真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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神話に基づく国体の観念と日本の戦争

2021年01月29日 | 国際・政治

 日本は、明治維新によって、天皇が永久に統治権を総攬する国となりました。そして、大日本帝国憲法や教育勅語、軍人勅諭などで定式化された国体の観念が、日本という国ばかりでなく、日本の戦争をも特徴づけることになったのではないかと思います。

 先のアジア太平洋戦争の死者は310万と言われます。その内軍人・軍属の死者は230万人で、その六割から七割が餓死や戦病死であったとも言われます。また、生きていれば活躍しであろう多くの優秀な若者たちが、外国人には理解の難しい特攻(kamikaze attack)や万歳突撃(banzai attack )でなくなりました。


 「戦陣訓」の「第八 名を惜しむ」によく知られた
恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈愈(イヨイヨ)奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。
 という文言があります。でも、諸外国の軍隊では、命をかけて勇敢に戦い、食糧や弾薬が尽きて戦うことが不可能になったら降伏するというのが常識で、何ら恥ずかしいこととは考えられていなかったといいます。だから、捕虜になることも、捕虜の扱いに関する考え方も、諸外国と日本とでは根本的に違っていたのだと思います。

 日本の軍隊では、捕虜を利用した刺突訓練や捕虜の虐待、酷使は、珍しくありませんでした。また、日本兵は、”虜囚の辱”を受けることが許されないため、万歳突撃や、いわゆる「玉砕」を強いられたのだと思います。いずれも、西洋列強の軍隊では、ほとんどなかったことです。
 陸軍中将・岡村寧次は、「天皇陛下万歳」と叫んで死ぬことが、「世界のどこの軍隊にも見ることの出来ない崇高なる戦陣死生観である」などと語ったそうですが、私は、崇高でもなんでもない、単なる人命軽視だと思います。そうした人命軽視の考え方が、日本の戦争による、数え切れない悲劇を生み出す結果につながったのだと思います。

 また、日本の戦争は、その範囲があまりにも広大です。
 北は、アラスカ州・アリューシャン列島のニア諸島最西部にあるアメリカ領の島、アッツ島で山崎保代陸軍大佐指揮下の日本軍守備隊が米軍と戦い「玉砕」しています。極北の地で、思うようにならない凍土に悩ませられながら、「玉砕」したのです。 
 南は、ダーウィン空襲 (The Bombing of Darwin)などがよく知られていますが、連合国の一つであるオーストラリア本土の主要空域、周辺諸島、沿岸輸送ラインの船舶に対し、陸海軍の航空機が攻撃しています。日本から遠く離れた南半球での攻撃です。
 東は、アメリカ合衆国のハワイ、オアフ島真珠湾で、アメリカ海軍の太平洋艦隊と基地に対して、航空母艦艦載機および特殊潜航艇による攻撃をしています。日本とは6000キロ以上離れています。

 西は、援蔣ルートの遮断を戦略目的として、イギリス領インド帝国北東部の都市、インパールで戦っています。羽田空港からインパールまでは5000キロ以上あるそうです。そして、インパールの戦いは、参加兵力およそ八万六千人、帰還時の兵力はわずか一万二千人であったといわれます。
 なぜ、小さな島国である日本の兵隊が、そんな遠くで戦い、犠牲となったのでしょうか。

 私は背景に、神話に基づく国体観念(皇国史観)があったからだと思います。昭和天皇の「人間宣言」といわれる「詔書」が、その観念を、下記のように簡潔に表現しています。
日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念


 さらに、1894年(明治27年)四月、朝鮮全羅道で農民戦争(東学党の乱)が起った際、朝鮮政府がそれを鎮圧するために清軍に支援を要請したのに乗じて、日本は「公使館及び居留民保護」を名目に、大挙派兵を行いました。でも、まもなく農民軍と政府軍が「全州和約」を結んで内乱を収拾し、平和状態を回復しました。だから、朝鮮政府は、日本軍の不法侵入に抗議し、早急な撤兵を要求しました。でも、その撤兵要求に応じないばかりでなく、「居留民保護」が目的のはずの日本軍が、朝鮮王宮(景福宮)を武力をもって占領するのです。そして、朝鮮政府の打倒と興宣大院君による新政府の樹立を目論んで閔妃を殺害し、日清戦争に至ります。
 明治以来の”皇国の威徳を四海に宣揚”しようとするそうした好戦的な姿勢も、また、上記の人命軽視や広大な地域での戦いとともに、背景に、神話に基づく国体観(皇国史観)、”日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念”があったからではないかと思います。神話に基づく国体観(皇国史観)抜きでは考えられないことだと思います。

 そして、神話に基づく国体観(皇国史観)によって、そうした常識外れの戦争を進めたA級戦犯を祭っているのが、靖国神社です。でも、皇學館大學の新田均教授は、「首相が靖国参拝してどこが悪い」と言います。そして「首相が靖国参拝してどこが悪い」(PHP)という本まで出しているのです。
 A級戦犯に戦争責任がなかったかのような書名にびっくりします。

 同書の第二章”神社参拝は「法的に」強制されたか?”という中に”内村鑑三不敬事件とは何だったのか”という文章があります。
 内村鑑三の「御真影」や「御親書の勅語」に対する「敬礼」の仕方が不敬であると受けとめられ、その後辞職に追い込まれた不敬事件に関し、当時の人の様々な議論を取り上げているのですが、”この一連の事件について私が注目したのは、政府、特に警察がまったく介入せずに自由な論争を許していた事実である”と、当時も信教の自由があったかのように書いています。

 また、第三章の”強制された「事実」とは”には、下記のように書いています。
国家的な神社”などほとんどなかった
 戦前は国民に神社参拝が強制されていたという論者は多い。しかし明治時代について、そのような事実を明らかにした書物や史料を私は見たことがない。大正時代に入ってからなら、小学校における神社参拝を中心として「神社問題」と呼ばれる紛議が起きたことを知っている。(繰り返すが、一般国民に対する神社参拝の強制ではない!)。
 でも、本当に”一般国民に対する神社参拝の強制”は全くなかったと言い切れるでしょうか。

 新田氏は、「新しい歴史教科書をつくる会」の理事であり、神道学の博士であるということですから、戦後日本の歴史観を「自虐史観」として否定し、神話に基づく国体観(皇国史観)によって、日本の戦争を正当化する考え方を主導しておられるのではないかと思います。だから、神社参拝の現実的な強制の実態が見えていないのではないかと、私は思います。新田氏には、立場の違う人たちが置かれた状況や思いが見えていないし、分かっていないのではないかと思うのです。また、日本が、多様な考え方を受け入れず、排除しながら突っ走った無謀な戦争の実態も見えていないし、分かっていないのではないかと、私は思うのです。自らの信仰や信念を押し殺すようにして、皇国日本で生きることに苦しんだ人は、たくさんいたと思います。

 大日本帝国憲法は、主にドイツの立憲主義に学んで制定に至ったと聞いています。したがって、”日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ”と制限しつつ、信教の自由を保障しています。また、政府は当然海外の受け止め方にも配慮もしたでしょうから、確かに「神社参拝」の法的な強制はなかったかも知れません。でも、それで信教の自由があったといえるでしょうか。
 日本の国会における内閣総理大臣の施政方針演説は、「建前論」が多いとよく指摘されますが、戦前の日本における信教の自由も、形ばかりのものだったのではないでしょうか。それは、思想の自由や学問の自由とも関連するのではないかと思いますが、様々な本が発禁となり、その著者が処分されていることも見逃せません。だから、”日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ”という信教の自由の制限が、極めて有効に働いていたのではないかと思います。

  1937年(昭和12年)の「国体の本義」には、
我が肇国は、皇祖天照大神が神勅を皇孫瓊瓊杵ノ尊に授け給うて、豊葦原の瑞穂の国に降臨せしめ給うたときに存する。而して古事記・日本書紀等は、皇祖肇国の御事を語るに当つて、先づ天地開闢・修理固成のことを伝へてゐる。即ち古事記には、
 天地(アメつチ)の初発(ハジメ)の時高天原(タカマノハラ)に成りませる神の名(ミナ)は、天之御中主(アメノミナカヌシ)ノ神、次に高御産巣日ノ神(タカミムスヒノカミ)、次に神産巣日(カミムスヒ)ノ神、この三柱の神はみな独神(ヒトリカミ)成りまして身(ミミ)を隠したまひき。
とあり、又日本書紀には、
天(アメ)先づ成りて地(つチ)後に定まる。然して後神聖(カミ)其の中に生(ア)れます。故(カ)れ曰く開闢之初洲壌(アメツチノワカルルハジメクニツチ)浮かれ漂へること譬へば猶游ぶ魚の水の上に浮けるがごとし。その時天地の中に一物(ヒトツノモノ)生(ナ)れり。状(カタチ)葦牙(アシケビ)の如し。便ち化為(ナ)りませる神を国常立(クニノトコタチ)ノ尊と号(マヲ)す。
とある。かゝる語事(カタリゴト)、伝承は古来の国家的信念であつて、我が国は、かゝる悠久なるところにその源を発してゐる。
 などとあります。こうした考え方が、他の宗教の「天地創造」の話などと、共存が可能だったでしょうか。

 また、1941年の「戦陣訓」には
夫れ戦陣は 大命に基づき、皇軍の神髄を発揮し、攻むれば必ず取り、戦えば必ず勝ち、遍く皇動を宣布し、敵をして仰いで御稜威(ミイツ)の尊厳を感銘せしむる處なり。されば戦陣に臨む者は、深く皇国の使命を体し、堅く皇軍の道義を持し、皇国の威徳を四海に宣揚せんことを期せざるべからず。
 とあります。
 「国体の本義」や「戦陣訓」が重んじられ、国家のすべての人的・物的資源を政府が統制運用できる国家総動員法のもと、広大な地域で戦った日本に、信教の自由があったというのは、建て前の話ではないでしょうか。

  天皇の「人間宣言」といわれる官報號外 昭和21年1月1日 詔書に、
朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ
 とあります。日本の戦争を振り返る時に、忘れてはならない考え方だと思います。

  天皇を神として絶対的に崇め服従しなければならないという思想が、明治以来の皇国日本の思想であり、日本の指導者は”皇国の威徳を四海に宣揚”するために、血眼になって働いたのではないかと思います。
 そして、神話に基づき天皇崇拝思想を鼓舞したのが「神道」であり、事実上の「国教」として政府によって優遇されたのではないでしょうか。したがって、神社崇拝の考え方は、国民に強制され、神社の信仰と対立するような宗教は、受け入れられなかったのが実態だったのではないかと思います。

 皇室の祖先神とされる天照大神を祀る伊勢神宮を全国の神社の頂点に立つ総本山とし、国家が他の神道と区別して管理した「神社神道」(神社を中心とする神道)が、様々な場面で国民を縛った事実は、否定できないのではないかと思います。   
 だから、大日本帝国憲法の「第二章 臣民權利義務」の「第二十八條」”日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス”をもって、信教の自由があったということはできないと思います。

 そういう意味で、GHQの「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」による、「政教分離」の指令は、的を外してはいなかったと思います。
 A級戦犯の祭られた靖国神社に、閣僚が公式参拝することは、多くの死者を出した無謀な戦争を指導したA級戦犯を追悼し、日本の戦争や皇国史観にもとづく日本、すなわち皇国日本を正当化することにつながるのであって、関係諸国にとっては、戦後の平和条約に照らし、単なる日本の内政問題として、受けとめることができない側面があるのではないかと思います。また、閣僚など日本を代表する人たちが靖国神社に「公式参拝」することは、日本国憲法に反する行為ではないかと思います。


 
 
 

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