薩長を中心とした江戸幕府に対する倒幕運動は、国学・史学・神道などを結合させた尊王思想と、古代天皇制によって形成された「蕃国思想」(天皇の支配する国を神国とし、領域外の国を穢れた野蛮な国と見なす思想)に由来する攘夷論に大きな力を得て、幕府を倒し、明治維新を成し遂げました。
攘夷を倒幕の手段とした薩長を中心とする明治の政権は、維新後、攘夷から開国に転じ、ヨーロッパにならって、中央官制や法制、地方行政、さらには金融、産業、経済、文化、教育など、あらゆる分野で幅広く近代化を進めました。それは「文明開化」と呼ばれ、それまでの日本社会を大きく変えるものでした。
しかしながら、私は、その「文明開化」の側面ばかりに注目し、「明治150年を祝う」記念式典などを行うことには問題があると思います。もちろん文明開化には評価すべきことも多々あると思いますが、明治維新以降の日本の戦争の歴史を、明治時代の文明開化と呼ばれる「近代化」と切り離して考えることはできないからです。
明治150年記念式典における式辞で、安倍総理は
”今から150年前の今日、明治改元の詔勅が出されました。この節目の日に、各界多数の御参列を得て、明治150年記念式典を挙行いたしますことは、誠に喜びに堪えないところであります。皆様と共に、我が国が近代国家に向けて歩み出した往時を思い、それを成し遂げた明治の人々に敬意と感謝を表したいと思います。…”
というような挨拶をしたということですが、その式辞は、大事なことを無視していると思うのです。
それは、明治維新が「近代化」ではなく「尊王攘夷」をかかげた「倒幕派」よって成し遂げられたということ、また、明治維新によって日本人が、封建的社会体制から解放され、自由と平等を得て自立的個人である「市民」となり、ヨーロッパのように、民主主義社会を形成したのではなかったということ、そして何より、明治維新における「王政復古」よって、日本人は強く天皇の宗教的権威と政治的権力の影響を受けるようになり、戦争に突き進んで行くことになったということなどが、無視されているということです。
明治維新における強引な王政復古によって、幼い明治天皇は祭祀大権という宗教的権威のみならず、政治権力や軍事の大権を保持することになりました。そこに、薩長を中心とする倒幕派の人たちの政治的意図があったことを見逃してはならないと思います。
権力を奪取した後、その権力を安定的に行使するため、天皇を現人神として絶対化し、天皇の「御稜威(ミイツ)」を全世界に及ぼすことが、すべての日本人の使命であるとして、明治政権が「皇室神道」をベースにした国家を構成していったことは、その後の日本の歴史にとって、極めて大きなことだったと思います。
だから明治以降の日本人は、生活のあらゆる領域で、天皇の政治的権力や宗教的権威、軍事大権のもとにおかれ、日常生活のみならず、精神面でも、より強く権力に支配されることになったのではないか思います。
そういう意味で、皇室神道が国民生活の様々な領域に入り込み、国家神道化されていった経緯を知ることのできる「神々の明治維新」安丸良夫(岩波新書)は、貴重だと思います。同書は、下記に一部抜粋したように、同書は「神祇官再興」や「祭政一致」、「神仏分離」や「廃仏毀釈」その他に関わる諸布告をとり上げています。また、「日吉山社」襲撃の事件に象徴されるように、それまで地域住民の信仰を集めていた宗教施設に対する「破壊行為」があったことや、強引な介入があったことも取り上げています。さらに、「東京招魂社」(靖国神社)をはじめとする新たな神社の創建などについても取り上げていまが、それらが、その後の日本の歴史を決定づけた側面をしっかりと見る必要があると思うのです。
下記はすべて「神々の明治維新」安丸良夫(岩波新書)から、一部抜粋したものです。
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はじめに
国体神学の抬頭
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王政復古の大号令に神武創業云々の一句をいれたのは、国学者玉松操玉松操の意見によったもので、玉松は、建武の中興よりも神武天皇による国家の創業に明治維新の理念を求めるべきだと主張した。
・・・
…ところが新政府が成立すると、彼らは新政府の中枢をにぎった薩長討幕派によってそのイデオローグとして登用され、歴史の表舞台に立つつことになったのである。薩長倒幕派は、幼い天子を擁して政権を壟断するものと非難されており、この非難に対抗して新政権の権威を確立するためには、天皇の神権的絶対性がなにより強調されなばならなかったが、国体神学にわりあてられたのは、その理論的な根拠づけであった。
Ⅰ 幕藩体制と宗教
2 近世後期の廃仏論
長州藩の淫祠破却
長州藩では、天保十三年から翌年にかけて、村田清風を指導者とする天保改革の一環として、淫祠破却が強行された。清風は、『某氏意見書』において、主として財政的見地から仏教批判を試みているが、そこではまた、寺院と村々の小堂宇・小社祠などのすべてを淫祠とみて破却し、一村に一社をおき、天子諸侯がみずから社稷・山川を祭祀するようにすべきだと主張されていた。
Ⅱ 発端
1 国体神学の登場
神祇官再興への動き
神祇官再興と祭政一致を求める動きは、幕末の尊王思想や国体思想の発展のなかでうまれた。猿渡容盛(安政五年)、三条実方(安政六年)、六人部是香(文久二年)矢野玄道(元治元年)などの建言や意見書は、神祇官再興を求めていたが、慶応二年から三年にかけて、神祇官再興は具体化のきざしを見せるようになった。慶応三年三月二日の岩倉具視の書簡に、
一、神道復古、神祇官出来候由、扨(サテ)〃〃恐悦の事に候。全く吉田家仕合に候。実は委(悉)く薩人尽力の由に候(「岩倉具視関係文書」)
とあるのは、どのような事実をさすのかは明らかでないとしても、神祇官再興が現実政治の課題になっていたことを伝えている。引用のうち、「薩人」とあるのは井上石見のことで、井上は、薩摩藩主島津氏の産土社諏訪神社の神職、慶応年間には岩倉に近づいて、岩倉と大久保一蔵(利通)との連絡にあたっていた。神祇官再興などを主唱する復古神道派の国学者や神道家は、政治的には、岩倉と薩摩藩を結ぶ線につらなっており、初期の維新政権の政策プランに大きな影響をあたえた玉松操や矢野玄道も、岩倉を通して発言の機会をうることができた。長州藩とのかかわりがふかく、大国隆正の思想に影響された津和野藩の主従(亀井茲監、福羽美静など)をこれに加えると、神祇官再興と祭政一致を推進した勢力のおおよそがとらえられる。
こうした動向のごく一般的な背景は、水戸学や後期国学に 由来する国体論や復古思想が、幕末維新期の対外的危機のなかで、そうした状況に対応する危機意識の表出として、誰もが公然とは反対しにくい正当性をすでに獲得していたことにあったろう。しかし、神祇官再興や祭政一致のような復古の幻想に本当に心を奪われていたのは、倒幕派諸勢力のなかでも、周辺的な人々にすぎなかった。彼らの主張が維新政権の政策にとりいれられ、神祇官事務局 → 神祇官中心に、彼らが政権内部に地歩を占めえたのは、はじめは、岩倉ー薩摩閥の、ついで木戸孝允ら長州閥の支援によるものであり、むしろ彼らの地位そのものが、岩倉、大久保、木戸などの政治的ヘゲモニーの一部を構成していた。
復古の幻想
よく知られているように、維新政権は、岩倉ら一部公家と薩摩藩が提携したクーデターによって成立したものだった。慶応三年十二月九日の小御所会議とつづいて発せられた王政復古の大号令は、二条・九条・近衛など名門の公家を斥け、越前藩・土佐藩などの有力諸藩の主張をおさえて強行された。それは、薩摩藩の武力をよりどころにしたクーデターにほかならず、やがて上京してきた長州藩がこれに加わった。薩長両藩が幼い天子を擁して幕府権力を追い落としたというのが、当時の人々の一般的な見方であり、鳥羽伏見の戦いの勝利のあとでも、諸藩の向背はまださだかではなかった。
こうした状況のなかで、岩倉や大久保がみずからの立場を権威づけ正当化するために利用できたのは、至高の権威=権力としての天皇を前面におしだすことだけだった。小御所会議で、「幼冲ノ天子ヲ擁シテ…」と、急転回する事態の陰謀性をついて迫る山内容堂に、「聖上ハ不世出ノ英材ヲ以テ大維新ノ鴻業ヲ建テ給フ。今日ノ挙ハ悉(コトゴト)ク宸断(シンダン)ニ出ヅ。妄(ミダリ)ニ幼冲ノ天子ヲ擁シ権柄(ケンペイ)ヲ窃取セントノ言ヲ作(ナ)ス、何ゾ其レ亡札ノ甚シキヤ」(『岩倉公実記』と一喝した岩倉は、こうした立場を集約的に表現したといえる。
神祇官再興や祭政一致の思想は、こうして登場してきた神権的天皇制を基礎づけるためのイデオロギーだったから、その意味では、この時期の岩倉や大久保にとって不可欠のものだった。しかし、冷徹な現実政治家である岩倉や大久保と、神道復古の幻想に心を奪われた国学者や神道家たちとのあいだには、神祇官再興や祭政一致になにを賭けるかについて、じっさいには越えることのできない断絶があったはずである。このことを長い眼で見れば、神祇官再興と祭政一致のイデオロギーは、政治的にもちこまれたものなのだから、将来いつか政治的に排除される日がくるかもしれないと予測することもできよう。しかし、さしあたっては、そうした幻想にとらえられた国学者や神道家に、時と処とえを得た活動のチャンスがあたえられることになった。
許された領域
・・・
神仏分離と廃仏毀釈につらなる諸政策が具体化してくるのは、慶応四年三月十三日につぎのような布告が出されてから以降のことである。
此度、王政復古、神武創業ノ始ニ被為基(モトヅカセラレ)、諸事御一新、祭政一致之御制度ニ御回復被遊(アソバサレ)候ニ付テハ、先(マズ)第一、神祇官御再興御造立ノ上、追追(オイオイ)諸祭典モ可被為興(オコサレラルベキ)儀被仰出(オオセイダサレ)候。依テ此旨、五畿七道諸国ニ布告シ、往古ニ立帰リ、諸家執奏配下之儀ハ被止(トドメラレ)、普(アマネ)ク天下之諸神社・神主・禰宜(ネギ)・祝(ハフリ)・神部(カンベ)ニ至迄、向後右神祇官附属ニ被仰渡(オオセワタサレ)候間、官位ヲ初(ハジメ)、諸事万端、同官ヘ願立候様可相心得候事。
(『法規分類大全 社寺門』)
布告ではこの、王政復古、祭政一致、神祇官再興の理念と、全国の神社・神職の神祇官への「附属」の原則がのべられており、その後の宗教政策のためのもっとも基本的な原理を宣言したもの、といえよう。
神仏分離の諸布告
この布告が出された三月十三日は、五箇条の誓文発布の前日にあたっている。五箇条の誓文は、この年一月の段階で、由利公正・福岡孝弟の原案がつくられたさいには、公議政体論を理論的なよりどころとして列侯会議をひらこうとするものであったが、誓文発布にいたる過程でその内容に変更を加えるとともに、発布の形式は、天皇が公卿・諸侯・百官をひきいて天神地祇に国是を誓うという様式をとることとなった。こうした形式を主張したのは木戸で、祭儀の具体的様式を立案したのは、神祇事務局の六人部是愛(ムトベヨシチカ)だったという。誓文の内容がより開明的な方向に改められるとともに、そうした開明性も、天神地祇に冥護(ミョウゴ)された神権的天皇制を前面に押したてて公議政体派を押さえ、有司専制政権の方向へ大きくふみだしたこの段階で、神仏分離政策もクローズアップされてきたのであった。
右の布告にすぐつづいて、三月十七日には、諸国大小の神社に別当・社僧などと称して神勤している僧職身分の者の「復飾」<還俗(ゲンゾク)>が命ぜられ、閏四月四日には、別当・社僧などは還俗の上、神主・社人などと改称して神勤し、それに不心得の者は立退くように命ぜられ、同十九日には、神職の者はその家族に至るまで神葬祭に改めることが布達された。
これらの布告が、神勤主体についての神仏分離を規定しているのにたいし、三月二十八日の布告は、礼拝対象についての神仏分離をを定めている。
一、中古以来、其権現(ゴンゲン)或ハ牛頭天王(ゴズテンノウ)之類、其外仏語ヲ以神号ニ相称(トナエ)候神社不少候。何レモ其神社之由緒委細ニ書付、早早可申出候事。(但書省略)
一、仏像を以神体ト致候神社ハ、以来相改可申候事。
付(ツケタリ)、本地抔(ナド)ト唱へ仏像ヲ社前ニ掛、或ハ鰐口(ワニグチ)・梵鐘・仏具等之類差置候分ハ、早早取除キ可申事。(『法規分類大全 社寺門』)
この布告を背景にして生じた著名な事件に、日吉山(ヒエサンノウ)社の廃仏毀釈がある。この事件は、廃仏毀釈のある側面をよく伝えるものなので、つぎにとりあげてみよう。
日吉山社
比叡山麓坂本の日吉山王社は、延暦寺の鎮守神で、江戸時代には山門を代表する三執行代の管理のもとにあった。この日吉社へ、武装した一隊が押しかけたのは、慶応四年四月朔日(ツイタチ)の昼前のことだった。彼らは、諸国の神官出身の志士たちからなる神威隊五十人、人足五十人、日吉社の社司・宮司二十人ほどからなっていた。彼らは、新政府の「御趣意」はすでに大津裁判所から伝達されているはずだから、それに従って日吉社本殿の鍵を渡せ、と要求した。しかし、山門では、三月二十八日の布告については、まだなにもきいていなかった。当時の行政制度もとでは、新政府の指令は、山門の代表者である座主宮(ザスノミヤ)から三執行代をへて伝えられるか、大津裁判所から三執行代へ伝えられるかするはずであったが、それには若干の日時を要するために、その時点ではまだなにも知らされていなかったのである。驚いた山門では、一山の大衆に事件を報じて会議をひらき、要求を拒むことを決めた。
何回かのやりとりのあと、押しかけた一隊は実力行使にでて、神域内に乱入して土足で神殿にのぼり、鍵をこじあけ、神体として安置されていた仏像や、仏具、・経巻の類をとりだして散々に破壊し、積みあげて焼き捨てた。仏像にかえて、「真榊(マサカキ)」と称する金属製の「古物」がもちこまれて、あたらしく神体に定められた。日吉社は、本殿のほか二宮社以下七社からなりたっていたが、同様の処置は七社すべてにたいしてもなされた。焼き捨てられた仏像・仏具・経巻などは百二十四点、ほかに金具の類四十八点が奪い去られた、と報告されている。そのなかには、大般若経六百巻が一点に数えられている例もあり、五十人の人足を動員しての反日余の作業だったことも考慮すると、全体としてはきわめて厖大な破壊行為がなされたことになる。一体の指導者樹下茂国は、仏像の顔面を弓で射当て、大いに快哉を叫んだという。
樹下茂国は、日吉社の社司で、岩倉具視との関係がふかく、のちには岩倉邸に寄寓している。玉松操を説いて岩倉のブレインに招いたのは、三上兵部と樹下だった。樹下は第一次官制の神祇科では、三人の「係」の一人として名をつらね、当時は神祇事務局の権判事四人のうちの一人だった。もう一人の指導者生源寺儀胤も、やはり日吉社社司で、岩倉に近い人物であった。こうした彼らの地位からして、山門へはまだ届いていない三月二十八日の布告を、彼らが知悉していたのは、当然であるが、むしろ彼らこそがこの布告にこぎつけるために奮闘した努力の一部だったのであろう。
強引な破壊行為
日吉社の神職身分は、社司と宮仕からなり、彼らは、それまで、延暦寺の僧たちの指示にしたがって神勤していた。一般的にいって、江戸時代の大きな神社には、社僧など僧侶身分のものと、社司・神主・禰宜(ネギ)・社人など神職身分のものがいたが、僧侶身分のものが上位にたち、神職身分のものはその頤使(イシ)に甘んじているのが通例だった。そして、江戸時代後期になると、神道思想や国体思想が勢力をつよめるなかで、こうした状況にたいする神職身分のものの不平が高まり、両者の軋轢がしだいに強くなってきていた。樹下や生源寺が幕末の京都で尊王攘夷運動に加担して活動したのも、こうした情勢のなかでのあらたな自己主張という性格をもっていた。そして、三月二十八日の布告は、彼らに絶好の口実をあたえるものだったから、彼らは、この布告と新政府の威光をよりどころとして、強引な廃仏毀釈を断行し、日吉社を延暦寺の支配からきりはなしてしまったのである。
だが、このような強引な破壊行為は、新政府の首脳からも地域の民衆からも支持される性質のものではなかった。新政府の首脳にすれば、神仏分離は朝廷に関係のふかい大社寺から漸進的にすすめればよいものであり、この年四月、岩倉の工作によって「一山不残還俗」した興福寺は、そのモデルケースだった。この事件がおこったのは江戸開城の十日前のことであるが、向背定まらぬ藩も多く、新政府の基盤はまだいちじるしく弱体で、のちになべるように、仏教側の動向も新政権の将来を占う要因のひとつとなりかねないというのが、当時の情勢であった。そのため、この事件は政府を驚愕させ、四月十日には、「社人共俄ニ威権ヲ得、陽ニ御趣意ト称シ、実ハ私憤ヲ霽(ハラ)」すような所業があってはならないとし、今後は仏像・仏具等を取りのぞくさいにも一々伺い出て差図をうけよ、「粗暴ノ振舞等於有之ハ屹度(キット)曲事(クセゴト)」である、と布告した。そして、じっさいの処理は明治二年十二月のことであったが、山門側の言い分が全面的に認められ、樹下と生源寺は首謀者として処罰された。
2 神道主義の昂揚
神社創建への動き
慶応三年十二月、矢野玄道は、国学者の立場からのまとまった政策構想である『献芹詹語(ケンキンセンゴ)』を奉呈して、天下第一の政務は『天神地祇ノ御祭祀』だとし、祀るべくして祀られていない鬼神を国家が祭祀するように主張した。そして、正しく祀られていない神々として、天御中主神(アメノミナカヌシノカミ)以下の天神や若干の皇統神をあげるとともに、さらにつぎのようにのべた。
藤原広嗣(ヒロツグ)朝臣・橘奈良麻呂公・橘逸勢主(ハヤナリノヌシ)・文室太夫(フミノムロノダイブ)等ハ御霊社ニ祭ラレシモ有之候得共、南朝ノ諸名公ノ如キ、尚怨恨ヲ幽界ニ結バレ候モ多ルベク、サテハ時トシテ、世ノ為、災害ヲ生サレ候ハムモ難料(ハカリガタク)候ヱバ、右等ハ史臣ニ被命(メイゼラレ)候テ、其隠没セル鴻功偉績ヲ討論シ、成徳ヲ旌表シ、或ハ官位ヲモ贈賜ヒテ、右宮中ニ一殿トシテ御奉祀被遊度事ニ候。
また、玄道は、織田信長と豊臣秀吉についても、その功績をたたえて「廟祀」するように主張した。
ここにみられるのは、記紀神話などに記された神々と、皇統につらなる人々と、国家に功績有る人々を国家的に祭祀し、そのことによってこれらの神々の祟りを避け、その冥護をえようという思想である。こうした神々が、たんなる道義的崇拝等からではなく、祟りをなす御霊への恐怖に基づいて祭祀されなければならないとされたことは、注意を要するが、国体神学が日本人の神観にもたらした決定的な転換は右のような神々こそ祭祀すべき神々として措定し、それ以外の多様な神仏を祀るに値しない俗信・淫祀として斥けたことにあった。
こうした考えにそって、明治元年(慶応四年)以降、神社の創建があいついだ。建武の中興関係の天皇・皇族・功臣を祀るもの、他国に奉遷されていた天皇・上皇などを祀るもの、ペリー来航以来、国事に奔走してたおれた人々を祀るもの、 瓊々杵尊(ニニギノミコト)・神武天皇など皇祖を祀るもの、開港場や開拓地に天照大神を奉斎するするもの、織田信長・豊臣秀吉・毛利元就・上杉謙信・加藤清正などの武将を祀るもの、国学者や幕末の勤王家を祀るものなどである(岡田米夫「神宮・神社創建史)。神社の創建については、同論文を参照した。
楠社
右のうち、楠正成を忠臣の代表として顕彰する思想にはもっとも長い伝統があり、幕末の尊王攘夷運動のなかで、志士たちの中にあるは楠公祭をおこなう者がふえていた。そして、楠公祭にさいしては、国事に たおれた志士たちの霊もあわせて祀られることが多かった。
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白峰宮
慶応四年八月、讃岐に流されて死んだ崇徳上皇の霊が京都に迎えられて、白峰宮がつくられた。…
招魂社
国事に殉じた人々を祀る招魂社は、こうした人々の多かった幕末期の長州藩では、宰判(サイハン)(長州藩の行政区画で、郡にあたる)ごとにつくられていた。そして、この招魂社と招魂祭の思想は、新政府にうけつがれ、慶応四年五月、ペリー来航以降に国事にたおれた人々の霊を京都東山に祀宇(シウ)を設けて祀ることが定められた。同六月、関東・東北の内戦で戦死した人々のための招魂祭が江戸城でおこなわれ、七月には京都の河東操練場で、やはり戦死者の招魂祭がなされた。さらに、諸藩に戦死者の調査を命じ、明治二年には東京九段に招魂社の仮神殿がつくられた。これが東京招魂社で、同年八年、嘉永六(1853)年以来国事にたおれた人々の霊は、すべて同社が祀ることになり、同社は、翌九年、靖国神社と改称された。こうした慰霊の祭祀は、幕末以来、すべて神道式でおこなわれたが、そのことが日本人の宗教体系の全体を神道へ傾斜させた意義は大きかった。
一般的にいって、右に述べたような神社が実際に造営されたり、制度的にととのえられたりしたのは、明治四年・五年以降、むしろ七・八年ごろのことであった。しかし、新政府樹立間もない時期の、楠社の創建、京都と東京の招魂祭、白峰宮創建などは、幕末期以来培われてきた国体神学的な観念の具体化として、重要だった。その外、明治元年・二年の段階では、徳川氏と東照宮への対抗の意味をもつ豊太閤社と建勲社(織田信長を祀る)の創建も、顕著な動きであった。
宮中祭儀
宮中の祭儀や行事などの神道化も、右のような動向に照応するものといえよう。これにさきだって、幕末の宮中では、仏教や陰陽道や民間の俗信などが複雑にいりまじった祭儀や行事がおこなわれていた。新嘗祭など、のちの宮中祭儀につらなるもののほか、節分、端午の節句、七夕、盂蘭盆、八朔などの民俗行事がとりいれられており、即位前の幼い明治天皇が病気になると、祇園社などに祈願し、護持僧に祈禱させた。これらの祭儀や行事などには、民俗的な行事や習俗などをもっとも煩瑣にしたような性格があった。弘化・嘉永以来、対外関係の切迫のもとで、朝廷から寺社へ祈禱させる機会が多くなったが、それは伝統的な七社七寺を中心とするもので、しかもそのさい、寺社においては、別当や社僧などのはたす役割が大きかった。
また、天皇その他の皇族の霊は、平安時代以来、宮中のお黒戸(クロド)に祀られていた。お黒戸は、民家の仏壇にあたるもので、そこに位牌がおかれ、仏式で祀られていたのである。天皇家の菩提寺にあたるのは泉涌寺(センニュウジ)で、天皇や皇族の死にさいしては、泉涌寺の僧侶を中心にして仏式の葬儀がおこなわれてきた。皇霊の祭儀が神式に改められたのは、明治元年十二月二十五日の孝明天皇三年祭からである。この日、紫宸殿に神座を設けて祓除(フツジョ)・招神の儀式をおこない、天皇はじめ諸官員が拝礼し、その後、孝明天皇陵をたずねて、やはり神式の拝礼がおこなわれた。
宮中における神仏分離
天皇を祀った山陵の復興運動は、江戸時代の尊王思想の具体的な表現の一つであったが、文久二(1862)年、幕府の命令で宇都宮藩の家老戸田忠至(タダユキ)が山陵修補にあたることとなり、戸田の建議にもとづいて、維新のあと、山陵を管轄する諸陵寮が設けられた。
ところで、慶応四年閏四月、山陵汚穢(オワイ)について審議されたが、その趣旨は、山陵は天皇の死体を葬ったものであるから穢れたものとすべきかどうかということであった。死体によって穢れたとすれば、僧侶にその管理を任せなければならないことになるのである。この問題の検討を命ぜられた国学者谷森種松は、天皇は現津御神(アキツミカミ)であるから、現生でも幽界でも神であり、穢れるということはない旨を答えた。こうして、天皇霊は、寺院と僧侶から切り離されて、べつに祀られることになった。
明治四年お黒戸の位牌は水薬師寺の一室に移され、ついで方広寺境内に新築された恭明宮に移された。六年には、恭明宮も廃され、位牌は泉涌寺に移された。さらに、七年八月には、皇后・皇子・皇女などの霊祭もすべて神式によることとし、これらはのちに春秋二季の皇霊祭に統合して祀られるようになった。また、宮中の仏教行事としては、真言宗による後七日の御修法、天台宗による長日御修法にひきつづいておこなわれる御修法大法、大元師法などがあったが、これらも四年九月にすべて廃された(阪本健一「皇室に於ける神仏分離」)。これらの事実は、宮中における神仏分離(仏教色払拭)の表現であり、その画期が明治四年にあったことをものがたっている。
こうした神道化の後日譚として、山階宮晃(ヤマシナノミヤアキラ)親王の葬儀問題がある。熱心な仏教信仰を続けていた山階宮は、明治三十一年、その死にさいして仏式の葬儀をするよう遺言していた。仏葬式の可否は枢密院に諮られたが、皇族の仏式を許すことは「典礼の紊乱」をもたらす恐れがあるという理由で、山階宮の仏葬式は認められなかった。
あらたな天皇像
ところで、近世の天皇はさまざまなタブーにかこまれた人神(マン・ゴッド)であり、文字通りの雲上人(ウンジョウビト)であった。水戸学や後期国学の国体論においても、天皇は基本的には祭祀者であり、権力を行使するのは幕府であった。こうした天皇に「九重」(皇居)を出て果断な政治的行動をとるように求めたのは、真木和泉など一部の尊攘激派であったが、こうしたあらたな天皇像をうけついで、至高の権威=権力としての神権的天皇を歴史の舞台の中心に押しあげ、そこに状況を突破してゆくカリスマ的威力を求めたのは、維新政権の主導権を握った人々であった。大政奉還のあと、旧幕府・諸藩・草莽などの諸勢力がひしめきあう政治情勢のなかでは、こうした神権的権威=権力としての天皇を押したてることで、諸勢力の拮抗とそこに生まれる権力の空白状況を乗りこえ、果断に変革の主導権を掌握しなければならなかったのである。
だが、そのためには、幼い明治天皇は、女官や公卿の手中から奪取され、維新政府の指導者たちの政治的作品にふさわしいように訓練され、あたらしい君主につくりかえなければならなかった。たとえば、大久保の大阪遷都論は、こうした見地から天皇を女官などの旧勢力と旧習から切り離そうとするもので、大久保は、「主上ト申シ奉ルモノハ、玉簾(ギョクレン)ノ内ニ在シ、人間ニ替ラセ玉フ様ニ、纔(ワズカ)ニ限リタル公卿方ノ外拝シ奉ル事ノ出来ヌ様ナル御サマニテハ、民ノ父母タルノ御職掌ニハ乖戻(カイレイ)」することになる、と論じた(『大久保利通文書』二)。
慶応四年閏四月、天皇は後宮(コウキュウ)から表御殿に移り、毎日辰の刻(午前八時)には御学問所へ出て政務をきくようになった。実態はともかく万機親裁のタテマエがとられ、かつては一藩主にすぎなかった参与たちも、敷居一つを隔てて天皇と話すことができるようになった。おなじころ、天皇に『論語』『孟子』『古事記』などの進講がなされるようになり、同年九月の日割では、四、九の日は和学、三、八の日は漢学、一、六の日は乗馬、五の日は武場御覧となっている。若い天皇はこうしたあたらしい訓練にたちまち適応したが、乗馬はとくに気にいり、やがて毎日のように馬に乗るようになった。
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