正確な数値や裏付けとなる科学的根拠がつかめないが、公式発表は、スリーマイル島の原発事故が、周辺住民の健康に有意な影響を与えた事実はないということのようである。でも、そうした公式発表は、アメリカの場合もそのまま信じることがでない。
メアリー・オズボーンは、スリーマイル島の原子力発電所2号炉を中心とする地図上に、癌や白血病におかされた人を、黒やピンクの丸で記録していった。それは事故により放出された放射性希ガスの流れそのものを示すものではないか、と思われるような地図になっている。癌や白血病の原因が被曝であると証明することはできないのかも知れないが、この地図が意味することはあきらかであると思う。資料1は、そのメアリー・オズボーンの証言を中心とする部分を「四番目の恐怖」広瀬隆・広河隆一(講談社)から抜粋したものである。
資料2は、そのスリーマイル島の事故に関する内容や状況、その対応についてまとめられた部分を「地球核汚染」中島篤之助編(リベルタ出版)から抜粋したものである。例に洩れず、スリーマイル島の事故も、その深刻な状況が年を経るにつれて次第に明らかになっていくようである。
資料1-------------------------------
スリーマイル島
潜伏期が過ぎた。
癌と白血病が
人々に襲いかかり
悲劇の幕が開いた。
「9歳の少女が失明しようとしています。
この地図を見てください。私のまわりの人が次々と倒れてゆきます」
メアリー・オズボーンは、おそろしい地図を前に語りはじめた。地図の上には、円を描いた中心点にスリーマイル島2号炉、9年前の1979年3月28日午前4時に大事故が発生した問題の原子炉がある。大量の放射能を含んだガスが噴出し、一帯に襲いかかった。
この地図のほかに、さらに詳細な2枚の地図がある。黒とピンクの丸が、それぞれ癌と白血病に襲われた人を示している。”物言わぬ骸 ”となった人も含まれる。
「ベッキー・ミースには9歳になる女の子がいます。この子は、あの事故のあと激しい下痢を起こし、ベッキーが病院に連れてゆきました。その時ですよ。彼女の自動車にもハンドバックにも、ガイガー・カウンターが大きな音を立てたのです。今あの子は、白内障になって、失明しようとしています」
その少女の胸のなかには、どのような感情が生まれているだろう。
エド・ペティーは事故から6年後の1985年に突然倒れ、妻のバーバラが急いで病院に連れて行った。医師が彼女に告げた言葉は、”愛する夫が不治の白血病”というおそろしいものであった。
それから270日のあいだ、バーバラは病室のエドの傍に付き添いながら、鳥や花の刺繍を続けた。
──泣かないで、笑いながら残りの日を数えるの……。
バーバラが縫い取った文字の言葉である。しかしエドは3年前に帰らぬ人となった。メアリー・オズボーンの地図が示しているのは、このような無数の悲劇なのである。学者の統計によって処理されるような数値ではない。しかも、バーバラ・ペティの隣家では、息子が癌に襲われている。ほんの2ブロック先に住む彼女の友人夫婦は、妻が甲状腺障害のため、37歳の若さで3年前にこの世を去った。別の隣家では、夫が白血病で死亡し、また別の隣家でも、子供が癌に倒れた。
事故発生から、5年後、7年後と歳月を重ねるに従って、メアリーがプラスティック・ボードに止めてゆく黒とピンクのチップは増え続け、9年後の現在では、ボードを20枚も重ねて細密に分類しなければ記録できなくなっている。遂に、潜伏期が過ぎたのである
凄絶と言うほかはない。
・・・
人間の体は、最も信頼性の高いガイガー・カウンターである。
ガスが流れ、人々が吸い込こみ、悲劇が起こった。
訴訟は現在2700件という厖大な数に達している。この”件数”は明白になりつつあるが、訴状の深刻な”病名”は、一個人の生涯を左右する重大な問題であるため、まだ氷山の一角が見えるばかりだ。公然と証言する人を探すことは、これまで容易でなかった。
しかしベル研究所のマージョリー・アーモットと夫のノーマン、さらにコロラド大学のカ-ル・ジョンソン博士、ハーバーフォード大学のブルース・モーホルト博士らの数字を総合的に解析すると、10万人当たり1100人という驚くべき発生率がすでに確認されている。これは、ペンシルバニア州内にある同じような田園地帯と比べて、実に7倍から8.5倍という異常な高率になる。しかもその数字は、訴訟を起こしている人だけの分である。
・・・(以下略)
資料2------------------------------
第3部 もうひとつの核汚染
商業用炉初の重大事故
1979年3月28日、アメリカのペンシルバニア州スリーマイル島原子力発電所2号炉(TMI2)で炉心溶融の大事故が起きました。これまでにもウィンズケール1号炉SL1などで炉心が損傷する重大事故が起こりましたが、営業中の商業用炉で起きた重大事故は、これが世界で最初でした。
スリーマイル原子力発電所は、ペンシルバニア州を流れるサスケハンナ川の中洲、州都ハリスバーグ市(人口7万人)の南東約16キロメートルのところにあります。1870年当時の周辺地域の人口は、半径8キロメートル以内に2万6000人、16キロメートル以内に14万人でした。
TMI2の原子炉型式はバブコック・アンド・ウィルコックス社製の加圧水型軽水減速冷却炉(PWR)、電気出力は95.9万キロでした。事故の起こる3ヶ月前の1978年12月に運転を開始したばかりの、当時としては最新鋭の発電炉でした。
加圧水型軽水減速冷却炉は、沸騰水型軽水減速冷却炉とともに世界の発電炉の主流になっている型式(軽水炉)で、改良型コーヅダーホル炉の東海1号炉を除くと、日本の商業用発電炉はすべてこの2つの型式のどちらかに含まれます。TMI2事故が起きた当時、日本で稼働していた商業用発電炉(軽水炉)は18基に達していました。
すさまじい炉心の破壊
事故の内容は、ただちにアメリカの核規制委員会(NRC)などによって精力的に調査されましたが、損傷したTMI2炉が強い放射線を出していたため、人の立ち入りができず、ロボットや遠隔装置を使って調査が現在まで続いています。現在までの調査結果によれば、炉心の破壊は、事故直後の推定をはるかに上回っていたことが、次第に明らかにされています。事故から3年4ヶ月後、炉心が大規模に破壊し、上部に空洞ができていることが確認されました。事故から6年近くたって、核燃料も大規模に溶融していることが確認され、また、事故から8年後には、溶融した炉心が外周部を貫通して原子炉容器の底部に落下したことも確認されました。さらに、原子炉底部にたまっていた核燃料の破砕片を取り除き、ビデオ観察で原子炉底部内壁にひび割れが発見されたのが、事故10年後の1989年8月でした。
こうして現在までに炉心の45%、62トンが溶融し、その内約20トンが炉心周りの内槽を溶融・貫通して底部になまり、1200度C以上の高温で底部を加熱したことが明らかにされたのです。幸いにも原子炉内に冷却水が残っていたため、原子炉容器の貫通は免れました。もし原子炉底部のひび割れが拡大して溶融物がこれを貫通していたら、格納容器の壁を溶融して突き破り地下を突きすすむという、いわゆる”チャイナ・シンドローム”直前という危機的状態であったことが明らかにされたのです。
何重もの安全装置がなぜ? ・・・(略)
放出された大量の放射性希ガス
事故発生からおよそ3時間後の午前7時少し前、「敷地内緊急事態」が宣言されました。まもなく発電所長の指揮下で、TMI2は緊急事態態勢がしかれました。事故は核規制委員会やペンシルバニア州当局に通知され、近隣の市町村および州警察は警戒態勢に入りました。
午前7時20分には、格納容器の天井に取り付けられている放射線モニターが異常に高い値を示しました。この時点で、アメリカで決めている緊急事態態勢のなかで最悪の「一般緊急事態」が宣言されました。それまで、格納容器内にたまった水を補助建屋に移すなどの目的で、格納容器の隔離はされていなかったのですが、午前7時頃、やっと格納容器が隔離されました。これで格納容器内の放射能が周囲の環境に漏れ出なくなるはずでしおたが、どうしたことか運転員が補助建屋に通じている配管の閉鎖を解いてしまったため、放射性物質がここを通って格納容器から補助建屋に移り、その一部が補助建屋から環境に放出されてしまいました。
関係し町村の多くは、TMI2事故の情報を州政府より報道機関から知るというのが当日の実情でした。ハリスバーグの市長もそのひとりでした。午前9時15分頃、ボストンのラジオ放送局から「原子炉事故に対してどうするか?」との質問を受けて、初めて事故の発生を知るという状況でした。
午前11時、必要な人間以外をスリーマイル島から避難させることが指示されました。午後2時頃、発電所の排気筒の約4メートル上空で、ヘリコプターが1時間当たり30ミリシーベルト(自然放射線の約40万倍)の放射線レベルを検出し、核規制委員会に報告しましたが、ケメニー委員会の報告書の記述によれば、核規制委員会はあまり関心を示さなかったといいます。
翌3月29日も混乱は続きましたが、省略します。30日の明け方、メイクアップ・タンクの圧力が高まり、ここから排ガス減衰タンクに放射性ガスを移す必要が生じました。この作業時に放射性ガスが補助建屋に放出され、その一部が環境に漏れ出しました。排気筒の上空39メートルヘリコプターが1時間当たり10ミリシーベルト以上を検出したため、核規制委員会は州知事に避難措置が必要であることを勧告しました。州知事は避難にともなう混乱やパニックを考え苦慮しましたが、午前11時15分、半径8キロメートル以内の妊婦や幼児に対して避難を勧告しました。その結果、実際には家族全員が避難する場合がほとんどで、3月31日の夕方までにスリーマイル島の所在地ゴールズボロの町では、住民の90%が家を離れました。
一方連邦政府の手で、30日にはヨウ素剤の準備が手配されましたが、受注した製薬会社は、昼夜兼行で製造し、4月4日までに23万7013瓶が納入されましたが、これは使わずに済みました。
事故により大気中に放出された放射性物質は、放射性希ガスが230~300万キュリー、ヨウ素131(半減期約8日)が17キュリーと報告されています。放射性希ガスの放出量は、日本の同規模原発の安全審査で仮想事故として検討されている事故の19倍(加圧水型軽水炉)~43倍(沸騰水型軽水炉)に相当します。住民の体外被曝線量は、最大で1ミリシーベルト程度と報告されています。
最大の教訓は何か ・・・(略)
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。
メアリー・オズボーンは、スリーマイル島の原子力発電所2号炉を中心とする地図上に、癌や白血病におかされた人を、黒やピンクの丸で記録していった。それは事故により放出された放射性希ガスの流れそのものを示すものではないか、と思われるような地図になっている。癌や白血病の原因が被曝であると証明することはできないのかも知れないが、この地図が意味することはあきらかであると思う。資料1は、そのメアリー・オズボーンの証言を中心とする部分を「四番目の恐怖」広瀬隆・広河隆一(講談社)から抜粋したものである。
資料2は、そのスリーマイル島の事故に関する内容や状況、その対応についてまとめられた部分を「地球核汚染」中島篤之助編(リベルタ出版)から抜粋したものである。例に洩れず、スリーマイル島の事故も、その深刻な状況が年を経るにつれて次第に明らかになっていくようである。
資料1-------------------------------
スリーマイル島
潜伏期が過ぎた。
癌と白血病が
人々に襲いかかり
悲劇の幕が開いた。
「9歳の少女が失明しようとしています。
この地図を見てください。私のまわりの人が次々と倒れてゆきます」
メアリー・オズボーンは、おそろしい地図を前に語りはじめた。地図の上には、円を描いた中心点にスリーマイル島2号炉、9年前の1979年3月28日午前4時に大事故が発生した問題の原子炉がある。大量の放射能を含んだガスが噴出し、一帯に襲いかかった。
この地図のほかに、さらに詳細な2枚の地図がある。黒とピンクの丸が、それぞれ癌と白血病に襲われた人を示している。”物言わぬ骸 ”となった人も含まれる。
「ベッキー・ミースには9歳になる女の子がいます。この子は、あの事故のあと激しい下痢を起こし、ベッキーが病院に連れてゆきました。その時ですよ。彼女の自動車にもハンドバックにも、ガイガー・カウンターが大きな音を立てたのです。今あの子は、白内障になって、失明しようとしています」
その少女の胸のなかには、どのような感情が生まれているだろう。
エド・ペティーは事故から6年後の1985年に突然倒れ、妻のバーバラが急いで病院に連れて行った。医師が彼女に告げた言葉は、”愛する夫が不治の白血病”というおそろしいものであった。
それから270日のあいだ、バーバラは病室のエドの傍に付き添いながら、鳥や花の刺繍を続けた。
──泣かないで、笑いながら残りの日を数えるの……。
バーバラが縫い取った文字の言葉である。しかしエドは3年前に帰らぬ人となった。メアリー・オズボーンの地図が示しているのは、このような無数の悲劇なのである。学者の統計によって処理されるような数値ではない。しかも、バーバラ・ペティの隣家では、息子が癌に襲われている。ほんの2ブロック先に住む彼女の友人夫婦は、妻が甲状腺障害のため、37歳の若さで3年前にこの世を去った。別の隣家では、夫が白血病で死亡し、また別の隣家でも、子供が癌に倒れた。
事故発生から、5年後、7年後と歳月を重ねるに従って、メアリーがプラスティック・ボードに止めてゆく黒とピンクのチップは増え続け、9年後の現在では、ボードを20枚も重ねて細密に分類しなければ記録できなくなっている。遂に、潜伏期が過ぎたのである
凄絶と言うほかはない。
・・・
人間の体は、最も信頼性の高いガイガー・カウンターである。
ガスが流れ、人々が吸い込こみ、悲劇が起こった。
訴訟は現在2700件という厖大な数に達している。この”件数”は明白になりつつあるが、訴状の深刻な”病名”は、一個人の生涯を左右する重大な問題であるため、まだ氷山の一角が見えるばかりだ。公然と証言する人を探すことは、これまで容易でなかった。
しかしベル研究所のマージョリー・アーモットと夫のノーマン、さらにコロラド大学のカ-ル・ジョンソン博士、ハーバーフォード大学のブルース・モーホルト博士らの数字を総合的に解析すると、10万人当たり1100人という驚くべき発生率がすでに確認されている。これは、ペンシルバニア州内にある同じような田園地帯と比べて、実に7倍から8.5倍という異常な高率になる。しかもその数字は、訴訟を起こしている人だけの分である。
・・・(以下略)
資料2------------------------------
第3部 もうひとつの核汚染
商業用炉初の重大事故
1979年3月28日、アメリカのペンシルバニア州スリーマイル島原子力発電所2号炉(TMI2)で炉心溶融の大事故が起きました。これまでにもウィンズケール1号炉SL1などで炉心が損傷する重大事故が起こりましたが、営業中の商業用炉で起きた重大事故は、これが世界で最初でした。
スリーマイル原子力発電所は、ペンシルバニア州を流れるサスケハンナ川の中洲、州都ハリスバーグ市(人口7万人)の南東約16キロメートルのところにあります。1870年当時の周辺地域の人口は、半径8キロメートル以内に2万6000人、16キロメートル以内に14万人でした。
TMI2の原子炉型式はバブコック・アンド・ウィルコックス社製の加圧水型軽水減速冷却炉(PWR)、電気出力は95.9万キロでした。事故の起こる3ヶ月前の1978年12月に運転を開始したばかりの、当時としては最新鋭の発電炉でした。
加圧水型軽水減速冷却炉は、沸騰水型軽水減速冷却炉とともに世界の発電炉の主流になっている型式(軽水炉)で、改良型コーヅダーホル炉の東海1号炉を除くと、日本の商業用発電炉はすべてこの2つの型式のどちらかに含まれます。TMI2事故が起きた当時、日本で稼働していた商業用発電炉(軽水炉)は18基に達していました。
すさまじい炉心の破壊
事故の内容は、ただちにアメリカの核規制委員会(NRC)などによって精力的に調査されましたが、損傷したTMI2炉が強い放射線を出していたため、人の立ち入りができず、ロボットや遠隔装置を使って調査が現在まで続いています。現在までの調査結果によれば、炉心の破壊は、事故直後の推定をはるかに上回っていたことが、次第に明らかにされています。事故から3年4ヶ月後、炉心が大規模に破壊し、上部に空洞ができていることが確認されました。事故から6年近くたって、核燃料も大規模に溶融していることが確認され、また、事故から8年後には、溶融した炉心が外周部を貫通して原子炉容器の底部に落下したことも確認されました。さらに、原子炉底部にたまっていた核燃料の破砕片を取り除き、ビデオ観察で原子炉底部内壁にひび割れが発見されたのが、事故10年後の1989年8月でした。
こうして現在までに炉心の45%、62トンが溶融し、その内約20トンが炉心周りの内槽を溶融・貫通して底部になまり、1200度C以上の高温で底部を加熱したことが明らかにされたのです。幸いにも原子炉内に冷却水が残っていたため、原子炉容器の貫通は免れました。もし原子炉底部のひび割れが拡大して溶融物がこれを貫通していたら、格納容器の壁を溶融して突き破り地下を突きすすむという、いわゆる”チャイナ・シンドローム”直前という危機的状態であったことが明らかにされたのです。
何重もの安全装置がなぜ? ・・・(略)
放出された大量の放射性希ガス
事故発生からおよそ3時間後の午前7時少し前、「敷地内緊急事態」が宣言されました。まもなく発電所長の指揮下で、TMI2は緊急事態態勢がしかれました。事故は核規制委員会やペンシルバニア州当局に通知され、近隣の市町村および州警察は警戒態勢に入りました。
午前7時20分には、格納容器の天井に取り付けられている放射線モニターが異常に高い値を示しました。この時点で、アメリカで決めている緊急事態態勢のなかで最悪の「一般緊急事態」が宣言されました。それまで、格納容器内にたまった水を補助建屋に移すなどの目的で、格納容器の隔離はされていなかったのですが、午前7時頃、やっと格納容器が隔離されました。これで格納容器内の放射能が周囲の環境に漏れ出なくなるはずでしおたが、どうしたことか運転員が補助建屋に通じている配管の閉鎖を解いてしまったため、放射性物質がここを通って格納容器から補助建屋に移り、その一部が補助建屋から環境に放出されてしまいました。
関係し町村の多くは、TMI2事故の情報を州政府より報道機関から知るというのが当日の実情でした。ハリスバーグの市長もそのひとりでした。午前9時15分頃、ボストンのラジオ放送局から「原子炉事故に対してどうするか?」との質問を受けて、初めて事故の発生を知るという状況でした。
午前11時、必要な人間以外をスリーマイル島から避難させることが指示されました。午後2時頃、発電所の排気筒の約4メートル上空で、ヘリコプターが1時間当たり30ミリシーベルト(自然放射線の約40万倍)の放射線レベルを検出し、核規制委員会に報告しましたが、ケメニー委員会の報告書の記述によれば、核規制委員会はあまり関心を示さなかったといいます。
翌3月29日も混乱は続きましたが、省略します。30日の明け方、メイクアップ・タンクの圧力が高まり、ここから排ガス減衰タンクに放射性ガスを移す必要が生じました。この作業時に放射性ガスが補助建屋に放出され、その一部が環境に漏れ出しました。排気筒の上空39メートルヘリコプターが1時間当たり10ミリシーベルト以上を検出したため、核規制委員会は州知事に避難措置が必要であることを勧告しました。州知事は避難にともなう混乱やパニックを考え苦慮しましたが、午前11時15分、半径8キロメートル以内の妊婦や幼児に対して避難を勧告しました。その結果、実際には家族全員が避難する場合がほとんどで、3月31日の夕方までにスリーマイル島の所在地ゴールズボロの町では、住民の90%が家を離れました。
一方連邦政府の手で、30日にはヨウ素剤の準備が手配されましたが、受注した製薬会社は、昼夜兼行で製造し、4月4日までに23万7013瓶が納入されましたが、これは使わずに済みました。
事故により大気中に放出された放射性物質は、放射性希ガスが230~300万キュリー、ヨウ素131(半減期約8日)が17キュリーと報告されています。放射性希ガスの放出量は、日本の同規模原発の安全審査で仮想事故として検討されている事故の19倍(加圧水型軽水炉)~43倍(沸騰水型軽水炉)に相当します。住民の体外被曝線量は、最大で1ミリシーベルト程度と報告されています。
最大の教訓は何か ・・・(略)
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。