真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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ホロ島の日本軍

2008年02月23日 | 国際・政治

             大戦末期の日本軍の状況と人肉食事件:ホロ島

 ほとんど制海権・制空権を失った大戦末期、日本軍は太平洋の島々はもちろん至る所で補給無き戦いを強いられた。どこの戦場でも食糧なく弾薬無き戦いが記録されている。戦没者の7割以上が餓死および病死であるという説も頷けるのである。その一例として、「敗残の記ー玉砕地ホロ島の記録」藤岡明義(中公文庫)から抜粋する。まず昭和19年8月22日の部分である。

八月二十二日」-------------------------
 東海岸陣地構築状況視察の隊長を護衛す。行って見るとそこの戦友たちは、我々よりもさらに悪い給与で、しかも器具というものが一つもなく、岩を手で掘り起こしているという状態であった。
 サイパン玉砕、東条内閣崩壊と聞く今日、しかも米国は二年前から比島奪回を世界に約束しているのだ。敵上陸の公算最も大なる東海岸、デンガラン湾に円匙(スコップ)一つなき陣地構築だ。明日にもこの海岸に大機動部隊が現れ、上陸用舟艇が押し寄せて来るかも知れぬという時期に立ち至って、今から徒手で陣地を構築せよと言うのだ。「狂気の沙汰」としか思えないが、それが尤もらしく行われ、栄養不良の兵隊が、腹が減るのを気にしながら、一所懸命働いているのだ。
 六十名の兵隊が、二週間かかって造り得たものは、深さ1メートルの壕十坪切りである。もっとも陣地ができても、一門の砲、一丁の銃なしでは致し方あるまいというもの。こう言えば「お前達には、立派な竹槍があるではないか、必勝の信念は百門の砲に勝るのだぞ」と偉い方から御目玉頂戴だ。ひからびて皺のよった竹槍を小脇に抱え込み、隊長を護衛して歩いた

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 当時はどこでも食糧や弾薬を要求すると、「自給しろ」「敵弾敵食で戦え」などという答えが返ってきたのである。「日本軍将兵六千人のうち生還した者はわずかに八十人。アメリカ軍との戦いに三分の一が死し、三分の一がマラリアに斃れ、残り三分の一がモロ族に殺害された」というフィリピン南部の玉砕地ホロ島での凄惨な記録の中から、さらに抜粋する。 私であれば一日で気が狂ってしまいそうな人間の極限状況の連日、「糧秣に関する部隊間の駆引や反目が起り、病人や負傷者の背嚢を強奪する等、忌まわしい争いが頻発」している中での記録である。

死に場所」----------------------------
「自分は、もう死にそうです、最期の水を一杯恵んでください」
「馬鹿野郎。この水は命懸けで汲んできた水だ、貴様にやればこの俺が死んでしまうよ」
「お願いです、一口で結構です」
「うるさいね、お前は何隊だ、自分の隊へ行って貰え」
「……もう……歩け……ま……せ……ん」
 暫くすると瀕死の唸り声が聞こえて来た。

「おい、こら、そんなところで死んだら、後でこっちが臭くて堪らぬ。死ぬのなら向こうへ行ってしね」
「ウーン……ウーン」
「向こうへ行けと言ったら行かぬか、行かぬと蹴飛ばすぞ」  
「ウ──ン、ウ──ン、お願い……です」

「向こうへ行ってくたばれ、この野郎」
「ウ………ン………」
「ああ、もう死にやがったな。この野郎、処置なしだ、人のところへ来て死にやがって。心臓が弱いと、俺のところが死に場所になってしまう」
 こんな会話を聞いても誰一人振り向きもしなかった。我々の周囲には、死体が点々と転がり、腫れ上がり、蛆がわき、悪臭に嘔吐を催した。
 誰も死体を埋むことをしなかった。親しい戦友の死体ですら、埋んである者は殆どいなかった。アバカの葉を切って来て覆ってやるのが、精一杯の餞であった。
 円匙(スコップ)もなく、土を掘る力もなかった

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 下記は、米軍に投降後、米軍と一緒に日本軍誘出に向かったときの記録の一部である。ここでも、人肉食事件があったことが分かる。

友軍誘出」-----------------------------
 そこで、米兵十名が我々と同行してくれることになった。その外に、日本語のよく分かるシナ少年が通訳として加わった。それは我々が毎晩徴発に来たあの開豁地の道であった。私はなお、胸に新たなるこの地獄の道を、無量の感慨に包まれて歩いた。モロが多数集まって来て、我々を日本兵と見るや、憎悪に満ちた眼でみらみつけ、今にも切りつけて来そうなので、私は恐ろしくなって、米軍将校に喰っ付いて歩いた。
 一人のモロが蕃刀に手を掛け、私たちを指し、「この日本兵はこの山におったのか」とシナ少年にきいた。シナ少年は気転をきかせて、「この山ではない、ツマンタンガス山
におったのだ」と答えると「そうか、それならよいが、この山の日本軍は、私の十二歳になる子どもを殺して喰った、出て来れば皆殺しにしてやるのだ」といきり立った。
 私は、その男の持っている腕時計が、見覚えのある深尾軍曹のものであるのに、ぎくりとした

 数十名の日本兵の死体が、足の踏み場もなく転がっており、いずれも丸裸で、あるものは膨れ上がり、ある者は全身蛆に被われ、ある者は半ば白骨となり、甚だしきは土の中から発かれて、すさまじい形相で空を睨んでいた。その中で、あれは誰、これは誰と倒れている場所で想像のつくのがある。それは、我々がおった頃からある屍体や、転進の際残留した者が、そのままの場所で死んでいるものであった。
 文字通り足の踏み場もなかった。米兵は顔をそむけ、悪臭に堪えかねて鼻を被っていた。
 

          http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/
        http://homepage3.nifty.com/pow-j/j/j.htm

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