日本の毒ガス兵器は、その多くが中国戦線で実戦使用された。当然のことながら、多数の死者や被毒被害者を出した。そればかりでなく、日本国内でも多くの生産労働者や保管・輸送関係者などを被害者にした。そして、戦後66年になろうとする今なお、中国には大量の毒ガス兵器の遺棄弾があり、その処理をめぐって難しい問題に直面している。ここでは、日本国内における毒ガス兵器の廃棄や投棄の状況に関する部分を「毒ガス戦と日本軍」吉見義明(岩波書店)から抜粋する。
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Ⅹ 敗戦・免責・遺棄・投棄
秘密裏の廃棄・投棄
日本は、1945年8月14日にポツダム宣言を受諾し、無条件降伏した。ついで、15日には天皇の「玉音放送」が行われ、国民に降伏の事実が告げられた。しかし連合軍の先遣部隊が厚木に進駐するのは28日で、マッカーサー連合国軍最高司令官が到着するのは30日であった。日本各地に部隊が進駐するのはもっと後で、2週間以上最長6週間が経過する間に日本軍の文書・記録は戦争犯罪の追及をおそれて焼却され、また、多くの毒ガス兵器も密かに廃棄・投棄された。この廃棄・投棄は、文書・記録の焼却と同様、陸軍中央の指示にもとづいて行われたと思われる。代表的なものをみてみよう。
青森県の海軍大湊警備府には、60キログラムイペリット投下弾が2000発または3000発あったという。これは8月20日から23日にかけて陸奥湾に投棄されたが、宇垣完爾元警備府長官は、これは17,8日頃海軍省軍需局送られてきたもので、「わからないように投棄処分せよ」と指示されたと語っている。陸軍習志野学校にあったイペリットとルイサイトの缶約6トンは、8月17日から20日にかけて、晒粉で消毒し埋設された。青酸ボンベ2,3本は夜間に放散された。横須賀海軍軍需部にあった嘔吐性・催涙性砲弾用型薬缶3万個は、海中に投棄されたと推定された。相模海軍工廠平塚分所には青酸入りサイダー瓶が約1万本あったが、コンクリート塔に投げつけたところ発火したのでこの方法で速やかに処分された。静岡県の陸軍三方原教導飛行団(航空化学戦学校)には、イペリット・ルイサイト缶4,5個、またはイペリット缶約80個(16トン)・ルイサイト缶約20個(約2トン)があったが、これらは8月16日、7日頃、浜名湖北部に投棄された。大阪では、8月20日頃、堺市の輜重隊がイペリットとルイサイトの入ったドラム缶十数個を大阪府長野村(現河内長野市)の池に運んできて投棄し、一部を岸辺と松林に埋めた。福岡県の曽根製造所には敗戦時、各種ガス弾4403発(または1万5561発)が残っていた。また、小沢敏雄曽根製造所元所員らの証言によれば、敗戦時、投下ガス弾約1000発、万単位の砲弾、毒ガス液入100リットルドラム缶3,40本があったが、九州総監部の指示により、20日前後の3日間に苅田港沖・門司区東部沖に投棄した。ホスゲンと青酸が入った投下弾は藍島沖に投棄したという。
連合国軍による廃棄・投棄
しかし、すべての毒ガス弾薬が秘密裏に廃棄・投棄されたわけではない。とくに相当大量に備蓄されていた所では、廃棄・投棄ができず連合軍に押収された。
1945年10月、アメリカ陸軍第8軍化学戦部は第1海軍航空廠(瀬谷)で60キログラムイペリット爆弾8000発を見つけた。また、敗戦時の相模海軍工廠などにあった残存毒ガス量は268,4トン(または333トン)であった。これらは、1946年4月、第一騎兵師団の化学将校、W・E・ウィリアムソン少佐の指揮で、日本の漁船70隻に積みこまれ、銚子沖に投棄された。投棄された場所は水深250から300メートルの浅海で、ボタンエビ、ミズダコ、アンコウなどの豊かな漁場だった。山口県大嶺炭鉱の廃坑には、毒ガス砲弾(糜爛性ガス・嘔吐性ガス)83974発があった。これはアメリカ軍の指導で12月前後に宇部沖に投棄された。海軍第2航空廠(大分)関係では、イペリット爆弾2351発または3811発が米軍に引き渡され、別府湾に投棄された。大分県の国鉄久大線旧宮原トンネルにはイペリット鉄甕1800個(90トン)が保管されていたが、米軍の指導で豊後水道に投棄されたという情報もある。
最大の備蓄基地は、大久野島周辺でその量は陸軍のものだけで3253トンあった。この廃棄・投棄作業はウィリアムソン少佐の指揮でイギリス連邦軍が行った。実際の作業は帝人の請負となり、作業員が募集された。全従事者は8月17日には846人に達した。彼らは多くの作業をガスマスクも防毒衣も着けずに行った。こうして、多くが被毒し、後に激しい喘息を伴う慢性気管支炎に苦しむことになった。その数は307名に達した。また、1名が糜爛性ガスを吸い込んで死亡した。
イペリット・ルイサイトを戦車揚陸艇LST814号へ船積みする作業は7月14日から開始されたが、「船内は忽ちにして毒臭に満ち」、困難を極めた。大型タンクに入っているイペリット・ルイサイトは真空輸送管で送り込まれたが、29日には台風が大久野島を襲い、814号が座礁し、パイプが破壊されたため、船首と岸壁が糜爛性ガスによって汚染され、90名の作業員が被毒した。ウィリアムソン少佐も被毒した。814号は8月12日、北緯32度37分、東経134度13分の地点(土佐沖、室戸岬の南約100キロ)で、爆破され沈没した。
・・・
残りの60キログラムイペリット投下弾(海軍)8000発以上、150キログラム缶入糜爛性ガス400トンなど総重量1800トンの毒ガスは、貨物船、新屯丸に船積みされ、10月に北緯32度30分・東経134度10分の地点で(土佐沖、LST814号海没の近く)で、手作業により海中に投棄された。海が荒れたために、すべてのものを投棄するのに、22日もかかった。
嘔吐性ガスと催涙ガスは、大久野島にあるトンネル(地下壕)へ埋設された。これら毒ガス剤と漏れ始めている催涙ガス手榴弾は9月2日までに地下壕に埋められた。ついで、地下壕正面にコンクリート製の大きな囲い堰を作り、80トンずつの塩水と漂白剤をまぜた液(スラリー)を作って地下壕に流し込んだ。その後地下壕入口を封鎖した。埋没された量は嘔吐性ガス筒(あか筒)65万6553本に達した。こうして廃棄されたが、嘔吐性ガスに含まれる有毒な砒素はそのまま大量に地下壕内に残留することとなった。
その後、糜爛性ガス貯蔵タンクの底に残った沈殿物約50トンと催涙棒2820箱・催涙筒1980箱の焼却、工場地帯一帯の焼却とサラシ粉による徐染などが行われ、1947年5月27日、ようやく全作業が終了した。
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Ⅹ 敗戦・免責・遺棄・投棄
秘密裏の廃棄・投棄
日本は、1945年8月14日にポツダム宣言を受諾し、無条件降伏した。ついで、15日には天皇の「玉音放送」が行われ、国民に降伏の事実が告げられた。しかし連合軍の先遣部隊が厚木に進駐するのは28日で、マッカーサー連合国軍最高司令官が到着するのは30日であった。日本各地に部隊が進駐するのはもっと後で、2週間以上最長6週間が経過する間に日本軍の文書・記録は戦争犯罪の追及をおそれて焼却され、また、多くの毒ガス兵器も密かに廃棄・投棄された。この廃棄・投棄は、文書・記録の焼却と同様、陸軍中央の指示にもとづいて行われたと思われる。代表的なものをみてみよう。
青森県の海軍大湊警備府には、60キログラムイペリット投下弾が2000発または3000発あったという。これは8月20日から23日にかけて陸奥湾に投棄されたが、宇垣完爾元警備府長官は、これは17,8日頃海軍省軍需局送られてきたもので、「わからないように投棄処分せよ」と指示されたと語っている。陸軍習志野学校にあったイペリットとルイサイトの缶約6トンは、8月17日から20日にかけて、晒粉で消毒し埋設された。青酸ボンベ2,3本は夜間に放散された。横須賀海軍軍需部にあった嘔吐性・催涙性砲弾用型薬缶3万個は、海中に投棄されたと推定された。相模海軍工廠平塚分所には青酸入りサイダー瓶が約1万本あったが、コンクリート塔に投げつけたところ発火したのでこの方法で速やかに処分された。静岡県の陸軍三方原教導飛行団(航空化学戦学校)には、イペリット・ルイサイト缶4,5個、またはイペリット缶約80個(16トン)・ルイサイト缶約20個(約2トン)があったが、これらは8月16日、7日頃、浜名湖北部に投棄された。大阪では、8月20日頃、堺市の輜重隊がイペリットとルイサイトの入ったドラム缶十数個を大阪府長野村(現河内長野市)の池に運んできて投棄し、一部を岸辺と松林に埋めた。福岡県の曽根製造所には敗戦時、各種ガス弾4403発(または1万5561発)が残っていた。また、小沢敏雄曽根製造所元所員らの証言によれば、敗戦時、投下ガス弾約1000発、万単位の砲弾、毒ガス液入100リットルドラム缶3,40本があったが、九州総監部の指示により、20日前後の3日間に苅田港沖・門司区東部沖に投棄した。ホスゲンと青酸が入った投下弾は藍島沖に投棄したという。
連合国軍による廃棄・投棄
しかし、すべての毒ガス弾薬が秘密裏に廃棄・投棄されたわけではない。とくに相当大量に備蓄されていた所では、廃棄・投棄ができず連合軍に押収された。
1945年10月、アメリカ陸軍第8軍化学戦部は第1海軍航空廠(瀬谷)で60キログラムイペリット爆弾8000発を見つけた。また、敗戦時の相模海軍工廠などにあった残存毒ガス量は268,4トン(または333トン)であった。これらは、1946年4月、第一騎兵師団の化学将校、W・E・ウィリアムソン少佐の指揮で、日本の漁船70隻に積みこまれ、銚子沖に投棄された。投棄された場所は水深250から300メートルの浅海で、ボタンエビ、ミズダコ、アンコウなどの豊かな漁場だった。山口県大嶺炭鉱の廃坑には、毒ガス砲弾(糜爛性ガス・嘔吐性ガス)83974発があった。これはアメリカ軍の指導で12月前後に宇部沖に投棄された。海軍第2航空廠(大分)関係では、イペリット爆弾2351発または3811発が米軍に引き渡され、別府湾に投棄された。大分県の国鉄久大線旧宮原トンネルにはイペリット鉄甕1800個(90トン)が保管されていたが、米軍の指導で豊後水道に投棄されたという情報もある。
最大の備蓄基地は、大久野島周辺でその量は陸軍のものだけで3253トンあった。この廃棄・投棄作業はウィリアムソン少佐の指揮でイギリス連邦軍が行った。実際の作業は帝人の請負となり、作業員が募集された。全従事者は8月17日には846人に達した。彼らは多くの作業をガスマスクも防毒衣も着けずに行った。こうして、多くが被毒し、後に激しい喘息を伴う慢性気管支炎に苦しむことになった。その数は307名に達した。また、1名が糜爛性ガスを吸い込んで死亡した。
イペリット・ルイサイトを戦車揚陸艇LST814号へ船積みする作業は7月14日から開始されたが、「船内は忽ちにして毒臭に満ち」、困難を極めた。大型タンクに入っているイペリット・ルイサイトは真空輸送管で送り込まれたが、29日には台風が大久野島を襲い、814号が座礁し、パイプが破壊されたため、船首と岸壁が糜爛性ガスによって汚染され、90名の作業員が被毒した。ウィリアムソン少佐も被毒した。814号は8月12日、北緯32度37分、東経134度13分の地点(土佐沖、室戸岬の南約100キロ)で、爆破され沈没した。
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残りの60キログラムイペリット投下弾(海軍)8000発以上、150キログラム缶入糜爛性ガス400トンなど総重量1800トンの毒ガスは、貨物船、新屯丸に船積みされ、10月に北緯32度30分・東経134度10分の地点で(土佐沖、LST814号海没の近く)で、手作業により海中に投棄された。海が荒れたために、すべてのものを投棄するのに、22日もかかった。
嘔吐性ガスと催涙ガスは、大久野島にあるトンネル(地下壕)へ埋設された。これら毒ガス剤と漏れ始めている催涙ガス手榴弾は9月2日までに地下壕に埋められた。ついで、地下壕正面にコンクリート製の大きな囲い堰を作り、80トンずつの塩水と漂白剤をまぜた液(スラリー)を作って地下壕に流し込んだ。その後地下壕入口を封鎖した。埋没された量は嘔吐性ガス筒(あか筒)65万6553本に達した。こうして廃棄されたが、嘔吐性ガスに含まれる有毒な砒素はそのまま大量に地下壕内に残留することとなった。
その後、糜爛性ガス貯蔵タンクの底に残った沈殿物約50トンと催涙棒2820箱・催涙筒1980箱の焼却、工場地帯一帯の焼却とサラシ粉による徐染などが行われ、1947年5月27日、ようやく全作業が終了した。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。読み仮名は半角カタカナの括弧書きにしました(一部省略)。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。