真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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特攻隊員と知覧高等女学校の生徒の交流を通して戦争をふり返る

2021年10月01日 | 国際・政治

 勤労動員学生として、特攻隊員の身の回りの世話をした、元知覧高等女学校の生徒たちが、当時の自分たちの日記や手記、また特攻隊員の遺稿やその家族との手紙のやり取りを、手を加えることなく、そのまま「群青 知覧特攻基地より」としてまとめたという本を読みました。同書の出版の経緯は、下記資料1の「まえがき」で知ることができますが、日本の戦争の全体像を知るためには、こうした著書は貴重なものであると思います。

 資料2は、第四十三振武隊の一人として二十一歳で出撃した、簑島武一少尉遺書です。礼儀正しく心優しい青年であったことがわかります。 

 資料3は、第六十九振武隊の一人として出撃した、池田亨少尉の父親、池田熊平氏に宛てた知覧高等女学校の前田笙子さんの手紙です。短い滞在にもかかわらず、飛び立つ前の特攻隊員と身の回りの世話をする女生徒が、お互いに思いやり、心を通わせたことがわかります。

 資料4は、知覧高等女学校の中野美枝子さんが、第百三振武隊の隊員として出撃した岩井定好伍長の妹岩井八重子さんに宛てた手紙に対する、父親、岩井伴一氏の返信です。岩井氏は立て続けに二人の息子を亡くし、必死の思いで、手紙を書いたのだと思いますが、毎日涙を流しつつ、”大君にさゝげし我子みなちるも いくさ勝つとはなんのおしまん”という歌を詠んでいます。当時の「大君」の存在の大きさと、軍国日本の過ちの深さを感じないわけにいきません。

 また、簑島少尉の遺書に、”皇国の為に散り征きし若桜、涙ぐましき光景 暮れ行く基地の空を一機亦一機、明日の我の姿とは想へぬ静かなる清き光景 ふるさとの清き流れに育くみて今ぞ羽搏く正義の翼”とありますが、日本の戦争を”正義”の戦争ととらえ、極めて冷静に自分の死を受け入れていることを見逃すことができません。
 でも、現実の日本の戦争は、”正義”とは、かけ離れたものであったと思います。それは、戦地における戦争の実態や軍の方針、また、国際連盟における、リットン調査団の報告書に対する同意確認の結果が示していると思います。どこの国も日本の戦争を”正義”の戦争などと受け止めてはいなかったのです。
 ところが、当時の教育の結果でしょうが、若い特攻隊委員や特攻隊員の身の回りの世話をした知覧高女の生徒に、日本の戦争の意味を問い、特攻作戦の意味を問うという姿勢がまったく感じられません。疑問を抱くことは許されなかったのだと思います。だから、リットン調査団の報告書に対する同意確認の結果など、気にもしてはいなかったのだと思います。

 そこに、私は、戦前の日本の”過ち”があったと思います。天照大御神を皇祖神とする万世一系の天皇が統治する日本は、神の国であり、したがって、日本の戦争は常に、”正義”の戦争であると受け止めていた結果なのだと思います。
 また、戦前の報道は、軍によって検閲され、日本に不都合な事実が報道されることがなかったことも大きかったと思います。
 徹底した神話的国体観の注入と、報道統制によって、当時の若者が、世界情勢を客観的に理解することは極めて難しかったのだと思います。

 以前にも書きましたが、戦争は自然災害ではありません。話し合いによって、避けることができた筈ですし、特攻作戦も、皇軍ゆえにとれた作戦の一つに過ぎず、必然的なものではなかったと思います。でも、当時の若者にとっては、必然のことであったのだろうと思います。


 「今日われ生きてあり」(新潮文庫)の著者・神坂次郎氏の、下記の文章を思い出します。
”……いま、四十年という歴史の歳月を濾(コ)して太平洋戦争を振り返ってみれば、そこには美があり醜があり、勇があり怯(キョウ)があった。祖国の急を救うため死に赴いた至純の若者や少年たちと、その特攻の若者たちを石つぶての如く修羅に投げこみ、戦況不利とみるや戦線を放棄し遁走した四航軍の首脳や、六航軍の将軍や参謀たち(冨永恭次・陸軍中将や稲田正純・陸軍中将)が、戦後ながく亡霊のごとく生きて老醜をさらしている姿と……。”

 神坂氏の言葉を借りれば、知覧における特攻隊員と知覧高女の生徒たちの交流のなかには、”美”や””が感じられますが、日本の戦争は”醜”や””があふれていたことを直視する必要があると思います。

 だから、天皇の「人間宣言」にある”天皇ヲ以テ現御神(アキツミカミ)トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念”が、日本の戦争を支えていた事実を素直に認め、日本の戦争を正当化することなく、客観的に理解し、中韓との外交関係を改善してほしいと思うのです。
 
 下記は、いずれも「群青 知覧特攻基地より」知覧高女なでしこ会編(高城書房出版)から抜萃しました。

資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
  まえがき
 昭和二十年三月二十七日、知覧高等女学校の三年生進級を前にして、突然、私たちは勤労動員学生として、各地から知覧基地へ集結された特攻隊員の身の回りのお世話することになりました。敗色濃い戦局だったために、軍だけでは隊員たちを受け入れるゆとりもなく、その態勢も整っていなかったのでしょうか。激しい空襲のさなかを自宅から基地まで、遠い人は二時間もかかって通い、三角兵舎の掃除、食事の用意、洗濯、そしてつくろいものなどの雑用係として、十四、五歳の少女だった私たちがあたることになったのです。最初十八名だった女学生も、手が足りなくなって次第に増員されるようになりました。
 多くの隊員は到着して四、五日間を基地の三角兵舎ですごして出撃されました。なかには、たった一夜だけの滞在で慌ただしく出撃された方もいらっしゃいました。
 それは、つかのまの出会いでありましたが、長い歳月を経た今でも、心の奥底に多くの隊員たちの思い出が生きつづけているのは、平和な時代には想像もつかないような異常な戦争体験だったからでしょうか。泣きながら桜の小枝をうち振って出撃を見送ったときの光景など、折りにふれ鮮烈な思い出としてよみがえってまいります。
 戦後五十年が過ぎた今日、悲しくつらかった戦争の体験も、敗戦後の物資不足に悩まされた生活の苦しさも、忘却の彼方に押しやられようとしています。そして、いま私たちが手にしている平和が、数多くの人生とかけがえのない青春の上に築かれていることを忘れ、自分の利害だけで、権利ばかりを主張して責任を果たさない風潮が一般的になったと、よく人々から聞かされるようになりました。
 こんなとき、平和を願い、すべての私情を断ちきって短い人生を終えていった特攻隊員を、その出撃の直前まで目のあたりにしてきた人々の中から、「歴史の証言として何かを残すべきではないか」という声がもちあがりました。それも、ある思想的な立場から何らかの作為のもとに粉飾されたリ、無意識のうちに変ってしまったものではなく、その時の、その状況の中で真剣に綴られた生のままを残したほうがよいのではないかということでした。
 特攻隊員のお父さん、お母さん方もほとんど逝くなられ、ご兄弟の方々もそれぞれ独立して生活されるようになったために貴重な資料が散逸しつつあるということをよくお聞きします。私たちも、特攻隊員の出撃の模様やふだんの生活などを日記風に記録していました。それらの記録や出撃直前に書かれた隊員の方々の遺書などを大事に保管していましたが、戦後の長い年月のあいだに、その大半を紛失したり焼却したりしてしまいました。
 隊員の方々のお世話をさせていただいたご縁から私たちは、戦後いろいろな形でご遺族の方々とのつながりをもちつづけてまいりました。また、もと隊員だった方々とも慰霊祭などでめぐりあう機会が多くなりました。そんなことから、当時よくわからなかったことが次第に明らかになってきました。こうしたおつきあいのなかで知りえた遺稿や、「なでしこ会」会員の手許にかけがえのない思い出として残されていたわずかな日記、書簡をもとに特別攻撃隊の事情をまとめたらどうか、ということになりました。
 しかし、私たちの手記を公開することにつきましては、ためらいがありました。文章も幼く、正しい判断ももちあわせていない十四、五歳の少女の雑記ですし、また異常な雰囲気の中での感傷を断片的に綴ったものですから……。でも、あの時のことは、いつかは何らかの形で知っていただかなければならないとは思っていました。
 知覧高女三年生時代の級友たちも、自分たちの子供や孫たちが、あの時の特攻隊員と同じ年齢になりました。私たちは心から平和を願う平凡な市民ですが、動乱の時代を生きた人間の責任として、それがよしんば私的なものでありましょうとも、子供たちに真実を伝えておくべきだと考え、「なでしこ会」の会員と語りあって、ご遺族のご協力のもとに出版を思い立ちました。
 本書に収録しました特攻隊員の遺稿も私たちの手記も、戦争一色にぬりつぶされた当時の心のうずきをそのまま書きとどめたものですから、今の時代とはずいぶんかけ離れていると思います。しかし、それもまた、いつわらぬ事実なのですから、明らかな誤記だけを訂正して掲載しました。
 皆様の遺書や書簡を読ませていただき、あらためて現実の出来事のように、ありし日のあの方、この方をしのび、多くの若者を失ったあの戦争とはいったい何だったのだろうかと、新たに感慨に胸がしめつけられる思いでございます。生と死のはざまのなかで苦悩しながら、永遠の平和を願い、国の護りに殉じていった若い人々のために心から涙を流した哀惜の日々は、私たちの頭から生涯消え去ることはないでしょう。
 本書は、還らざる方々の魂の証と、ささやかながら私たちの心の軌跡をまとめたものです。特攻隊に関する本は少なからず出版されていますが、数ある太平洋戦争史の大河の流れの一しずくとして、心ある方がもし拾いあげてくださるならば、これにこした喜びはございません。
                               永崎 笙子(旧姓 前田)
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
              岐阜県 岐阜師範 特操一期 第四三振武隊
              昭和二十年四月六日出撃戦死 少尉 二十一歳 簑島 武一
 遺書
 長らく有難うござゐました。
 最前基地にて最后の御便りと思ひ乍ら拙筆をとって居ります。
 なつかしの知覧町に再びやってきました。当地は桜花満開、春の七草咲きほこり、蝶や小鳥の楽し気なるつどひ、初夏を呈している南国の風景
 基地よ、征くものも送るものも皆命がけで活気を呈し、実に意気壮なるものがあります。
 皇国の為に散り征きし若桜、涙ぐましき光景
 暮れ行く基地の空を一機亦一機、明日の我の姿とは想へぬ静かなる清き光景
 ふるさとの清き流れに育くみて今ぞ羽搏く正義の翼
 では父様母様、征きます。泣かないで戦果を確認してください。御両親様、弟妹よ、此の兄の心を知ってください。
 やがて暖い春が訪れるであらう故郷の空へ忘られぬ去り難い姿
 雄々しく征く日本武士
 皆様の御健康を祈り乍ら
  四月三日
 御両親様                                  武一

資料3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 手紙
 初めてお便りします。さぞ不思議に思ひなさいますことでせう。私は〇〇高女生で池田隊長様におたのみされてお便り書く次第です。
 最後の基地〇〇に奉仕に参りまして池田隊長さん御出発の際まで六日間、一緒にゐました。出撃前日、私に、”故郷へ第二次総攻撃参加、元気に笑って出発したと書いてくれ”とおっしゃいました。温順でやさしい隊長さんでした。私達と一緒に慰問の舞踊を見に行ったかへり甘藍(カンラン=キャベツ)を見て、”この甘藍はもうすぐきれいにたまになるだらう”とおっしゃいましたが、その甘藍も今ではきれいに巻いてをります。そして一緒に無邪気に「空から轟沈」のうたを声高らかにうたはれました。部下の方々も大へんおしたいして一緒に行けなかった方は男泣きになかれました。初めていらっしゃった時など、此んな若い方が隊長さんだらうかとうたがふ位でした。一日々々とたつて行く中に隊長さんの立派さを知り、私達も隊長さん隊長さんとなついてをりました。
 部下の方々もみんな”年は若いがおとなしく無口で頭のいちばんいゝ立派な隊長だったんだよ”と隊長さんのなくなられたことを惜しんでをられました。部下にもやさしい隊長さん、そして私達にとっても親切で、出撃のときレンゲの花の首飾りを作って差上げると大へんよろこばれ、又私達の手で隊長機の擬装を取って上げると、”有難う”と何回もお礼を言はれ、そして”飛行場までこの始動車に乗っていきなさい”と最後に自動車までお世話してくださいました。それから私達が兵舎まで桜の花を取りに行ってかけつけたときにはもう遠い出発線に並んでをられました。桜の花を差上げることの出来なかったことが残念でなりません。大きな鉢巻にくっきりと塗られた日の丸、そしてレンゲの花に囲まれて征かれた隊長さんの顔が鮮やかに目の前に浮かびます。
 四月十二日 第二次総攻撃参加。
 静岡県榛原郡初倉村阪本1352-3 池田熊平様
鹿児島県川辺郡知覧町中郡378 前田笙子
 (注:池田亨様のお父様に宛てた手紙。昭和二十年四月二十二日付け)

資料4ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 手紙
 拝復 只今は、御親切なる御手紙を頂きまして、有りがたう御座ゐます。厚く御礼申上げます。私は八重子の父です。
 御両親様始め、御前様には益々御勇健にて決戦下増強また御勉学に御奮励の事と存じます。
 御手紙にて承れば、此度愚子、岩井定好事が一方ならぬ御世話様になりました事と存じます。厚く厚く御礼申上げます。
 御両親様へも宜敷く御伝へ下さい。
 実は出来るなら御宅迄御邪魔致し、何かと御尋ね致したい思ひで居ります。岩井定好本人よりは、最後の通信、元気で行きます、とのみあるばかりにて吃驚り(ビックリ)致し居る処へ、十六日には遺品が届いた様な次第にて、確かに十一日の第二次総攻撃にて、海に散った事と存じますが、一目なりと面会が出来たらと、残念に思ふて居ります。只今、私方では、御前様を定好の様に思ふて居ります。何か細い話しでも致しませんでしたでせうか。
 実は、長男千代司が一昨年三月五日に、南島コロンバンガラ島にて(陸軍高射砲兵曹長)戦死致し、又、今回次男の定好が沖縄にて散り、重ね重ねにて涙の日送りであります。昨年七月二十七日に兄の村葬がすんだばかりであります。
 定好がどんなに元気で、出撃に向かひましたかそんな事が今になり案じられて居ります。大勢一緒でありましたか。もう二度と会へないかと思ふと、又しても熱い涙が流れます。写真の御話がありましたが、一度整理致して後日御送り致しますから、御待ち下さいませ。
 御両親様へよろしく御願い申上げます。
 先は御礼旁御願ひ迄
  五月三日                              岩井 伴一
 中野美枝子様御許江

  美枝子さん、御手紙をなんどくりかへして読ましても、あきらめがつきません。然し貴方様の御優しい御こころづくしの桜花、山吹又お人形迄、御手紙を喜んで拝見致し夢の様思ふて居ります。私も諦めて見たり、泣いても見たり無茶苦茶の日送りです。
 昨年長男戦死に際して
  国の為め散りし我子にはげまされ   
     老ひて再び土にいそしむ
 又次男戦死に
  咲く花も時までまてぬ若さくら
     けふの嵐にあそぶぞかなしき 
  大君にさゝげし我子みなちるも  
     いくさ勝つとはなんのおしまん
 中野さん御笑い下さい。
 鹿児島県川辺郡知覧町瀬世向江三六三  中野美枝子様御許江
     岐阜県加茂郡上米田村比久見七九五ノ二   岩井 伴一
 (注:第103振武隊岩井定好伍長の妹八重子様に宛てた手紙に対するお父様の返信)    

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