『新しい歴史教科書「つくる会」の主張』(徳間書店)のまえがきで、電気通信大学名誉教授・西尾幹二氏は”歴史を学ぶとは、今の時代の基準からみて、過去の不正や不公平を裁いたり、告発したりすることと同じではない。過去のそれぞれの時代には、それぞれの時代に特有の善悪があり、特有の幸福があった。私たちの教科書はまえがきで「歴史を裁判の場にすることはやめよう」と書いた。”
と、戦後日本の歴史教科書に対する不満を表明しています。私は、こうした考え方が、日本の歴史修正の背景にあり、「日本を取り戻す」ということなのだろうと思います。
歴史を学ぶのは、ただ過去の事実を知るだけでなく、時とともに変化する人間社会について、その変化の因果関係や必然性を知ろうとすることではないかと思います。戦前の日本は、第二次世界大戦終結に伴うポツダム宣言に基き、連合国軍最高司令部によって大きく変えられました。でも、大部分の日本国民は、連合国軍最高司令部の指示・指導を受け入れ、現在も日本国憲法の下、その変化に適応して暮らしていると思います。
だから、現在の大部分の日本人の考え方で、日本の歴史をふり返ることが、西尾教授のような人たちには「歴史を裁判の場」にして、裁いているように受け止められるのではないかと思います。そして、それは日本の戦争を正当化したい人たち共通のものではないかと私は思います。
日本国憲法を「占領軍によって強制された押し付け憲法」だから、変えなければならないという人たちがいます。確かに、日本国憲法の制定過程には、問題があったかも知れません。しかしながら、天皇のいわゆる「聖断」がなければ、滅亡に向って戦争を続けたであろう日本が、敗戦後に自らの力で、国民主権や基本的人権の尊重、また平和主義の考え方を獲得できたとは思えません。また、国民主権や基本的人権の尊重、平和主義の考え方が間違っているとも思えません。
戦前と戦後の日本の変化が、たとえ連合国軍最高司令部のもたらした結果であっても、それによってはじめて、日本が国際社会と民主主義の価値観を共有することが可能になったことを見逃してはならないと思います。
「敗北を抱きしめて 第二次大戦後の日本人」ジョン・ダワー(岩波書店)の下記抜粋文には、マッカーサー元帥が帰国するとき、”経団連は公式声明を発表して、元帥に感謝の意を表明した。衆参両院の議長も同様に、元帥の「公正と同情にあふれた理解と聡明なる指導」を称賛し、とりわけ国会を国権の最高機関としたことに感謝した。”などとあります。こうした記述は、決してでっち上げではないと思います。「第四章 敗北の文化」や「エピローグ」に記述されている下記のような文章は、戦時中、「鬼畜米英」を強いられていた敗戦後の日本国民の様子を、正確にとらえているのではないかと思います。日本国憲法が「押し付け憲法」だから、変えなければならないなどと主張し、「日本を取り戻す」などという人たちは、戦争指導層の考え方を受け継ぎ、「鬼畜米英」で戦った日本の戦争を正当化するとともに、「皇国日本」を取り戻そうとしているのではないかと思います。
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第四章 敗北の文化
大多数の日本人が、想像力あふれた、多様なやりかたで疲労と絶望を乗り越え、人生をたてなおしていった姿は、人間の不屈の力の証である。人生のたてなおしに何年もかかった者もいた。「虚脱」による意気消沈を数日でふり切った者もいたし、「虚脱」とはまったく無縁の者もいた。そうした人々は、天皇の雑音まじりの放送を聴いた瞬間から、解放感と将来への希望を感じとり、思いきって散財してご馳走を食べ、赤飯などのお祝いの食事を広げた。窓に張った灯火管制の黒紙をいそいそとはがして、生活に光をとりもどした。何百万という人々が、国家から指図をうけずに自分自身の人生をつくりだすとは、いったいどういうことなのだろうと考えはじめた。
ある評論家は、何年か後にこの頃を振り返って、社会に新しい「空間」が突然あらわれたようだったと表現している。人々の行動が変わり、思考が変わり、かつて経験したことのない──そして、ひょっとすると二度と経験することのない──状況が出現した。それは流動的で、自由で、開放的で、新たな権威のありかた、新たな行動の規範がまだ形成の途上にある稀有の瞬間であった。人々は、自分の人生をもう一度つくりなおす必要を痛切に感じていた。
投げやりな利己的行動がどこでも目についたが、新しい可能性があらゆるところに出現したことも事実であった。軍国主義者の下では不可能だったことを実行し、発言し、考えてみる機会がやってきたのである。もちろん、占領もまた、軍部による独裁政治である。しかし初期の占領軍は、かつての支配層の威圧的な支配手段を破壊した。それは、民衆がそれまで思いがけなかったような感情表現と独創性の花を咲かせるのに十分な自由をもたらした。こうして「日本」という言葉じたいが、民衆の間では個人の自主性をより広く認める意味へと変化していった。八月十五日以前には、およそ考えられる限りの空虚な言葉をもちだして、「日本」とは何かを国家が規定していた。いわく「国体の本義」とは何か、正しい「臣民の道」とは何か、階級と性別にもとづく上下関係の中で、みずからの「本分」を守ることがいかに重要であるか、「堕落」し「「腐敗」した外国の思想や芸術のうち、どれを発禁とすべきか、事実上あらゆる状況において、何を言ってもよく、何を言ってはいけないか──。
こうして、日本が狂ったようにみずからの「一億一心」ぶりを宣伝していたとき、日本の敵国たちはこの宣伝をおおむね額面どおりに受け取った。戦争中、アメリカなどはこの人種差別的な日本のうぬぼれをそのまま利用して、日本人はロボットのようで、残忍になるよう洗脳された人間たちだという、人種差別的な固定観念を助長しようとした。ところが多くの人々を驚かせたことに、こうして何年もかかって教え込まれた超国家主義的な観念のことごとくが、敗戦とともに急速に脱ぎ捨てられてしまった。国を愛する気持ちは残ったが、理性を失った狂信や、感覚を麻痺させるような統制は、喜んで放棄されてしまった。言葉だけでなく行動によって、人々はどこでも権威主義国家の崩壊に安堵し、おそろしく多様になった娯楽や、いろいろな人々のふるまいを受け容れるか、少なくとも我慢して見守るようになった。
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エピローグ
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1951年四月十一日、ある発表が、雷鳴のように日本中を驚かせた。トルーマン大統領が、不服従を理由にダグラス・マッカーサーを国連軍司令官から解任したのである。中華人民共和国に対する軍事戦略に関して、大統領よりも強硬な策を公然と唱えたため、マッカーサー元帥は占領下の日本を含むすべての指揮権を剥奪された。中華人民共和国は、その前年の十二月、アメリカの敵として朝鮮戦争に参加していた。トルーマン大統領は短いラジオ演説を行ない、自分は第三次世界大戦を回避するためにマッカーサーを解任したのだと述べた。たしかに、最高司令官が解任されたことは、文民が軍人を指揮するという原則の素晴らしい実例ではあったが、日本ではマッカーサーが受けた屈辱を、可哀相で意外な出来事としてとらえた者が多かった。トルーマン大統領の発表の翌日、リベラル派の『朝日新聞』は、「マッカーサー元帥を惜しむ」と題する社説を載せたが、これは多くの人々の心の琴線に触れた。
われわれは終戦以来、今日までマッカーサー元帥とともに生きて来た。……日本国民が敗戦という未だかつてない事態に直面し、虚脱状態に陥っていた時、われわれに民主主義、平和主義のよさを教え、日本国民をこの明るい道へ親切に導いてくれたのはマ元帥であった。子供の成長を喜ぶように、昨日までの敵であった日本国民が、一歩一歩民主主義への道を踏みしめていく姿を喜び、これを激励しつづけてくれたのもマ元帥であった。
マッカーサーは四月十六日、日本を離れ合衆国に向ったが、その様子はあたかも英雄の旅立ちであった。吉田首相はマッカーサーを訪問して元帥の偉大な貢献に感謝し、解任は「言葉にならないほどの驚きと悲しみ」ですと、個人的な書面を元帥に送った。天皇も、マッカーサーが公式の地位を失った以上、マッカーサーのほうから挨拶にくるべきですと主張する宮内庁の高官の助言を振り切って、みずから元帥の住居を訪ね、最後の心のこもったあいさつをした。天皇とマッカーサーが会ったのは、これで十一回であったが、最後のとき初めて、マッカーサーは天皇をリムジンまで見送った。復活した大資本の声として、強力な組織となっていた経団連は公式声明を発表して、元帥に感謝の意を表明した。衆参両院の議長も同様に、元帥の「公正と同情にあふれた理解と聡明なる指導」を称賛し、とりわけ国会を国権の最高機関としたことに感謝した。東京都議会は「六百三十万都民」の名において感謝の意を表し、マッカーサー元帥を名誉都民とする条例が施行されるであろうと報道された。「マッカーサーの碑」が建立されるとか、東京湾あたりに銅像が建てられるだろうという話もでた。
NHKは、マッカーサーの離日を生中継で放送した。蛍の光のメロディーが流れる中、アナウンサーは悲痛な声で「さようなら、マッカーサー元帥」と繰り返した。学校は休みになり、マッカーサーによれば200万人が沿道で別れを惜しみ、なかには目に涙をためた人もいた。警視庁の見積もりによると、沿道で見送ったのは約二十万人であったが、マッカーサーはものごとをほぼ十倍に誇張する傾向があったから、なかなか数字の辻褄はあっているように思われる。とにかく、相当な人数であった。吉田首相と閣僚たちは羽田空港でマッカーサーを見送った。天皇の代理として侍従長が、衆参両院からも代表が、羽田で見送った。「白い雲を背景に」マッカーサーの専用機バターン号が飛び立つ背景に、『毎日新聞』は異常なほど興奮して次のように号泣した。「ああマッカーサー元帥、日本を混迷と飢餓から救いあげてくれた元帥、元帥! その窓から、あおい麦が風にそよいでいるのを御覧になりましたか。今年のみのりは豊かでしょう。それはみな元帥の五年八か月にわたる努力の賜であり、同時に日本国民の感謝のしるしでもあるのです」。
合衆国に帰国すると、マッカーサーは、アメリカらしく共和党の政治家が音頭をとって、英雄として尊敬を集めたし、彼の帰国後の様子は日本人の強い関心を引いた。四月十九日、上下両院の議員を前に、マッカーサーは演説をした。このときマッカーサーは、自分がウエスト・ポイントの幹部候補生だったとき兵舎で流行した歌から、「老兵は死なず、ただ消えゆくのみ」という有名な一節を引用して、演説を締めくくったのであった。これには、日本でもアメリカでも感傷的な人々は同じように感動をおぼえた。しかし、もうひとつの五月五日の上院合同委員会でのマッカーサーの発言には、人々はそれほど感動しなかった。というより、日本とアメリカとでは違う感想をもったのであった。それは体力を消耗する三日間つづいた証言の、まさに最後のころであった。マッカーサーは、日本人の資質の素晴らしさや日本人が遂行した「偉大なる社会革命」についてだけでなく、第二次世界大戦での日本人兵士の最高の戦闘精神についても、高く称賛した。マッカーサーがこういう発言をした意図は、日本人はドイツ人よりも信用できると主張することにあった。日本人は占領軍の下で得た自由を今後も擁護していくだろうか。日本人はその点で信用できるかと聞かれて、マッカーサーはこう答えた。
そうですね、ドイツの問題は、完全かつ全面的に日本の問題とは違っています。ドイツ人は成熟した人種 a mature race でした。
もしアングロ・サクソンが人間としての発達という点で、科学とか芸術とか宗教とか文化において、まあ四十五歳であるとすれば、ドイツ人もまったく同じくらいでした。しかし日本人は、時間的には古くからいる人々ですが、指導を受けるべき状態にありました。近代文明の尺度で測れば、われわれは四十五歳で、成熟した年齢であるのに比べると、十二歳の少年といったところ like a boy of twelve でしょう。
指導を受ける時期というのはどこでもそうですが、日本人は新しい模範とか新しい考え方を受け入れやすかった。おそこでは、基本になる考えを植え付けることができます。日本人は、まだ生まれたばかりの、柔軟で、新しい考え方を受け入れることができる状態に近かったのです。
ドイツ人はわれわれと同じくらい成熟していました。ドイツ人は近代的な道徳を放棄したり、国際間の規範を破ったりした時、それは彼らが意図的にやったことでした。ドイツ人は、世界について知識がなかったからそうしたのではありません。日本人がある程度そうだったように、ふらふらと、ついそうしてしまったというのではありません。ドイツ人は、みずから軍事力を考慮し、それを用いることが、自分の望む権力と経済制覇への近道と考え、熟慮のうえでの政策として、それを実行したのです。
ところが日本人は全然違っていました。似たところはまったくありません。大きな間違いのひとつは、日本で非常にうまくいった政策をドイツにも「あてはめようとしたことでした。ドイツでは、同じ政策でもそうは成功しませんでした。同じ政策でも 違う水準で機能していたのです。
三日間にわたるこのマッカーサー聴聞会の議事録は、全部で17万4千語にのぼり、合衆国では、右の部分はほとんどなんの注目も集めなかった。ところが日本では、ここにあるike a boy of twelve という、たった五つの単語が、執拗なほど注目をあびた。それは日本人の顔を平手打ちにした言葉のように受けとめられ、これを契機にマッカーサーを包んでいた神秘的なイメージが失われはじめた。マッカーサーの伝記作者である袖井林二郎教授は、マッカーサーのこのあからさまな言葉によって、いかに自分たち日本人が甘い考えでこの征服者にすり寄っていたかに気づいたと述べている。突然、多くの日本人がなんとも説明しがたい気分で自らを恥じた。ちょうど戦中の残虐行為が記憶から排除されていったのと同じように、この瞬間から、かつての最高司令官は人々の記憶から排除されはじめたのである。もはや、マッカーサーの銅像は建たないことになった。「名誉都民」の話は、その後けっして具体化しなかった。日本の大会社が数社、合同で広告を出し、「われわれは十二歳ではない!! 日本の製品は世界でも尊敬されている」と見出しをつけた例さえある。もちろん、これは事実というよりも日本人の願望に近かった。ただ、これらの企業家たちがマッカーサーの言葉からただちに感じとったのは、日本経済の未熟さを他国がかばったりけなしたりする言葉と、マッカーサーが日本の発達の後進性について語った言葉とは、完全に主旨が合致しているということなのであった。