真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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陸軍登戸研究所 風船爆弾攻撃命令「ふ号」作戦

2008年11月11日 | 国際・政治
 「陸軍登戸研究所の真実」伴繁雄(芙蓉書房出版)によると、ソ連軍陣地攻撃の目的で、気球を等高度飛行させて、遠隔地距離を爆撃する、というアイディアは、陸軍では昭和8年ごろからあったという。そして、昭和14年には和紙をコンニャク糊で張り合わせた気球が多数製作されており、在満州気象連隊のなかに、この兵器研究教育を専任とする部隊が編成されていたという。
 登戸研究所では、当初、謀略宣伝兵器としてこの気球の研究が進められていたが、昭和19年10月、戦況の悪化に伴い、決戦兵器として風船爆弾による米本土攻撃作戦の準備を開始した。秘匿名「ふ号」作戦である。密かに爆弾や焼夷弾を装着した約9,000個の気球が発射され、、数百個がアメリカ本土に到達していた。日本では下記のように「特殊攻撃ニ関スル意図ヲ軍ノ内外ニ対シ秘匿スル」ため「黎明、薄暮及ビ夜間等ニ実施スルニ勉ム」などと命令された。一方アメリカでも、緻密な防衛作戦が練られ、防火隊が組織されるとともに、様々な危険を想定して資材が要所に集積されたが、「日本からの気球兵器到達に関して絶対に情報を漏洩させるべからず」と厳重な報道管制が布かれ、ラジオ、新聞、雑誌等に箝口令が出された。したがって、戦後も噂話程度で、詳しいことはあまり語られていない感がある。そこで、元登戸研究所所員伴繁雄氏の上記著書から「第六章 風船爆弾による米本土攻撃 二、攻撃命令」の研究陣容の部分を除き抜粋する。
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約9千個の風船爆弾を発射

 参謀総長は19年9月30日付で、次の攻撃命令を下達している。
  大陸指第2198号
    命令 
   一、気球聯隊ハ主力ヲ以テ大津、勿来付近ニ一部ヲ以テ一宮、岩沼、茂原、
    及ビ古間木付近ニ陣地ヲ占領シ概ネ10月末迄ニ攻撃準備ヲ完了スベシ
   二、陸軍中央気象部長ハ密ニ気球聯隊ニ協力スベシ
   三、
企図ノ秘匿ニ関シテハ厳ニ注意スベシ

 10月6日、「『ふ』号ニ関スル技術運用委員会」が開かれた。10月25日、気球聯隊長に対して下された攻撃実施命令は、次のようなものであった。

  大陸指第2253号
    命令
   一、米国内部攪乱ノ目的ヲ以テ米国本土ニ対シ特殊攻撃ヲ実施セントス
   二、気球聯隊長ハ、左記ニ準拠シ特殊攻撃ヲ準備スベシ
    (一)実施期間ハ、11月初書ヨリ明春三月頃迄ト予定スルモ、状況ニ依リ之
       ガ終了ヲ更ニ延長スルコトアリ
       攻撃開始ハ概ネ11月1日トス。但シ11月以前ニ於テモ気象観測ノ目
       的ヲ以テ試射ヲ実施スルコトヲ得。試射ニ方リテハ、実弾ヲ装着スルコ
       トヲ得
    (二)投下物料ハ、爆弾及ビ焼夷弾トシ、其概数左ノ如シ
      15瓩爆弾   約  7,500個
      5瓩焼夷弾   約 30,000個
      12瓩焼夷弾  約  7,500個
    (三)放球数ハ、約15000個トシ、月別放球標準概ネ左ノ如シ
      11月  約500個トシ、5日迄ノ放球数ヲ努メテ大ナラシム
      12月  約3,500個 
       1月  約4,500個
       2月  約4,500個
       3月  約2,000個
      放球数ハ更ニ1,000個増加スルコトアリ
    (四)放球実施ニアタリテハ、気象判断ヲ適性ナラシメ、以テ帝国領土並ビ
       ニ「ソ」領ヘノ落下ヲ防止スルト共ニ、米国本土到達率ヲ大ナラシムル
       ニ勉ム
  三、機密保持ニ関シテハ、特ニ左記事項ニ留意スベシ
    (一)
機密保持ノ主眼ハ、特殊攻撃ニ関スル意図ヲ軍ノ内外ニ対シ秘匿ス
       ルニ在リ

    (二)
陣地ノ諸施設ハ上空並ビニ海上ニ対シ極力遮断ス
    (三)
放球ハ気象状況之ヲ許ス限リ黎明、薄暮及ビ夜間等ニ実施スルニ勉
       ム

  四、今次特殊攻撃ヲ
「富号試験」と称呼ス 

 攻撃開始は11月3日の明治節が選ばれた。当日は午前3時より放球準備にかかり、午前5時一斉に発射した。
 直径10メートルの風船爆弾は、千葉県一宮、茨城県大津、福島県勿来の三基地から放球された。一宮海岸では順調に発射できたが、勿来では器材準備室が、また大津では発射陣地二ヵ所で同時に地上爆発を起こし、見習士官以下数名の死傷者を出した。
 十分な安全整備は施されていたが、取扱いの不慣れが原因であった。そのため一時、攻撃は頓挫したが、急ぎ資材およびその組立に改善を加え、安全装置も二重にするなどの措置をとり、11月7日、再び攻撃を開始した。その後攻撃は順調に継続され、よく20年4月上旬までの発射総数は約9,000個で、全部がA型気球であった。
 昭和20年に入ると、米軍の日本本土空襲は激甚の度を加えた。「ふ号」に必要な水素の輸送も遅れがちとなり、水素を製造していた川崎市の昭和電工、気球を製作していた工場なども爆撃を受けるようになった。
 時には試射気球を揚げた瞬時に米艦載機に撃墜されたこともあり、しだいに「ふ号」「作戦の実行は困難となった。4月になると、米本土攻撃に適しない西風の時期となり、攻撃は中止された。
 冬期八千メートルから一万メートルの上空を吹く偏西風に乗って、この決戦兵器は時速二百キロ以上のジェット気流に乗り、太平洋を飛翔してアメリカ本土を直撃した。



 戦果は小さかったが、心理作戦としては成功
 登戸研究所の風船爆弾開発の最高責任者であった草場少将は、風船爆弾は戦力としてはほとんど認むべき効果はなかったことを素直に認めていた。しかし、数百個の気球はともかくも八千キロの太平洋を翔破してアメリカ本土に到達したことは、明白な事実であった。
 風船爆弾の被害は、アラスカ、カナダ、アメリカ本土、からメキシコにいたる広範囲に及んでいた。
 風船爆弾の落下場所、件数の多かったのは合衆国西海岸オレゴン州の40件を筆頭に、モンタナ州で32件、ワシントン州で25件、カリフォルニア州で22件、ワイオミング州、サウスダコタ州、アイダホ州が8件づつ、あとは6件以下であったが、すべての州に最低1件の事故があった。
 カナダでは、西海岸ビリティッシュ・コロンビア州の38件を筆頭に、アルバータ州の17件、サスカチュワン州8件マニトバ州6件ほか北方ユーコン地区、マッケンジー地区にも5件、風船爆弾が到達していた。アリューシャン列島をふくむアラスカでは30件を数えた。
 爆撃当初は、原因不明の爆発事故、山火事が相次ぎ、不発気球確保が各地報告されて人心を極度に攪乱し、心理作戦としては成功したのである。アメリカの政府や軍部は緻密な防衛作戦を練り、日本からの長距離爆撃に備えなければならなかった。
 アメリカ西海岸防衛参謀長ウイルバート代将が、戦後「リーダーズ・ダイジェスト」誌に発表した著述によれば、これらの事故、事件に対する防衛のため防火隊が組織された。また回収された浮力回復用砂のうなど得体の知れないものには間違いなく化学兵器か細菌戦の媒体が使われていると推察し、防毒資材や細菌剤が要所に集積されていたとのことである。

 「日本からの気球兵器到達に関して絶対に情報を漏洩させるべからず」と厳重な報道管制が布かれ、ラジオ、新聞、雑誌等に箝口令がでた。 
 それはアメリカ合衆国の最高命令であった。国内に報道することも、国民の人心攪乱を担っていると予想される日本の心理作戦の術中に嵌ることを避けるためであった。さらにそれが外国の情報機関から日本政府や軍部に伝われば、ますます気球攻撃に拍車をかけることになってしまうからである。
 攻撃当時、厳重な報道管制でこうしたアメリカの成果を得ることができなかった。実害は小さかったが、心理的には大きな成果があったといえる。


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