下記は「済州島、豊栄丸遭難事件」山辺慎吾(彩流社)より抜粋したものである。ほとんど知られていない事件であるが、日本の戦後責任を考えるとき、葬り去ってはいけない事件であると思う。
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昭和20年(1945)6月25日、沖縄が米軍に占領されるや、次の日米決戦場は済州島であると判断した日本軍は大本営の指示もあって、急ぎ兵力を増強した。(約七万五千名)。朝鮮人島民を強制徴用して、全島に各種要塞、陣地を構築した。70才の老人までかり出されたという。人口23万。日米決戦が始まった時、島民が米軍に協調することを怖れた済州島守備軍は、先ず5万の島民を朝鮮半島本土に疎開させることとした。
その第一回疎開軍用船「豊栄丸」は7月3日深夜、木浦沖で触雷沈没。約500名が行方不明となった。この遭難により、その後の疎開は中止となったが、不思議なことに、この遭難事件が済州島史から消えているのである。何故であろうか……。
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上記の詳細は、敗戦の処理に当たった参謀の記録「朝鮮に於ける戦争準備」(東京都目黒区防衛研究所戦史部)に下記のような項目で明らかにされているとのことである。
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(昭和21・2朝鮮軍残務整理部)
済州島の防衛強化。決七号作戦。第九十六師団をを済州島へ派遣。第五十八軍司令部を新設。作戦思想の齟齬。沖縄玉砕の悲報。根こそぎ動員。敵の上陸判断。済州島における作戦指導に関する大本営の指示。第一回避難住民約五百名の遭難。玉砕を決意。敗戦。(第五十八軍配備概見図)(済州島部隊一覧表)
(防衛庁防衛研究所戦史部)
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上記「玉砕を決意」の第四章第四節の部分を抜粋する。
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済州島の兵力は今や急速に増強せられ、その給養兵額は数万に上り、同島の住民約二十三万と合する時は膨大な人口に上り、自活方面より憂慮されるのみならず、一度戦場化すると、住民処理は作戦上重大な問題となる故、総督府とも屡々折渉し、とりあえず五万の老幼婦女子を本土に退避させるため、六月以降、帰還空船を利用して輸送を開始し、その他は軍と作戦行動を取らせて、全島一致敵を撃砕することを決意した。
しかるに第一回避難住民五百名の遭難に伴い、この輸送は中止することになった。
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様々な資料を付き合わせると、この船が「豊栄丸」であると考えられるというのであるが、この船には済州南公立国民学校の小松虎兎丸校長が送り出した平川セツ先生と十四名の児童および校長の妻と二人の娘が乗船していたのである。 そして、沈没後八日目に百余名の生存者の名簿が閲覧可能となり、二名の児童のみ生存が確認されたということである。
しかしながら、上記「朝鮮に於ける戦争準備」には「豊栄丸」という船名が出ていないので、著者は済州島の出身者の集まりである耽羅研究会を訪ね、詳しい事情を知ろうとしたのであるが、
「済州島からの疎開船は晃和丸という船が、昭和二十年五月七日、米軍機の空襲で木浦沖で沈没しています。行方不明者は五百名を超えています。あなたがおっしゃるのは、晃和丸の間違いではありませんか」
と、とんでもない話を聞かされたのである。「耽羅」とは済州島の古代名称の一つであり、済州島について最も詳しいはずの耽羅研究会の人たちが「豊栄丸遭難事件」について全く知らなかったのである。そこで、さらに調べを進め、「豊栄丸遭難」の事実を『日本商船隊戦時遭難史』と『戦時船舶史』の記録の中に探し当てたのである。さらに、生存者の証言では、沈没原因は「触雷」ではなく二発の「魚雷」であるという。
また、「豊栄丸遭難」のおよそ二ヶ月前の五月七日に「晃和丸遭難:原因空襲」「晃和丸被弾沈没」という記録が同じ『日本商船隊戦時遭難史』と『戦時船舶史』にあり、疎開船が二回にわたって遭難している事実がはじめて明らかにされたのである。概要は下記の通りである。
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○1945年5月7日月曜日、運命の朝を迎えました。
○当時、済州と木浦の間には、連絡船として晃和丸一つしかありませんでした。
○日本軍の疎開令によって、はじめて出航する船でした。
○定員は350名でしたが、その二倍の750名余りの人が乗りました。
○午前七時済州港を出航。楸子島入港直前、午前十時から十時半の間に、米 軍戦闘機の第一回空襲。この時は人名の被害はありませんでした。
○楸子島出港後、午後一時ごろフェンガン島を通り抜ける時、米軍機の爆撃。
○撃沈されて四、五日後、数えきれないほどの死体が浮かんでいました。
○乗船人数700~750人
○生存人数150~180人
○死亡人数520~600人
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豊栄丸と合わせると実に1000名以上の人たちが犠牲になったことになる。しかしながら「豊栄丸遭難事件」は済州島の人たちにもほとんど知られていなかった。「豊栄丸遭難事件」が歴史から消し去られようとしたのは、やはり日本軍の全ての文書(学籍簿等にいたるまで)を焼却せよ」という強い命令の結果ではなかったのか。
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