父島:人肉嗜食事件
下記は、「孤島の土となるとも-BC級戦犯裁判」(岩川隆)講談社から、日本軍の人肉食事件関係の一部を抜粋したものである。
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極限状況にある戦時下では、常識では考えられないようなことが起きる。それは、戦争も末期に入った昭和20年小笠原諸島の父島で発生した。当時この島には陸軍の守備隊(第109師団第一混成旅団)と海軍の特別根拠地部隊が玉砕を覚悟で戦っていたが、あいつぐ空襲と砲撃によって土は掘りかえされ、島のかたちは変容し、食糧は窮乏の極に達した。末兵たちは、かじる草の根もなかった。それでも「日本本土に近い最後の戦闘地」を死守する軍として徹底抗戦の態勢をとるしかない。
「(昭和20年)2月23日から25日のあいだでした。師団司令部に行き、藤井十三師団長(中将=以下、関係者は仮名)に会って、俘虜の飛行士の一人は海軍のほうで処刑することになるでしょう”と報告した後、私は師団長から酒をごちそうになりました。話題はブーゲンビルやニューギニアで苦闘を続けている日本軍のことにおよび、”やはり食糧がなくなってくると人肉も食べなければならなくなるでしょう”という話になりました」
と法廷で証言しているのは大隊長(独立歩兵308大隊)の望月新少佐(のち絞首刑)である。末兵が飢えに苦しんでいるとき酒宴を開くというのもおかしなことだが、二人は第307大隊の大隊長室木清次大佐からの電話を受け、室木大隊司令部に行ってあらためて飲もうとする。ここでも藤井師団長は酒や肴が少ないことに不満を漏らし、話題は人肉のことになっていったという。俘虜の肉はどうだろうと言われた望月大隊長は自分の大隊に電話して、”肉”を持ってこさせる。
「その肉は室木大隊長の部屋で調理され、その場に居合わせた数名の者たちがみな少しずつ味わった。一人として 旨いと言った者はいなかった」
と望月は述べている。彼らはむろん、それが人肉であることをよく知っていた。それまでの師団司令部の会議でも師団長は、やがて自分たちは岩石をもって闘い、戦友の肉を食うことを余儀なくされるだろう、敵兵の肉は食わねばならぬ、と発言していた。とにかく試してみよう、という気持ちは一同にもあった。
海軍のほうも同じであった。この日、望月大隊長は帰る途中で海軍特別根拠地隊の司令官・林原松三中将に会い、
「こちらに一人まわしてくれてありがとう」
と言われ、
「今度俘虜を処刑したら肝臓を持ってきてもらいたい」
と命じられている。その後、海軍の士官食堂では、俘虜の人肉のスープを試食し、肝臓も食べたという。望月大隊長も部下に命じて死体から肝臓を切り取って持ってこさせ、空襲が激しく林原中将のもとに運ぶことができなかったのでそれを干しておいて、のちに食べた。
自分たちの行為を正当化する気持ちからか、かつて日清戦争のころは人間の肝臓を薬用として食べたものだとか、胃の良薬であるなどと士官や将校たちは言い合ったようだ。望月大隊長個人の告白でも、第307大隊本部、第308大隊本部、海軍基地の三カ所で食べたとある。
「1945年3月9日午前9時、大隊本部において俘虜ホール中尉の肉を食することを希望し、音津中尉、多田候補生(衛生隊)を呼んで同俘虜の肝臓と胆嚢を取り除いて持参することを命じるとともに、音津中尉にはほとんどの肉を大隊に配給するように命令した。この経過と事実は、その後、師団長にも報告した。以上のことは真実であり、 私の自由意志によってここに記すものである。」
と望月は書き遺している。この筆記は米軍の検察側に採用されており、これが強要されたものかどうかはわたしの手もとにある記録資料をなおも詳細に検討しなければならないが、その他の証言をみても、幾度かにわたって幹部以下かなりの将兵が俘虜(主として米軍飛行士)の肉を食べたことは間違いない。
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昭和22年9月24日、師団長藤井十三中将、海軍根拠地帯の司令官、望月大隊長、吉村通信隊司令の三名が絞首刑となり、林原松三中将は終身刑(ただし、別裁判で死刑判決)であった。
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