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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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皇室神道による国民支配 NO2

2019年03月07日 | 国際・政治

 明治維新後、薩長を中心とする政権は、皇室神道の関係者や研究者を巻き込み、国民意識の国家への統合を意図して、様々な布告や布達を発しました。「神々の明治維新」安丸良夫(岩波新書)から抜粋した下記の文章にあるように、「遙拝式」や「国家的祝祭日」、「大麻配布」など、多岐にわたります。それらが、当時の一般国民の民俗信仰や自然信仰を含む様々な信仰の抑圧にもなったため、記録に残っているトラブル以外にも、いろいろなトラブルがあったのではないかと思われます。

 また、文章中に、『神社廻見記録』が、”村々の信仰の実状と神仏分離政策による変容とを、いきいきと伝えてくれる貴重な記録である”とありますが、「神社改め」で、かなり強引に神道の信仰が強制されたことが窺われます。だから、明治時代は、文明開化の一方で、国民生活のすみずみにまで、皇室神道が入り込んいった時代でもあったといえると思います。

 戦後日本では、かつて「紀元節」であった2月11日を「建国の日」としました。もともと2月11日は、明治時代に、古事記や日本書紀に記された神武天皇即位の紀元前660年1月1日 (旧暦)を、明治6年の改暦の布告を受けて、新暦に換算した日付であるといいます。明治5年、すでに神武天皇紀元を祝う祭りを毎年1月1日 (旧暦)に行うことが布告されていましたが、その後の改暦によって、2月11日に行うことになったというわけです。

 でも、神武天皇の紀元前660年1月1日 (旧暦)の即位に、史実としての根拠がないことは、『日本書紀』や『古事記』を史料批判の観点から研究したことで知られる津田左右吉が、誰にでもわかるように、具体的に、そして、ていねいに指摘しました。”神代巻の本文を読むと、そんなことは少しも書いてない”と、神武天皇の即位や神武創業の話について、今から100年近く前に批判しているのです。そこには、記紀神話の勝手な解釈やこじ付けが多々あり、史実とは考えられないということです。でも、津田左右吉の『神代史の研究』その他の著書は発禁処分となり、彼は「皇室の尊厳を冒涜した」として、禁錮刑の判決を受けています。

 その神武天皇の即位は『日本書紀』に「辛酉年(カノトトリノトシ)の春正月(ハルムツキ)の庚辰(カノエタツ)の朔(ツイタチノヒ)」とあるそうです。神武天皇は大和の橿原宮で「辛酉年の春正月の庚辰の朔」に即位したということです。

 辛酉年とは、古代中国で広く信じられていた「讖緯説(シンイセツ)」によれば、天の命令が革(アラタ)まる年であるといいます。讖緯説に従って、日本でも変革は辛酉の年に起こると信じられていたそうです。
 辛酉という数え方は、六十年周期で暦が一回転する干支による年の数え方です。讖緯説では、この一周六十年が二十一回重なる千二百六十年で一蔀(ホウ)という単位になり、一蔀ごとに大きな革命があるとされていたといいます。神武天皇が最初の天皇として位に即いたことは、大きな革命だったと考えられますから、これを一蔀前にさかのぼって設定したものということができます。
 そこで記紀神話を整えた時期から推すと、推古天皇九年(601)が辛酉年なので、この辛酉年から千二百六十年以前に設定したということなのです。そして、初期の天皇の年齢を百四十歳とか百二十歳というように引き延ばして当てはめ、『日本書紀』の年代の辻褄があうように話が作られ、神武天皇紀元が設定されたというわけです。この年代を実年代にあわせてみると、西暦紀元前660年になり、中国では周の恵王の十七年にあたり、日本では縄文時代で、もちろんまだ国家は存在していません。140歳の天皇の存在もあり得ず、史実といえないことは明らかだと思います。

 でも、明治維新直後から、神武天皇紀元を採用すべきであるとの意見が盛んになったといいます。それは、欧米諸国との外交折衝で、西暦よりもさらに古い紀元を外交文書に記して、優越性を誇示しようとする国家意識があったからであると考えられています。
 その2月11日が、様々な反対意見があったにもかかわらず、戦後日本で、再び「建国記念の日」とされました。元号法や国旗国歌法の制定、靖国神社問題などを考え合わせると、皇室神道の復活が意図されているのではないかと思います。
 国民意識の国家への統合のためには、国民が共有する歴史は、史実に基づく必要はないということなのか、と疑わざるを得ません。

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               Ⅲ 廃仏毀釈の展開

               Ⅳ神道国教主義の展開

              2 国家神の地方的展開

遙拝式
 四年三月、神武天皇祭を「海内一同遵行」し、地方官では遙拝式をおこなうようにとの布達がなされた。ここで地方官というのは、府藩県庁のことであるが、遙拝式についての神祇官の布達を掲げてみよう。
        遙拝式
一、府藩県庁中清浄ノ地ヲ撰ミ、大和ノ方ニ向ヒ、新薦(アラゴモ)ヲ敷キ、高机一脚ヲ置キ、机上御玉串ヲ安ズベシ。玉串ハ榊ノ小枝ニ白紙ノ四垂(シデ)ヲ付。
        拝辞
 掛麻久毛畏支 神武天皇乃御前乎遥爾拝美(ハルカニオガミ)奉留(タテマツル)
一、官員礼服着用、順次厳重ニ拝礼スベシ。
一、右畢(オワリ)テ御玉串ヲ焼却スベシ。
一、地方ハ郷村氏神神職ヘ遙拝式申渡シ、氏子ノ者ヲシテ、大和ノ方ニ向ヒ遙拝ッセシムベシ。(『法令全書』)

 この布達は、府藩県庁では布達の通りに実施されたであろうが、村々での実施状況はよくわからない。しかし、村々の氏神に国家的祭祀を受容させることにより、村落生活の内部にまで人心統合の網の目をはりめぐらそうとする国家意思は明らかであろう。

国家的祝祭日
 四月十日、元始祭が制定されたが、そのさい、元始祭(正月三日)・皇太神宮遙拝(九月十七日)・神武天皇祭(三月十一日)は海内(カイダイ)であまねく遵行(ジュンギョウ)するように定めたのは、同じ趣旨にもとづいた祭祀の体系化だった。同年十二月には大嘗祭(ダイジョウサイ)がおこなわれたが、その趣旨を告諭して、

 此大嘗会ニ於ケルヤ、天下万民謹テ御趣旨ヲ奉戴シ、当日人民休業、各其地方産土神ヲ参拝シ、天祖ノ徳沢ヲ仰ギ、隆盛ノ洪福ヲ祝セズンバアルベカラザル也。(『法令全書』)

 としているのも、おなじ意味をもつ事実であろう。五年正月には、四方拝があらたな神道方式でなされ、また元始祭がはじめておこなわれたが、そのあと、五日には東京の士卒族が、ついで六~十一日に一般民が、神祇官神殿に詣でることを許された。また、六年一月には、人日上巳(ジンジツジョウシ)、端午、七夕、重陽(チョウヨウ)の五節句を廃し、神武天皇即位日と天長節を祝日とすることが定められた。
 五節句の廃止と新祝日の制定は、新暦への転換(六年一月)とあいまって、国家的祝祭日をもって民間の習俗と行事の体系をつくり変えようとするものだった。翌年十月には、元始祭以下の祝祭日が改めて制定されて、近代日本における祝祭日は体系が完成したが、こうした国家的祝祭日と民間の信仰行事との葛藤は、国民意識の国家への統合をめぐる重要な対抗軸として、明治末年までひきつがれた。

大麻配布
 ・・・
 大麻(天照皇太神宮大麻)の強制配布は、伝統的な宗教体系を破壊するものであったから、各地にそれを忌避するトラブルが生まれた。…

 大麻をめぐる葛藤と対立
  ・・・
 大麻を受けると、それが火を発するとか、祟りをなすなどと、今日の私たちには信じがたい妖言が伝播したところに、大麻の強制配布が人々にもたらした不安や混乱がよく示されたている。

 開化政策の一環
 ところで、伊勢神宮を頂点とする国家的祭祀の体系を地域の宗教生活の中核にもちこむことは、その対極にいた土俗的な神仏の抑圧と没落とを意味していた。だが、そのさい、土俗的な神仏は、対等の敵手として抑圧されたのではなく、迷信や呪術として抑圧されたのであった。…

 御岳講行者の直訴
 五年二月十八日の朝四時ごろ、白衣に長丈をたずさえ、念珠を襷とした十人の者が、皇居大手門にあらわれ、太政官に直訴したい旨があるとして無理に押し通ろうとした。警護の兵が押しとどめると、かえって彼らは抜刀し、門を壊して入ろうとしたので、四人が撃ち殺され、残りは捕らえられた。彼らは神懸りした御岳講の行者たちで、自らは神の加護で弾も当たらない、刀もとどかないと信ずる人たちだった。…

 世界泥海の流言
 …漠然とした不安やうまく表現でされてゆかない動揺・恐れの意識は、この時代には、むしろ一般的なものであったろう。天変がおこり、世界が泥海になるというつぎのような流言は、こうした雰囲気の中で生まれたのであろう。…
 ・・・

 新たな宗教体系の強制
 ・・・
 …国民の内面性をからめとり、国家が設定する規範と秩序にむけて人々の内発性を調達しようとする壮大な企図の一部だった。そして、それは、復古という幻想を伴っていたとはいえ、民衆の精神生活の実態からみれば、なんら復古でも伝統的なものでもなく、民衆の精神生活への尊大な無理解のうえに強行された、あらたな宗教体系の強制であった。


                Ⅴ 宗教生活の改変
 神田明神 
 
 神田神社は、江戸時代には神田明神といい、江戸の町人のひろい信仰をあつめ、その祭礼は江戸の名物のひとつであった。神田明神の祭神は大己貴命(オオナムチノミコト)と平将門であったが、庶民の信仰は後者にあり、神田明神は、もともと将門の怨霊信仰として発展してきたものであった。
 ところで、明治七年八月、陸軍の演習を指揮した天皇が、その帰途に神田神社にたちよることとなったが、それにさきだって、教部省では神田神社に祭神を改めるように司令した。国体神学の立場からすれば、神社に祭祀されるのは皇統につらなる人々か国家の功臣のはずであり、逆臣将門を祀る神社など、容認しうるはずもなかったし、ましてそうした神社に天皇が参拝してよいはずはなかったからである。また、これにさきだち、世襲の神主芝崎氏にかえて、本居宣長の會孫(ソウソン)にあたる本居豊穎(トヨカイ)が神田神社祠官に任ぜられたことは、こうした指令を実現するための前提条件となった。

・・・
 …祭神をとりかえた神官たちを「朝廷に諂ゆして神徳に負(ソム)きし・・・人」だとそしり、

              2 民俗信仰の抑圧
 神社改め
 新潟県社祠方に小池厳藻という者がいた。彼は、明治三年三月晦日から六月六日まで、蒲原五郡と岩船郡の各村を巡回し、神社改めをおこなったが、それは、村々の神祠を実際に検分して神仏を分離させ、不都合な神体・飾り物などを取りのぞかせ、神名を定めたりするものであった。彼は多い日には十社以上も検分し、その結果を『神社廻見記録』に書きとどめた。同書は、村々の信仰の実状と神仏分離政策による変容とを、いきいきと伝えてくれる貴重な記録である。
 滝原村の多伎(タキ)神社は、吉田波江という神職が奉斎する村の鎮守神であるが、神体は不動であった。社地の裏に滝があり、また村名にもちなんで、不動明王が祀られていたのであろう。小池が巡回したとき、この地方では、神主も村人も不動を神だと思っており、社造(ヤシロヅク)りで祀られていた。そこで小池は、いまさら仏堂に改めさせることはできないと考え、社は元のままとし、不動像をとりのぞいて鏡を神体とし、幣束(ヘイソク)や鈴などを備えて神社としての様式を整えるように命じた。
 また、小見村は、八幡宮を鎮守としていたが、神体は梵字を彫りつけた青い石であった。小池はこの石を取りはらい、鏡を神体とし、幣束などを飾るように命じた。
 ・・・
氏神のない村
氏神の整備
氏仏廃毀の恐怖
小祠廃併合
民俗行事の抑圧
啓蒙的抑圧
乞食取締り
権力と民俗との対抗

              Ⅵ 大教院体制から「信教の自由」へ

               1 大・中教院と神仏合同布教
島地黙雷
 「方今、妖教(キリスト教)ノ民ニ入ル、日ニ一日ヨリ熾(サカン)也」と神道国教化政策を推進しようとするひとと同じ主張。ただ、仏教を重視し、神仏合同の教化体制を建言

教導職と三条の教則
一、敬神愛国の旨ヲ体スベキ事
一、天理人道ヲ明ニスベキ事
一、皇上ヲ奉戴シ朝旨を遵守スベキ事

 十一兼題 
 神徳皇恩、人魂不死、天神造化、顕幽分界、愛国、神祭、鎮魂、君臣、父子、夫婦、大祓
 十七兼題
 皇国国体、皇政一新、道不可変、制可随時、人異禽獣、不可不教、不可不学、万国交際、権利義務、
 役心役形、政体各種、文明開化、律法沿革、国法民法、富国強兵、租税賦役、産物製物

大・中・小教院
静岡の説教
説教の人気
説教の内実
三条宗
六年三月の越前の一揆は、教部省十一等出仕石丸八郎の寺院改革が、より一般的な新政への疑惑と結びついて、大規模な農民一揆へと発展した事例である。石丸は越前国今立郡定友村唯宝寺(西本願寺派)の出身で、幕末以来、長崎でキリスト教の探索をつづけ、キリスト教排撃のために活動してきた人物であった。石丸はこうした方面の見識が評価されて、教部省設置とともに出仕を求められ。教部省・大教院のもとでの宣教体制の整備に活躍した。
 六年一月、右のような立場の教部省の役人として故郷へ帰った石丸は、今立郡の各宗寺院をあつめ、寺院を廃合して小教院をつくり、そこに各村の氏神と諸寺の仏祖を祀ること、教導職の者は家内とともに長屋をたてて小教院に住み、門徒・同行などの名称を廃して、以後「三条宗」と称し、月に六回、三条の教則を説教することなどを指示した。三条の教則を中心におき、神道を表にたてて仏教をそのなかに包摂してしまうような、大教院体制のもとでの神道中心主義が、中央政府の威信を背景として、ッいっきょに実現されようとしたわけである。
 ・・・
 
 越前の一揆
 こうして、故郷に帰った石丸の活動は、一般民衆のあいだいに、耶蘇教の強要→仏教の廃滅という危機意識を醸成していった。そして、大野郡では、「仏法廃止」に抵抗するための秘密組織が生まれ、村々が連印して耶蘇宗の者がきたら蜂起することが約定された。三月六日、こうした動向の機先を制する目的で二人の指導者を逮捕すると、大野郡一帯で農民たちは蜂起し、「南無阿弥陀仏」と大書した旗をかかげ、竹槍をもって大野町地券役所を襲って焼払い、同町や近在で、富商・戸長役場・商法会社・高札場などを打ちこわし、あるいは焼いた。…

 講社設立
 神風講社
  …そして官許を得た講社は、六年六月の大教院神殿での鎮祭にさいして、「其日、東京及近在神仏ノ講社ハ、旗ヲ捧ゲ太鼓ヲ打テ雲霞ノ如ク参集シテ、衢(ミチ)ニ満テ往来スル事モ叶ハザリキ」(『神教組織物語』)とされるほどだった。
 ・・・
 西山村の騒擾
              2 「信教の自由」論の特徴
 新時代の僧侶たち 
 すでにのべたように、神仏分離政策以下の排仏的な気運のなかでも、東本願寺派に代表される真宗の教勢は、必ずしも衰退に向かっていたのではなかった。成立直後の新政府は、財政的に両本願寺に依存するところが大きかったし、両本願寺の門末教諭にも期待しなければならなかった。…
 ・・・
教部省と大教院は、こうした僧侶たちを中心にして、仏教側から政府首脳にはたらきかけて設立されたもので、常世長胤のような復古派の神道家からすれば、教部省と大教院は、こうした真宗僧の陰謀によって生まれたとしてよいほどで、それに手をかしたのが福羽美静や宍戸璣(タマキ)のような長州閥の宗務官僚であった。常世は、教部省や大教院の設立とともに、そこで活動することになった真宗僧のことを憎悪をこめて記し、「教部省ハ真宗僻ナル妖魅ノ巣屈(窟)トナリテ、他人イラズナリ」(『神教組織物語)と罵倒した。  

 真宗の独自性
 島地の外遊
 木戸の宗教観
  しかも、こうした島地の立場は、岩倉使節団の欧米諸国の実情認識をふまえた政府首脳部の考えと、基本的には一致していた。とりわけ、木戸孝允と島地は、英仏滞在中に十五回も会っているが、そこでの話題は、故国での宗教政策のあり方に集約されるようなものであったろう。木戸は、六年末には、「各人之信仰も自由に任せ候外無之」という認識にたっしており、その立場から、当時、教部省の実権を握っていた薩摩閥の黒田清綱・三島通庸について、「信仰自由などゝ申事は、些(イササカモ)合点入兼(イリカネ)」る「頑固論」者だと慨嘆した(『木戸孝允文書』)
 ・・・

 三条の教則批判
 五年十二月、島地は、熱烈な内容の三条の教則批判の建白書を故国に送ったが、その趣旨は、ヨーロッパの宗教事情をふまえた政教分離の主張にあった。
 ・・・
 こうした主張において島地は、宗教的な発展段階論の立場から、神道をもっとも未開のもの、真宗をもっとも近代的なものと考えるとともに、宗教は「神為」のもので、政治権力が「造作」できるものではないという認識をふまえていた。
 ・・・

 信教の自由とナショナリズム

 西周の「教門論」
 ところで、島地の「信教の自由」論は、西本願寺派僧侶としての苦闘のなかから生み出されたところにその特色があったが、洋行体験をふまえ、欧米流の政教分離論をモデルにしていたという点では、森有や西周など、明六社系の人々の「信教の自由」論と照応する性格をもっていた。
 ・・・「国家ノ政治トムジュンスル者ヲ禁ジテ足ル」…
…また、西は、天照大神を日神として崇拝するようなことは、「古代学(パレオントロジ)」を究むれば   その妄誕があきらかになるとして批判したが、天皇制の万世一系論は「立政ノ大本」だとして、これに抵触するような教えはきびしく禁じなければならないとした。神話の非合理性を批判する啓蒙家ぶりの半面で、万世一系の皇統への此岸的な崇敬を絶対化しているこうした立場も、島地たちと共通するといえよう。

 啓蒙主義と信教の自由
 ・・・
 これらあの事例から理解できるように、啓蒙思想家たちの「信教の自由」論も、人間精神の自由の根源的なあらわれとして信教の自由をもとめていたというよりも、政教分離の原則にたつ近代国家の制度の模倣にすぎなかったと理解されよう。彼らの論理では、国家の安寧や秩序の方が「信教の自由」よりも優先しているのだが、、さらにその啓蒙化としての立場からして、国家の秩序と対立する異端の教派はもとより、民衆の民俗信仰的な宗教生活の大部分も、おなじ立場から当然のように否定されてしまうのである。
 ・・・

 日本型政教分離
 明治四年末からの岩倉使節団の欧米諸国訪問にさいし、一行は各地でキリスト教の迫害について抗議をうけ、欧米諸国は、信教の自由の承認を条約改正交渉のための前提条件とした。そのために、一行は、事実上、信教の自由の承認を各国政府に約束することとなり、二年末以来各藩に分置してきた浦上キリシタンの釈放を本国政府に求めた。そして、六年二月にはキリシタン禁制の高札が撤去され、郷村社祠官祠掌の給料の民費課出の廃止(同月)、氏子調の中止(同年五月)、府県神官の月給廃止(同年七月)などがあいついぎ、神道に対する特別の保護が緩和されていった。
 ・・・
 神道非宗教説にたつ国家神道は、このようにして成立したものである。それは、神社祭祀へまで退くことで、宗教的な意味での教説化の責任から免れようとした。それは、実際には宗教として機能しながら、近代国家の制度上のタテマエとしては、儀礼や習俗だと強弁されることになった。そして、この祭儀へと後退した神道を、イデオロギー的な内実から補ったのが教育勅語であるが、後者もまた、「この勅語には世のあらゆる各派の宗旨の一を喜ばしめて他を怒らしむるの語気あるべからず」(井上毅)という原則によってつくられた。国家は各宗派の上に超然としてたち、共通に仕えなければならない至高の原理と存在だけを指示し、それに仕える上でいかに有効・有益かは、各宗派の自由競争に任されたのである。

 ”信教の自由”
 帝国憲法第二十八条の「信教の自由」の規定は、「日本臣民ハ、安寧秩序ヲ妨ゲズ、及臣民タルノ義務ニ背カザル限リニ於テ、信教ノ自由ヲ有すス」となっている。下記は「神々の明治維新」安丸良夫(岩波新書)から抜粋しました。

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