真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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スパイ<ゾルゲ>とヤマ機関

2008年12月16日 | 国際・政治
 リヒャルト・ゾルゲ率いるスパイ組織「ラムゼイ機関」のメンバー逮捕に動いたのは憲兵隊であるが、その指示はヤマ機関から出されたといわれる。重要な諜報活動はヤマ機関から指令されヤマ機関に集約されて分析判断がなされた上、実行すべき結論がでると、その結論に基づいて憲兵司令部などが動いた。しかしヤマ機関は秘密組織であるため、全て秘匿されたというのである。「昭和史発掘 幻の特務機関『ヤマ』」斎藤充功(新潮新書)から、「『ゾルゲ国際諜報団』摘発の真相」と題された第4章の一部を抜粋する。
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20世紀最大のスパイ事件

 
「ラムゼイ(ゾルゲのコードネーム)機関」は1933年(昭和8年)から足かけ9年間にわたり日本で活動し、帝国政府の国家機密や軍事情報、それに在日ドイツ大使館の極秘情報などを入手して、ソ連赤軍第4本部諜報総局(局長・ヤン・ベルジン大将)に通報していた。
 1942年5月に、事件の概要が司法省から発表されたときは、まだラムゼイ機関がどのような情報を入手し、ソ連に通報していたのか詳細な内容は解明されていなかった。
 しかし、当局はゾルゲと尾崎秀実を5ヶ月にわたり尋問した結果、両人の自供から驚くべき事実が判明した。それは、「日米戦を想定して南方進出を決定した御前会議の内容から、独軍のソ連進攻作戦の計画、対ソ作戦計画、日本の戦争遂行能力」など、当時の国家最高機密の多くがソ連につつぬけだったという事実であった。なかでも軍部が予想すらしていなかった「独軍のソ連進攻作戦」の極秘情報は、ゾルゲを最も信頼していた駐日ドイツ大使のオイゲン・オットーから得た情報であった。

 また、ドイツのソ連進攻作戦については、駐独大使の大島浩が直接ヒットラーから得た情報として参謀本部に通電したという記録が残されている。ただ参謀本部で大島情報を分析し、ドイツのソ連侵攻計画を軍事的に検討したのかどうかまではわからなかった。
 それだけに、ゾルゲの自供内容を司法省から知らされた参謀本部第2部の主務者は絶句したという。またラムゼイ機関が入手してソ連に通報した国家機密の内容が具体的に判明するに従い、政府、軍部統帥部に衝撃が走ったことはいうまでもない。
 では、ラムゼイ機関はどのようなネットワークを駆使して、日本の国家機密に接近することができたのか。それは、元朝日新聞政治部記者で近衛内閣の嘱託として政治家、官僚、文化人、学者、外交官などと親密につきあっていた尾崎秀実の幅広い人脈によっていた。加えて、ゾルゲの歴史社会学者としての冷静で事象を的確に判断する優れた分析能力。この2人の知的パワーが合体して、初めて成功した諜報活動であった。もし、この2人の出会いがなければ、ゾルゲは果たしてラムゼイ機関を立ち上げることが出来たかどうか、疑問符をつけざるを得ない。逆に、それだけ2人は思想的に固く結びついていたのである。その思想とは「社会主義革命によって天皇制政治体制を崩壊させッソ国ソ連を守る」という高度な政治目標であった。
 またゾルゲは「日本のソ連攻撃を中止させて対米戦に誘導する」という、重大な使命も負っていたのである。


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 こうして5人は昭和8年から暫時、フランス、アメリカ、カナダの各地からそれぞれに身分を偽装して、日本に上陸したのである。しかし、5人の関係とそれぞれの任務を知る人物はゾルゲ、唯一人であった。

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 ゾルゲが東京で最初に手がけた仕事は、駐日ドイツ大使館に接触することであった。ゾルゲの行動は迅速で、来日1週間後には代理大使のエルマン・スドロフにナチス党員の新聞記者として面会して館員スタッフの紹介も受けていた。この時の様子をゾルゲは手記に次のように記している。

 <私が東京のドイツ大使館に首尾よく入り込んで、大使館員から絶大な信頼を受けたことが、私の日本におけるスパイ活動の基盤になった。この基盤に立たなかったら、私はスパイ活動をすることはできなかったであろう。私が大使館の中心部に入り込んで、それを私のスパイ活動に活用した事実はモスクワにおいてさえ、史上にその比を見ない驚くべきこととして、高く評価された>

・・・(以下略)
 
 不法無線を探知せよ

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 移動監視隊(ヤマ機関乙班)は初めからラムゼイ機関をターゲットにした「電波狩り」をやっていたのではなかった。逓信局から不審電波の情報を聞き、初めて監視態勢を強化したのだ。しかし、それからの監視隊の動きは素早かった。情報を得てから1ヶ月後には、3台の監視車を使って(3点測定法で)目黒を中心とした西ブロック地区を24時間態勢で固めていき、ラムゼイ機関の周波数を追いはじめた。
そしてM・クラウゼンが借家から発信していた周波数と、発信場所が広尾町であることを突き止める。
 その後の処置は、憲兵隊から警視庁に通報がなされて、クラウゼン宅を特高第1課の青山、平本の両刑事が訪ねるにいたったのである。
 しかし移動監視隊の活躍は完全に歴史から消されてしまった。その理由はヤマ機関の極秘性にあるが、高野
(陸軍登戸研究所第1科2班高野泰秋少佐ー「無線の高野」といわれた人物)の証言から監視隊の実像が浮上し、ラムゼイ機関摘発のプロセスが確認できた。これは「昭和史の真相」といっていいだろう。


 ラムゼイ機関VSヤマ機関

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 ラムゼイ機関検挙のそもそもの”道筋”を付けたのは、警視庁特高第1課の宮下弘警部補であった。宮下が当時、日本共産党の幹部だった伊藤律を目黒署で尋問している時に、伊藤の口からラムゼイ機関の協力者、「アメリカ帰りのおばさん」こと北林トモの名前が出て、北林の線から画家の宮城与徳の名前が割れたのである。後はいもづる式に尾崎秀実、ゾルゲ、ヴーケリッチ、クラウゼンの名が上がり、ラムゼイ機関は摘発される……。

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 だが、クラウゼンを捕捉したのは宮城や尾崎の自供ではなく、ヤマ機関乙班の移動監視隊の手柄であった。アジトを発見できたのは移動監視車のおかげで、3点測定法で電波の発信源を割り出していた。そしてその場所は広尾町というピンポイントだったのである。
 情報は直ちに東京憲兵隊特高第1課(注は略)に通報され、第1課から警視庁特高第1課と外事課に連絡がなされた。そして、警視庁がクラウゼンの身柄を押さえたというのが真相であった。

・・・(以下略)

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