真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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われわれが望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間・・・

2022年11月10日 | 国際・政治

 朝日新聞11月9日の夕刊の「にじいろの議」に、合六強(ゴウロクツヨシ)という国際政治学者が「ウクライナ 祖国を守る抵抗 原点をふり返り支援を」と題する文章を書いていました。その中に、
キーウ国際社会学研究所が10月下旬に行った世論調査によると、86%の人が「都市攻撃が続いても抵抗を続けるべきだ」と回答し、「攻撃を一刻も早く止めるため協議に移るべきだ」と答えた人の割合(10%)を大きく上回った。
 寒さが厳しくなるなか、世論に変化が見られるかはわからない。それでも別の調査では、87%の国民が「戦争が長引いても、いかなる領土も妥協すべきではない」と考え、その割合は少しづつ増えてきた。彼らにとってこの戦争は、国の生存をかけた祖国防衛戦争となっている

 とありました。
 大学の准教授を努める国際政治学者が、こんな理解でいいのか、と私は疑問に思いました。
 戦争は、一般国民ではなく、一部の軍人や政治家が始めるものだと思います。日本の戦争は極端かも知れませんが、徹底した皇国史観に基づく教育や鬼畜米英の教育、反対するものの弾圧や非国民扱いによって支持され進められたと思います。当時、日本で世論調査をやれば、98~99%は日本の戦争を支持していたのではないかと思います。
 だから、ウクライナの世論調査で、86%が抵抗を続けるべきだと答えたとしても、それを理由に、ウクライナ軍を支援すべきだという考え方をしてはならないと私は思います。
 ウクライナ軍やゼレンスキー政権が偏った情報で煽り、戦争を強制している面もあるのではないかと思います。それに、ウクライナ戦争を主導し、莫大な金額にのぼる軍事支援をしているアメリカのかかわりについて、ほとんど考慮しない姿勢にも問題があると思います。
 以前に取り上げましたが、アメリカの
オースチン国防長官は、”ロシアが二度とこのような戦争ができないように、弱体化する必要がある”、というようなことを言いました。また、バイデン大統領も同じようなことを語ったことがありました。アメリカのウクライナ支援は、成り行きに任せていると、ヨーロッパ諸国に対するアメリカの利益や覇権が失われるので、ロシアを孤立化させ、弱体化させることが目的であることを見逃してはならないと思います。
 マイダン革命にもアメリカは深くかかわっていました。
 だから、戦後も、至るところで法や道義・道徳に反するような内政干渉や主権侵害をくり返してきたアメリカのかかわりを抜きに、ウクライナ戦争を客観的にとらえることはできないと思います。

 合六准教授は
一刻も早い停戦を──開戦当初から日本でもこうした声があがった。現地からの悲惨な状況が伝えられるたびに私も同じ思いを抱く。しかし、それが「現状の凍結」を意味するなら、占領下でさらなる犠牲を生み出すかもしれない。停戦の間にロシアは態勢を立て直し、明日にでも攻撃を再開するかもしれない。・・・”
 とも書いています。停戦・和解を最優先にするつもりがない考え方だと思います。
 この考え方は、ロシアを孤立化させ、弱体化したいアメリカの影響を受けたものだろう、と私は思います。
 
 さらに言えば、戦時中、軍のプロパガンダに協力したことを深く反省して、戦後の報道に取り組んでいるはずの朝日新聞が、なぜ、アメリカの戦争目的に協力し、同じ過ちをくり返すような報道をしているのか、と私は疑問に思うのです。 

 下記は、「検証・法治国家崩壊 砂川裁判と日米密約交渉」吉田敏浩、新原昭治、末浪靖司(創元社)から「駐日アメリカ大使と最高裁長官の密談(4月X日)」と「われわれが望むだけの軍隊を、望む場所に」と題された文章を抜萃したものです。
 アメリカが、いかに狡賢く、日本の主権を侵害し、内政に干渉しているかが、よくわかると思います。こうした過去の歴史を踏まえて、ウクライナ戦争を客観的に理解する必要がある、と私は思うのです。

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               Part1 マッカーサー大使と田中最高裁長官

 駐日アメリカ大使と最高裁長官の密談(4月X日)
 上告が決定してから一週間後の4月10日、東京の街は皇太子成婚パレードでわき返りました。その日は快晴で、午前10時から皇居で「結婚の儀」があり、午後2時よりニ重橋から渋谷区の東宮仮御所まで、きらびやかに飾った六頭立ての馬車をつらね、パレードがおこなわれました。沿道の人出は53万2000人にのぼったといわれます。まさに「ミッチー・ブーム」のクライマックスでした。
 パレードは各放送局の計108台のテレビカメラによって全国に中継され、国民の目を釘づけにしました。パレードを見るためにテレビを購入した家庭も多く、当時、電気店の在庫が一掃されたそうです。NHKのテレビ受信契約数は、婚儀一週間前に200万を越え、成婚パレードの視聴者数は1500万人に達したと推定されています。
 途中、馬車に投石し、飛び乗ろうとした少年が警官に取り押さえられるハプニングはあったものの、パレードは日本の戦後復興と新しい皇室を象徴する華麗な祭典として人びとの記憶に残りました。
 しかし、こうした華やかなブームと式典の背後で、アメリカ政府による砂川裁判への干渉や核持ち込み密約などを含む安保改定秘密交渉が進んでいたとは、人びとは夢にも思わなかったでしょう。
 最高裁への跳躍上告が決まったからといって、マッカーサー大使はあとのことを日本政府に任せきりにしていたわけではありません。皇太子成婚から二週間後の1959年4月24日、アメリカ大使館から、国務長官に宛てた「秘」公電を見てください。これまた驚くべき内容が記されています。なんとマッカーサー大使は、最高裁長官にまでひそかな接触の手を伸ばしていたのです。

「最高裁は4月22日、最高検察庁〔訳者注:実際上告趣意書の提出者は、東京地検検事正野村佐太男〕による砂川事件の東京地裁判決上告趣意書の提出期限を6月15日に設定した。これに対し、被告側は答弁書を提出することになる。
 外務省当局者がわれわれに知らせてきたところによると、上訴についての大法廷での審理は、おそらく7月半ばに開始されるだろう。とはいえ、現段階で判決の時機を推測するのは無理である。内密の話しあいで田中最高裁長官は大使に、本件には優先権があたえられているが、日本の手続きでは審理が始まったあと判決に到達するまでに、少なくとも数ヶ月かかると語った」(同前)→ 資料⑤

「田中最高裁長官」とは、最高裁のトップ田中耕太郎その人です。跳躍上告された案件が、早くスムーズに審理されて判決にいたるかどうか、日米両政府が望んでいるような逆転判決がえられるかどうか、その鍵を握っているのは田中長官にほかなりません。その長官がマッカーサー大使と内密に話しあい、「本件には優先権があたえられている」と、最高裁の内部情報を告げていました。
 しかし、これは異常きわまりないことです。最高裁には年に何千件もの案件が上告されますが、大多数が書類審議だけで棄却され、その結果が突然、訴訟の当事者に郵便で知らされます。小法廷や大法廷で公判が開かれて審理されるケースはごく限られています。特定の案件に関して、「優先権があたえられている」と、最高裁長官がこっそり教えてくれるなど、決してありえないことなのです。
 しかも、日米安保条約にもとづく米軍の駐留は合憲か違憲かが大きな争点になっている裁判です。アメリカ政府を代表する駐日アメリカ大使は、裁判の一方の関係者、いわば当事者ともいえます。このような立場の人物に、最高裁長官ともあろう人が内部情報をもらす──。いったいこんなことで裁判の公正さが保たれるでしょうか。憲法第76条で「すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職権をおこない、この憲法および法律にのみ拘束される」と規定された司法権の独立性を疑われてしまう行為です。
 
 われわれが望むだけの軍隊を、望む場所に
 マッカーサー大使が田中長官との密談を本国に報告したとき、アメリカの国務長官は交代していました。1959年4月15日にダレス国務長官が病気のために辞任し、後任にはクリスチャン・ハーター国務次官が昇格したのです。ダレスは間もなく5月24日にワシントンで死去します。71歳でした。
 ダレスは、戦後日本の進路を方向づけた、マッカーサー連合国最高司令官を筆頭とする、アメリカ側の立役者のひとりでした。日本が敗戦後、連合国軍による占領という名の米軍占領下から、連合国との講和条約を通じて独立を回復する際、当時の吉田茂政権と交渉し、対日講和条約(サンフランシスコ講和条約)と日米安保条約をセットで結ぶという路線を主導したのです。

 それは第二次世界大戦後、アメリカ(資本主義陣営)とソ連(共産主義陣営)がはげしく対立していた冷戦下において、日本が安保条約という軍事同盟を通じてアメリカ側の陣営に組み込まれることを意味していました。
 ダレスは弁護士から政界に転じ、国連創立にも関わり、1946年にアメリカの国連代表に就任しました。50年に国務省顧問になると、当時のトルーマン大統領の特使として、対日講和条約と日米安保条約の交渉を任されます。そして、51年1月25日に使節団を率いて来日しました。翌26日、日本政府との交渉を前に、使節団の最初のスタッフ会議でダレスはこう発言しています。「われわれは日本に、われわれが望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利を獲得するであろうか? これが根本な問題である」(『安保条約の成立』豊下樽彦著)
 また、1月29日の吉田首相との会談直前のスタッフ会議でも、議論の焦点は、「(米軍駐留に関する)われわれの全面的な提案を日本側に受け入れさせる」という問題でした。
「この経緯にあきらかなように、ダレスにとって日米交渉の正否を左右する最大の課題は、日本への再軍備要求の大前提として、なによりもまず、講和・独立後も占領期と同様の米軍による『全土基地化』『自由使用』の権利を獲得できるか否かにあった」(同前) 
 ダレスがかかげたアメリカの目的、「全土基地化」と「基地の自由使用」の獲得は、後日、日米安保条約を通じて達成されることになりました。
 この日米安保条約と、同時に発効した日米行政協定によって、1952年の日本の独立回復後も、米軍は占領時代と同じような特権を維持したのです。占領期時代の米軍の特権を引きつぎ、事実上の治外法権を認める、ひどい実態を表すアメリカ政府の公文書があります。
 1957年2月14日付け、駐日アメリカ大使館からアメリカ国務省宛ての極秘報告書「在日米軍基地に関する報告」です。共著者の新原昭治がアメリカ国立公文書館で発見した解禁秘密文書のひとつで、次のような記述があります。

「日本での米国の軍事活動の規模の大きさに加えて、きわだつもうひとつの特徴は、米国にあたえられた基地権の寛大さにある。安保条約第3条にもとづいて取りきめられた行政協定は、米国が占領中もっていた軍事活動遂行のための大幅な自立的行動の権限と独立した活動の権利を米国のために保護している。安保条約のもとでは、日本政府とのいかなる相談もなしに『極東における国際の平和と安全の維持に寄与』するため、我が軍を使うことができる。
 行政協定のもとでは、新しい基地についての要件を決める権利も、現存する基地を保持しつづける権利も、米軍の判断にゆだねられている。それぞれの米軍施設に適用される基本合意が存在する。これに加えて、地域の主権と利益を侵害する多数の補足取り決めが存在する。多数の米国の諜報活動機関と対敵諜報活動機関の数知れぬ要員がなんの妨げも受けず日本中で活動している。

 米軍の部隊、装備、家族なども、地元とのいかなる取り決めもなしに、また地元当局への事前情報連絡さえなしに日本への出入りを自由におこなう権限があたえられている。日本国内では演習がおこなわれ、射撃訓練が実施され、軍用機が飛び、その他の日常的な死活的に重要な軍事活動がなされている──すべてが行政協定で確立した基地権にもとづく米側の決定によって」(新原訳、『日米「密約」外交と人民のたたかい』新原昭治著、新日本出版 2011年) → 資料⑥

 マッカーサー大使が、1958年から60年にかけての安保改定交渉を通じて、確保しようとしていたのも、こうした特権でした。米軍も在日米軍基地の自由使用、自由な軍事活動など特権の継続を、安保改定で確保すべき最優先課題としていました。
 

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