真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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張鼓峯事件 NO2

2019年03月20日 | 国際・政治

 「張鼓峯事件」では、「事件」という言葉がつかわれていますが、太平洋戦争の三年前、また、ノモンハン事件の前年に日ソが国境を争った武力衝突であり、局地的な「戦争」です。当時は、大国間の全面的な戦争の危機が語られており、世界で大きく報道されたということです。

 張鼓峯は満ソの国境があいまいな丘陵地帯ですが、その丘陵地帯で、ソ連極東地方におけるNKDV(内務人民委員部隊)全部隊の司令官・G・S・リュシコフが保護を求めて日本に亡命してきました。ソ連側は張鼓峯周辺の国境監視のたるみを察知し、地区司令官の入れ替えを徹底的に行ったといいます。そして、張鼓峯の稜線上に陣地構築を始めたのです。小磯朝鮮軍司令官は黙過する判断だったようですが、地区の防衛を担任する尾高(スエタカ)第十九師団長は奪還を唱え、武力紛争に至ります。

 下記に一部抜粋しましたが、「張鼓峯事件 もう一つのノモンハン」アルヴィン・D・クックス(原書房)の「夜襲戦」を読むと、前頁の「威力偵察」と同様、日本側が攻撃的であったことがわかります。
 背後には、「国境線明瞭ならざる地域においては、防衛司令官において自主的に国境線を認定」せよ、というようなことを主張する辻正信少佐(関東軍参謀)の考え方の影響もあったのではないかと思います。
 また、張鼓峯における第十九師団の武力発動の「大命案」は天皇に拒否され、裁可されていなかったという事実も見逃すことができません。おまけに、張鼓峯のみならず、「沙草峯」でも大命(聖断)に逆らう独断夜襲をかけているのです。
 「張鼓峯事件」における「夜襲戦法」は、その後、日本軍が敵陣地を襲う際のモデルケースになったといわれているようですが、日本国内では、寝込みを襲うような「夜襲戦法」は、武士道に反し卑怯である、と考えられてきたのではないかと思います。

  皇国日本の軍隊が、武力発動を命じる「大命案」が裁可されず、「朕の命令なしに一兵たりとも動かすことがあってはならぬ」と厳命されたにもかかわらず、「威力偵察」を行い、「夜襲」をかけるという戦争行為を進めたところに、私は明治維新以来の日本の政治や軍事の根本問題があると思います。
 「訳者あとがき」に、張鼓峯事件に関するライシャワー博士の文章が引用されていますが、博士は張鼓峯事件での「意思決定過程は典型的に多層化されており、支離滅裂である」と書いています。
 日本の政治や軍事に反対する人に対しては、天皇に対する「不敬」や「統帥権干犯」を根拠に処分したり、処罰したりしておきながら、軍自ら「大命(聖断)」に逆らうことをやっているのです。だから、日本を動かした政治家や軍人にとって、皇国日本を形づくる帝国憲法や教育勅語、軍人勅諭などの考え方や教えは、自らの政策や取り組みに反対することを許さず、国民を従わせるための道具にひとしい側面が大きかったと思います。
 同じように、明治時代当初からの政治家による汚職事件の数々も、「皇国日本」の実態を示すものであったように思います。政治家でも軍人でも、上層部ほど、自らの考えを持ち、自らの判断に自信を持っていたでしょうから、天皇を「」として受け入れるのは、形式的な部分だけであったのではないか、と思います。言い換えれば、明治維新以来の「皇国日本」の実態は、国民の前に示され、子どもたちに教育されたようなものではなかったということです。
 下記は、「張鼓峯事件 もう一つのノモンハン」アルヴィン・D・クックス(原書房)から一部抜粋しましたが、漢数字や算用数字の表示の一部を変えたり、空行を挿入したりしています。
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                       第十二章 夜襲戦

七月の最後の二週間、偽農夫たちが問題の土地を偵察して渡河と攻撃を準備しようと、豆満江の下流に沿って動き回っていた。この点は重要なことだが、斥候は河の朝鮮側と共に満州側でも活動していた。
 中野藤七少佐は自分でも偵察を重ね、小隊長や斥候隊長、すべての重火器観測班、それに大隊付き軍医までを甑山(ソウザン)、将軍峯、さらには敵陣の近くまで派遣した。斥候たちは朝鮮服をまとって時には牛を引き、張鼓峯地区を縫うようにして、くまなく通り、時にはソ連軍の移動、土壌や地形、明るさを調べるために、夜の間穴に隠れたりした。こうして集めたデータを基に中野は突撃に必要な参考資料を作成した。平原静雄少佐は古城の国境守備隊本部にいて、後方の高地に三つの監視哨を設置した。将軍峯を占拠してのち彼はそこに防御陣地を構築し、通路を啓開した。張鼓峯に関しては、たとえ二等兵であっても、地形をしっかり研究させることに努力した。竹下俊平大尉のような戦闘部隊の指揮官は自ら進んで事に当たることがしばしばであった。佐藤幸徳連隊長も工兵の手を借りた。小林茂吉中佐は七月十七日に駐屯地進発の命を受けて以来、指揮下の工兵連隊に、通路、橋梁、渡れる浅瀬の偵察を行わせた。

 佐藤連隊の第一中隊長は七月十八日の午後に、五十二高地から先を三時間半掛けて偵察し、足どり図を作成した。
 この山田定蔵大尉の情報は戦術的な決定をするのに、またソ連軍の兵力と準備についての知識を得るのに、大いに役立った。最も貴重な情報は彼による攻撃路についての評価で、出来れば敵の右翼か正面に向かって西側から攻撃することを提案した。この考え方は二週間後の連隊による夜襲に採用されることになり、山田は自ら詳しく調べた緑の斜面で死を迎えることになる。

 七月三十日の曇りの土曜日は終わろうとしていた。七五連隊が張鼓峯頂上のソ連軍に突撃する瞬間は、間近に迫っていた。午後十時三十分に防川頂から出撃した中野大隊の精鋭約350名は、張鼓峯南西一キロの分岐点に集結した。
 進撃する道路は七月二十九日から三十日にかけて断続的に雨が降り、時には土砂降りもあって、「膝も没する泥濘」であった。雨は小やみになったが、十時三十分に幽かな光を投げかけていた月が沈んでからは雲が空を覆った。坂田中隊の第一小隊長が先導する兵士たちは張鼓峯の南麓に向かって粛々と進み、闇は益々深くなって、兵士たちは10メートル先までしか見ることが出来なかった。中隊の将兵は攻撃発起地点までの1000メートルを前進するのに一時間とはかからず、その地点で彼らは攻撃開始時刻になるまで二時間待った。
 斥候兵が200メートルか300メートル離れた最前列鉄条網に向かって前進した。小隊長の天笠清十郎曹長は独りで敵陣に潜入し、高地の南東側を偵察した。坂田英(ヒデル)大尉は斥候から妨害物のことやそこまでの距離と、どのように敷設されているかについて報告を受けた。工兵隊が針路を啓開してくれるのを待つ間に歩兵は可能な限り登っていき、十一時三十分には150メートルの所に達した。

 戦闘詳報ではでは張鼓峯は非常に険しいと言っているが、ソ連軍の主陣地にまで登り着くのは崖があったとしても、さして困難ではなかった。しかし岩でごつごつした頂上に近づくにつれ、岩石やくぼみを利用した敵の防御施設に阻まれて、一気呵成に突入するのは無理だった。緩やかな斜面の麓から頂上までは500メートルあった。頂上の近くは40度の険しい勾配で、大きな丸石が点在していた。ずっと下へ降りると土や砂利が多くなった。麓は草が敷きつめられていた。

 日本陸軍の無線通信は未だ幼稚なもので、連隊本部と前線の歩兵、渡河地点の工兵、それに朝鮮側から豆満江を越えて援護射撃を行う砲兵との間を結ぶ主な連絡手段は、無線と共に伝令が使われた。将軍峯から第一大隊までの通信線は、七月二十九日の朝から開通していた。戦闘用通信線は、二十七名の将兵から成る小さな連隊無線班が運用していた。通信の往来は概して順調で、受信感度は良好であった。
 工兵の支援は一個小隊で行われ、主に鉄条網の切断作業に手を貸した。中野少佐は第一中隊に対し、午前二時までに鉄条網の切断を完了するように命令した。

 午前十一時三十分、稲垣毅治中尉の指揮する三箇班が右側の切断作業を開始した。計画してあった突破口は敵陣から離れており、近くには監視哨もなかったので、稲垣中尉は強行切断作業を進めた。一列目の鉄条網はかなり素早く切り開かれ、次に二列目へと進んだ。午前零時ごろ、切断成功を告げる幽かな光が闇の中に浮かんだ。右側には今や二カ所の裂け目ができた。
 左側の坂田大尉の第二中隊は、有刺鉄線を強行切断するよりもむしろひそかに通り抜けようと考えた。偵察によると幅広く帯状に伸びる鉄条網がひとつだけ南と南東の斜面に沿って敷設されていた。それは実際には、第一列目と第三列目の鉄条網だった。坂田大尉は天笠曹長指揮の援護分隊と共に、歩兵の一隊を長山弘少尉の工兵隊に加えた。二つの通路を隠密に切り開く作業が始まった。ソ連軍の杭は1メートル間隔に打たれており、各作業班はそれぞれの分担箇所の中央を、兵士たちが切れ目を匍匐して通過するのに充分な幅をとって切断した。後方では歩兵がうずくまって今や遅しと待ち構えており、ハーサン湖の方向からソ連軍装甲部隊の轟々たる音が聞えた。

 午前零時十分、第一列の鉄条網を突き抜けて啓開隊が前進した時、ソ連軍の軍用犬が静寂を破って激しく吠え、青白い照明弾が突然斜面上空で炸裂した。「真昼のように明るかった」と工兵の一人は述懐している。「もし霧がかかるか、雨が降り始めてくれたら」と彼は祈った。
 予期せぬ二列目の鉄条網に遭遇した進路啓開隊は、銃火と手榴弾を浴びた。しかし坂田の言によれば敵は仰天して機銃の掃射が高めであった。工兵二人が負傷したが、左翼の警備斥候兵が射撃の的になったようだった。
 坂田大尉は長山少尉の啓開隊のところへ這い登った。ある班は岩の後に隠れ、一人が手を突き出して杭を掴み、鉄線に流された電流の感じをつかもうとしていた。もう一人の兵士は近くに伏せ、線をはさみで切ろうとしていた。少尉は低い声を耳にしたので、敵は日本兵だと気付いたようだと思った。切断班の兵士たちは隠密に作業を続けるようにと言われたものの、新たに丈の低い有刺鉄線の列に突当り、開通作業は予期した程には進まなかった。そこで強行切断作業が開始された。これは兵士が立上るか跪いて、敵の銃弾に目もくれずにただ啓開の速度を上げることに専念するものであった。遅れる訳には行かない歩兵は、工兵が切れ目を作るのと同時に鉄線を這い抜けた。

 敵陣の前面だけでなく、小さな啓開口から10メートル先にも低い位置に細い線が張られ、日本軍を悩ませた。それは地面から30センチ程浮かせて張られており、ピアノ線のワナに似ていた。その鉄線は草に覆われ、夜間は見えなかった。「全く気が抜けなかった。抜け出そうとすると狙撃される。線自身によっても少しだが切り傷ができる」。ある兵士はこう述懐している。坂田は啓開隊を叱咤して作業を続行させた。天笠曹長は自らの判断で、第一列と第三列の鉄線を午前一時五十分までに部下に切断させた。

 一方、中野大隊長は一時二十分に佐藤連隊長に電話を掛け、彼の部隊が大きな抵抗を受けることなく鉄条網を突破したことを報告し、攻撃開始を午前二時より早めるよう具申した。これは多分ソ連軍の警戒態勢がまだ充分に整っていないことが、彼の考慮に入っていたと思われる。佐藤は状況を慎重に「解釈」し(それは提案の却下である)、沙草峯の敵を警戒態勢に入らせてはいけないので、張鼓峯を余り早く占領すべきではないと告げた。

 一度展開した大隊全員は、斜面を突撃して登るために集結した。視界が良くなった時には部隊の前方40メートルまで見えた。午前二時少し前に中野少佐は前進命令を伝える伝令を出した。最後の障害物が切除された時、長田少尉は懐中電灯を振った。そこで白旗が闇に揺れ動き、歩兵が前進した。
 直接張鼓峯の頂上を目指す坂田大尉の第二中隊は、山田大尉の第一中隊より通過する鉄条網帯の距離が短く、突破点は鉄条網の分岐点になっていて、切断を要するのはわずか二条だけだとわかった。兵士たちは膝と片手で匍匐前進し、通り抜けるや否や遮蔽物の陰に身を隠した。第一大隊が有刺鉄線を突破して攻撃を開始したのは午前二時十五分であった。
 日本陸軍の教則には、狙いをつけない射撃は夜間にはほとんど効果がなく、乱射から生ずる混乱の防止が必須であると書かれている。張鼓峯では、鉄砲の使用は連隊命令により禁止されていた。
 部隊が有刺鉄線を突破するまでは、同士打ちの恐れがあるため銃剣を装着していなかった。それを突破すると兵士は着剣した。小銃には弾丸が込められていたが、それでも発射はゆるされなかった。
 彼等は身軽になって行動した。歩兵一人が通常携行する重量30キロの装備(背嚢、武器弾薬、工具、糧食、衣類)の代わりに、鉄兜を被った兵士はなにも背負わず、わずか弾薬六十発、及び手榴弾二個と水筒、ガスマスク各一個をいれた雑のうだけを携行した。規定では物音を立てないように、銃剣の金属部分、水筒、軍刀、飯盒、スコップ、つるはし、靴鋲などは布か藁で包むこととされていた。スコップの木製部分と金属部分は分けられ、水筒を満たし、弾薬入れに紙をつめ、鉄剣の鞘は布で包むことになっていた。

 兵士たちは音を消すために軍靴に代えてゴム底の地下足袋を履いた。その履物は縄で縛ってあったが、時折湿った草に滑った。安全を考えて、緊張緩和のための会話や咳、喫煙が禁じられた。中隊長と小隊長は、手信号用の小さな白旗を携帯した。坂田中隊所属の各小隊は、全員が識別のために背中のガスマスクに白いあて切れをした布を垂らした──三角の白布は第一小隊、四角は第二小隊と決められた。分隊長は鉄兜の下に白い鉢巻を締めた。中隊長は白のたすきを交叉させ、小隊長は一本を掛けた。将校の死傷者がとり分け多いことが後に判ったが、それは識別用のたすきが目立ち過ぎて、伏せた時でも敵の照明弾で良く見えてしまったからであった。

 左翼では精鋭七十から八十名を擁する第二中隊が斥候を先頭に各小隊が並んで進発した。各小隊は10メートルの間隔をとって四列縦隊で前進し、その中央には坂田中隊長と中隊指揮班が位置を占めた。
 右翼の山田大尉の第一中隊とこれに属する二個小隊も同様な態勢をとった。先導各中隊の中央背後には大隊本部と第三中隊所属の一個小隊、及び北原定雄大尉の第一機関銃中隊が中野大隊長から20メートル離れて位置した。機関銃中隊は歩兵中隊とは違って各二個分隊から成る三個小隊を有していた。

 各機関銃小隊は大隊長と共に鉄条網中央の突破口を抜けて進んだ。その後ろは皆一団となり、兵士は肩と肩を寄せて、互いの機関銃はふれるばかりとなった。北原大尉は二個小隊を前に、一個小隊を後ろに置いた。
 漆黒の暗闇で、兵士たちはいずれも、誰が前を行くのか、横にいるのは誰なのかほとんど判らなかった。第二中隊は最後の鉄条網を通り抜けてから一団となり、張鼓峯の頂上目指して真直ぐに進んだ。日本軍の上方にあるソ連陣地から、鉄条網を援護する機関銃が50メートルの範囲を連続掃射した。曳光弾が闇を引き裂いたが、狙いは高めであった。ソ連軍の照明弾が岩の間にある死角の位置をはっきりさせたので、日本軍の進撃は容易になった。
 有刺鉄線から40メートル過ぎて、坂田大尉はソ連軍の第二陣地に突入した。大きな岩の背後から四、五名の敵兵が柄付き手榴弾を投げていた。坂田と中隊指揮班はその背後へ突進して、敵兵を斃(タオ)した。
大尉は今にも手榴弾を投げようとしている一人を斬り倒した。そこで大貫留蔵曹長らが突進して、敵の防衛線を蹂躙した。
 日本軍は未だ発砲しておらず、死傷者も出ていなかった。坂田が突っ込んだ第一陣地には機関銃は無かった。塹壕は50センチの深さがあり、岩で遮蔽されていた。右手には一張りの天幕が見え、敵のめくら撃ちが、二時三十分頃最高潮に達した。ソ連軍は小銃、軽機関銃、重機関銃、手榴弾、擲弾銃(テキダンジュウ)照明弾、速射砲、戦車砲を総動員して抵抗した。「高地は震動したが、我が攻撃隊は激しい抵抗をも顧みずただ銃剣のみを頼りに前進した」。

 大隊長中野少佐が、将校では最初に被弾した。彼は坂田中隊の右翼の小隊の左手に移動して軍刀を振りかざし、耳をつん裂く銃声と真昼のような閃光の中を突進した。彼は敵兵を一人斬り倒し、次いで後から襲いかかろうとしたもう一人を仕留めた。だがそこへ手榴弾が炸裂し、中野は右腕をだらりと下げてくずれ落ちた。彼の胸や右腕には手榴弾の破片が食い込んでいた。意識を取り戻した中野は、助けようとして駆け寄る兵士に向かって叫んだ。「馬鹿者! 進め! 俺にかまうな」。よろめき立ち上がった彼は左手に持ちかえた軍刀にもたれ、突撃の波の後を追って斜面を登って行った。この間に「誰も狂気のように、次から次へと突進した」。
 
 坂田が遭遇したのは、次第に固くなる敵の防備と、激しくなる一方の砲火であった。中隊の主力は鉄条網を突破してから、他の隊との連絡が途絶えた。彼はもう張鼓峯の一角を攻略したのかと思ったが、約30メートル前方に高さ2~3メートルの切り立った大きな岩があり、そこから手榴弾が次々に投げられていた。
 前進を続ける日本軍は、四~五名の擲弾兵が配置されたもうひとつの敵の陣地に出くわしたのである。軍刀を手にした坂田大尉は、大貫曹長とその率いる中隊指揮班の先頭に立って突撃した。

 我々が躍り込んだ時、敵兵は退却するところでした。私が軍刀を振りかぶった瞬間、一人がライフルの銃口で私の腹を突きました。その男は引き金を引きましたが、弾丸は発射されませんでした。彼に殺られる前に私が彼を斬り倒しました。他の敵兵は逃げてしまいましたが、その前に手榴弾のピンが抜いてあったので味方の多くが倒れ、私も腿をやられました。

 大貫は、坂田大尉の背後のソ連兵ニ、三名を斬り倒し、次に横から彼を狙った一人も始末した。時はもう午前三時であった。

右翼では第一中隊が間隔の広く開いた二列の有刺鉄線を突破して、西斜面沿いに比較的速い速度で前進した。二列目を突き抜けたところで部隊は150メートル先に三列目を発見し、敵の機銃が火を吐いた。そこで左翼小隊所属の一人の一等兵が「決死」の進路を強行啓開役を買って出て、歩兵の15メートル先を突進して部隊の進路を切り開いた。午前三時に山田大尉は高地の右翼から高みをめざして部下と共に突進し、予想されなかった敵弾地を蹴散らし、速射砲二門を鹵獲した。
 中隊の死傷者は増大した。山田自身も胸を撃たれたが、部下を励まし続けた。午前三時三十分、彼は主目標──対戦車砲の背後にある丘の上の幕舎群──に向かって、先頭に立って突撃した。彼は幕舎の中でうろうろしていた敵兵数名を斬り倒したが、再び胸を撃たれ、あえぎながら「天皇陛下万歳」と呟いてこと切れた。山田の感状には、「最前衛の敵陣地を占領した後敵の後衛を粉砕し、かくして敵の全戦線を完全に崩壊させる端緒を開いた」と記されている。
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                     第十五章 既成事実へのつじつま合わせ
 
 第十九師団からの電話による第一報がようやく京城にもたらされたのは、張鼓峯を攻撃しソ連軍を排除した後になってからの事だった。七月三十一日午前五時四十分、朝鮮司令部は山崎隣曔第十九師団参謀が電話で送った報告第一報を受取った。「(1)沙草峯方面の敵が前進してきたため、佐藤部隊はこれに反撃を加え、午前二時四十分頃より戦闘中である。(2)ハーサン湖の東西で砲声が聞こえる。(3)現地は目下霧が深い」。
 この第一報では張鼓峯に対する攻撃には触れておらず、作戦は沙草峯方面で行われた反撃のように聞こえ、さらにソ連軍が砲撃していることを示唆している。報告の曖昧さの言い訳に使ったのが、状況を覆いかくす霧であった。しかし師団司令部は連隊による攻撃が計画的なものであることを──攻撃開始時刻にいたるまで──知っていたし、しかも尾高亀蔵師団長が三十日に佐藤幸徳連隊長を訪れているので、事態が判らなかったので京城へ誤って伝えたということもあり得ない。

 関与した兵力や発生地点に何ら言及せずに、銃火の応酬があったことをようやく軍司令部へ警報した師団は、その後京城あての報告を絶やさなかった。第二報はこう伝えている。「(1)佐藤部隊よりの報告によれば、同隊はその一部を以て張鼓峯と沙草峯南方の縁の中間にある敵陣地を午前二時三十分奪取した。(2)他の部隊は午前二時四十分頃張鼓峯の敵陣地第一線を奪取し、攻撃を続行中である」。
 張鼓峯を正当化する理由としてはっきりしているのは、第一報で述べられた沙草峯方面でのソ連軍の先制攻撃に関する言い分だけしかないが、ともかく戦闘がおこなわれている地域はこれではっきり特定された。この第二報で付け加えられたことは、日本軍の企図が張鼓峯へ向けられたものであって、沙草峯へではないと言うことであり、砲撃のことには何も触れていなかった。
 恐らく師団は上級司令部の反撥を和らげるために、情報を小出しにしていたのである。また、激戦中の前線部隊からの通信が不良であったか、あるいは混乱したということもあったかも知れない。しかしながら師団は参謀の大尉(笹井重夫)に観戦させていたのである。これも師団と七十五連隊双方の思考が絡み合っている証拠の一つといえよう。師団の前進司令部にいた一人の少佐は情報を求めてひと晩中電話にかかりきりだったが、「笹井の奴、とうとう電話口に出なかった」と言っている。

午前五時頃、師団は張鼓峯で勝利を収めたことを知ったが、第一報には味方の死傷者について何も触れてはいなかった。「やれやれ、本当に良かった!」というのが報せを聞いた時の心境であった。尾高とその少佐は祝盃を挙げ、謹んで佐藤連隊の勝利を祝った。
 電話による師団からの報告第三報は張鼓峯を午前五時十五分に占領したことを喜びを込めて明記していた。そして反撃を行ったことの必然性を再び正当化していた。「敵は闇夜にもかかわらず、最初からかなり正確な砲撃を行い、戦車三台をこれに参加させている。この事実から見ても敵の計画的な攻撃であることは一見して疑いない」。

 師団報告第四報は夜襲成功を誇らかに告げていた。「佐藤部隊の一個中隊は、午前六時沙草を占領し、ソ連軍を国境外へ駆逐した」。
 その後まもなく、師団は歩兵第七十五連隊と同様に、我が軍の損害を知らせるに至った。個人的な哀惜の情が最初の揚々たる意気にとって代わったが、それでもそこには無礼なソ連軍を駆逐し、帝国陸軍の威信を保ったという抑え切れない満足感があった。朝鮮軍もこの見方を共有してほしいというのが師団の望みであり、且つ期待でもあった。

 このように京城は日本軍の攻撃について、事が起った後になってやっと、しかも大雑把な形でこれを知らされた。中村孝太郎軍司令官は「沙草峯方面の敵の攻撃前進およびその不法な挑戦に対して、第一線部隊が敢然としてこれに反撃を加え、一挙に張鼓峯を奪取した」ことを知ったのである。
 この罪をかばうような言葉遣いは必ずしも軍司令部内の情況を反映しているものではなかった。軍司令部の反応は、最初は穏やかなものがあった。師団の大半が原駐地へ戻ったものと考えられていたので、岩崎民男大佐は、かつてその軽率な行動に注意を与えたことのある慶興の国境守備隊が関わった事件だろうと考えた。彼は最初は激怒した。中村軍司令官も同様だった。
「死傷者は大変な数でした。それまでに日本軍が戦ったのは、軽く見ていた中国軍だけでした。それなのに、ここでソ連軍に対しても同じやり方でやったのです。もっと慎重に事態を処理すべきだったと軍司令官も言っていました」。中村軍司令官は第一線部隊に対し、当該高地を確保させると同時に、「その方面で使用する兵力をなるべく最小限にとどめて行動を慎重にさせ、事件の不拡大に努めさせた」。
 岩崎は尾高が事前了承をとりつけるべきだったと強く感じている。しかし将軍は叱責されなかった。「結局彼は現場の師団長であり、自らが最善だと判断したことをやっただけなのです」。土屋栄中佐もこれに同意している。「このことから受ける感じでは、多分我々が彼に騙されたのだと言われるかも知れません。しかしもし彼が夜襲を決行しなければ沙草峯の我が軍は殲滅の危機に陥っていたでしょう。だから我々はその行為を承認したのです」。朝鮮軍が細部にわたって作戦を指導する権限をもっているとは思われず、尾高はが何でも事前に報告する義務があったのだという確信はない。と彼は言っている。
 師団参謀たちはこの説明にくみしない。彼らは朝鮮軍に通告しないと決めたのは、京城と意見の一致をみていなかったからで、指揮系統そのものの問題ではなかったとしており、ほとんどの者が、尾高は計画的に指揮系統の束縛を逃れようとしたのだと言っている。「我々と京城の間の連絡は良好でした。夜襲戦の後になってからのことですが」と斎藤敏夫は笑って言った。朝鮮軍当局は師団の抱える「避け難い」問題について、周囲が考えているのとむしろ逆に、かなり理解していたように思われる。
 とはいえ、尾高が危険に満ちたその占領地を確保するために、有力な増援部隊を得られるかどうか
ということは早くから問題になっていた。岩崎高級参謀は、「師団長が非常に熱心だったので、もし彼が自己の裁量で全師団を使用することを承認すると、我々は最悪の場合も予想しなければなりませんでした。彼はソ連に対して独断的な攻撃すら仕掛けたかも知れないのです。 

 部隊をこま切れにして使用するのは良いことではないが、中村軍司令官と岩崎高級参謀は、上級司令部の決定として事態をこの方法で処理することに決めた。
 中村軍司令官の役割については、数多くの論評がある。土屋参謀の主張によると、予想もしなかった夜襲戦の知らせが入った後ですら、軍司令部では参謀全員を集めた会議が開かれなかったという。「決定は余りにも簡単に下されていました。恐らく心の中では反対の気持ちを持つ者もいたでしょうが、誰も口に出しませんでした。それぞれの立場についてある種の誤解があったと思います。それでもこの時の危機は綿密に検討すべきでした。参謀本部による直接の監督がなされなかったのは、全く遺憾です。
 ・・・
 日本の歴史家は、師団が事件についての報告をゆがめていたようだと、今では認めている。

 独断夜襲の経緯を伝えた軍司令部あての報告書は、いかにも夜襲の直前にまずソ連軍の先制攻撃を受けて、これに反撃したかのように記してあったが
 ──だから、夜襲は反撃ということになるのだが
 ──沙草峯及び張鼓峯付近の情勢は、二十九日午後に小規模の衝突があってからはずっと平穏であり、ソ連軍の攻勢と見られるような事実はなかった。
 しかし報告書は明らかに、ソ連側がその主張によって不法侵入を行い[七月二十九日から31日の間に] 不法な攻撃を加えたというということを中央当局に信じさせるように書かれていた。……尾高と佐藤の行為が大命の趣旨に違反するものであったことは明らかであり、二人の将校はそのことを充分自覚していたものと推察される。
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