真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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明治維新 敗戦への歩みの始まり NO3

2019年05月14日 | 国際・政治

 日本政府は、支那事変以降の戦争による死没者(軍人・軍属、および外地や内地における戦災死没者等を含む)を約310万人としています。そのうち、軍人軍属の死没者およそ250万人で、実にその6~7割が、補給のない戦地での餓死であるといわれています。

 また、日本の戦争によって亡くなったアジアを中心とする国々の死没者は、その数倍にものぼるといいます。
 だから、考えさせられるのです。なぜ、これほど多くの人が亡くなる野蛮な戦争が継続されたのか。なぜ、軍部が政治の執行権を握ることになったのか、なぜ、日本軍部隊は降伏を認められなかったのか なぜ、日本は侵略戦争を始めたのか、なぜ、日本軍は捕虜を斬殺したのか…、と。
 
 そして、それらがアジア人を蔑視し、外国人を夷狄とした明治維新期の尊王攘夷の思想や目的のために手段を選ばない武力主義的な戦略思想、天皇主権の帝国憲法の考え方などと深く関わっているのではないか、と私は考えるようになりました。
 なぜなら、明治維新以後、日本の敗戦にいたるまで、琉球処分、台湾出兵、朝鮮王宮襲撃事件、日清戦争、旅順虐殺事件など、昭和の戦争に類似し、昭和の戦争につながるようなことが続いているからです。

 資料1は、「木戸孝允文書 二」日本史籍協会編(東京大学出版会)から抜粋したものですが、木戸孝允は、幕府を倒し、王政を復古させて新政府を樹立するという尊王攘夷派の戦いを
此狂言喰ひ違ひ候而は世上之大笑らひと相成り候は元より終に大舞台之崩れは必然と奉存候然る上は芝居は事止みと相成申候
という文章に見られるように「芝居」あるいは「狂言」と表現し、食い違いがあって失敗すれば大笑いのもとになり、取返しがつかないというようなこと書いています。
 薩長を中心とする尊王攘夷派は、幕府を倒し権力を手にするために、巧みに嘘を交えた戦術を展開しました。だから、長州藩士である木戸孝允は、同志と認める坂本龍馬とのやりとりで、その戦いを「芝居」あるいは「狂言」と表現したのではないかと思います。
 木戸孝允が、坂本龍馬に”乾頭取と西吉座元と得と打合に相成居手筈きまり居候事尤急務歟と奉存候”と書いたのは、板垣退助、西郷隆盛と相談して、しっかりその「芝居」の役割を分担してほしかったからではないかと思います。
  
 ペリー来航以来、外国との貿易による混乱その他の悪条件が重なって、当時の庶民の生活は苦しく、また、外国人が国内に入り込んでくることに対する不安もあり、列強諸国の軍事力を知るすべのない庶民は当然のことながら、攘夷を願いました。でも、その庶民の願いを利用し、攘夷を煽り、年貢半減などを触れ回らせ、伊牟田尚平、益満休之助、相楽総三などに江戸攪乱工作を命じ、偽錦旗を利用をするなどして幕府を倒した尊王攘夷派は、権力を手にしても、庶民の願いである攘夷を実行しませんでした。まさに「芝居」であり「狂言」だったからではないかと思います。
 文末の”御内拆御火中”は、こうしたやりとりが外部に漏れないように、また、幕府だけではなく、庶民をも欺く作戦の証拠を残さないようにするためだったのではないかと思います。

 資料2は木戸孝允が 井上聞多(井上馨)、伊藤俊輔(伊藤博文)に宛てた書翰ですが、ここでは、”芝居論に付種々之説も有之”と、「芝居論」という言葉を使っています。いろいろな考え方があるので、その考え方を統一し、薩摩とも連携して事を進めるために”有丈け之智恵も力も尽し”て努力しようと呼びかける内容ではないかと思います。

 資料3は、大久保利通が五代友厚に宛てた書翰です。 「五代友厚伝記資料 第一巻」日本経営史研究所編(東洋経済新報社)から抜粋しました。この書翰は、明治七年一月二十五日のものですが、当時の反政府的な動きについて確認する内容だと思います。
 見逃せないのが、自らの政府が、” 万機宸断ニ出ルと覚る名は有之候得共、其実は、三四の有司、擅(ホシイママ)にする政と言うべし” などという批判を受けているにもかかわらず、”一人として甘心する者無之、何しらぬ者迄訛笑し、外国人迄も種々異論有之由ニ聞え候。大概、是にて其浅深を謀られ、我が為にハ幸に御座候” と、そういう主張が、世間ではそれほど支持を得ておらず、幸いであるという考えていることです。
 『五箇条の御誓文』の精神に反する「公議・公論」無視の政治にたいする批判を、受け止める姿勢がないということではないかと思います。そうした「有司専制」を改ようとしない政治の行きつくところが、日本の敗戦ではなかったかと、私は思います。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                         巻七  

                 三十一 坂本龍馬宛書翰 慶応三年九月四日

  乱筆御高許
爾後爾御荘栄に引継御高配奉遥察候さて滞崎中は色々蒙御高意奉多謝候御迷惑之一條如何御片付に相成候哉早々御済に相成候辺乍蔭心急ヶ敷奉存候于時御内話相窺候上の方之芝居も近寄どもは不仕哉何分にも此度之狂言は大舞台之基を相立候次第に付是非とも甘く出かし不申ては不相済世間且々役に立候頭取株は不申及且々舞台の勤り候ものどもは仲間に引込候工風もまた肝要と奉存候何分にも御工風御尽力奉祈候莊村氏之一條何是もせめて内輪丈けに而も芝居之趣向を立つまり外之大芝居之役に立つ候事六つヶ敷都合に候得は却而内之芝居にて外へ出ぬ丈けに而も可然と奉存候いつれ外之役は六つヶ敷と奉存候且又乾頭取之役前此末は最肝要と奉存られ申候何卒万端之趣向於于此は乾頭取と西吉座元と得と打合に相成居手筈きまり居候事尤急務歟と奉存候此狂言喰ひ違ひ候而は世上之大笑らひと相成り候は元より終に大舞台之崩れは必然と奉存候然る上は芝居は事止みと相成申候御同意に被為在候はゝ一飛脚に而も乾頭取元へ被差越御決定に相成居度候事歟と奉存候是非乾頭取は此後は西吉座元と御同居位にても可然様奉存候御高案如何狂言之之始末一定之處甚肝要に奉存候且また大外向之都合も何卒其御元ひこなどゝ極内得と被仰談置諸事御手筈専要に是また奉存候実に大外向之良し悪しは必芝居の成否盛衰に訖度かゝわり申候乍此上四方八方へ御目を御くばり被成候而御尽力芝居大出来と申處に至り御様御高配乍陰奉祈念候乾頭取之處も場合に後れては凡々狂言は出来不申は元より実にいヶ様考申候而は大舞台は其ぎりと奉存申候則ち義経之早く行てまつことあればいさぎよくおそくていそぐ道は危しとは此場合歟と愚考仕候于時拝借金大に難有奉存候近日御地へ差送り申候間急早々御返上可仕候宜聞済可被遊候奉願候先は任幸便取敢ず愚考之まゝ申上候取捨奉願候乍毫末佐々木君始諸君へ可然御致意奉願候其中時下御自玉第一に奉存匆々頓首拝
      九月四日
  尚々此芝居に付候而は少しも損之行かぬ様御工風被為在且々役に立候ものは御引込被為在度乍迂遠奉存候敬白
  さ  以 様 御内拆御火中                   き  と
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                   四十 井上聞多、伊藤俊輔宛書翰 慶応三年十月二十三日

 乱筆御推覽 可被下候
各盟兄(メイケイ)彌清適に御滞崎大賀此事に奉存候さて先日頃芝居論に付種々之説も有之春兄之御気付も有之色々手を尽見候得共甚艱難之場合有之申候而何分に相運ひ兼候に付無據(ヨンドコロナク)堀など申合不得共
之策に決し廣澤歸畾之上芋国(薩摩)結論之程承知断然出畾之若連中と一結し是非とも芋と同挙動之趣向に決定仕先以広沢へ当て三畾まで申越置候左候は必々後之幕はまた趣向も相立可申と存詰手下しを内々仕置候處廣澤歸着上之相場も益々以此節気合よろしき様子に而本〆坐元(ゾゲン)株も段々とらでは不相叶時節と差向き候様子に付大に機会を得こゝをせんどゝ相さわぎ始終一貫之處を以漸相決し小西(小松帯刀・西郷吉之助)之二氏へも御決答相成申候就而は此余芋と少しも相変わり候事は無之同一致に而一生懸命被為相尽候都合に至り申候間益其含に而乍此上御尽被為在度只々奉祈念候實以今日之機会相失し候而は再不可得義に付御同様に有丈け之智恵も力も尽し不申而は不相済候先は為其大略得御意申置度為其匆々(ソウソウ)頓首

          十月廿三日
 尚々自然世外兄御帰關に相成候はゝ御一覧被下春兄へも早々御廻し可被下候左候へは大略座元相分り出先之都合も有之事と奉存やかんも鰹節も且々あとに付来り候歟にも被相察申候乍去ひき当ては此六つヶ敷候以上
    世外(セガイ・井上馨) 
           各盟兄(内御拆)                           竿  鈴
    春畝(シュウボ・伊藤博文)
  機漏れざるを貴ふ御密拆是祈る

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                                書翰
二一二
 尚々、同志中、何れも堅固、御懸念不被下候。得能君(得能良介)紙幣頭、松方君租税頭、陸奥ハ免、芳川は工部制作頭、小野・岡元・竹内等も辞表免職なり。
一 昨夜、不図、渡辺君御投翰拝読、且御伝言の趣も逐一拝承、誠ニ以、御懇篤(コントク)の至、心肝に銘じ
辱奉厚謝候。各位、弥以(イヨイヨモッテ)、御壮康被成御座候由、大慶奉存候、次ニ小子、今日迄ハ凛然奉職仕候間、少も御懸念被下まじく所祈候。

一 岩公も意外の変ニ御罹候得共、誠ニ高運ニして、最早追々御順快、今、十日もいたし候得バ、御再勤被出来候御容体ニ候。御同慶此事ニ御座候。罪人は県より着手、長人七八名捕縛、当分糾明中の処、不可遁確証も有之、決て相逸無之候付、御安心可被成候。乍去、変動已来、大ニ人心も動揺、挙に乗じて煽惑する者不少、
如何形行可申や。必らず少々混雑も起り候半と期居候処、追々罪人も縛に就、十分政府におひても、断然と取締向も相付、此上、仮令、干戈(カンカ)を動かしても、一挙して可圧制との決定の故、今日ニ成候てハ、少しく挫ケ候様子ニ御座候。鹿児島県、近年辞表帰県等の事も、鼓舞せし源因も有之、甚、可悪次第に御座候。此末、四国、九州辺如何ニ可有之や、少しは騒ギ立可申と卜シ候。土州ニては千人余を募り、政府ニ強訴する企有之趣。是は大蔵省の旧悪等を挙、是を名目にして突崩ストカイヘル事の由。伊東は鹿県へ、林某は高知県へ、到発足候。全少ハ、周旋ニ為との由に被聞申候。迚も格別の事は無之候得共、其用意はなくんバあるべからず。謀を打砕キ候廟算ハ決定候付、必御気遣有之まじく、兼ねて松陰君へ御示談申上置細作の事ハ、殊更に御注意被下度、若、相分候事件は、速に御報知奉伏願候。

一 自ら御聞及も可有之、頃日、旧参議、其余三四名の連名にて、民選議院を起の建白有之。趣意は、当時、万機宸断ニ出ルと覚る名は有之候得共、其実は、三四の有司、擅(ホシイママ)にする政と言うべし。人民各々其権利を有候得ば、両三の有司に、束縛圧制を受る道理無之故、人心鼓動して、是非天下の論を以公議に決し、政府を破らんとの策と相見得候。併此建白の事はよほど失策に陥り、一人として甘心する者無之、何しらぬ者迄訛笑し、外国人迄も種々異論有之由ニ聞え候。大概、是にて其浅深を謀られ、我が為にハ幸に御座候。

一 今日の景況は、丁卯の冬同様の時体に、少も異なる事なく、何れが敵、何れが味方なるをしらず、国家の上におひては、実に遺憾の至候得共、一身上ハ別て難く相成候心持也。されど大事ニ関する今日の際、敢て疎漏軽挙は誓て不致丈は、乍不肖、体認仕候間、其段は御安心可被下候。
右御礼まで、且大略の形行、為御心得申上置度、如此御座候。内務省開店日ならず、喰違御門大変事到来、朝より晩迄やり続キにて、息を突流し候間も無之、御親察可被下候。天賦と明らめ候外無之、御憐笑々々。
敬白
       (明治七年)一月廿五日                                    利通
     税所篤(サイショアツシ)
両高台下
     五松陰
    
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