真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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満州事変へと至るパップチャフ事件と張作霖爆殺

2008年12月27日 | 国際・政治
 田母神論文が契機となって、「張作霖爆殺事件はソ連の陰謀であり、計画し実行した河本大佐や東宮大尉はソ連特務機関GRUの工作員であった」というようなとんでもない説の存在が知られるようになってきた。しかし、日本には満州をわがものしようとする姿勢が、満州事変以前から存在した。そして、それら侵略の歴史的事実を明らかにした数多くの証言は、中国人でもロシア人でもなく、直接関わった日本人関係者によってなされていることを忘れてはならないと思う。下記は、「目撃者が語る昭和史 第3巻 満州事変」 平塚征緒編集(新人物往来社)の中の「私は関東軍を告発する」と題された元陸軍少将田中隆吉の文章からの一部抜粋である。
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パップチャフ事件と満州独立

 満州独立の運動は大正年間の後期に存在していた。もちろん、それは軍部ならびに民間の一部の人々の間にあった。民間では、大川周明博士であり、陸軍部門にあっては大川博士の盟友であった当時の参謀本部調査班長板垣征四郎中佐であった。板垣中佐は大川博士の満州独立の主張に共鳴していた。その論拠は日露戦争において多大の犠牲、すなわち日本将兵の血をもってロシア帝国の魔の手より解放せる満州を中国人の悪政のもとに置くことは、アジアの盟主をもって任ずる日本にとって忍べからざるところである、というのにある。
 私はまず、何故に一民間人である大川博士が大正の中期から満州の独立を主張したか、その理由を述べなくてはならない。
 元来、大川氏の念願はアジア復興にあった。したがって、長年月にわたり、白色民族の支配下に苦しんできたアジア民族の解放を熱心に主張していた。それは、大川氏の名著『復興亜細亜の諸問題』を一見すればその主張は明白である。満州の独立を主張するにいたった動機について、大川氏が私に語ったところによると、大正6年の
パップチャフ事件の失敗がその原因になったとのことである。
 この事件は満州に旧清朝の再建を目的としたものであり、当時旅順にあった清朝の王族の粛親王の発案になるものであった。粛親王は盟友川島浪速氏にこの計画の実現を懇願した。川島氏は明治末期に清朝の顧問として功績があり、その時以来親交があったからである。川島氏はこれを陸軍に依頼した。このため当時中佐であった小磯国昭氏が民間の一浪人の如く葛山という変名で奉天に赴き、この運動を推進することになる。すなわち、
当時満州の主権者として、また軍閥として暴威をふるっていた張作霖を斃し、コロンバイルにあった蒙古人のパップチャフ将軍を新政権の主権者に押して清朝を復活せしめんとするものであった。
 この内乱ともいうべき事件には日本側より多数の旧軍人が参加した。私の同期生の三村豊退役少尉の如きは張作霖を爆殺するため、自ら爆弾を抱き張作霖の馬車に飛び込んで爆死した。また西岡光三郎という退役少尉はパップチャフ軍の砲兵隊長として活躍したが、これらの人々の活躍にもかかわらず、不幸にもパップチャフ将軍が熱河の林西において砲弾により戦死したので、この事件は失敗に終わったのである。
 大川周明氏は川島氏とじっこんの間柄であったから、川島氏より事件の詳細を聞くに及んで満州独立の必要を痛感し、大正8年頃から満鉄の東亜経済調査局主事の余暇を利用しては、満州事変発生の直前まで南は九州より北は北海道まで全国を遊説して歩いた。その目的は満州を独立させて、念願であるアジア復興の礎石たらしめんために日本国内の世論を啓蒙することにあった。



  関東軍と満州某重大事件

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 昭和3年6月4日、当時日本で「満州某重大事件」と呼称された事件が起こった。これが後の満州事変の遠因となるから概要をのべる。大正4年5月25日、大隈内閣が支那共和国に強要して締結したいわゆる21ヵ条の条約は、支那の各地に排日、排日貨運動を惹起した。満州においてもその余波は相当のものがあった。
 当時の満州は馬賊出身の張作霖が主権者であった。昭和2年頃、同氏は中国陸海軍大元帥に就任して、北京にあったが、一方中支・南支に兵力をえた蒋介石の北伐軍は昭和3年4月、張作霖に対して総攻撃を開始、これを徐々に圧迫して5月中旬、早くも北京・天津を包囲する態勢をとった。このため、張氏は全軍に総退却を命じ、自ら京奉線によって奉天に向かった。6月4日朝、張氏の乗った列車は奉天近くの地点を進行中、突如爆破され、同氏は重傷を負い、約5時間後に大元帥服を血に染めて、数奇をきわめた53歳の生涯をを終えた。この事件は関東軍の高級参謀・河本大作大佐の陰謀であった。

 田中義一大将は組閣するや対支積極政策をとり、問題になっていた満州(吉林)と朝鮮(全寧)とを結ぶ吉会線敷設の認可を張作霖氏より獲得せんとして、奉天に関東軍の全力と朝鮮軍の混成一個旅団を集結、張政権に対して圧力をくわえていた。これは前述せる大正4年の21ヵ条の条約の締結により、張作霖治下の満州においても排日運動が盛んであったためであった。
 元来張作霖の今日あるのは、馬賊であった彼が、日露戦争で日本軍に協力したためにその後、日本から有形無形の援助を受けたためである。その一例をあげると、大正14年の郭松齢の反乱に際して、日本軍の奉天出兵により、危うくも下野せずにすんだこともあった。
 そんな彼が排日運動を盛んにおこなっているのを憤慨したのが関東軍参謀河本大作氏であった。河本氏の命を受けて北京に来ていた竹下参謀が、張氏の搭乗する特別列車の編成と発車時間の調整を私の上官である建川美次少将(駐在武官)に依頼してきた。このため、建川氏の命により私が実際にこれを調査して竹下参謀に知らせたのである。この報告にもとづき、河本氏が朝鮮の工兵第20大隊の一将校に命じて敷設したダイナマイト600キロは、前記地点で正しく爆発して、いわゆる満州某重大事件となったのである。後年、私が関東軍参謀として新京にいた時、すでに満鉄の理事となっていた河本氏は、張作霖爆殺の目的は新政権を樹立して、満州独立のきっかけを作る計画であったと私に語った


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