「スターリン感謝文」とは、「長さ約20メートル、幅約1メートルの絹地の旗に、4年間にわたる民主運動の経過を絵にして描き、その中に約1万3千文字のスターリン宛て感謝文を金糸で刺繍した立派なもの」であるという。そして「感謝決議文に賛同する66434人の日本人捕虜の署名」が別個に添えられていたという。ポツダム宣言に反する拉致・連行や苛酷な強制労働の加害責任者といえるスターリンに感謝文を送ろうとしたのである。
元関東軍参謀草地貞吾は、「スターリン感謝文」を「世界的物笑いの種である」とバカにしている。11年半にわたる抑留生活から帰還してもなお、「今日、情けないことに、日本人の相当数は「承詔必謹」(天皇の詔をいただく際には、必ず謹んだ態度をとりなさいというような意味)の真の所在根源を忘れかけている。承詔必謹の本源は議会でもなければ、政府でもない。もとより強大な外国でもなければ、 有り難い教祖様でもない。それは天皇であり、日本の国体・皇位・皇統・皇道にほかならぬ」と、旧日本軍の思想を変わらず維持し、主張し続けた元参謀であれば、当然の評価である。また、確かに常識的には理解しがたい大変な矛盾を抱えている。しかしながら、その背景に、きわめて食糧事情が悪い中、作業を免除されている将校が食糧のピンハネを行い、ノルマの超過達成を暴力的に強制するという旧日本軍組織の差別的・暴力的体質があり、「反軍闘争」として燃え広がった民主化運動の流れの中で出てきた取り組みであるといわれれば、悲しいことではあるが理解できないことはない。「関東軍参謀草地貞吾回想録」草地貞吾(芙蓉書房出版)と「ドキュメント シベリア抑留 斎藤六郎の軌跡」白井久也(岩波書店)からの抜粋である。
-----「関東軍参謀草地貞吾回想録」草地貞吾(芙蓉書房出版)-----
第2部 地獄遍路(シベリア抑留記 )
第11章 スターリン感謝文
世の中で、いろいろと感謝文なるものを見たことがあるが、人文歴史始まって以来、敵国の大元帥に俘虜の身でありながら感謝文を奉ったということを聞いたためしがない。ところが、この開闢以来の大傑作(?)を、入ソした日本人抑留者の多数(昭和24年極東にいた)がやったのであるから見ものである。
この傑作は絶対強制力を持つソ側がやらしめたものか、或いはいわゆる日本側民主指導者の立案になれるものかは明らかでない。然しその何れにしても、或いはまたその合作であったとしても、世界的物笑いの種であることには間違いない。なぜかと一言に言えば、それは完全な筋違いであるからである。やるべからざることをやったからである。やらすべからざることをやらせたからである。
・・・(以下略)
--「ドキュメント シベリア抑留 斎藤六郎の軌跡」白井久也(岩波書店)---
第6章 民主運動 勝利と挫折
天皇制軍隊の特質
・・・
日本の軍隊は制度上、上級者が下級者に私的制裁を加えることを厳禁しているが、兵営の中ではそれが公然と破られ、暴力の反復行為によって条件反射的に服命する、兵士の粗製乱造が大手を振って、まかり通っていた。暴力こそ、軍隊とは無縁の一般社会で暮らしてきた地方人に「焼き」を入れて、筋金入りの天皇の兵隊に造り変える{魔法の杖」であった。
日夕点呼(『軍隊内務書』に定められ、通常消灯時限前30分ないし1時間に行われる)が、終わった後の内務班は、古兵の天下となった。その日一日の落ち度を口実にして、初年兵は古兵からビンタをはじめとして私的制裁の雨を浴びせられるのであった。
野間宏の『真空地帯』や大西巨人の『神聖喜劇』に登場する内務班の実態は、小説の形式をとっているが、日本の軍隊の実相をありのままに書いたまでで、誇張や虚飾はない。
日本の大陸侵略の一環として、満州国に駐留した「外征軍」の関東軍は、同時に無敵を誇った「野戦軍」でもあった。このため、軍紀が厳しいことにかけては有名であった。斎藤六郎が満州・孫呉の第4軍司令部臨時軍法会議の録事として勤務していたときのことだ。上官の私的制裁を恐れて、満ソ国境を越え、ソ連へ逃亡する兵士が後を絶たなかった。日ソ間には中立条約があって、国際法上ソ連は日本の敵性国家ではなかったが、軍はソ連を仮想敵国視しており、ソ連から逃亡兵が送り返されてくると、軍法会議にかけて奔敵逃亡罪(陸軍刑法第77条)を適用して、死刑もしくは無期禁錮の厳罰に処した。兵隊が死刑を覚悟で兵営を逃げ出すのはよほどのことであって、軍紀維持のためにそれほどひどい私的制裁が関東軍にはのさばっていた、何よりの証拠であろう。
斎藤は録事の職掌柄、軍法会議で死刑宣告を受けた逃亡兵の死刑執行命令書を何回も書き、その処刑現場にも立ち会った。……
私が勤務していた満州・孫呉の第4軍司令部臨時軍法会議の死体安置室に、処刑後引き取り手がなくて長く放置されていたソ連へ逃亡した兵士の遺骨があった。遺族は対面を恥じて一向に引き取りにやってこなかった。その気持ちは痛いほどよく分かった。だが、いつまでも放っとくわけにもいかない。出身地の役場に連絡して、引き取ってもらったことがある。
・・・(以下略)
存続する軍隊組織
日本が戦争に敗れて、「天皇の軍隊」はとっくの昔に解体されたはずであった。だが、シベリアをはじめとするソ連各地の日本人捕虜収容所では、旧軍の軍隊組織や階級制がそっくりそのまま生き残っていた。関東軍総司令部は無条件降伏の過程で、64万人の捕虜の権利を主張せず、唯々諾々と「棄兵・棄民」に甘んじただけではない。ソ連軍に迎合して下級兵士の労務提供と引き換えに、旧軍組織の維持と将校の特権の温存を図ったからである。関東軍が満州で武装解除したとき、ソ連軍の命令で、旧来の日本軍の師団中心の編成に代わって、千人を1単位とする作業大隊に再編成して、一斉に入ソした。作業大隊の編成自体は旧日本軍の軍隊制度を引き継いだもので、通常は階級が大尉の大隊長をトップに戴き、その下にいくつかの中隊と小隊を配し、大尉より下級の中尉、少尉が中隊長、小隊長となって底辺を構成して、それぞれの所属兵士を統率するピラミッド型の組織を形成した。
・・・
だがソ連側は収容所生活の指揮・命令権の一切を将校団に委ねた。このため、階級的な身分差別と将校の特権を温存した作業大隊制度は、下級兵士にとって、「兵隊地獄」と「強制労働地獄」の二重の苦しみの淵にあえぐ非情なメカニズムと化した。…… 将校は旧軍時代と同様に、兵隊に対して宮城遙拝、軍人勅諭の奉唱、軍隊式の敬称・敬礼や当番兵サービスを強要、配給食糧のピンハネを行い、些細なことで私的制裁の雨を降らせた。あげくのはては帯剣の代わりに棍棒を持って、作業現場で兵隊にノルマの超過達成を求める鬼のような現場監督となったのであった。斎藤六郎は「将校は兵隊から蛇蝎の如く嫌われたのも、当然だった」といっている。ソ連各地の収容所は、天皇制軍隊の兵営と何ら変わることがなかったのだ。
……入ソ1年目から2年目にかけては、とくに食糧事情が悪かったこともあって、苛酷な収容所生活にうまく適応できなかった下級兵士がばたばた死んでいった。91年4月、ソ連指導者として初めて来日したゴルバチョフ大統領が持参した、約3万8千人のシベリア抑留死亡者名簿は、斎藤によると、「その圧倒的多数が下級兵士によって占められていて、将校や下士官はごくわずか」であった。この一事を取ってみても、シベリア抑留の最大の犠牲者は下級兵士であったことが、客観的に裏付けられている。
「このままでは殺されてしまうぞ」。抑留から半年たった1946年4月。将校の圧制に敢然と反抗して、収容所内の民主化を求める「反軍闘争」の火の手があがった。極東のホール第17地区の本村作業大隊将兵一同が、ソ連に抑留中の関東軍将兵に対して、隊内の軍国主義分子の追放と民主的軍紀の確立のため、共闘を呼び掛ける檄文とスローガンを署名入りで発表。これが『日本新聞』に大きく載ったのだ。本村大隊のこのアピールは嵐のような反響を呼んだ。こうして反軍闘争がシベリアだけでなく、ソ連各地の収容所に燃え広がる大きなきっかけとなったのであった。
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元関東軍参謀草地貞吾は、「スターリン感謝文」を「世界的物笑いの種である」とバカにしている。11年半にわたる抑留生活から帰還してもなお、「今日、情けないことに、日本人の相当数は「承詔必謹」(天皇の詔をいただく際には、必ず謹んだ態度をとりなさいというような意味)の真の所在根源を忘れかけている。承詔必謹の本源は議会でもなければ、政府でもない。もとより強大な外国でもなければ、 有り難い教祖様でもない。それは天皇であり、日本の国体・皇位・皇統・皇道にほかならぬ」と、旧日本軍の思想を変わらず維持し、主張し続けた元参謀であれば、当然の評価である。また、確かに常識的には理解しがたい大変な矛盾を抱えている。しかしながら、その背景に、きわめて食糧事情が悪い中、作業を免除されている将校が食糧のピンハネを行い、ノルマの超過達成を暴力的に強制するという旧日本軍組織の差別的・暴力的体質があり、「反軍闘争」として燃え広がった民主化運動の流れの中で出てきた取り組みであるといわれれば、悲しいことではあるが理解できないことはない。「関東軍参謀草地貞吾回想録」草地貞吾(芙蓉書房出版)と「ドキュメント シベリア抑留 斎藤六郎の軌跡」白井久也(岩波書店)からの抜粋である。
-----「関東軍参謀草地貞吾回想録」草地貞吾(芙蓉書房出版)-----
第2部 地獄遍路(シベリア抑留記 )
第11章 スターリン感謝文
世の中で、いろいろと感謝文なるものを見たことがあるが、人文歴史始まって以来、敵国の大元帥に俘虜の身でありながら感謝文を奉ったということを聞いたためしがない。ところが、この開闢以来の大傑作(?)を、入ソした日本人抑留者の多数(昭和24年極東にいた)がやったのであるから見ものである。
この傑作は絶対強制力を持つソ側がやらしめたものか、或いはいわゆる日本側民主指導者の立案になれるものかは明らかでない。然しその何れにしても、或いはまたその合作であったとしても、世界的物笑いの種であることには間違いない。なぜかと一言に言えば、それは完全な筋違いであるからである。やるべからざることをやったからである。やらすべからざることをやらせたからである。
・・・(以下略)
--「ドキュメント シベリア抑留 斎藤六郎の軌跡」白井久也(岩波書店)---
第6章 民主運動 勝利と挫折
天皇制軍隊の特質
・・・
日本の軍隊は制度上、上級者が下級者に私的制裁を加えることを厳禁しているが、兵営の中ではそれが公然と破られ、暴力の反復行為によって条件反射的に服命する、兵士の粗製乱造が大手を振って、まかり通っていた。暴力こそ、軍隊とは無縁の一般社会で暮らしてきた地方人に「焼き」を入れて、筋金入りの天皇の兵隊に造り変える{魔法の杖」であった。
日夕点呼(『軍隊内務書』に定められ、通常消灯時限前30分ないし1時間に行われる)が、終わった後の内務班は、古兵の天下となった。その日一日の落ち度を口実にして、初年兵は古兵からビンタをはじめとして私的制裁の雨を浴びせられるのであった。
野間宏の『真空地帯』や大西巨人の『神聖喜劇』に登場する内務班の実態は、小説の形式をとっているが、日本の軍隊の実相をありのままに書いたまでで、誇張や虚飾はない。
日本の大陸侵略の一環として、満州国に駐留した「外征軍」の関東軍は、同時に無敵を誇った「野戦軍」でもあった。このため、軍紀が厳しいことにかけては有名であった。斎藤六郎が満州・孫呉の第4軍司令部臨時軍法会議の録事として勤務していたときのことだ。上官の私的制裁を恐れて、満ソ国境を越え、ソ連へ逃亡する兵士が後を絶たなかった。日ソ間には中立条約があって、国際法上ソ連は日本の敵性国家ではなかったが、軍はソ連を仮想敵国視しており、ソ連から逃亡兵が送り返されてくると、軍法会議にかけて奔敵逃亡罪(陸軍刑法第77条)を適用して、死刑もしくは無期禁錮の厳罰に処した。兵隊が死刑を覚悟で兵営を逃げ出すのはよほどのことであって、軍紀維持のためにそれほどひどい私的制裁が関東軍にはのさばっていた、何よりの証拠であろう。
斎藤は録事の職掌柄、軍法会議で死刑宣告を受けた逃亡兵の死刑執行命令書を何回も書き、その処刑現場にも立ち会った。……
私が勤務していた満州・孫呉の第4軍司令部臨時軍法会議の死体安置室に、処刑後引き取り手がなくて長く放置されていたソ連へ逃亡した兵士の遺骨があった。遺族は対面を恥じて一向に引き取りにやってこなかった。その気持ちは痛いほどよく分かった。だが、いつまでも放っとくわけにもいかない。出身地の役場に連絡して、引き取ってもらったことがある。
・・・(以下略)
存続する軍隊組織
日本が戦争に敗れて、「天皇の軍隊」はとっくの昔に解体されたはずであった。だが、シベリアをはじめとするソ連各地の日本人捕虜収容所では、旧軍の軍隊組織や階級制がそっくりそのまま生き残っていた。関東軍総司令部は無条件降伏の過程で、64万人の捕虜の権利を主張せず、唯々諾々と「棄兵・棄民」に甘んじただけではない。ソ連軍に迎合して下級兵士の労務提供と引き換えに、旧軍組織の維持と将校の特権の温存を図ったからである。関東軍が満州で武装解除したとき、ソ連軍の命令で、旧来の日本軍の師団中心の編成に代わって、千人を1単位とする作業大隊に再編成して、一斉に入ソした。作業大隊の編成自体は旧日本軍の軍隊制度を引き継いだもので、通常は階級が大尉の大隊長をトップに戴き、その下にいくつかの中隊と小隊を配し、大尉より下級の中尉、少尉が中隊長、小隊長となって底辺を構成して、それぞれの所属兵士を統率するピラミッド型の組織を形成した。
・・・
だがソ連側は収容所生活の指揮・命令権の一切を将校団に委ねた。このため、階級的な身分差別と将校の特権を温存した作業大隊制度は、下級兵士にとって、「兵隊地獄」と「強制労働地獄」の二重の苦しみの淵にあえぐ非情なメカニズムと化した。…… 将校は旧軍時代と同様に、兵隊に対して宮城遙拝、軍人勅諭の奉唱、軍隊式の敬称・敬礼や当番兵サービスを強要、配給食糧のピンハネを行い、些細なことで私的制裁の雨を降らせた。あげくのはては帯剣の代わりに棍棒を持って、作業現場で兵隊にノルマの超過達成を求める鬼のような現場監督となったのであった。斎藤六郎は「将校は兵隊から蛇蝎の如く嫌われたのも、当然だった」といっている。ソ連各地の収容所は、天皇制軍隊の兵営と何ら変わることがなかったのだ。
……入ソ1年目から2年目にかけては、とくに食糧事情が悪かったこともあって、苛酷な収容所生活にうまく適応できなかった下級兵士がばたばた死んでいった。91年4月、ソ連指導者として初めて来日したゴルバチョフ大統領が持参した、約3万8千人のシベリア抑留死亡者名簿は、斎藤によると、「その圧倒的多数が下級兵士によって占められていて、将校や下士官はごくわずか」であった。この一事を取ってみても、シベリア抑留の最大の犠牲者は下級兵士であったことが、客観的に裏付けられている。
「このままでは殺されてしまうぞ」。抑留から半年たった1946年4月。将校の圧制に敢然と反抗して、収容所内の民主化を求める「反軍闘争」の火の手があがった。極東のホール第17地区の本村作業大隊将兵一同が、ソ連に抑留中の関東軍将兵に対して、隊内の軍国主義分子の追放と民主的軍紀の確立のため、共闘を呼び掛ける檄文とスローガンを署名入りで発表。これが『日本新聞』に大きく載ったのだ。本村大隊のこのアピールは嵐のような反響を呼んだ。こうして反軍闘争がシベリアだけでなく、ソ連各地の収容所に燃え広がる大きなきっかけとなったのであった。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。旧字体は新字体に変えています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」や「……」は、文の省略を示します。