真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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沖縄返還 密約 密使 若泉敬の証言

2012年12月10日 | 国際・政治
 沖縄返還交渉のなかで密約があったことは、様々な文書で明らかとなり、もはや否定できるものではなくなった。特に衝撃的といえるのが、佐藤栄作首相の密使として交渉にあたった若泉敬自信が、その著書「他策ナカリシヲ信ゼント欲ス」(文藝春秋)で、詳細な交渉過程を公表したことであろう。その後、彼は時の大田昌秀沖縄県知事に謝罪の文書(遺書)を送り、およそ2年後服毒自殺したという(公式発表は病死)。
 同書は、下記①の「鎮魂献詞」と「宣誓」から始まり、19章からなる。617ページに及ぶ文章は、『「鎮魂献詞」「宣誓」「謝辞」で始まるこの拙著の公刊を、”永い逡巡の末”ここに決断するに至ったのは、まさに私のその塞き止め難い想念のなさしめる業に他ならない。』で終わっている。

 ②に抜粋したのは、彼が密使として、最初に交渉相手であるキッシンジャー補佐官と交わした会話を中心としている。まさに、「知っているのは4人だけだね」の言葉通り、秘密交渉だったことを明かすものである。

 ③に抜粋したのは、米側の情報や要求について、彼が佐藤首相に報告し、進言する部分である。表向きの発表と異なり、アメリカは沖縄返還と直接関わりのない「繊維問題」などを交換条件にして、露骨に国益を追求していることが分かる。

①--------------------------------
  鎮魂献詞

1945年の春より初夏、
凄惨苛烈を窮めた日米沖縄攻防戦において
それぞれの大義を信じて散華した
沖縄県民多数を含む
彼我二十数万柱の総ての御霊に対し、
謹んで御冥福を祈念し、
この拙著を捧げる。



  宣誓

永い遅疑逡巡の末
心重い筆を執り遅遅として綴った一篇の物語を、
いまここに公にせんとする。
歴史の一齣への私の証言をなさんがためである。
この決意を固めるにあたって、
供述に先立ち、
畏怖と自責の念に苛まれつつ私は、
自ら進んで天下の法廷の証人台に立ち、
勇を鼓し心を定めて宣誓しておきたい。

私自身の行った言動について
私は、良心に従って
真実を述べる。
私は、
私自身の言動と
そこで知り得た事実について
何事も隠さず
付け加えず
偽りを述べない。

 右、宣誓し、茲に署名捺印する。         若 泉 敬 印
 1993年(平成5年)5月15日


②-------------------------------
第9章 ”政治的ホットライン”の開設

「知っているのは4人だけだね」

 7月21日午後5時からのニクソン大統領の記者会見後、キッシンジャー補佐官と会ったのは夜も8時半になってからだった。今度は、ハルぺリン氏とは一切連絡なしである。
 キッシンジャー補佐官は、改めてニクソン大統領がこの”政治的ホットライン”を開くことに賛成であることを私に告げた。さらに、大統領と相談の結果、ロジャーズ国務長官には知らせないことにした。日本側も同様にしてもらえるか、と訊いてきた。
 「もちろん、そうすべきだし、佐藤首相に話して必ずそのようにしてもらう」
 と、私は断言した。つまり、愛知外相や保科官房長官、木村官房副長官らを完全に外さなければならないのだ。
「(知っているのは)4人だけだね(Just four of us!)」
と、抑揚も鋭くキッシンジャー氏は念を押した。
大統領と首相、そしてわれわれ2人だけに、このチャンネルのことを限定しておくというわけである。
 そのうえで、彼は次のように語った。
「大統領は、沖縄について政治的判断を優先させることの必要性を理解している。長期的にみて、米日関係を極めて重視している。したがって、佐藤首相が訪米された際に困るような立場には置かない。
 われわれは、必ずや双方に受け入れ可能な合意に達しうると確信している。そういう精神で今後交渉を進めようではないか」
 と厳かな口調で述べたあと、強く頷く私に対し、
「問題は」
 と、幾分声の調子を変えた。
「緊急時の基地の自由使用のことだが、はたして、事前協議条項について日本側からどんな自由使用の保証を与えてもらえるだろうか。
 この点について原則的な合意ができれば、核を沖縄に貯蔵ないし配備することをやめることを考慮してもいい」
 と厳しい態度に出てきた。さらに、
「ただし、かりに一旦撤去したとしても、そのあと緊急事態が発生した場合、これは沖縄だけだが、核をふたたび持ち込む必要が生じるかもしれない。その権利をわれわれは保持しなければならないと考えているが、日本政府としてどのようにしてその点を保証してくれるのか。
 それは、日本側にも事情がおありだろうから、たとえばのことだが、両首脳間の秘密の了解事項として扱ってよいものかどうか、佐藤首相のお考えを聞きたい。
 この点で、両首脳間で一致がみられれば、共同声明の案文の文言を作り上げることは、事務レベルで技術的にいくらでも可能だ」
 私は、これらの点は、帰って佐藤総理によく説明し、総理の返事をもらってくることにしよう、と返答した。付け加えて、
「神経性毒ガスを沖縄に置いているのはまことに困ったものだ。早くなんとかしてもらえないか」
 と頼んだ。すると彼は、あたかも自分が決定権者であるかのように、 
「すぐに撤去することを発表し、なるべくすみやかに実行に移す」
 と答えたではないか。
 この発言は、彼が実質的に非常に大きな裁量権を握っているという強い心証を私に与えた。

 このあと、2人で決めたことは、主として今後の電話連絡を配慮し、お互いのいわば”暗号表”を作ることであった。私は彼を、「ドクター・ジョーンズ」というありふれた名で呼ぶことにし、私の符諜は「ミスター・ヨシダ」という、これまた日本ではごく普通なものにした。
 ただこのヨシダというのは、単なる思いつきの対キッシンジャー補佐官用というよりも、佐藤首相と私との間の連絡用コード・ネームとして、すでに東京でかなりの期間使われていたものだった。

 
・・・

 これによって、普通の電話で話すときも、直接お互いの固有名詞も役職も用いなくても済む。よほどのことがないかぎり、国際電話の交換手もこれなら怪しまないだろうと、”期待”することにした。この経緯の一部は、キッシンジャー氏もその回顧録に次のように書いている。

 「彼は自分の身分を隠し、もしかすると盗聴しているかもしれない情報機関の耳をたとえ2分間でもごまかそうとして、『ミスター・ヨシダ』という偽名を名乗った。また彼は、普通の電話で問題を説明する場合、『私の友人』(佐藤)『あなたの友人』(ニクソン)という暗号を使った(この『私の友人』『あなたの友人』という暗号を使う話し合いは、その後かなり長い間、私の人生の一部をしめることになり、最後には気がおかしくなりそうになった」


 ・・・

③--------------------------------
第12章 ニクソン大統領の”最後通牒”

 ためらう総理

 ・・・
 佐藤総理に私が会ったのは、翌3日である。公邸のいつもの小さな応接間で、午後3時から1時間。
 まず、キッシンジャー補佐官から渡された「2枚の紙(ペーパー)」の原文とその翻訳を提出した。キッシンジャー氏が私に示したのと同じ順序で、最初が「繊維」の紙である。
 総理は、眼鏡を取り出して、この簡潔な文書に交互にじっくり眼を通しながら、何か深く考え込んでいる様子で、いつもより重々しい感じだった。
 まず繊維について、私は、
「30日に会って、ことの重大さが分かりました。ニクソン大統領自身の強い要請として、キッシンジャーがあれほど言うのですから、こちらとしても大統領に対してなんとかしてやらねばいけないでしょう。私は専門家ではないからよく分かりませんが、できるだけのことをして大統領に応えてやってください」
 と言って、「むしろ大事なのは繊維だ」と強調した26日の会見、そして30日に向うが言ってきたことを正確に伝えた。
 当時、私は、繊維についての知識は総理の方がはるかにあると考えていた。それは、かつて通産大臣もやり、また大蔵大臣のときに綿製品の輸出規制問題を扱っていたというような話を、佐藤氏自身から聞いたことがあり、また当然のこととして、すでに愛知外相、大平通産相あたりから十分な情報と知識を仕入れているだろうと、考えたからだ。
 総理は、渋い表情になって、
「難しい問題なんだが、君の話は分かったよ」
 と、その一言だけだった。
「この次にお会いするまでに、よく考えておいて下さい。大統領の威信がかかっている問題だと力説して、向こうは承諾の返事を迫ってきていますので」
 私は、相手の眼を見つめて念を押した。総理は、無言だった。

 総理も、そして私も、真の関心は核抜きの方にあった。
「核兵器は、返還時までに撤去すると言っています」
 私は、30日のキッシンジャー補佐官の話を詳しく報告した。
佐藤総理の表情が変わり、大きな眼がときに光るような感じだった。
「ただし、いまお渡しした紙にも書いてありますが、緊急の非常事態に際しては、事前通告だけで核の再導入を認めることを保証してくれ、さもなければ沖縄は返せない、というのがいまや軍部だけではなく、ニクソン大統領自身の意思でもありかつ決定なのです。
 私は、事前通告だけでは困るんで、たとえ形式だけでも事前協議にしてもらう必要があるのではないかと思いますが……」
 総理は、突然の重大な米側の条件提示に、いささか驚きと動揺を隠せないようであった。

「ううん」と低く唸るような声を出したあと、
「エマージェンシィ(緊急事態)を、誰が、どう定義するのかが問題だなあ」
「そのとおりです。これは難しい問題ですが、そんな緊急時には、実際はアメリカが一方的に決めてやることになるんでしょう。それでも私は、”事前協議”という建前は貫きたいですね」 
「定義が決まれば、通告でも協議でも同じだろうが」
「そういう緊急事態の起る可能性はほとんどないと思います。しかし、書いたものを残す以上は、一方的な通告では困ります。形式的にでもやはり協議にして、日本の意思も入れて合意するということの方が望ましいでしょう」
 総理は少しなげやりな感じで、
「それもそうだが、向こうが通告で一方的に持ち込むというなら、仕方ないではないか」
 総理としては、突然このような条件を、大統領の明確な意向として、いわば、”最後通牒”のような形で提示されたことに、内心相当不満であったようだ。この点、感情を滅多に言葉には出さない佐藤氏だが、その態度と表情から私は十分読みとれた。
 私は、それを無視するかのように話を進めた。

「事態ははっきりしてきて、核の問題は通常の外交ルートでは話せない、と言っています。
 日本の要求どおり核を抜かせるためには、向うが言ってきた条件は”ギブ・アンド・テイク”で呑まざるをえないでしょう。それを了承してくれなければ、沖縄自体を返せないと言っている以上、已むを得ないのではないですか。
 ここで取引する余地は、残念ながらごく僅かしかないでしょう。日本側の3条件、すなわち核抜き、本土並み、72年返還を貫徹するためには、基本的には、向うが出してきたその2つ(総理の前のテーブルの上にある”2枚の紙”を指差しながら)を拒絶することはできないと思います。
 総理は、ためらっていた。やや間をおいて、
「もう少し考えてみよう。少し時間をくれないか」
「どうぞ、お願いいたします。
 日本国の総理大臣として、よくお考えになって下さい。いまが一番大事なところだと思います。
 ただ、核のことは、いくら押しても通常の外交ルートでは返事は来ないんですから、その点は総理だけの念頭にきちんとおかれて対処して下さい」
 と、このチャンネル、すなわちこの政治的ホットラインでしか核の決着をつけることはできないので、選択の余地はほとんどないことを再度強調した。


 佐藤総理としては、どうも、事態の予想外の展開が腑に落ちないようであった。できることなら、このような条件を呑まされることなく、核抜き返還を達成したいというのが本心だったであろう。
 9月2日に会った時点で、私は自分の使命についてだいぶ分かってもらえたと思ったのだが、そして16日にはその印象をさらに強めたのだが、それでもなお総理の頭のなかでは、この極秘チャンネルは、交渉というよりもホワイトハウスの大事な情報をとり、大統領の感触を探るという一種の”諜報機能”として位置づけられているようだった。
 つまり、この政治的ホットラインは、通常の外交ルートでどうしても壁が破れぬ場合に、両首脳間の最高レベルでの機密の交渉が行われる可能性をもったものである、という明確の認識はなかったものと思われる。
 したがって、予期せぬことに、私がニクソン大統領のいわば”最後通牒”を引き出してきたことに、その内容のもつ重要性と併せ、なにか釈然としたい気持が胸中根強くあったことは間違いないものと思われる。
 私は、そのような総理の揺れる心理をあえて無視することにした。私とて不本意なことはもちろんだが、ことここにいたっては核抜き返還を達成するには、少々の譲歩や妥協は致し方ない、それがそもそも外交交渉というものではないか、すんなりこちらの要求が通るのなら、もうとっくに通常の外交ルートで決着がついているはずではないか、という開き直った気持ちであった。


 ・・・

 佐藤総理は、私の帰国報告について、『日記』に、次のように書いた。

 「米国に派遣した若泉敬君が帰ってきたので早速会ふ。思った通り、2,3の点で重大決意を要する様だ。又センヰ関係は当方で決心する様に、と決心をせまられる。丁度木川田君が帰国して報告のあったばかりで当方も決心すべき時と相談したばかりの処だった。
 夕刊は米国からセンヰ関係で2国間協定を正式に申しこんで来たと云ふ。外務省に確かめると新聞報道通り。断るすじは勿論ない。前向きで研討(ママ)する様注意する」


 なお、この『佐藤日記』でふれられている3日付け夕刊のワシントン発の記事というのは、私もその夜帰宅してから読み、”いよいよ来たか”と強い印象をもって各紙を精読した記憶がある。内容は、おおむね次のようなものであった。

 「米国のトレザイス国務省経済担当次官補は2日午後3時(日本時間3日午前4時)国務省に吉野駐米大使を招き、米政府の繊維輸入規制についての正式な提案を申し入れた。同案は毛・化合繊は包括的に輸入規制するために2カ国間協定を結ぼうというもので、米国としてはニクソン大統領就任以来、日本に要請してきた繊維の自主規制をついに2カ国間協定にきりかえ、正式な外交ルートを通じてこの締結を迫ってきたもの」


 この繊維問題については、総理への報告後、留守中の新聞報道を読みながら次のようなことに注目した。
 つまり9月29日に、佐藤総理も出席して挨拶した東京ヒルトンホテルでの内外情勢調査会の年次大会において、2週間のワシントン滞在を終え帰任したマイヤー駐日米大使が、「アメリカからの報告」と題する特別講演行った。大使は、そのなかで大要次のように述べていた。

 「沖縄返還のための継続討議で米国が求めていたは、日本の利益と願望を念頭におくことであるが、現在進展が見られているし相互に満足のいく解決が見いだされるものとわれわれは期待している」


 また繊維問題については、次のように述べた。

 「より均衡した対日貿易の収支を実現しようとする米国の希望はしばしばどん欲な圧力と解されるが、このような非難は不当だ。制限的な貿易慣行を避けることによって日本ほど利益を受ける国はない。繊維問題については米国の労働者や工場にも同情ある態度をみせてほしい。破局的な制限措置の連鎖反応を避けるとすれば暫定的な方便としても、日本が一部諸国とすでに実施しているような自主規制を羊毛と人造繊維の輸出で行うことが不可欠だ」

 したがって私が3日に会った時点では、総理の頭のなかでは繊維問題のもつ重要性がかなり認識されていたのではないか、とも思われ
るのである。

 さらに、私の希望的観測を高めたのは、10月2日付の次の報道であった。ただ、私はこの1面トップ記事の信憑性を確かめる術をなんらもたなかった。

 「政府首脳が1日明らかにしたところによると、政府は大詰めを迎えた沖縄交渉を有利に展開するため、最大の決め手として繊維製品の対米輸出自主規制問題を交渉材料に使うハラ固めた。このため、政府は近く米国から自主規制をねらいとした正式提案があれば話し合いに応ずる見通しである。政府首脳が繊維問題を沖縄問題とからめないとの従来の方針を変えたのは農産物を中心とする残存輸入制限の自由化の見通しが立たず、一方、沖縄の核兵器の扱いやB52戦略爆撃機のベトナム向け発進など我が国として譲歩できない核心に近づいた沖縄交渉を打開する考えからとみられている」



http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/"に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に変えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。 

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