真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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北方領土問題 米ソの本音 「ダレスの脅し」

2013年01月13日 | 国際・政治
 「ソ連は最初北方四島は諦めていた 知られざる北方領土秘史 四島返還の鍵はアメリカにあり」戸丸廣安(第一企画出版)は、下記のように、その3章で、「クルクル変わる米国の北方領土政策」と題して、アメリカの北方領土問題に対する本音の部分を記述している。アメリカは、2島返還を条件に、日本がソ連と平和条約を締結しようとした時、沖縄返還の問題を持ち出し、それを認めなかった。「ダレス の脅し」である。米国の極東政策上、日本は「反ソ」でなければならず、対ソ政策で”一人歩き”することを許されなかったのである。

 「東アジア近現代通史 【7】アジア諸戦争の時代」(岩波書店)にも同じような記述があるが、さらに踏み込んで『米国政府が日本の「4島返還」を支持したのは、それがソ連には受け入れ不可能と解っていたからであり、4島が千島列島ではないと考えたからではなかった』とある。『日本は西側陣営に確保し、共産主義陣営との和解は阻止しなければならない。』というわけである。

 「北方領土 軌跡と返還への助走」木村汎(時事通信社)には、反対にソ連の北方領土に対する「本音」といえる部分が取り上げられている。それは、クタコーフやスターリン、ミコヤン、フルシチョフなどの言葉に共通してみられる、北方領土の軍事戦略的価値重視の論調である。「クリール列島は、カムチャッカの南端から、北海道に至る連続的な鎖として伸びることによって、オホーツク海に鍵をかける。それは、ロシアの極東沿岸への接近を遮断する。クリール列島の地理的位置は、極東沿岸の前哨地点として最も重要な意義を与える」(クタコーフ)「南サハリンとクリール列島はソ連と大洋との直接の結びつきの手段、そして日本からのわが国への攻撃に対する防衛の基地として…」(スターリン)、 「エトロフやクナシリは、小さな島々ではあるが、カムチャッカへの門戸であり、放棄しえない」「日米が軍事同盟を結んでいる現状では返還を考える余裕がない」(ミコヤン)「これらの島々(=歯舞・色丹)は、われわれにとって経済的には大した意義はないが、戦略・国防的には重大な意味がある。われわれは、自己の安全保障を配慮するのだ」(フルシチョフ)などである。

 1960年の日米安保条約改定を機に出されたソ連の池田内閣宛「対日覚書」には、「歯舞・色丹の引き渡しに日本からの全外国軍隊の撤退」という新条件が加えられた。そうしたことは国際法上考えられないことだといわれるが、それは、北方領土に対するソ連の軍事戦略的価値を重視する姿勢のあらわれといえる。

 1990年秋の米ソ冷戦終結宣言によって、当時と情勢は大きく変わってきたとはいえ、北方領土問題に関する米ソの本音にどれほどの変化があるか定かではない。したがって、日本は、日米同盟を強化し、アメリカの主張に沿って北方領土の返還をもとめるのではなく、平和主義に徹し、北東アジアを含む東アジア全体の軍縮・非軍事化を主導することによって、北方領土返還を求めていくべきではないかと思う。
資料1-------------------------------
        第3章 クルクル変わる米国の北方領土政策

ソ連の2島返還を邪魔したダレス

 サンフランシスコ平和条約締結後の米国は、積極的応援とは言えないものの、北方領土復帰運動を推進する日本をバックアップするかのように見えた。
 しかし、その後判明するが、米国の対「北方領土」政策はそう単純なものではなかった。米国は日本の思惑とは合致しない観点から北領土の戦略的位置づけをしていたのだ。


 スターリンの死(1953年3月)を契機に日ソ関係に修復のきざしが見え、北方領土問題にも波及するかに見えた。55年6月、ロンドンで開かれた日ソ交渉は松本俊一外交官(日本代表)とマリク元駐日大使の間で行われ、ソ連側は歯舞諸島と色丹島の返還を対日平和条約締結を条件に約束すると表明した。これを受けて日本側も2島返還論に傾きかけた矢先のことだった。
 これに対する米国の反応は予想以上に慌てふためいたものであって、即刻行った対抗策は沖縄がらみの対日圧力であった。即ち、日本が2島返還に応ずるならば、沖縄返還はあり得ないとするダレス発言である。
「ダレスは全くひどいことをいう。もし、日本が国後、択捉をソ連に帰属せしめたなら、沖縄をアメリカ領土にするということを言った」
 と、ダレス国務長官との会談を終えた重光外務大臣は、青ざめた顔で松本俊一全権大使に伝えている。2島返還に応ずるならば、沖縄返還はあり得ないとするダレス発言である。
 ダレスは、サンフランシスコ条約では、千島列島がソ連に帰属するとは定められておらず、日本が千島列島、特に択捉・国後両島をソ連領と認めてかかるなら、同条約の第26条により、アメリカは沖縄を併合するしかない、と重光外相に警告、アメリカの思惑から外れそうな日ソ交渉を牽制したのである。


 当時のアメリカにとって、日本がソ連との関係改善を急ぐあまり領土問題で”大譲歩”するのは米国の極東政策上傍観できなかったからであり、すでに日米、米ソ両関係を無視した日ソ関係はあり得ないことを暗に示したことと言えよう。
 この陰には、
「北方領土は反ソ感情の原点であり、早期返還は好ましくない」 
 との米政府の考えがある。日本の公安関係者も、米ソ冷戦下で、北方領土が長くソ連支配下に置かれている限り、日本が、反ソであり続けるとの読みが米国にある、と分析している。もし早期返還ともなれば日本が対ソ政策で”一人歩き”するきらいがあったからである。
 いずれにしろ、このダレスの牽制により、4島返還は崩さないものの、まずは2島返還を実現させておこうとした日本政府のもくろみは頓挫してしまった。以後日本は2島返還という段階的返還論は語らず、あくまでも4島一括・全面返還に固執するようになったあのである。
 それ以後今日もなお米国の北方領土全面返還要求には変化が見えず、たとえ当事国である日本の政策変更であっても米国の主張にそぐわないものなら受け入れないとの態度を崩していない。


資料2------------------------------
           「北方領土問題と平和条約交渉」
                                       原貴美恵

3 日ソ交渉と4島返還論

 サンフランシスコ平和条約締結から4年後、大戦終了から10年を経た1955年、日本とソ連との間で平和条約交渉が開始された。この交渉の期間中に「4島返還」が日本政府の中核的方針となる。これと関係する主要な出来事には、米国の干渉と及び「1955年体制」の成立がある。
 日ソ交渉への米国の介入は、「ダレスの脅し」としてよく知られている。1956年8月、日本側全権であった重光葵外相が、ソ連の歯舞・色丹オファーを受諾し平和条約を締結しようとしたところ、当時米国務長官になっていたダレスが、もしソ連に譲歩して国後・択捉を諦めるなら、沖縄に対する日本の潜在主権は保障できないと警告したのである。[松本1966、114-117頁/久保田1983,133-137/FRUS.1955 -57.pp.202-203]。米国の介入には主として2つの理由があった。一つは米国の沖縄支配を確実にするため、もう一つは日ソの和解を阻止するためである

 米国務省の記録に残る「米国にとって琉球諸島(沖縄)は、ソ連にとっての千島列島よりも、価値がある」というダレス発言にみるように、沖縄の戦略的重要性は、アジア太平洋地域で冷戦が激化するにつれて増大していた(/FRUS.1955-57.p.43)。しかし、米国には沖縄を自国の管理下に留めておく強い根拠がなかった。もし日ソ間で北方領土問題が解決されたら、次は米国に沖縄を返還するよう圧力が掛かるであろう。それは、歯舞・色丹をオファーして領土問題の解決を図ったソ連の狙いでもあった。そこで、ダレスは、彼自身が平和条約に挿入しておいた「歯止め条項」第26条を使って、もし日本が北方領土でソ連に譲歩したならば、米国は沖縄を請求できるという議論を持ち出したのであった。
 米国政府が日本の「4島返還」を支持したのは、それがソ連には受け入れ不可能と解っていたからであり、4島が千島列島ではないと考えたからではなかった。日本は西側陣営に確保し、共産主義陣営との和解は阻止しなければならない。日ソ平和交渉は1950年代半ばの「雪解け」あるいは「平和的共存」という状況下で始まったものの、米国にとってこのデタントは一時的なもので、ソ連の「平和攻勢」はアジアにおけるナショナリズムや反植民地運動に呼応しながらその影響範囲を拡げ、戦略的にはソ連に有利に働いているにさえ認識されていた。日ソ平和条約の締結は、日本と中華人民共和国との間の国交正常化へと発展しかねない。これもまた米国には受け入れられなかった。
 ・・・

資料3-----------------------------
            第3章 ソ連が返還に応じない理由

2 軍事戦略的価値

 ソ連が北方領土返還を頑ななまでに拒否し続ける、もう一つの有力な背後理由として、同地域がもつ特殊な価値があげられる。日本人が北方領土返還要求を行っている主たる理由が、同地域がもつ軍事的価値に基づくとはとうてい考えられない。返還の暁には同地域を非軍事化して平和的管理下におくという条件を呑みさえすれば、返還が実現するというのならば、異論を唱える日本人は少ないだろうと推定される。漁業を主とする経済的利益も確かに返還要求の一つの有力な根拠ではあろうが、ただそれだけのものならば同要求が全国民的規模の運動にまで盛り上がりうるはずがない。やはり、日本人にとり北方領土の価値は、金銭には還元できぬ無形のものにあると見るべきであろう。この点で、仮に北方4島が日本に返ってくるとすると、「日本人一世帯当たり6万円以上の負担となる」と説かれる大前研一氏のご意見はあまりにも純経済的に焦点を絞った見解のように思われる(文献20)。そのようなお考えを延長すると、北海道や東北地方も、中央政府からの国庫補助金を頂戴して初めて平均的日本人に近い生活水準を維持していることを思い起こさせられ、北海道の住人の一人としての筆者は、多額納税者に違いない大前氏に申し訳なく思うと同時に、何か割り切れないものを感ずる。大前氏は、世の中には純経済的価値に還元できない価値の存在することを経済学ですら認めていることを、看過しておられるのではないか。北方領土返還は、「固有の領土」の返還をもってあの汚辱に満ちた敗戦にピリオドを打つという儀式上の象徴的意味をもつ。さらに、戦後の日本がとってきた全方位ないし平和的な話し合い外交路線がソ連にも通用することを確認したいという心理的な価値を担っている。


 このような日本側の事情とは異なり、ソ連にとって北方領土がもつ意義は、ひとえに軍事戦略的な価値にあると見て差し支えないだろう。北方領土地域は、幸か不幸か、ソ連にとり、オホーツク海を開かれた海にするか閉ざされた海にするかの要(カナメ)に位置している。クタコーフは、クリール列島一般の地政学的重要性を、次のように説明する。「クリール列島は、カムチャッカの南端から北海道に至る連続的な鎖として伸びることによって、オホーツク海に鍵をかける。それは、ロシアの極東沿岸への接近を遮断する。クリール列島の地理的位置は、極東沿岸の前哨地点として最も重要な意義を与える」(文献21)

 北方領土やクリール列島のもつ地政学的な価値を、歴代のソ連指導者たちは、十二分といえるまでに高く認識、評価している。スターリンは、第二次大戦終了時のソ連人民向け演説中において、とくに日露戦争以来閉ざされていた「大洋への出口」(ベレージン)(文献22)が再びソ連に開かれることとなった喜びと意義を、次のように叫んでいる。
 
 「日本は、ツアーリズム・ロシアの1904~5年戦争における敗北を利用し、ロシアから南サハリンを奪い、クリール列島に根をおろし、かくして、わが国にとり、極東の大洋へのすべての出口に鍵を固くかけ、閉ざしてしまった。…しかるに、第二次大戦によって、南サハリンとクリール列島はソ連のものとなり、今後は、ソ連を大洋から引き離す手段としてや、日本のわが極東への攻撃の基地としては、役立たないであろう。むしろ、ソ連と大洋との直接の結びつきの手段。そして日本からのわが国への攻撃に対する防衛の基地として役立つであろう」(文献23)


 1965年5月、訪日中のミコヤンは、池田首相に向かい、「エトロフやクナシリは、小さな島々ではあるが、カムチャッカへの門戸であり、放棄しえない」(『北海道新聞』64・5・27)と語り、藤山愛一郎、三木武夫氏らに向かっても、「島は小さくとも、その位置が重要」と述べた、と伝えられている(『朝日新聞』64・5・27)ほぼ同じ頃(同年7月9月)フルシチョフ首相は、二度にもわたり、日本人訪ソ団に向かい口をすべらし本音(?)を漏らした。「これらの島々(=歯舞・色丹)は、われわれにとって経済的には大した意義はないが、戦略・国防的には重大な意味がある。われわれは、自己の安全保障を配慮するのだ」(『朝日(夕刊)』64・7・15『プラウダ』64・9
・20)。

 ・・・
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。 

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