃりとつぶれた自動車の中からガソリンを出した西本は、袋にぶっかけ、袋に長い紐をつけて引きずり回せるようにした。
 心ある者は眉をひそめてこの惨酷な処置を見守っている。心なき者は面白がって声援する。
 西本は火をつけた。ガソリンは一度に燃えあがった。と思うと、袋の中で言い知れぬ恐怖のわめきがあがって、こん身の力で袋が飛びあがった。袋はみずから飛びあがり、みずから転げた。
 戦友のある者たちは、この残虐な火遊びに打ち興じて面白がった。袋は地獄の悲鳴をあげ、火玉のようにころげまわった。
 袋の紐を持っていた西本は、
「オイ、そんなに熱ければ冷たくしてやろうか」
というと、手榴弾を2発袋の紐に結びつけて沼の中へ放り込んだ。火が消え袋が沈み、波紋のうねりが静まろうとしている時、手榴弾が水中で炸裂した。
 水がぼこっと盛りあがって静まり、遊びが終わった。
 こんな事は、戦場では何の罪悪でもない。ただ西本の残忍性に私たちがあきれただけである。
 ・・・以下略

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