私は、日本の戦争は、国家神道(神話的国体観・皇国史観)と切り離して考えることはできないと思います。でも、日本では戦争の思想的背景はあまり語られず、現象面だけが論じられる傾向があると思います。だから、日本の戦争の問題の本質が正しく理解されず、簡単に歪曲や修正がされてしまうのだと思います。それは、閣僚の靖国神社参拝に象徴されるように、日本がいまだに戦争指導層の考え方を受け継ぐ人たちの影響下にあるからではないかと思います。
私が、ホームページやブログで日本の戦争に関する事実について調べたことを公開するようになったきっかけは、沖縄戦で起きた住民の「集団自決(強制集団死)」について、文部科学省が、「日本軍に強制された」という教科書記述の修正を意図したことでした。
その時、沖縄では「高等学校教科書検定撤回県民大会」が開かれ、沖縄県議会では全会一致で、衆参両院議長、総理大臣、文部科学大臣にあてた「意見書」を可決しました。「沖縄戦における『集団自決』が日本軍の関与なしに起こりえなかったことは紛れもない事実。今回の削除・修正は体験者による数多くの証言を否定しようとするもの」として、記述の回復が速やかに行われるよう要請したのです。
だから、”大宜味村渡野喜屋で、山中に潜んでいた日本兵がアメリカ軍保護下の住民をスパイと見なし虐殺した事件”や”鹿山正・久米島守備隊長がアメリカ軍に拉致された住民3人を敵に寝返ったスパイとして処刑し、その家族までも内通者として処刑した鹿山事件”などの事実が、集団自決の強制を証明しているのではないかと考え、情報発信をすることにしたのです。
その際、投降しようとした者はもちろん、アメリカ軍からの投降を呼びかけるビラを持っていただけで、スパイもしくは利敵行為であるとして処刑されたという事実や、沖縄戦だけではなく、いろいろな戦場で、敵に投降しようとする日本兵が射殺された事実の証言があることも取り上げました。
また、南風原陸軍壕では、米軍が迫り撤退する際”独歩患者だけを連れて行け”との軍命で、多くの患者を壕に残さざるを得なかったようですが、残された患者には”青酸カリ入りのミルク”が配られたという証言や、住民に”手榴弾が配られた”という証言も、「自決」が軍命であったことを示していると思ったのです。したがって、そうした多くの証言や体験者の主張を無視するような教科書の修正は、許されないと思ったのです。
また、沖縄戦では、日本軍が根こそぎ動員で多くの住民を軍の作業につかせました。そして、壕の状況や兵士の数、武器の状況まで日本軍の状態が少なからず住民に知られ、”住民が米軍に捕縛された時にこうした軍事情報が漏れる”ことを恐れたため、日本軍は住民が投降することを許さず、集団自決をせまるという側面もあったのではないかと思います。
日本の戦争は、「万歳突撃」や「特攻」、「玉砕戦」、「日本軍性奴隷」などの言葉に象徴されるように、諸外国には例を見ない特異な戦争であったと思いますが、捕虜となることを受け入れず自決した兵士の存在も、その一つだと思います。特に、敗戦後の皇居前や皇居外苑における集団自決などは、外国の人たちには理解できないのではないかと思いますが、そうした悲劇の数々は、「カウラ事件」も含めて、その背景に、国家神道(神話的国体観・皇国史観)の教えがあることを見逃してはならないと思います。
戦争は、どの国でも、交戦国の人たちの憎しみを深めさせて、人間を狂気の世界へ引きずり込み、敵国の人間であれば、戦闘員か非戦闘員かに関わりなく殺してもよいかのような精神状態に追い込むことが少なくないと思いますが、日本の場合は、敵国の人間だけではなく、捕虜になった日本人も、あたかも敵国の人間であるかのように見なしたように思います。
それが、国家神道(神話的国体観・皇国史観)の教えと切り離せないことは、「生きて虜囚の辱めを受けず カウラ第十二戦争捕虜収容所からの脱走」ハリー・ゴードン 山田真美訳(清流出版)の、下記の文章から分かるのではないかと思います(プロローグの一部を抜粋)。
また、特攻兵が自らの死を冷静に受け止めて飛び立った事実や、生きてかえった特攻兵が、自決に至った悲劇も、国家神道(神話的国体観・皇国史観)の教え抜きには考えられないことであり、日本の戦争の過ちが、いろいろな面で国家神道(神話的国体観・皇国史観)の教えと深く関わっていることを見逃してはならない、と私は思っています。
ただ、著者・ハリー・ゴードンが、下記の文章のなかで、” 日本では当時、いかなる事情があろうとも敵の捕虜となることは著しく忌み嫌われていた。その精神を根底から支えているものが武士道である。武士道は日本の魂と呼ばれ、幾世紀にもわたってこの国に軍事的発展をもたらした‷ と書いていますが、特異な日本の戦争の諸現象が、天皇を現津神とする国家神道(神話的国体観・皇国史観)抜きに、武士道で語り尽くされるものでないことは明らかだと思います。でも、それをオーストラリア人の著者に求めることは難しいことなのかも知れないと思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
プロローグ カウラ事件と豪州カウラ会
オーストラリア側に身柄を拘束された日本人戦争捕虜は第一号は、1942年ニ月十九日にダーウィン
への最初の攻撃を加えたのち、母艦に戻る途上で不時着を余儀なくされた零戦パイロット、豊島一である。香川県出身の二十二歳。きわめて頭脳明晰な豊島は、捕虜生活中に英語を覚えて日本人捕虜のあいだで頭角を現し、のちにオーストラリア史にその名を残す<カウラ大脱走>の首謀者の一人となる。
不時着から二年半後、豊島はカウラの排水溝のなかで死んだ。胸に数発の弾丸を受けた豊島は、まず煙草を一服し、次いで自分自身の手で(あるいは彼に命じられた戦友の手で)喉をかき切り絶命した。
ある意味において、豊島は捕虜となったその日から、すでにこの世に存在していなかったとも言える。ダーウィンで開かれた最初の査問会議の席上、豊島は持ち前の堪を働かせ、出身地から航空兵の経歴までをすべてでっちあげ、大胆にも南忠雄という名の架空の人物になりすましてしまったのだ。
<日本人捕虜番号1>と題された調査報告書を今改めて読み返してみると、当時の査問官のうちの誰かが、ひどくだまされやすい人間であったか、もしくは別のことに気をとられていたのではないかという結論に至らざるを得ない。豊島は零戦パイロットとしての身分はひた隠し、爆撃機の機銃手であると自己申告している。しかし飛行機に関する質問で、爆撃機に不案内な彼が、しばしば返答に窮したにもかかわらず、驚くべきことに報告書は彼を単なる<小百姓>として結論づけているのである。
南こと豊島が不時着する四日前、高原希國は飛行艇ごとアラフラ海沖に墜落していた。高原とやはり生き残ったほかの搭乗員四人が捕虜となるのは、豊島が捕らえられた時から、約一週間後のことだ。
彼らは小さなゴムボートで荒海を漂流し、たどり着いたメルヴィル島を十一日間さまよい歩いたのち、捕らえられてダーウィンでの査問会議にかけられた。それは豊島がメルボルンに移された数日後のことだ。高原はグループのリーダー的な立場にあった。彼とその仲間は、豊島と同様に偽の身分を用意していた。つまり、
「自分たちは漁船員で、妙見丸という小さな漁船に乗って航行していたところ、米軍の潜水艦から発射されたらしい魚雷にやられた」
という真っ赤な嘘を、彼らは捏造していたわけだ。査問会議にかけられた一同の口から出た言葉は、つじつまの合わない作り話ばかりで、ほとんど茶番と言ってもよい代物だった。個別に行われた査問の内容に至っては、聞くに耐えないほどの滅茶苦茶ぶりである。ある者は船のマストの本数が一本だったと答え、別のある者は二本と答えた。船の総重量を問われて300トンと応える者もいれば、3000トンと答える者もいた。船体の長さに至っては実に長短さまざまな返答が得られた。自称漁船員の一人は、自分が乗っていた船の名前すら忘れてしまい、長いこと椅子に座ったまま、机の上に文字をなぞってそれを思い出そうとする始末だった。一部の査問官は一連の供述に対して
「捕虜たちが嘘八百を述べているのは明らかだ」
とコメントしたものの、会議全体の最終報告は、こうした疑念をすっかり忘れてしまったかのように、次のように結論づけている。
「非知性的集団。船の航行目的に関する重要情報を入手し得る役職には就いていない」
こうして五人の日本人は、度重なる査問会議をうまく乗り切った。彼らが四発爆撃機に搭乗して戦闘していた事実も、アメリカのP40キティーホーク戦闘機を襲撃した事実も、遂に露見せずにすんだのである。
ダーウィンの査問会議にかけられた、豊島、高原らの各々の家族は、その後数ヶ月の間に戦死通知を受け取っている。それぞれの郷里では葬儀が営まれ、先祖代々の墓地には彼らの墓碑銘が建てられた。そしてそれは、彼ら自身の望むところでもあった。敵の捕虜になるなどということは、本人はもとより家族にとっても、耐え難い屈辱以外の何ものでもなかったのだ。彼らがダーウィンで下手な嘘をついたのは、自らの供述によって連合国側に有利な情報がもたらされることを回避する目的であったが、その際に身分を偽った本当の理由は、自分が捕虜となったために家族が生涯味わうであろう、さまざまな耐え難い恥辱を考えてのことであった。
カウラ事件発生の背景にはいくつもの理由があった。ニュー・サウス・ウェールズ州西部のカウラ戦争捕虜収容所で、1944年八月五日の冷え込んだ早朝に起こった脱走事件は、死者が日本人231人、オーストラリア人4人、負傷者が日本人107人、オーストラリア人4人、最高九日間に及ぶ脱走者が334人という結果に終わった。はっきりしていることは、捕虜となったことへの恥辱は日を追って耐え難いものとなり、それが1104人の日本人捕虜を集団狂気へと駆り立てたということだ。そこに復讐の意図はなく、決行するのだという決意のほかに特別な戦略があったわけでもない。
日本では当時、いかなる事情があろうとも敵の捕虜となることは著しく忌み嫌われていた。その精神を根底から支えているものが武士道である。武士道は日本の魂と呼ばれ、幾世紀にもわたってこの国に軍事的発展をもたらした。敵の捕虜になるぐらいなら死を選ぶという自決の形態は雪辱と呼ばれ、十二世紀以降に見ることができる。太平洋戦争初期、東条英機は『戦陣訓』の中で、
「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」
と断じている。こうした風潮には根強いものがあって、1993年に至ってなお、豪州カウラ会第五代表・紀州政俊が、その心情を次のように語っている。
「我々が受けた教育によれば、戦争捕虜は必ずや殺されるはずでした。しかし捕虜生活がどんなものであるかは、誰も教えてくれなかったのです。いったん捕虜となった者は、たとえ生きて終戦を迎えられたにせよ、その後は絶望的な人生を送らねばならない。たとえ日本に帰れたとしても、人のいない孤島のような場所に連行され、軍隊によって銃殺刑にされるのだ。我々はそう思っていました。歴史を通じて、敵の捕虜となった日本人などそれまで唯の一人もいなかったのです。万が一生き残ったにせよ、もとの社会に復帰できるなどとは、夢にも思っていませんでした」
カウラ事件に関して私が個人的にとりわけ興味をそそられたのは、何よりもまず、この件に関する当局の極端な秘密主義である。さらに事件の全貌を知るにつけて、私は次第に事件に関与した一人一人の人間や、事件の背景にあった文化について関心を抱くようになった。またカウラのように小さな町が国際平和推進の代名詞的存在にまで発展したという事実も、痛く私の心をとらえた。
1960年代に始まった私の事件調査は、70年代に入ると、その舞台を日本に移していた。取材に際しては、多くの人々から多大な協力を頂いた。例えば、南忠雄こと豊島一について、カウラからの生還者のなかでは誰よりもよく知っている高原希國。海軍の機関士出身で、豪州カウラ会結成発起人の常市次郎。カウラ捕虜収容所では班長を務め、暴動の開始直前に、年若い兵士たちに向って「鯉のように死ね」と熱っぽく呼びかけた小城清治。豪州カウラ会設立に際して堂を助け、堂亡き後は第二代会長に就任した森木勝。脱走後に自殺を図ったものの未遂に終わった、伊東義男。同じく収容所の周囲に張りめぐらされた有刺鉄線を突破したものの、その後で賢明にも生き残る決断をした石井喜一。生涯の大部分を日本に捧げた、奈良在住のトニー・グリン神父。このほか多くの人々が、私の取材をバックアップしてくれたのだ。
日本での取材を始めた当初、どうしても連絡のつかない一人の人物がいた。金澤アキラ。当局によって、脱走事件に関する責任の大半を課せられた人物である。事件の全貌を把握しようとしていた私にとって、金澤の手がかりが得られないことは、最大の痛手だった。日豪両国の何十人という関係者と話し、地図や公文書と首っ引きで、事件の主人公たちの背景や行動の足取りを私は追ってきた。だが金澤こそは事件の首謀者であり、しかもまだこの世に生きており、事件の核心部分を握る人物でありながら、本件に関する公式な話し合いの席で意見を述べたこともなければ、事件を報じた何百という新聞、雑誌記事の中で、ただの一度も引き合いに出されたことすらなかったのだ。
彼は極めて重要な鍵を握っていた。彼と会うことなしにカウラ事件の真実を知ろうとするなど、無意味とさえ私は感じた。1977年の日本訪問をひかえ、カウラ会を通じて私は金澤に打診した。
「もしも、茨城県にある金澤家の農場にあなたを訪ねたならば、お目にかかって頂けるでしょうか?」
金澤からは、
「お会いしましょう」
という答えが返ってきた。かくも長き沈黙を破り、彼がなぜ重い口を開く気になったのか、その点について私はその時もそれ以降も金澤に尋ねたことはない。しかしほかの退役軍人たちがほのめかしたところによれば、堂市次郎と小城清治がそうするように金澤に進言し、私ハリー・ゴードン
が信用するにたる人間だと助言してもくれたようである。
金澤との初めての会見で、彼が非常に礼儀正しい人物であること、そしてこの取材に是非とも協力したいと望んでいることがわかった。大子温泉近くに位置する農家の一室で、畳の上に座った私たちの周りを、金澤の姉や親戚の者たち、子どもらが取り囲んだ。頭上に飾られた三枚の肖像は、金澤
の父と母、それに特攻隊員として散った弟・一二(カツジ)のものである。持参した地図や写真、見取り図、軍事裁判の陳述内容などに目を通すと、金澤は三十三年前にカウラ郊外の収容所で起こった出来事について語り始めた。この時の彼の口から語られた話しを、私は心から信用している。
すべての記録のなかで、彼の名前がアキラと記されている原因は、初期の混乱のなかにあった。本当の名前は亮(リョウ)であると金澤は言った。1943年に捕らえられた時、重病のため口もきけない状態で、彼は担架に載せられてオーストラリア軍司令本部へと運び込まれた。正気を取り戻した金澤は
戦友である遠藤良雄曹長が、査問委員会に対して金澤の本当の苗字を教えてしまったことを知り慄然とした。
「本名は決して教えまい。私はそう心に誓っていました。捕虜になることは大変な屈辱でした。家名に傷をつけることにもなるでしょう。しかし気がついた時には、すでに自分の階級と苗字は敵に失れてしまっていました。とっさに私は彰(アキラ)という偽名を思いつき、アキラで通すことにしたのです。敵が金澤のという姓を知ったのは遺憾なことでしたが、自分にはどうすることもできませんでした。アメリカ人やオーストラリア人の捕虜たちが、生命の無事を家族に知らせる目的で、自らの名前を家族の元に知らせるように希望していたことを知った時はショックでした。家族にそんな苦しみを強いるなど、我々にはとてもできない相談でした。捕虜である我々には誰からも手紙など来なかったし、また受け取りたくもありませんでした。我々はすでにこの世には存在しない人間だったのです」
仲間のうちで金澤は、ほとんど封建的とも言えるほどに、深く武士道をわきまえた一人であった。彼が受けた教育は、軍人たる者、降伏して捕虜となるよりは、むしろ残された最後の武器で自決するか、さもなくば死ぬ覚悟で敵に突撃すべきであるという、断固たる教えだったのだ。たとえひどい怪我あるいは重病のために、抵抗する力がなかったのだとしても、それは言い訳にはならなかった。金澤は、日本でまともに顔を上げて歩くことなど金輪際できないし、彼の家族は末代までも恥辱のなかで生きるほかはないのだった。1937年に二十歳で入隊して以来の、軍人としての金澤の経歴は、敵方にすでに知られてしまっている。
カウラ事件直後、金澤は自分を極刑にしてほしいと強く要求し、それと同時に、仲間たちの身柄の安全をひたすら案じた。
金澤の意に反して、彼は死刑にされることなく、収容所の中で敗戦の時を迎えた。彼が小生瀬村にほど近い金澤家の農場に戻って来た時、家族は二人の息子の死を悼んで悲しみに暮れていた。彼自身は1943年三月にプーナで戦死したものと思われていたし、五歳違いの弟・一二は、終戦一ヶ月前の七月十五日に、最後の特攻隊員の一人として出陣し、ルソン島の近くで戦死していたのだ。
帰郷から何ヶ月ものあいだ、自分など本当に死んでしまえば良かったと思い、金澤はふさぎこんだまま過ごした。戦友会の類とは一切コンタクトを取らず、とりわけカウラから帰った元軍人とは決して交渉を持とうとしなかった。帰国後ほどなく、彼はオーストラリアで捕虜となっていた事実を、不安な思いで家族と親友たちに告白した。しかし驚いたことには、そのことを知ったからといって、誰も金澤をのけ者などにしなかった。だが人々のこうした寛大さも、この田舎町に限ったことだろうと彼は思い直し、なお数年間にわたって深刻な恥辱の念にさいなまれながら過ごしたのである。
かつての戦友たちの消息を調べることに力を尽くし、豪州カウラ会第二代の会長も務めた森木勝によれば、800人近くにのぼるカウラ事件の生存者のうち半数以上が、かつて捕虜であったことを決して認めようとしなかったという。この点については金澤も同じ見方をしていた。また、捕虜であったことを認めた三百余人のうち、豪州カウラ会に加わった者はわずか80人程度に過ぎなかった。
仲間を集団自決に導き、その後は自らの死刑さえ嘆願した金澤にとって、すべてを告白するのは容易なことではなく、彼をカウラ会に入れるためだけでも、友人の堂市次郎による熱心な説得が必要だった。何しろ会にはいることは、収容所での歳月を知る生き証人たちと再び顔を合わせることになるのだから。しかしながら長い歳月は徐々に彼を変えていった。
「あのような体験をできたことに、私は心から感謝しているのです。カウラの人々やオーストラリア
との素晴らしいつながりを感じながら、私は生きています」
そう語る現在の金澤はもはや伝道師のようですらある。
1993年に再び日本を訪れた私は、かつての捕虜たちと語り合うなかで、彼らのなかによみがえった<誇り>を感じ、一種逆説的なものを感じさせられていた。半世紀前、この男たちは重い恥辱に耐えていた。その恥辱ゆえに、彼らは偽名さえ使った。捕虜生活を分かち合うなかで、心にくすぶり続けた恥辱の念は、最終的には世界史上最大の脱走事件となった集団自殺を引き起こしたのである。彼らは、カウラ戦で死んでいった戦友たちを一度は羨んでみた。戦死した者は、死によって捕虜の罪から赦されたかもしれないからだ。また、暴動そのもので死んだのではないが、ユーカリの樹から首を括り、あるいは古い蒸気機関車の車輪の下に身を投げて死んでいった戦友たちのことも、一度は嫉ましく思ってみた。息子は戦場で帝国軍人らしい死を遂げたと信じている家族の前には、二度と再び姿を現すまいとも思っていた。しかし今、同じ思いに苦しんだ男たちが、自分自身への誇りや、カウラでの体験を通じて与えられた自尊心について語っているのである。
オーウェン・スタンレー山で右足首を機関銃で撃たれた森木勝は、脱走から数えて四十九年目にあたる1993年、高知方面在住の三十二名を率いてカウラを訪ねている。日本人戦没者墓地と、かつて彼も収容されていた捕虜キャンプとを結ぶ道に、彼は二本の桜を植えた。以下は、彼自身が私に語ってくれた心情である。
「私はまるでカウラで新しく生まれ変わったようでした。あそこは私にとって第二の故郷なのです。ほかの皆もそうであったように、筆舌に尽くしがたい恥辱に、私は一度は苦しみました。私たちは世間から見捨てられた人間であり、売国奴でもありました。捕虜となった瞬間から、考えることは自殺の方法ばかりでした。私たちをあのように恐ろしい向こう見ずな行動に駆り立てたものは、救いようのない絶望感だったのです。事件後、オーストラリアは国を挙げて、亡くなった日本兵を手厚く弔ってくださいました。1946年四月八日に、私は故郷に帰ることができましたが、戦地から生きて帰れた村の者は私一人でした。家族は私が1942年十一月十一日戦死したものと信じて、先祖代々の墓に墓碑銘を立てていました。私はカクラでの出来事をありのままに家族に告げた後、村人たちも集めて、私の身に起こったすべてを正直に告白しました。すると村人のひとりがこう応じてくれたのです。『何も心配するな。お前は軍人らしく闘ったんだ。捕虜だったことなど気にしなくていい。今となっては、日本の国全体が捕虜収容所になってしまったようなものじゃないか。お前はこれから誇りを持って生きろ』。その言葉がどれほど私を勇気づけてくれたか知れません。恥が誇りへと変るのに時間はかかりませんでした。故郷の土を踏み、友人たちの歓迎を受けた、ほとんどその瞬間から、私の内から自己嫌悪の念はかき消されていたのです。今の私は、心の絆によってカウラと結ばれています。そしてカウラを訪ねるたび、今は亡き戦友たちに語りかけて来るのです」
森本は豪州カウラ会会長に就任した際、元捕虜のうちで現住所の判明した者全員に宛てて通知を出している。しかしそれに対する返事は、彼を落胆させるようなものだった。
「返事をくれない者がほとんどでした。返事を寄こした者の大半も、もう二度と連絡をしないで欲しいとだけ書いて来たのです。無理もありません。家族に対してさえ最後まで捕虜体験を告白できなかった者もいたわけですから。自分たちは歴史上の貴重な一場面を生きた。我々のしたことは誤りではない。それどころか我々は誇りを持って行動した。こうして我々が生きていられるのもオーストラリア人のお蔭だ。そう思い至った者もいます。しかし、いまだに家族にも真実を伝えられずにいる者については、残念でなりません。元捕虜だったからという理由で我々を責める者など、今さらいるはずもないでしょう。あまりにも長いこと嘘のなかで生きているという、その現実の方が問題です」
・・・(以下略)