「特務機関の謀略」山本武利(吉川弘文館)よると、OSS(アメリカ戦略諜報局。CIAの前身)のハーバート・S・リットル中佐は1943年12月30日付発行の光機関ビルマ支部「月報12月号」のマイクロコピー版をイギリス諜報機関より手に入れている。著者は、これはアメリカ公文書館に保存されている数少ない日本語の光機関関係第1次資料であるという。そして、光機関の謀略の実体解明に活用しているのである。同書の中から、中野学校との関連について触れている部分と自由インド仮政府主席のボースとの関係に関する部分および光機関の評価に関する部分の一部を抜粋する。
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中野学校出身者
中野学校の資料はアメリカ国立公文書館では不思議と少ない。日本の諜報機関にあれほど関心をもって追跡していたOSS資料群にも、陸軍のこの諜報員養成所の歴史をまとめたリポートが見当たらない。実際には、リポートがあるけれども、国家秘密にかかわるものとして機密指定されたままであるのかもしれない。なぜなら中野学校出身者が占領期にアメリカ軍の謀略活動に参加したともいわれているからだ。
ともかくビルマ工作の南機関やインドの光機関には、多数の中野学校出身者がいたことはたしかである。
光機関にいた中野学校出身者の松元泰允によると、宣伝、政治学、外国語、無線のほか軍事訓練を将校は1年余り、下士官は6ヶ月受けた(尋問調査)。南機関の初期に活動した将校10名、下士官14名は全員中野学校出身者であった。かれらが建国ビルマの防諜業務についた。(『その名は南謀略機関』)
中野学校出身者が作成した資料によれば、光機関の総人員500余名のうち、出身者は133名であった。(『陸軍中野学校』)。かれらは、インパール作戦前後からビルマに目立ち出し、諜報活動に従事した。かれらは当時、比較的若かったので、前線の将校としてスパイ工作などに従事していた。そして作戦終了後は、南方遊撃隊傘下の各特務機関にゲリラ戦士として参加したと考えられる。光機関の機能の変化もこれら人材の参加によって大きく左右されていた。
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内容充実の光機関月報
・・・
リットル中佐はこの立派な「月報」を作った光機関についても、OSSやイギリス諜報機関と対等以上の活動をしているとの高い評価の言葉を記している。光機関は破壊・欺瞞・の多彩な方法を駆使し、ビルマ、インドで地下活動を展開している。また、その宣伝でも、OSSがやりたくても実現していない「秘密放送局」をつくるなど、組織化された広範な活動を行っている。しかもOSSがもっている数倍の人員や設備を駆使しているとの驚嘆のメモを残した。空挺部隊に驚いた日本軍幹部のような感想である。
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ジフとは?
・・・
したがって、連合軍側は、国民軍やボースを大東亜共栄圏成就のため日本軍の手足となって働くかいらいとしてのイメージを内外に浸透させようとしていた。イギリス軍やOSSの資料をみると、ジフ(JIF)とかジフス(JIFS)という言葉が目につく。OSS資料は、JIFSをJapanese Inspired Fifth Columnists の略号としている。
(RG226E154B93F1757)。ジフとは、日本軍の第5列とか、かいらい勢力として、連合軍側がボースやボース率いる独立連盟や国民軍をきめつけた蔑称である。たとえば、このOSS資料は「ジフは光機関のコマンドであって、軍人や私服もいる。それなのに、スバス・チャンドラ・ボースの指揮下で『自由インド仮政府』軍と称している。私服のジフは光機関の将校に直接指揮された工作員にすぎない」と述べている。
黒子役の光機関
光機関は日本軍とボース、インド独立運動体との橋渡しの役割を演じることになった。ボースの意向に沿って、光機関のリーダー達は独立連盟、国民軍が日本軍のかいらい色を印象づけないための演出に腐心した。実際には、日本軍は岩畔時代と同じくボースを軍事・政治工作の道具として使う意図に変わりはなかったが、誇り高いボースを傷つけない配慮から黒子の存在として、努めて表面にでないようにした。
ボースの活動は、光機関の支援を受けて、スムースに展開しだした。独立連盟と国民軍も、大物指導者の下でインド独立に向け、両輪となって回転しだした。43年7月4日のシンガポールの独立連盟の東亜代表者会議で、自由インド仮政府擁立が議決され、主席にボースが選ばれた。日本政府は10月24日、自由インド仮政府を承認した。仮政府は翌日、英米に宣戦布告した。10月31日、ボースは大東亜会議に出席した際、日本軍が占領していたベンガル湾のアンダマン、ニコバル諸島の仮政府への譲渡を要請した。そして政府、大本営は11月6日、その要請を承諾する決定を下した。
このようなボースの活発な活動と短期間での成果は光機関や日本軍の援助なくして不可能であった。そしてこの経過を冷徹に観察したイギリス側は、ボースや独立連盟、国民軍、さらには新設のインド仮政府をジフと揶揄したのである。
・・・以下略
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現地人軽視のしっぺ返し
日本軍の司令官はインパール作戦で5万人以上の兵士を犬死にさせた。この平然ともいえる兵士の見殺し作戦は投降下級将校の文章が物語っている(高級指揮官の欺瞞と裏切りに満ちた冷酷な命令を告発する手記が、17ページにわたって掲載されている)。この作戦は、太平洋戦争の象徴的な戦いだったといえなくもない。これは軍や光機関の国民軍や現地人工作員扱いにも見られた。しかもイギリス将校に指摘されたように、日本軍は国民軍の扱いにおいても、前線での工作活動においても、原住民の性格や事情を無視しがちであった。そのため、かれらの本当の協力をえられなかった。それどころか、傲慢な対応は戦局悪化で裏目に出た。日本側工作員だった原住民は平然と連合軍に寝返った。手塩にかけて育てたつもりだったビルマ軍にも見捨てられた。またインドへのスパイ工作も下手な鉄砲も数撃てば当たるという人海戦術をとったため、投入されるインド人スパイの心の不安感を解消するシステムの開発まで考えが及ばなかった。使い捨てのつもりで養成したスパイ工作員や原住民、さらにはかいらい勢力に、日本軍も光機関も最後は捨てられた。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表があります。
一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。
青字および赤字が書名や抜粋部分です。「・・・」は、文の省略を示します。
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中野学校出身者
中野学校の資料はアメリカ国立公文書館では不思議と少ない。日本の諜報機関にあれほど関心をもって追跡していたOSS資料群にも、陸軍のこの諜報員養成所の歴史をまとめたリポートが見当たらない。実際には、リポートがあるけれども、国家秘密にかかわるものとして機密指定されたままであるのかもしれない。なぜなら中野学校出身者が占領期にアメリカ軍の謀略活動に参加したともいわれているからだ。
ともかくビルマ工作の南機関やインドの光機関には、多数の中野学校出身者がいたことはたしかである。
光機関にいた中野学校出身者の松元泰允によると、宣伝、政治学、外国語、無線のほか軍事訓練を将校は1年余り、下士官は6ヶ月受けた(尋問調査)。南機関の初期に活動した将校10名、下士官14名は全員中野学校出身者であった。かれらが建国ビルマの防諜業務についた。(『その名は南謀略機関』)
中野学校出身者が作成した資料によれば、光機関の総人員500余名のうち、出身者は133名であった。(『陸軍中野学校』)。かれらは、インパール作戦前後からビルマに目立ち出し、諜報活動に従事した。かれらは当時、比較的若かったので、前線の将校としてスパイ工作などに従事していた。そして作戦終了後は、南方遊撃隊傘下の各特務機関にゲリラ戦士として参加したと考えられる。光機関の機能の変化もこれら人材の参加によって大きく左右されていた。
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内容充実の光機関月報
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リットル中佐はこの立派な「月報」を作った光機関についても、OSSやイギリス諜報機関と対等以上の活動をしているとの高い評価の言葉を記している。光機関は破壊・欺瞞・の多彩な方法を駆使し、ビルマ、インドで地下活動を展開している。また、その宣伝でも、OSSがやりたくても実現していない「秘密放送局」をつくるなど、組織化された広範な活動を行っている。しかもOSSがもっている数倍の人員や設備を駆使しているとの驚嘆のメモを残した。空挺部隊に驚いた日本軍幹部のような感想である。
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ジフとは?
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したがって、連合軍側は、国民軍やボースを大東亜共栄圏成就のため日本軍の手足となって働くかいらいとしてのイメージを内外に浸透させようとしていた。イギリス軍やOSSの資料をみると、ジフ(JIF)とかジフス(JIFS)という言葉が目につく。OSS資料は、JIFSをJapanese Inspired Fifth Columnists の略号としている。
(RG226E154B93F1757)。ジフとは、日本軍の第5列とか、かいらい勢力として、連合軍側がボースやボース率いる独立連盟や国民軍をきめつけた蔑称である。たとえば、このOSS資料は「ジフは光機関のコマンドであって、軍人や私服もいる。それなのに、スバス・チャンドラ・ボースの指揮下で『自由インド仮政府』軍と称している。私服のジフは光機関の将校に直接指揮された工作員にすぎない」と述べている。
黒子役の光機関
光機関は日本軍とボース、インド独立運動体との橋渡しの役割を演じることになった。ボースの意向に沿って、光機関のリーダー達は独立連盟、国民軍が日本軍のかいらい色を印象づけないための演出に腐心した。実際には、日本軍は岩畔時代と同じくボースを軍事・政治工作の道具として使う意図に変わりはなかったが、誇り高いボースを傷つけない配慮から黒子の存在として、努めて表面にでないようにした。
ボースの活動は、光機関の支援を受けて、スムースに展開しだした。独立連盟と国民軍も、大物指導者の下でインド独立に向け、両輪となって回転しだした。43年7月4日のシンガポールの独立連盟の東亜代表者会議で、自由インド仮政府擁立が議決され、主席にボースが選ばれた。日本政府は10月24日、自由インド仮政府を承認した。仮政府は翌日、英米に宣戦布告した。10月31日、ボースは大東亜会議に出席した際、日本軍が占領していたベンガル湾のアンダマン、ニコバル諸島の仮政府への譲渡を要請した。そして政府、大本営は11月6日、その要請を承諾する決定を下した。
このようなボースの活発な活動と短期間での成果は光機関や日本軍の援助なくして不可能であった。そしてこの経過を冷徹に観察したイギリス側は、ボースや独立連盟、国民軍、さらには新設のインド仮政府をジフと揶揄したのである。
・・・以下略
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現地人軽視のしっぺ返し
日本軍の司令官はインパール作戦で5万人以上の兵士を犬死にさせた。この平然ともいえる兵士の見殺し作戦は投降下級将校の文章が物語っている(高級指揮官の欺瞞と裏切りに満ちた冷酷な命令を告発する手記が、17ページにわたって掲載されている)。この作戦は、太平洋戦争の象徴的な戦いだったといえなくもない。これは軍や光機関の国民軍や現地人工作員扱いにも見られた。しかもイギリス将校に指摘されたように、日本軍は国民軍の扱いにおいても、前線での工作活動においても、原住民の性格や事情を無視しがちであった。そのため、かれらの本当の協力をえられなかった。それどころか、傲慢な対応は戦局悪化で裏目に出た。日本側工作員だった原住民は平然と連合軍に寝返った。手塩にかけて育てたつもりだったビルマ軍にも見捨てられた。またインドへのスパイ工作も下手な鉄砲も数撃てば当たるという人海戦術をとったため、投入されるインド人スパイの心の不安感を解消するシステムの開発まで考えが及ばなかった。使い捨てのつもりで養成したスパイ工作員や原住民、さらにはかいらい勢力に、日本軍も光機関も最後は捨てられた。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表があります。
一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。
青字および赤字が書名や抜粋部分です。「・・・」は、文の省略を示します。