真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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明治維新 敗戦への歩みの始まり NO2

2019年05月09日 | 国際・政治

  幕末の慶応3年12月9日(1868年1月3日)、尊王攘夷派が一方的に宣言した王政復古の大号令で、新たに設置された三職(総裁・議定・参与)による小御所会議がありました。その会議で、尊王攘夷派の進める一連の所業を批判した土佐藩藩主山内容堂(豊信)の発言は、きわめて重要かつ正当なものだったと思います。

 先ずはじめに、山内容堂は尊王攘夷派の脅しを背景とした変革を
此度之変革一挙、陰険之所為多きのみならす、王政復古の初に当つて兇器を弄する、甚不詳にして乱階を倡ふに似たり
と批判したことが、丁卯日記に記録されていますが、事実に基づく正当な批判だったと思います。

 また、「岩倉公実記」の「小御所会議ノ事」と題された文章のなかに、
豊信之ヲ抗弁シテ曰ク今日ノ舉頗ル陰険ニ渉ル諸藩人戎装(ジュウソウ)シテ兵器ヲ擁シ以テ禁闕ヲ守衛ス不詳尤甚シ王政施行ノ首廟堂宜ク公平無私ノ心ヲ以テ百事ヲ措置スヘシ然ラサレハ則チ天下ノ衆心ヲ帰服セシムル能ハサラン
と、尊王攘夷派が周辺を武装した藩士で固めて事を進めようとしていることを批判したことが記録されていますが、この批判も正当なものだったと思います。

 さかのぼれば、王政復古にいたるまでに、尊王攘夷派の志士により多くの幕閣や幕府と関わる国学者その他の関係者が暗殺されていました。江戸だけではなく、京都でも、天誅と称して要人暗殺が繰り返され、都の人々を震撼させたといいます。象徴的なのが、田中新兵衛、河上彦斎、岡田以蔵、中村半次郎の四人の尊王攘夷派の志士で、それぞれ「人斬り新兵衛」、「人斬り彦斎(ゲンサイ)」、「人斬り以蔵(イゾウ)」、「人斬り半次郎」の異名を取り、”四大人斬り”と称されたという話です。容堂の指摘した通り、公議・公論によってではなく、まさに、”兇器を弄”して幕府を倒し、事を進めようとしていたのだと思います。

 そして、小御所会議において、そうしたことを批判した山内容堂と容堂の発言を支持した諸侯を屈服させたのも、脅しであったことが、尊王攘夷派の安芸広島藩主、浅野長勲の文章に
此時西郷吉之助は軍隊の任に当りたれば、此席に居らざりしが、薩土の議論衝突せしを聞き、唯之れあるのみと短刀を示したり
とあることでわかります。脅しを指示したのが西郷吉之助(西郷隆盛)であるということも記されています。

 次に、幕政の行き詰まりを認め、難局を乗り切るために大政奉還をした徳川慶喜を、小御所会議から排除することを批判した、
二百余年天下太平を致せし盛業ある徳川氏を、一朝に厭棄して疎外に附し、幕府衆心之不平を誘ひ、又人材を挙る時に当つて、其の政令一途に出、王業復古之大策を建、政権を還し奉りたる如き大英断之内府公をして、此大議之席に加へ給はさるは、甚公議之意を失せり、速に参内を命せらるへし
という容堂の主張も、きわめて正当なものだと思います。尊王攘夷派は、公議・公論に基づいてこれからのことを決定するのではなく、小御所会議を自らの方針を「朝命」とする場として利用しようとしたのだと思います。”公議之意を失せり”という容堂の指摘は、その通りだと思います。

 
 三つめが、孝明天皇がなくなり、践祚したばかりの「幼主」、すなわち元服前の明治天皇の政治利用を批判した
”畢竟如此暴挙企られしう三四卿、何等之定見あつて、幼主を擁して権柄を窃取せられたるや抔と、したゝかに中山殿を排斥し、諸卿を弁駁せられ、公も亦諄々として、王政之初に刑律を先にし、徳誼を後にせられ候事不可然、徳川氏数百年隆治輔賛之功業、今日之罪責を掩ふに足る事を弁論し給ひ、…”
という指摘も見逃すことが出来ません。容堂のいう”三四卿”は岩倉具視、正親町三条實愛、中御門経之、中山忠能だと思いますが、岩倉具視が玉松操に命じて「討幕の密勅」や「王政復古の大号令」を準備したことは、下記の資料「具視中山忠能正親町三条實愛中御門経之ト王政復古ノ大挙ヲ図議スル事」の文章で明らかだと思います。

 加えて、「討幕の密勅」や「王政復古の大号令」その他が、”宸断(天皇の判断)”に基づくものでないことは、明治天皇が小御所会議で何も語らなかったことや、下記の文章、また、「岩倉公実記」に明治天皇に関する記述がほとんどないことでも明らかだと思います。明治天皇と難局を乗り越える方策について相談したり、天皇の考えを確認したりしたような記述は全くないのです。したがって、尊王攘夷派は、いつも自分たちが決めたことを、”宸断(天皇の判断)”に基づくものであるかのように装い、「朝命」として押し通す方針であったということです。

 下記の資料は、「岩倉公実記 中巻」(明治百年史叢書)から抜粋したものですが、王政復古の考え方の広がりについて重要な記述があります。それは、最初に岩倉具視が”幕府ヲ廃シ皇室ヲ興スヘキノ時機已ニ来ル”と判断し、”中御門経之ト共ニ図議シ”て”王政復古大挙ノ計”を中山忠能や正親町三条實愛に説いたことが書かれています。そして、二人の同意を得た後、薩摩藩小松帯刀、西郷吉之助、大久保一蔵と謀議し、島田久光を説得し、安芸藩世子松平茂勲(浅野長勲)、家老辻将曹、毛利敬親父子と、次々に同意を取り付けていったことが書かれています。でも、天皇に関しては何も書かれていません。だから、尊王攘夷派にとって、天皇は単なる道具でしかなかったということだろうと思います。そういう意味で、薩長および尊王攘夷派公家の方針を受け入れない孝明天皇が毒殺されたという説の真実性が増すのではないかと思います。

 そうしたことを総合的に考えると、私は、明治維新は「過ち」というより、「犯罪」と表現した方が適切ではないかとさえ思います。
 明治新政府のもとで、 山城屋和助事件や三谷三九郎事件、尾去沢鉱山事件、藤田組贋札事件、北海道開拓使庁事件、小野組転籍事件などの汚職事件が頻発したことも、犯罪的な企みに基づく明治維新の結果であり、私は、不思議ではないような気がするのです。

 「五箇条の御誓文」には、「廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スベシ」とありましたが、民選議員設立の建白書には

一、政権を薩長のあいだでタライ廻しにして、有司専制で、公議を圧迫している。さきに交付された讒謗律、新聞紙条例は、国民の言論を圧迫する悪法である。
二、中央集権の弊で、地方官は収税の出先にすぎない。地方の国民は政府からほうちされている。各省の事務も、長官の私意のままにうごかされ、朝令暮改、官吏は居座ったら交替しない。
中略
五、財政について、歳出は公表されず、その一部は企業家に流れ、今の財閥をつくった。

などとあります。これが明治政府による政治の実態だったのだと思います。そして、こうした実態は、先の大戦における敗戦まで、根本的な改善がなされず続いたということです。
 公議・公論が尊重され、言論が圧迫されなければ、日本の悲惨な敗戦は避けられたと、私は思います。だから、政府による明治150年を祝う「記念式典」にはとても違和感があります。
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          具視中山忠能正親町三条實愛中御門経之ト王政復古ノ大挙ヲ図議スル事

是ヨリ先松平慶永松平豊信島津久光伊達宗城朝命ニ応シ上京ス則チ四藩聯合ノ力ヲ以テ大政ヲ革新センコトヲ謀議ス先ツ徳川慶喜ニ説クニ長防ノ処分ト兵庫ノ開港トハ 寛急先後ノ順序ヲ商量シ之ヲ施行センコトヲ以テス慶喜敢テ聴カス而シテ慶永豊信久光宗城ノ意見亦相互ニ齟齬スル所アリ議終ニ一轍ニ帰セス是ニ於テ慶永豊信宗城前後相継キ暇ヲ乞フテ藩国ニ還リ久光亦病ヲ養フト称シテ暇ヲ乞ヒ大坂ニ赴ク此時ニ方リ具視ハ幕府カ譎権ヲ行フテ朝廷ヲ牽制シ列藩?離シテ一隅ニ割拠セント欲スルノ形情アルヲ見テ独リ窃ニ以為(オモエラ)ク幕府ヲ廃シ皇室ヲ興スヘキノ時機已ニ来ルト乃チ中御門経之ト共ニ図議シ王政復古大挙ノ計ヲ中山忠能正親町三条實愛ニ説キ其合意ヲ要(モト)ム忠能實愛之ニ応ス是ニ於テ具視ハ薩摩藩小松帯刀、西郷吉之助、大久保一蔵ト共ニ謀議シ帯刀等ヲシテ之ヲ久光ニ説カシム久光之ヲ善トシ薩摩大隅日向三国ノ力ヲ悉シテ以テ其籌図ヲ贊襄(サンジョウ)セント誓フ此時ニ於テ安芸藩世子松平茂勲(浅野長勲)ハ家老辻将曹ヲ従ヘテ京都ニ滞留ス帯刀等之ヲ説ク茂勲将曹共ニ之ニ左袒ス九月久光ハ一蔵ヲ長門ニ遣リ大挙決策ノ意ヲ毛利敬親父子ニ告ケ以テ応援ヲ乞ハシム而シテ久光ハ病重シト称シテ藩国ニ還リ其準備ヲ為ス一蔵既ニ長門ニ抵ル敬親父子ハ藩臣木戸準一郎、廣澤兵助ニ命シ一蔵ト会商セシム是ニ至リ薩摩長門二藩ノ計議始テ合ス
〔附注〕大久保一蔵カ島津久光ノ命ヲ啣(フク)ミ長門藩ニ使ヒスルノ概要ヲ此ニ附載シ以テ薩摩長門二藩連盟ノ成リシ顛末ヲ明カニス

九月十五日大久保一蔵ハ島津久光ノ命ヲ啣(フク)ミ同藩大山格之助長門藩伊藤俊輔品川弥二郎ト偕ニ汽船豊瑞丸ニ駕シテ大坂ヲ發シ翌十六日ノ夜州防三田尻ニ達ス十七日長門藩御堀耕助来リ一蔵等ヲ迎フ一蔵等耕助ニ誘引セラレ山口ニ至ル此夜木戸準一郎廣澤兵助来リ毛利敬親並ニ其子廣封ノ命ヲ伝ヘテ曰ク明日寡君父子ハ君等ヲ延請シ親ク来使ノ旨意ヲ聴キ且京師ノ近状ヲ問ハント欲ス敢テ請フ之ヲ諾セヨト十八日一蔵格之助毛利氏ノ邸ニ詣ル敬親父子ハ一蔵格之助ヲ引見ス… 

以下略

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                  具視王政復古ノ基礎ヲ玉松操ニ咨問スル事

初メ正月具視ハ三上兵部(三宮義胤)ニ嘱シテ曰ク予ハ時務ヲ論スルノ書ヲ草スル毎ニ筆意晦晦渋シ自ラ不学ヲ憾ム若シ汝カ識ル所ノ人ニシテ心志端正且文筆ノ才ヲ備フル者アラハ当サニ誘引ソテ以テ吾カ廬ニ来ルヘシ予ハ之ニ起草ヲ託セント欲ス兵部曰ク吾カ郷里ニ玉松操ナル者アリ所謂古ノ隠君子ナリ兵部之ニ師事スル年久シ玉松ニシテ明公ノ左右ニ侍スル有アラハ必ス明公カ一臂(イッピ)ノ力トナラン具視曰ク予之ヲ見ント欲ス汝宜ク提携シテ来ルヘシ兵部之ヲ諾ス是ニ於テ兵部ハ操ニ説クニ具視ニ謁センコトヲ以テス操敢テ応セス兵部乃チ樹下茂国ト共ニ之ヲ説ク再三ナリ操始テ之ヲ肯ンス二月二十五日操ハ兵部ト相偕ニ至ル具視之ヲ一見シテ異常ノ器タルヲ知ル待ツニ賓禮ヲ以テス且文学ヲ兒孫ニ教授センコトヲ乞フ操之ヲ諾ス是ヨリシテ操屡具視ノ門ニ出入シ機事ヲ計議ス九月具視ハ中山忠能正親町三条實愛中御門経之ト共ニ王政復古ノ大挙ヲ図議スルヤ忠能等建武中興ノ制度ヲ採酌シ官職ヲ建定セント論ス具視以謂ク建武中興ノ制度ハ以テ模範ト為スニ足ラスト之ヲ操ニ咨問ス操曰ク王政復古ハ務メテ度量ヲ宏クシ規模ヲ大ニセンコトヲ要ス故ニ官職制度ヲ建定センニハ当サニ神武帝ノ肇基キ原ツキ寰宇ノ統一ヲ図リ万機ノ維新ニ従フヲ以テ規準ト為スヘシ具視之ヲ然リトス是ニ於テ新政府ノ官職制度ハ操ノ言ニ従フテ之ヲ建定スト云フ
〔附注〕玉松操ハ具視カ入幕ノ賓ト為リテ明治中興ノ鴻図ニ参画ス頗ル功績アリト雖世人之ヲ知ルモノ至テ希ナリ因テ其略伝ヲ此ニ附載ス

玉松操初メ名ハ重誠後ニ眞弘ト更ム侍従山本公弘ノ第二子ナリ幼ニシテ山城国宇治郡醍醐寺ニ入リ僧ト為ル猶海ト曰フ大僧都法印ニ任敍ス曾テ僧律ヲ革新センコトヲ唱ヘ一山僧徒ノ憎ム所ト為ル髪ヲ蓄ヘ袈裟ヲ脱シテ山本毅軒ト称ス又玉松操ト更ム人ト為リ剛毅ニシテ皇儒仏ノ典籍ニ通シ最モ皇学ニ長ス嘉永安政ノ間泉州貝塚卜半ノ家ヲ主トシテ此ニ留ル屡勤王攘夷ノ大義ヲ卜半ニ説キ其帰俗ヲ勤ム卜半ハ真宗ノ僧ナリト半幕府ノ嫌疑ヲ受ケンコトヲ恐レ稍之ヲ厭フ是ニ於テ操辞シ去テ京師ニ帰ル文久元治ノ間幕府益々政ヲ失フ操之ヲ見テ悲憤ニ堪ヘス乃チ江州坂本ニ隠レ後ニ真野ニ移ル妻妾ヲ蓄ヘス葷肉ヲ食ハス寒ヲ喜ヒ熱ヲ嫌フ厳冬ト雖仍ホ棉布ヲ襲サヌル無ク火爐ヲ近ツクル無シ朝昏読書ヲ以テ自ラ楽ム慶応三年二月始メテ具視ニ謁シテ其器識ニ服シ心ヲ傾ケテ之ヲ輔ク大政復古ノ時ニ方リ朝廷ヨリ出ツル所ノ詔勅制誥多クハ操ノ起草ニ係ル明治元年二月徴士内国事務権判事ト為ル朝廷欧米列国ト締盟ノ事ヲ布告スルヤ操慨歎シ之ヲ具視ニ詰ル具視曰ク宇内ノ形状復タ昔日ノ比ニ非ス列国ト締盟スルハ情勢已ムヲ得サルニ出ツルナリ操長吁(チョウク)シテ曰ク奸雄(カンユウ)ノ為ニ售ラレタリ二年正月堂上ニ列セラレ従五位下ニ敍シ昇殿ヲ聽ルサル三年十月侍讀ト為ル翌四年正月之ヲ辞ス五年二月病テ卒ス文化七年三月ニ生ル年ヲ享クルコト六十三、二十六年一月特ニ従三位ヲ贈ラル蓋シ操カ攘夷ノ念ハ終身少ラクモ衰ヘスト云フ


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