真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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大本営発表と「想定外」の津波

2019年12月02日 | 国際・政治

 なぜ、大本営は「幻の大戦果」を発表したのか。それも、台湾沖航空戦での大戦果の発表のみならず、大本営発表が「嘘の代名詞」といわれるような事態に至るまで続けられたのか。そして、そうした重大な問題が、不問に付されるような歴史教育が、現在の日本でなされているのはなぜなのか、と考えさせられています。

 台湾沖航空戦は、1944年10月12日に始まりましたが、21日に天皇が、南方方面陸軍最高指揮官、連合艦隊司令長官、台湾軍司令官に対し下記の勅語を発するまで、台湾沖航空戦に関する幻の戦果の大本営発表が続いたようです。

勅語 朕カ陸海軍部隊ハ緊密ナル協同ノ下敵艦隊ヲ邀撃シ奮戦大ニ之ヲ撃破セリ 朕深ク之ヲ嘉尚ス 惟フニ戦局ハ日ニ急迫ヲ加フ汝等愈協心戮力ヲ以テ朕カ信倚ニ副ハムコトヲ期セヨ

 
 天皇にも正しい情報は伝わっていなかったということです。もし、正しい情報が伝わっていれば、日本の敗戦は決定的であり、降伏はもっと早くなって、多くの命が救われたのではないかと思います。日本はこの台湾沖航空戦で航空機 312機と優秀な搭乗員を失い、その後の捷号作戦に必要とされたT攻撃部隊は壊滅的な打撃を受けていたといいます。それでもなお、幻の戦果の発表とともに、戦争は続くのです。
 「ラバウル海軍航空隊」(朝日ソノラマ)の著者で、 元第二十五航空戦隊参謀・海軍中佐であった奥宮正武氏は、幻の戦果の大本営発表について、下記の抜粋文のように、当事者でないとできない考察をし、「人命尊重についての日米の相違」の具体的な比較などもしています。
 また、「あとがき」の文章にも、注目すべきことを書いています。「あとがき」の中には、

”…あれほど多くの国民の生命と莫大な財産を代償として得た貴重な経験が、その後のわが国の運営にほとんど生かされていないように思われる。このことは近年わが国の政治や経済などの動きが、あまりにも太平洋戦争の経過に似ていることからも察知できるであろう。

とあります。全くその通りだと思います。

 現在もなお、政権中枢や企業の経営トップが、当時の日本軍と同じような体質を持っていることは、原発事故に関する動きのなかにも現れているように思います。
 福島第一原発の事故前、2005年12月14日、東京・霞が関の経済産業省庁舎会議室で、原子力安全・保安院、原子力安全審査課審査班長の小野祐二氏は、東京電力で原発を担当する八人の技術者に「想定外事象の検討を進めてほしい」と要請しています。四か月前の宮城県沖地震で設計上の想定を上回ったことがきっかけだったようです。また、2004年のスマトラ島沖大地震による津波で、インドの原発の海水ポンプが水没するトラブルなどもあり、原子力安全・保安院首席統轄安全審査官、平岡英治氏は、見過ごすことのできないリスクがあると判断して、研究を進めさせていたと言います。だから、小野祐二氏は「できるだけ早く想定外事象を整理し、弱点の分析、考えられる対策などを教えてほしい」と東電の持術者に言っているのです。そうした要請を受けて、東京電力原子力設備管理部の土木調査グループは、沖の防潮堤、敷地の防潮壁その他、15.7メートルの津波対策の検討を進めていたのです。しかしながら、2008年7月の社内会議で、検討中だった対策にストップがかかり、津波の想定高さそのものの算出方法を「研究する」ということになったといいます。発案は、当時の東京電力、武藤栄常務です。だから、土木調査グループ元課長、高尾誠氏は「それまでずっと対策の計算をしたり、かなり私自身は前のめりになって検討に携わっていましたので、そういった検討のそれまでの状況からすると、予想していなかったような結論だった」ので「力が抜けてしまった」と法廷で証言しているのです。朝日新聞は、この事実を「技術判断を経営判断で覆す 見送られた津波対策」と題して2019年11月12日、記事にしています。言いかえれば、人命尊重の判断を利益優先の判断で覆したということだと思います。関係者が15.7メートルの津波を想定し、動いていたにもかかわらず、東電の経営陣が、利益のために、その専門家による「想定」を受け入れなかった、ということだと思います。人命尊重を考慮すれば、あってはならないことだろうと思います。
 でも、東京地裁は、検察審査会の議決によって強制的に起訴された東京電力の旧経営陣3人、勝俣恒久元会長と武黒一郎元副社長、武藤栄元副社長に無罪の判決を言い渡しました。検察官役の指定弁護士は、3人に「禁錮5年」を求刑していたにもかかわらず、です。驚きます。この判決に、私は、日本の人命軽視が、戦前と変わらず、いまだに続いていると思わざるを得ません。

 私は、東電の経営陣が主張する「想定外」は、多くの専門家の「想定」を無視した、勝手な「想定外」であり、「幻の大戦果」と同質だと思います。また、最近海外から批判のある日本の歴史修正主義にも通じるものだと思います。多くの歴史家によって、すでに明らかにされた客観的な事実に基づく歴史認識を無視し、過去の出来事を都合よく誇張、捏造、解釈して、都合の悪い過去はなかったことにする、そうした歴史修正主義が、日本の政権中枢や企業の経営トップのなかに存在することが、同書の「あとがき」書かれている”太平洋戦争の経過に似ている”ということのあらわれのひとつではないかと思います。

 ただ、奥宮正武氏の、下記指摘に関しては、私は、もう一歩突っ込む必要性を感じます。

最後に、戦争の経過が望ましい状態で発表されなかった背景には、わが国の戦争指導者や高級の軍人に、戦争には敗北があることをよく知っていた人が極めて少なかったのではないかと疑われるふしがあったことである。これは、明治開国以来のわが陸海軍の連戦連勝の歴史がそうさせたのであろう。このことが、勝つための条件をつくることには精魂を傾けても、万一の場合に備える真剣さに欠けた結果となっていたようである。大本営発表もその一例に過ぎない。”

 この指摘は、間違ってはいないと思うのですが、それは、日本の軍隊が「現人神」である天皇の軍隊であり、降伏することが許されず、捕虜になることも許されなかったことが大きいのではないかと思うのです。
 だから、戦果の事実をきちんと確認せず、自分たちの期待や思いで報告し、報告を受けた者が、そのまま、あるいはさらに自分たちの期待や思いを込めて誇張して報告を上にあげ、大本営発表に至ったのではないかと思います。敗北があることを知らなかったというより、むしろ敗北を考えることができない軍隊だったということではないかと思うのです。
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                             第七部 結び

      第一 敗因の数々 ・・・略

      第二 なぜ発表された戦果と実際の差が著しく大きかったか
 太平洋戦争の経過に関心をもつほとんどすべて人々が、等しく抱いている大きな疑問は、「なぜ、大本営発表と戦場での実際との差があのように大きくなったのか」
 ということであろう。
 第二次世界大戦を契機として、戦争とは”自らの意志を強制する目的をもって二つあるいはそれ以上の政治的権力集団相互間において、武力の直接行使を含むあらゆる実力を組織的に用いて行われる敵対闘争の現象”であるといわれるようになっている。したがって、戦争の当事国が、その勝利のために、各種の手段を用いてきたことは歴史がそれを証明している。そのような時、敵に与えた打撃をより大きく発表し、自国軍のこうむった被害を最小に伝えて、自国民の意志の動揺を防ぎ、一時的にでもせよ友好国の信頼を繋ぎ、第三国が過早に敵国に近づくことを妨げるために、窮余の一策として、戦況の発表に手心を加えることはありうることである。
 しかし、太平洋戦争中におけるわが陸海軍の発表が必要な限度をはるかに超えたものであったことは、すでに周知の事実となっている。
 では、どのようにこの問題を理解したらよいであろうか。海軍、特に航空部隊関係については、大別して、次の三つの場合に分けると大過がないであろう。

 第一は、わが飛行機隊の実力が、敵側のそれに比して、極めて優秀であった場合であった。太平洋戦争の初期、すなわち昭和16年12月の開戦から昭和17年4月頃までの期間がそうであった。この時期には、わが方が制空権を確保していたので、戦果の報告はほとんど事実と変わらなかったばかりでなく、時には過小に報告していたことすらあった。
 ハワイ海戦(真珠湾攻撃)、マレー沖海戦、フィリピンやオランダ領インド(現インドネシア)方面への進攻作戦、インド洋作戦などはその好適例であった。これらの場面では、写真、スケッチその他の方法によって戦果を確認する余裕があったからであった。特に真珠湾では、米艦隊に与えた損害は飛行機隊が写真をそえて報告したものよりは大きかった。その時の写真に写っていた戦艦で、その後沈没したものがあったからである。
 第二は、彼我の実力が互角の場合であった。昭和17年5月から約一カ年間がこれに相当する。この頃のわが方の戦果報告は、実際より大きい場合が少ないないが、撃沈した敵艦戦や撃墜破損した飛行機の数を重複して数えたり、艦船の種類を見誤ったり、与えた損害を課題に報告したりした疑いはあっても、全く根拠のない報告はほとんどなかった。
 例えば、昭和17年10月26日の南太平洋海戦の戦果について、大本営は10月27日、
「敵航空母艦四隻、戦艦一隻、艦型未詳一隻、ヲ撃沈、戦艦一隻、巡洋艦三隻、駆逐艦一隻ヲ中破シ、敵機二百機以上ヲ撃墜其ノ他ニヨリ喪失セシメタリ」
 と発表したが、11月16日には艦船の項をを次のように訂正している。
「敵艦船撃沈、戦艦一隻、航空母艦エンタープライズ、同ホーネット、大型航空母艦一隻、
巡洋艦三隻、駆逐艦一隻、大破又ハ中破、艦型未詳三隻、駆逐艦三隻」
 米軍の公式発表によれば、空母ホーネットと駆逐艦スミスを失い、空母エンタープライズは大破し、戦艦サウスダコタ、軽巡サン・ジュアンも命中弾を受けたとのことである。わが方の発表は別の飛行機が重複して報告した疑いが多分にあるが、架空のものではなかったと視てよいだろう。

 第三は、彼我の実力差が大きく、わが方が機数と練度を総合した力でもかなり、時には著しく劣っていた場合であった。このような時には、しばしば、敵に与えた損害が過大に報告されたことが多かったばかりでなく、架空の報告がなされたこともあった。
 このような状態は、ガダルカナル島の攻防戦の末期から現れはじめ、昭和18年中期以降には、それが顕著になっていた。
 それらの中で目立ったものととしてはすでに述べたレンネル島沖海戦(昭和18年1月29日~30日)や一連の「ボーゲンビル」島沖海戦などがあった。特に第五次「ボーゲンビル」島沖海戦では、航空母艦三隻ほかを撃沈したと報告したが、当日、南東方面のわが基地航空部隊の攻撃可能範囲には、米空母は存在しなかったことが戦後判明している。また、第六次「ボーゲンビル」島沖航空戦では、航空母艦三隻ほかを撃沈したと報告したが、米空母は存在したが損害を受けていないとのことである。
 しかし、敵兵力とそれに与えた戦果を誤認したのは、航空部隊のみではなかった。

 ・・・

「ボーゲンビル」島沖航空戦の時から、飛行機魚雷に艦底起爆用の頭部(それまでの魚雷は艦船に直接命中しなければ爆発しなかったが、この頭部を使えば、艦低を通過しただけでも爆発させることができた。特にそれが艦船の最も弱い艦低で爆発するので効果は絶大であると信じられていた)を使用したことが、戦果を過信するに至った大きな理由といわれていたが、この点も再検討の必要があった。
 それはそれとして、歴戦の搭乗員の中には戦場でこの種の体験を重ねて、訓練の不足を補い、ほぼ正確に判断できるものもいたが、相ついだ激戦のために、そのような搭乗員は極めて少なくなっていた。したがって、飛行機隊指揮官が戦死した時などは、戦果報告が過大にされがちであった。南太平洋海戦などがその好適例であった。
 いま一つは、航空戦の特殊性があげられる。ガダルカナル方面でくり返された海上戦闘では、ほとんどの場合、大尉以上の指揮官が先頭に立っていた。ところが、昭18年中期以降の飛行機隊指揮官の
ほとんどが大尉以下であった。老練な飛行将校の多くが戦死したからであった。
 このような飛行機隊指揮官の戦果報告を受ける時には、航空部隊の指揮官や参謀たちは、たとえ若干の疑問を感じても、自らが現場を見ていないので、その報告を否定することができにくかった。そこで、人情として、ほとんどの場合、飛行機隊指揮官の報告通りに上級司令部に報告せざるをえなかった。その結果、大本営発表となるのであるが、その場合、被害を少なくすることはあっても、与えた損害を割り引いて発表することはないようであった。
 こうして、太平洋戦争の中期以後には、いわゆる大本営発表という悪い印象が生まれたものと思われる。
 最後に、戦争の経過が望ましい状態で発表されなかった背景には、わが国の戦争指導者や高級の軍人に、戦争には敗北があることをよく知っていた人が極めて少なかったのではないかと疑われるふしがあったことである。これは、明治開国以来のわが陸海軍の連戦連勝の歴史がそうさせたのであろう。このことが、勝つための条件をつくることには精魂を傾けても、万一の場合に備える真剣さに欠けた結果となっていたようである。大本営発表もその一例に過ぎない。
 もしわが陸海軍の最高の指導者たちに、戦争には敗北があることを真に知っている人々がいて、そのことが然るべき形で各級指揮官に伝えられていたとすれば、飛行機隊をはじめ海上部隊の報告はより正確なものとなっていたであろう。
 これを要するに、戦争中、指導者たちの言葉は多かったが、真に国を愛し、長い目で国の歩みを考えていた憂国の士が果たしてどれくらいいたかは、この戦争の敗戦が何よりも雄弁に物語っているのではあるまいか。  

          第三 人命の尊重についての日米の相違
 飛行機は人が操縦するものである。その固有の性能は同じであっても、操縦者の技量によって、その戦闘力は著しく変化する。しかも、有能な搭乗者を養成するには優秀な素質をもった人材と、多額の経費と、長年月を要する。したがって、彼らが遭難した場合には万難を排してこれを救助せねばならない。
 理論的にはほとんど異論のない人命尊重も、具体的な手段、方法にあると日本軍と米軍の間には大きな相違点があった。端的にいえば、アメリカ側では遭難者が生存の可能性がある間の救助活動に最大の重点を置いていたのに対し、わが方は死んでからの行事を重視する傾向が強かった。
 このことは平時からそうであった。私の知る限り、わが海軍では、機体、発動機、救命用具などの欠陥が指摘されても、なかなか改善されなかった。ところが、その飛行機が事故を起こし、殉職者が出ると、ただちにそれが改修されるのが例であった。また、明らかに死亡と判定されている遭難機の乗員の捜索には多額の経費を惜しまないが、遭難させないための、あるいは遭難者を生存中に救助するための努力は、どちらかといえば、軽視され勝ちであった。
 このような日米の差が戦場にも現れていた。それまでもそうであったが、敵の基地がラバウルに近づくにつれて、地上にいるわれわれにもわかるようになってきた。米軍は、ラバウルへの空襲を終える毎に、搭乗員救助用の飛行艇を飛ばしては、空中戦闘のあった付近の海上や陸上を捜索して救助に当たっていた。そして、それにはおおむね九機ないし十二機の援護戦闘機をつけていた。時にはラバウルの基地から見えるところまで近づいてする危険きわまりない作業であったので、私は、アメリカ人はよくも勇敢に任務を遂行するものだと、敵ながら感心せずにはいられなかった。最悪の場合にはミイラとりがミイラになるたとえのとおり、一人の戦闘機パイロットを救おうとして、十人近くも乗っている飛行艇が撃墜される危険すらあったからであった。
 人命を尊重すること、その重要性は百も承知でありながら、日本人はそろばんをはじいたり、遭難者を救うための犠牲を厭(イト)うあまり、当然救助できたであろう搭乗員すら見捨てたと思われることもあった。一人の搭乗員を救うために、数人乗りの飛行艇を犠牲にするには忍びない、という論理である。そして、たとえ救助を命令されても、それを遂行する熱意に欠けていたのではなかろうか。他人の命をこのように考えるのだから、自分が同じ運命に陥った時には、これが宿命であるとでも諦めていたのかも知れない。とかく、日本の海軍軍人は、全体として、搭乗員の救助に関しては米軍に比べて関心が足りなかった。私も海軍軍人であり、なかでも飛行将校でもあったから、とやかく言う資格はないが、敵地の目前まできてパイロットを救助して行くPBY飛行艇を見て、彼我のあり方の差について考えさせられた。
 しかし、幸いなことに、19年の初め頃には、ラバウルに有能な水上偵察機の指揮官と勇敢な搭乗員がいて、極めて積極的に、かつ自発的に搭乗員の救助に努力してくれたが、三座の水上機であったこと、機数が少ないことなどのために思うようにならないようであった。
 昭和8年に、私が霞ケ浦海軍航空隊の飛行学生になって飛行機に乗りはじめてからすでに十年余り、その間に、落下傘、救命胴衣、飛行機搭載用の浮舟などについて若干の教育を受けたほかは、本格的な遭難機の捜索、発見、救助の訓練が行われたことも、遭難した場合の搭乗員の心得などについての教育が特に改善されたということも、ともに思い出せなかった。そして、いま、私が痛切にその必要性に気づいた時には、わが海軍にはそのような任務に適した機材も、装備も無きに等しかったし、ましてや救助機に援護戦闘機をつける余裕などは全くなくなっていた。
 人命尊重についてのいま一つの大きな欠陥は、戦地における軍人や軍属の健康の保持に関することであった。
 当時の海軍の医学や治療の水準は、わが国全般のそれから見て、第一級であったといっても過言ではなかった。したがって、ラバウル方面でも、いち早く、相当すぐれた設備をもった病院がつくられていた。このことは戦地であることを考えると評価できることであった。が、問題は防疫の分野であった。
 南東方面は熱帯で、しかも人口が極めて希薄な地方であったために、衛生環境が著しく悪く、マ
ラリア、テング熱、アメーバ赤痢その他の巣窟のようなところであった。しかし、わが海軍では、このような地方での防疫についての経験も、準備もほとんどなかったので、その虚をつかれた形となっていた。また一般の軍人や軍属も、軍医官の中尉を素直に受け入れようとする常識的な素養も持ち合わせていないようであった。国外では艦船での勤務が多く、陸上でのそれがほとんどなかったために、安易に考えていたためであろう。
 以上のような理由から、兵科の別や、階級の上下に関係なく、ほとんどすべての人々が何らかの熱帯病にかかり、わが海軍の戦力を著しく低下させていた。南東方面の海軍最高指揮官であった塚原三四三中将がマラリアのために激務に耐えられなくなって、ガダルカナル攻防戦の最中の昭和17年10月1日に草鹿任一中将との交代を余儀なくされたほか、各航空戦隊の指令官や参謀、各航空隊の司令やその他の幹部はもとより、飛行機搭乗員や一般隊員にいたるまで、ほとんどの者が少なくとも一回はこれらの病気を経験していた。
 私が知り限りでも、連合艦隊参謀長の宇垣纒少将、南東方面艦隊の首席参謀であった三和義勇大佐、第三艦隊首席参謀の高田利種大佐、第二十六航空戦隊の首席参謀柴田文三中佐、第十一航空艦隊参謀で、軍令部部員に予定されていた源田実中佐などがいた。
 その他の部隊も同様であった。ガダルカナル島で戦った陸海軍将兵のほとんどがこれらの病気にかかっていたことは、同島から撤退した艦上における健康調査から見ても明らかであった。このことは前からわかっていたので連合艦隊司令長官山本大将も、”ガダルカナル島の衛生状態の改善については工夫が必要である。ただ漫然と兵員を送っても効果が上がらない”の旨の注意をしていたほどであった。ガダルカナル島より恵まれた環境にあった航空基地でさえ以上のような有様であったから、ソロモン群島南部やニューギニアの地上部隊の状況は察するに余りあった。
 私は、何回か南東方面の航空基地に勤務した。その間、私が航空参謀として勤務していた第二航空戦隊司令部、第二十六航空戦隊司令部には合計して司令官三人、首席参謀三人、砲術参謀二人、整備参謀三人、通信参謀二人の総計十三人がいたが、極めて短期間であった「い」号作戦参加者のほかは、私を除いては、全員病臥せざるをえなかった。その間、私が終始健康でありえた最大の理由は、常に第三種軍装の長いズボンを着用していたからではないかと考えている。他の人々は、暑さを凌ぐために、防暑服という短いズボンをはいていた。そうすれば当然露出する下半身が蚊に刺されることになるが、ここは神経が少ないので、蚊に刺されてもなかなか気が付かないことがあったからである。
 わが海軍の各種の作戦命令には、当然のことながら、衛生や防疫に関することが含まれていたが、防疫に関することは第一線の部隊の努力のみではどうすることもできない要素が多分にあった。そのためであろう、飛行場周辺の湿地その他に、蚊の防除用の薬剤を散布しているのを私が見かけたのは、昭和19年に入ってからのことであった。当時ラバウルには軍医官それぞれ三名を幹部とする第二、第三の二つの防疫班があるに過ぎなかった。
 南東方面の陸軍部隊も同様な悩みを持っていたことには疑問の余地がなかった。このことは、陸軍航空部隊の活動がしばしば空中勤務者の健康状態が著しく不良なために、大きく妨げられていると伝えられていたことからも容易に想像できた。
 米軍も、ガダルカナル島へ上陸の当初は、我が陸海軍と同様な苦い経験をしたと伝えられているが、その後間もなく、スイス人ミュラー博士の発明したDDTの大量使用が可能となり、17年末頃からは、防疫については大きな問題は起こしていないようであった。ここにも、日米間の間に大きな差があった。
 ない、米陸軍の資料によれば、ニューギニア戦に参加したアメリカの地上軍の将兵一万三千六百四十五名中、戦死は六百七十一名、戦傷ニ千百七十二名、病気送還者約八千名という記録がある。
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                            あとがき

 戦争や戦闘に関する記録には、大別して、三つの型があるようである。そのひとつは、努めて客観的に事実を列挙したものであり、他の一つは、いかに勝ったかについて誇らしげに述べたものであり、いま一つは、なぜ敗れたのかということに重点を置いたものである。
 太平洋戦争中の日本の陸海軍の歴史に関心をもつ人々が最も求めているのは後者に属するものではあるまいか。古来、敗戦国の歴史が勝利国の歴史よりも価値があるものが多いといわれているのは、それがより素直に書かれているからだろう。
 それはそれとして、明治開国以来、対外戦争では連戦連勝であったわが国が、しかも緒戦の大勝にもかかわらず、遂に無条件降伏をしなければならなかった原因は何かを知ることが、日本および日本人を知る上に役立つはずである、当時は、軍人がわが国民を代表していたに過ぎなかったからである。
 ところが、敗戦後のわが国では、軍隊を廃止し、軍人がいなくなったのだから、いまさら軍人が主役を果たした戦争の研究をしてみたところで、大した意味がないというような空気が支配的であった。
その結果、あれほど多くの国民の生命と莫大な財産を代償として得た貴重な経験が、その後のわが国の運営にほとんど生かされていないように思われる。このことは近年わが国の政治や経済などの動きが、あまりにも太平洋戦争の経過に似ていることからも察知できるであろう。
 本書は、前大戦中の最も重要な一コマであったラバウルを中心とした海軍航空部隊の作戦をとりあげたものであるが、これが当時の史実を知るのに役立つばかりでなく、わが国民性のいったんを知るよすがともなれば、筆者にとって望外の喜びである。
 本書は、主として、戦争中の筆者の体験および戦争直後に集めた資料によったものであるが、正確を期するためと、米軍側の状況を知るために次の各種の資料を参考とした。
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