満州事変の起きる前から、日満関係は重大な局面に立ち至っていた。そんな折中村震太郎大尉の殺害事件が発生し、日満関係は悪化の頂点に達したという。総領事館では、関東軍が決起する恐れがあり、早急に事件の解決をすべく交渉に臨んだのである。事実、軍部は密かに奉天城内に向けて大砲を設置していた。また撫順の守備隊が、奉天城を占領するという想定で軍事演習を計画するなどの動きがあったため、事前防止の措置も講じられたが、注意を促す文書が参謀の手に押さえられ、司令官に届かないうちに柳條溝の鉄道爆破が起きたのである。下記は、当時日本軍の独断専行に苦慮しながら、領事館にあって直接軍や中国側と交渉に当たっていた外交官の著書「陰謀・暗殺・軍刀 …一外交官の回想…」森島守人(岩波新書)からの一部抜粋である。一部抜粋では分かりにくいが、柳條溝事件勃発に至る経過は、事件が突発的なものでないことを物語っており、事実上満州を占領する計画があっての事件であることが分かる。
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四 陰謀の産物 満州事変
柳條溝事件の発生
陸軍側との打ち合わせは私が引き受けていたし、また私としては建川少将の所在をも突きとめたいとの考えもあったので、軍側の諸機はもとより、奉天中のおもだった旅館や料亭などには洩れなく連絡したが、土肥原特務機関長の上京中、中村大尉事件の衝に当たっていた花谷少佐を捉え得なかった。林総領事は当夜友人のお通夜に行っていたため、わたしは独り官邸に残っていたところ、10時40分ごろ、突然特務機関から柳條溝で中国軍が満鉄線を爆破した、軍はすでに出動中だから至急来てくれとの電話があった。私は大きくなると直感したので、総領事に対する伝言を残すとともに、館員全部に対して徹夜の覚悟で至急参集するように、非常召集令を出して、特務機関へ駆けつけた。特務機関内では、煌々たる電灯の下に、本庄司令官に随行して奉天を離れたはずであった関東軍の板垣征四郎高級参謀を中心に、参謀連が慌しく動いていた。板垣大佐は「中国軍によって、わが重大権益たる満鉄線が破壊せられたから軍はすでに出動中である」と述べて総領事館の協力を求むるところがあった。私から「軍命令は誰が出したか」と尋ねたところ、「緊急突発事件でもあり、司令官が旅順にいるため、自分が代行した」との答であった。私は軍が怪しいとの感想をいだいたが、証拠のないこととてこの点には触れず、くり返し外交交渉による平和的解決の必要を力説し、「一度軍の出動を見た以上、奉天城の平時占領位なら外交交渉だけで実現してみせる」とまで極言したところ同大佐は語気も荒々しく「すでに統帥権の発動を見たのに、総領事館は統帥権に容喙、干渉せんとするのか」と反問し、同席していた花谷の如きは、私の面前で軍刀を抜き、「統帥権に容喙する者は容赦しない」とて威嚇的態度にさえ出た。こんな空気では、もとより出先限りで話のつけようもないので一応帰館した。そして、一切を総領事に報告した上、東京への電報や居留民保護の措置にとりかかった。
同夜のうち、東三省の最高顧問、趙欣伯博士(明大出身)から再三電話で、「中国側は無抵抗主義で行くから、日本軍の攻撃を即時停止してもらいたい」との要請があったので、その都度総領事や私から板垣に伝達したが、何ら反応はなかった。沿線の領事館に電話連絡すると、各地でも一様に軍の動きがあり、事件は局地に止らず、拡大の形勢にあることは疑うべくもなかったので、総領事館の体制も即時非常時体制に入ることとしルーティンを全部停止し、司法事務まで暫時延期して、全員こぞって事件関係の事務にあたることとした。私は専心対第三国関係と陸軍との折衝に当たり、館内の事務は、挙げて柳井恒夫領事(後のコロンビア公使)が主宰することとなった。当時国際連盟の会議も開会中であったので、ジュネーブやロンドン、ワシントンなどへも、刻々情報を直接電話することとしたが、電報事務の輻輳は想像にあまりあった。……(以下略)
総領事館に対する軍の空気
9月20日の深更のことであった。前後2日間家にも帰らず、全然睡眠をとらなかった私は、比較的早く家に帰って早目に臥床したところ、夜半突然「軍の使だ、早くあけろ」とて軍刀をちゃらつかせながら、非常な力で扉をたたくものがあった。妻が取次に出ると酒気を帯びた花谷少佐のただならぬ剣幕だったので、官邸にとりつけてあった領事館警察の非常ベルを押したため、官邸は、武装警官で取り囲まれた。私が寝衣のままで応対すると、花谷は威丈高に「政府が朝鮮軍の越境を差し止めたのは、総領事館から中国軍は無抵抗だとの電報を出したためだ。こんな有害無益な電報を出すなら、いますぐ一小隊の兵を持って来て無電室を打ち壊す、閣議の席上で幣原外相から中国軍は抵抗していないから、わが軍も攻撃を中止すべきだとの意見が出たが、右は総領事館の誤った電報の結果だ。出先で強いてことを荒立てるのも面白くないから、平素なじみの自分がとくに君のところへ使いにきたのだ」との話だった。右にたいして私は「趙欣伯から再三中国側は無抵抗主義で行くから、至急日本側の攻撃を止めて貰いたいとの電話があったから、そのまま電報した。右は板垣に伝達した通りだ。現に彼我両軍の間に交戦が続いている現状から見て、中国軍が無抵抗のままで、交戦していないとの電報を出すようなことは、常識上から考えても想像できないじゃないか」と撫めて、念のため総領事にも引き合わした上帰した。
ところが翌21日の昼には、片倉大尉が前に一言した本庄司令官にあてた林総領事の私信に言及して、「総領事館は軍事行動を妨害している。柳條溝の爆破を軍の行為に帰している」とて、直接総領事のところへ捻じこんできた。右の私信は本庄司令官に渡さず、参謀限りで開封したものらしく、軍の陰謀を棚上げして、日本政府が関東軍の行動を牽制せんとするのを、すべて総領事の差金によるものだとなす口吻であった。
軍側の総領事館に対する空気は、右の一,二の例でも分かる通り険悪をきわめていたが、他方軍の手先である浪人連は内地から続々奉天に集まり、昭和4年の春城内爆破事件で退去処分を受けた小日向権松派もすでに来奉中だからとて、警察から私の身辺について特別の注意があり、林総領事と私の二人は、護衛なしに外出することを差し止められた実情であった。
他方長春で軍用列車がハルピンへ出発準備を整えているとの電報が東京の満鉄支社に入ったが、右は木村理事の策動だとて、若手参謀連の木村に対する激昂は絶頂に達し、木村を葬れとの声も高く、巷間には軍法会議説さえまことしやかに伝えられていた。木村は軍の強硬方針を排除して、熱心に鉄道交渉を進めていたが、ことに事件発生の二,三日前、新任の内田満鉄総裁が来奉した機会に、満鉄、軍、総領事館の関係者が一堂に会し鉄道交渉の件を協議した際の如き、該博な海外の知識と氏一流の論法をもって、若い参謀連をやり込めたことがあった。木村排撃はそれ以来の軍の反感が爆発したものと思われた。12月林総領事はブラジル大使に転任のため満州を去り、木村もこれと前後して東京に引き揚げたが、両氏の離満は中央の政府が出先の軍に押された何よりの証拠で、満州事変処理に対する中央の無気力と無方針とを如実に反映したものであった。
首謀者は誰か
事件発生当時、私は建川少将は事件をたきつけに来たものとのみ想像していたが、その後の情報を総合すると、日本政府では関東軍の不穏計画に関する聞込みを得たので、差し止めのため建川を派遣したものであった。元来首謀者のあいだでは、9月18日に事を起こす計画はなく、9月28日を予定していたといわれるが事が東京に洩れた上は一刻も遅延を許さない。即日決行に如かずとて、18日午後来奉した建川を一料亭に缶詰めにした上、同夜決行したので、建川としては強いてこれを阻止する意向はなかったらしい。同夜総領事館の会議後、私が百方軍側関係者との連絡に手をつくしたにもかかわらず、その所在を突きとめ得なかったことは前に一言したが、私がせっかく探していた折柄関係者は謀略に専心していたわけであった。
世間では同夜関東軍の命令で、いち早く出動した守備隊長の島本正一中佐や、平田連隊長をも同類の中に加えている者もあったが、計画は板垣ら二,三の人のあいだ限りで進められたもので、東京にも参謀本部の重藤千秋大佐や橋本欣五郎大佐等の連絡者がおり、事は黒龍会方面から洩れたというのが真相らしい。島本、平田両人にとっては出動命令が寝耳に水であったことはその名誉のため特記しておく。18日の晩、付属地内の大和ホテルで東拓の招宴があった。私ら総領事館員は同日午後の会議が長びいたため出席し得なかったが、島本はこの宴会に出席した後、微酔臥床中、予期しない命令に急遽出動したのであった。なお鉄道爆破の下手人については、今日まで世上に明らかにされたものはないが、特務機関附の今田準太郎大尉(後に少将となり、先般病死)が満鉄保線掛りを帯同し、手動車で現場に赴いて爆破を命じたところ、職務に忠実な保線掛りが「自分の任務は鉄道の保護であって、破壊はできない」と抗議したため、抜剣、威嚇の上、爆破せしめたのが真相で、爆破の距離がきわめて短距離だったのも、右の結果であった。……(以下略)
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事件と同時に奉天だけでなく、満鉄沿線全体にわたって軍の蹶起があり、遠く離れた吉林でも軍事行動があったという。さらに、2日後には土肥原が奉天市長に就任するという手際のよさであった。後に、著者は関東軍が信頼していた邦人の一人(森田福松開業医・日本人居留民会長)から、極秘書類を内密に入手し、満州全土の軍事占領の計画を知ったと書いている。
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四 陰謀の産物 満州事変
柳條溝事件の発生
陸軍側との打ち合わせは私が引き受けていたし、また私としては建川少将の所在をも突きとめたいとの考えもあったので、軍側の諸機はもとより、奉天中のおもだった旅館や料亭などには洩れなく連絡したが、土肥原特務機関長の上京中、中村大尉事件の衝に当たっていた花谷少佐を捉え得なかった。林総領事は当夜友人のお通夜に行っていたため、わたしは独り官邸に残っていたところ、10時40分ごろ、突然特務機関から柳條溝で中国軍が満鉄線を爆破した、軍はすでに出動中だから至急来てくれとの電話があった。私は大きくなると直感したので、総領事に対する伝言を残すとともに、館員全部に対して徹夜の覚悟で至急参集するように、非常召集令を出して、特務機関へ駆けつけた。特務機関内では、煌々たる電灯の下に、本庄司令官に随行して奉天を離れたはずであった関東軍の板垣征四郎高級参謀を中心に、参謀連が慌しく動いていた。板垣大佐は「中国軍によって、わが重大権益たる満鉄線が破壊せられたから軍はすでに出動中である」と述べて総領事館の協力を求むるところがあった。私から「軍命令は誰が出したか」と尋ねたところ、「緊急突発事件でもあり、司令官が旅順にいるため、自分が代行した」との答であった。私は軍が怪しいとの感想をいだいたが、証拠のないこととてこの点には触れず、くり返し外交交渉による平和的解決の必要を力説し、「一度軍の出動を見た以上、奉天城の平時占領位なら外交交渉だけで実現してみせる」とまで極言したところ同大佐は語気も荒々しく「すでに統帥権の発動を見たのに、総領事館は統帥権に容喙、干渉せんとするのか」と反問し、同席していた花谷の如きは、私の面前で軍刀を抜き、「統帥権に容喙する者は容赦しない」とて威嚇的態度にさえ出た。こんな空気では、もとより出先限りで話のつけようもないので一応帰館した。そして、一切を総領事に報告した上、東京への電報や居留民保護の措置にとりかかった。
同夜のうち、東三省の最高顧問、趙欣伯博士(明大出身)から再三電話で、「中国側は無抵抗主義で行くから、日本軍の攻撃を即時停止してもらいたい」との要請があったので、その都度総領事や私から板垣に伝達したが、何ら反応はなかった。沿線の領事館に電話連絡すると、各地でも一様に軍の動きがあり、事件は局地に止らず、拡大の形勢にあることは疑うべくもなかったので、総領事館の体制も即時非常時体制に入ることとしルーティンを全部停止し、司法事務まで暫時延期して、全員こぞって事件関係の事務にあたることとした。私は専心対第三国関係と陸軍との折衝に当たり、館内の事務は、挙げて柳井恒夫領事(後のコロンビア公使)が主宰することとなった。当時国際連盟の会議も開会中であったので、ジュネーブやロンドン、ワシントンなどへも、刻々情報を直接電話することとしたが、電報事務の輻輳は想像にあまりあった。……(以下略)
総領事館に対する軍の空気
9月20日の深更のことであった。前後2日間家にも帰らず、全然睡眠をとらなかった私は、比較的早く家に帰って早目に臥床したところ、夜半突然「軍の使だ、早くあけろ」とて軍刀をちゃらつかせながら、非常な力で扉をたたくものがあった。妻が取次に出ると酒気を帯びた花谷少佐のただならぬ剣幕だったので、官邸にとりつけてあった領事館警察の非常ベルを押したため、官邸は、武装警官で取り囲まれた。私が寝衣のままで応対すると、花谷は威丈高に「政府が朝鮮軍の越境を差し止めたのは、総領事館から中国軍は無抵抗だとの電報を出したためだ。こんな有害無益な電報を出すなら、いますぐ一小隊の兵を持って来て無電室を打ち壊す、閣議の席上で幣原外相から中国軍は抵抗していないから、わが軍も攻撃を中止すべきだとの意見が出たが、右は総領事館の誤った電報の結果だ。出先で強いてことを荒立てるのも面白くないから、平素なじみの自分がとくに君のところへ使いにきたのだ」との話だった。右にたいして私は「趙欣伯から再三中国側は無抵抗主義で行くから、至急日本側の攻撃を止めて貰いたいとの電話があったから、そのまま電報した。右は板垣に伝達した通りだ。現に彼我両軍の間に交戦が続いている現状から見て、中国軍が無抵抗のままで、交戦していないとの電報を出すようなことは、常識上から考えても想像できないじゃないか」と撫めて、念のため総領事にも引き合わした上帰した。
ところが翌21日の昼には、片倉大尉が前に一言した本庄司令官にあてた林総領事の私信に言及して、「総領事館は軍事行動を妨害している。柳條溝の爆破を軍の行為に帰している」とて、直接総領事のところへ捻じこんできた。右の私信は本庄司令官に渡さず、参謀限りで開封したものらしく、軍の陰謀を棚上げして、日本政府が関東軍の行動を牽制せんとするのを、すべて総領事の差金によるものだとなす口吻であった。
軍側の総領事館に対する空気は、右の一,二の例でも分かる通り険悪をきわめていたが、他方軍の手先である浪人連は内地から続々奉天に集まり、昭和4年の春城内爆破事件で退去処分を受けた小日向権松派もすでに来奉中だからとて、警察から私の身辺について特別の注意があり、林総領事と私の二人は、護衛なしに外出することを差し止められた実情であった。
他方長春で軍用列車がハルピンへ出発準備を整えているとの電報が東京の満鉄支社に入ったが、右は木村理事の策動だとて、若手参謀連の木村に対する激昂は絶頂に達し、木村を葬れとの声も高く、巷間には軍法会議説さえまことしやかに伝えられていた。木村は軍の強硬方針を排除して、熱心に鉄道交渉を進めていたが、ことに事件発生の二,三日前、新任の内田満鉄総裁が来奉した機会に、満鉄、軍、総領事館の関係者が一堂に会し鉄道交渉の件を協議した際の如き、該博な海外の知識と氏一流の論法をもって、若い参謀連をやり込めたことがあった。木村排撃はそれ以来の軍の反感が爆発したものと思われた。12月林総領事はブラジル大使に転任のため満州を去り、木村もこれと前後して東京に引き揚げたが、両氏の離満は中央の政府が出先の軍に押された何よりの証拠で、満州事変処理に対する中央の無気力と無方針とを如実に反映したものであった。
首謀者は誰か
事件発生当時、私は建川少将は事件をたきつけに来たものとのみ想像していたが、その後の情報を総合すると、日本政府では関東軍の不穏計画に関する聞込みを得たので、差し止めのため建川を派遣したものであった。元来首謀者のあいだでは、9月18日に事を起こす計画はなく、9月28日を予定していたといわれるが事が東京に洩れた上は一刻も遅延を許さない。即日決行に如かずとて、18日午後来奉した建川を一料亭に缶詰めにした上、同夜決行したので、建川としては強いてこれを阻止する意向はなかったらしい。同夜総領事館の会議後、私が百方軍側関係者との連絡に手をつくしたにもかかわらず、その所在を突きとめ得なかったことは前に一言したが、私がせっかく探していた折柄関係者は謀略に専心していたわけであった。
世間では同夜関東軍の命令で、いち早く出動した守備隊長の島本正一中佐や、平田連隊長をも同類の中に加えている者もあったが、計画は板垣ら二,三の人のあいだ限りで進められたもので、東京にも参謀本部の重藤千秋大佐や橋本欣五郎大佐等の連絡者がおり、事は黒龍会方面から洩れたというのが真相らしい。島本、平田両人にとっては出動命令が寝耳に水であったことはその名誉のため特記しておく。18日の晩、付属地内の大和ホテルで東拓の招宴があった。私ら総領事館員は同日午後の会議が長びいたため出席し得なかったが、島本はこの宴会に出席した後、微酔臥床中、予期しない命令に急遽出動したのであった。なお鉄道爆破の下手人については、今日まで世上に明らかにされたものはないが、特務機関附の今田準太郎大尉(後に少将となり、先般病死)が満鉄保線掛りを帯同し、手動車で現場に赴いて爆破を命じたところ、職務に忠実な保線掛りが「自分の任務は鉄道の保護であって、破壊はできない」と抗議したため、抜剣、威嚇の上、爆破せしめたのが真相で、爆破の距離がきわめて短距離だったのも、右の結果であった。……(以下略)
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事件と同時に奉天だけでなく、満鉄沿線全体にわたって軍の蹶起があり、遠く離れた吉林でも軍事行動があったという。さらに、2日後には土肥原が奉天市長に就任するという手際のよさであった。後に、著者は関東軍が信頼していた邦人の一人(森田福松開業医・日本人居留民会長)から、極秘書類を内密に入手し、満州全土の軍事占領の計画を知ったと書いている。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したり、しています。また旧字体は新字体に変えています。青字および赤字が書名や抜粋部分です。「・・・」や「……」は、文の省略を示します。