NO5
「南京事件 日本人48人の証言」は、南京大虐殺がなかったことを明らかにするために、著者阿羅健一氏が当時南京にいたジャーナリスト、軍人、外交官を訪ね歩いて集めた証言集である。
すでに「NO1」で触れたように、著者は”「30万人の大虐殺」を見た人は、48人の中にひとりもいない。”と同書のあとがきにかいている。確かに、現実に「30万人の大虐殺」など見ることはできない。また、何を「虐殺」ととらえるのか、ということがきちんと確認されていないと、虐殺を見たかどうかの証言を集めたことにはならないと思う。したがって、多くの関係者が「虐殺は見ていない」とか「聞いていない」と証言しているが、その証言自体にはあまり意味はないと思う。
問題は「交戦者の定義や、宣戦布告、戦闘員・非戦闘員の定義、捕虜・傷病者の扱い、使用してはならない戦術、降服・休戦」などが規定されている「国際法、ハーグ陸戦法規」に反していないかどうか、ということではないかと思うのである。
例えば、松井軍司令官付・岡田尚氏は、湯水鎮に行く途中、日本兵がクリークの土手で捕虜を刺殺しいるところを目撃し、「千人から2千人位の中国兵が空地に座らされて、中には女の兵士もいました。何人かを土手に並べて刺殺していました…」と証言しているが、こうした「捕虜」の殺害が、「虐殺」ではないと言う人にとっては、「南京大虐殺はなかった」という結論も不思議ではない。しかしながら、こうした武器を所持せず、抵抗不可能な「捕虜」を殺害することは明らかに「国際法違反」であると思う。
したがって、そう視点を持って読めば、同書の「第二章、軍人の見た南京」のなかにも、著者の意図に反し、「南京大虐殺」を裏付けるような証言が含まれていると思うのである。ここでもNO1~NO4と同じように、それらを拾い出して考えてみたい。
証言はすべて、「南京事件 日本人48人の証言」阿羅健一(小学館文庫)からの抜粋である。(○印は著者の質問、「 」のついた文章が証言者のものである。「・・・」は文の省略を示す)
第十軍参謀・吉永朴少佐は、下記のように「揚子江の埠頭に相当数の中国軍人の死体が水浸しになっていました」と証言している。そして、その数は「数千はあったと思います」という。しかしながら、揚子江の埠頭で激戦があったという話は聞かない。様々な証言や一次史料から、この死体は「便衣兵」などではなく、処刑された「捕虜」か、武器を捨てて逃げる中国兵、あるいは避難しようとした一般市民の死体であろうと思う。
また、第十軍の柳川軍司令官が、最初から「南京を攻めるつもりでいました」という証言も、日中戦争の意味を考えるとき、重要であると思う。
上海派遣軍参謀・大西一大尉は、松井大将に「第十六師団に行ってくるように」と命ぜられたと証言している。「中島師団長は中国の家を焼いても構わんと言ったらしい」ので、中島師団長の統帥について注意をうながすためであるという。師団長がこうした考えでいたことを踏まえれば、日本兵による放火について、多くの証言があることも頷ける。
また、大西大尉も下関で相当数の死体を目撃したことを証言しているが、「掃蕩によるものでしょう」と、いとも簡単に推察し、どのような状況で死に至ったのかを確認しようとはされていない。殺された中国人が武器を所持していたのかどうか、抵抗することができたのかどうか、また、抵抗する意志があったのかどうか、さらに、死体は兵士だけであったのかどうかなどが、南京における虐殺事件の最も大事な部分で 「掃蕩によるものでしょう」ということでは、すまされないのだと思う。
さらに、白昼、日本兵による強姦を見たことを明かし、「強姦は私が見た以外にも何件かあった。最初は慰安所を作るのに反対だったが、こういうことがあるので作ることになった。そういうことは第三課がやった」と証言していることも見逃すことができない。
すでに触れたように、松井軍司令官付・岡田尚氏は、湯水鎮に行く途中、日本兵がクリークの土手で捕虜を刺殺しいるところを目撃し、「千人から2千人位の中国兵が空地に座らされて、中には女の兵士もいました。何人かを土手に並べて刺殺していました…」と具体的に証言している。
また、「市民は難民区に14、5万いまして安全だったのですが、捕虜や敗残兵をやったことはあると思います。それは私も湯水鎮で見てますから。日本兵もぼろぼろだったから捕虜まで心がいかなかったと言えると思います」とか「中国兵をどんどんやって、南京に行くということしか頭になかったと思います。さきほど言いましたように、殺気立っていましたし、捕虜をどうしたらよいか方法がなかったと思います」という証言も、当時の日本軍の状況を正しくとらえた証言だと思う。ただ、いかに日本兵がぼろぼろであっても、「俘虜は人道をもって取り扱うこと」と定められた国際法を無視してよいことにはならないし、国際社会がそれを許さないと思う。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 一 陸軍
第十軍参謀・吉永朴少佐の証言
○その時の南京の様子はどうでした?
「城壁のそばには遺棄死体がありました。それは悲惨で、車に轢かれている死体もありました。これを見て、戦争には勝たなくてはいけない、敗けた国はみじめだ、と思いました。儲備銀行に行く途中、身なりいやしからぬ中国人の家族に会いましたので私は自分の名刺に、歩哨線を自由に通過させよ、と書いて渡しました。当日家族が歩ける位ですから城内が落着いていることがわかると思います。また、城内に入る兵隊は制限されました。作戦主任でなかったので詳しいことはここでは言えませんが、南京城攻撃の前、各師団に軍命令が出されています」
○14日以降はどうですか。
「2、3日してから作戦上の任務で下関に行きました。揚子江の埠頭に相当数の中国軍人の死体が水浸しになっていました」
○相当数というと、どの位ですか。
「正確にはわかりませんが、数千はあったと思います。第十軍は南京の南端からだけ攻めたのでなく、国崎部隊が浦口から攻めましたので、この時の死体と思います」
○すべてが軍人の死体ですか。
「軍服を着ていない中国人も相当ありました。あとで聞いた話ですが、南京には軍服が相当投げ捨てられてあったと言いますので、軍服を着ていない中国人は便衣兵だと思います。軍服でない中国人の死体が吊されてありました」
○どこにですか
「はっきりしませんが、吊してあったという記憶があります。潮のかげんで土手にうちあげられたのかもしれません。それを吊してあったように記憶していたのかもしれません」
○下関以外にはどこに行っていますか。
「紫金山にも登りました。入城式の前の16日だと思います。紫金山での印象は特別ありません」
○当時、虐殺の話は聞いていませんか。
「全然聞いたことがありません」
○武藤章中支那方面軍参謀副長の回想録『比島から巣鴨へ』に、次のような箇所があります。
「松井大将は作戦中もずいぶん無理と思われる位中国人の立場を尊重された。この大将の態度は、某軍司令官や某師団長のごとき作戦本位に考える人々から抗議され、南京の宿舎で大議論される声を隣室から聞いたことがあった」この某軍司令官とは柳川(平助)中将のことと思われますが、このよな場面に出会ったことがありますか。
「さあ、何を議論したのか私にはわかりませんが、レディバード号事件(日本陸軍による英艦砲撃事件)を議論したのかもしれません。第十軍は入城式を済ませてすぐ杭州攻略に向かいましたので恐らくこんな議論の暇はなかったと思います」
○杭州攻略はいつ頃決まったのですか。
「南京攻撃の時には既に決まっていたと思います。柳川将軍は杭州も占領すべしと言ってましたので、その意向で作戦主任の寺田(雅雄中佐)さんが立案したと思います。それを意見具申しました。ですから、南京に入った時、すでに軍司令部は杭州に行く用意をしてました。柳川将軍は、上海─南京─杭州を結ぶ三角地帯を保有して、後は外交交渉に待つべし、との考えでした。東京に帰ってから、上奏もなさったということです」
○柳川将軍は最初から南京攻略を考えていましたか。
「ええ、そうです。当初、第十軍は上海を背後から衝くのが目的でしたが、その時から柳川軍司令官は南京を攻めるつもりでいました。ですから何度も意見具申をしています。大本営とは意見の相違が随分ありました」
上海派遣軍参謀・大西一大尉の証言
○松井大将が中島師団長の統帥を非難されたと言われていますが、本当でしょうか。
「中島師団長は中国の家を焼いても構わんと言ったらしい。もちろん、松井大将の前で言った訳ではないでしょうが、それを聞いた松井大将が私に第十六師団に行ってくるようにと言われた。だから松井大将が中島師団長の統帥について注意をうながしたことは確かだ。
私は十六師団に行くことは行ったが、大尉の身分で師団長に直接言える訳もなく、十六師団に上陸以来よく知っておる参謀がいたので、その人に伝えた」
・・・
○13日以降の南京の様子はどうでした?
「13日はまだ戦闘が続いていまして、首都飯店付近までしか行けませんでした。
挹江門に行った時は両側が死体でいっぱいだった。
17日か18日に下関に行ったが、揚子江には相当死体があった。土手ではなく、江の中です。掃蕩によるものでしょう。この死体は年末まであった。
○挹江門の死体はいつ頃まであったものでしょうか。
「全軍の慰霊祭(18日」の後まであった。あるいは20日過ぎまであったかもしれない。その後、特務機関主催で挹江門内で中国軍慰霊祭をやりました。その時には挹江門外は綺麗になっていました。私が主催でしたが中国側市政府関係、日本官憲、一般中国人も参列し、4、5百名は集まりました」
○上海派遣軍の中で虐殺があったという話はおきませんでしたか。
「話題になったことはない。第二課も南京に入ってからは、軍紀・風紀の取り締まりで城内を廻っていました。私も車で廻った」
○何も見てませんか。
「一度強姦を見た」
○白昼ですか。
「そうです。すぐ捕らえた。十六師団の兵隊だったので、十六師団に渡した。強姦は私が見た以外にも何件かあった。最初は慰安所を作るのに反対だったが、こういうことがあるので作ることになった。そういうことは第三課がやった。」
○その他、暴行、略奪など見てませんか。
「見たことがない。私は特務機関長として、その後一年間南京にいた。この間、南京はもちろん、蕪湖、太平、江寧、句容、鎮江、金壇、丹陽、揚州、滁県を2回ずつ廻ったが、虐殺を見たことも聞いたこともない」
松井軍司令官付・岡田尚氏の証言
○蘇州にはいつまでいましたか。
「2日くらい蘇州にいて、いよいよ南京が陥落だというので、私は管理部の村上(宗治)中佐と湯水鎮まで進みました。湯水鎮に行く途中のことですが、日本兵がクリークの土手で捕虜を刺殺してました」
何日のことですか。
「12日だと思います。午後1時頃でした。千人から2千人位の中国兵が空地に座らされて、中には女の兵士もいました。何人かを土手に並べて刺殺していましたが、それを見て残虐だと思っていると、村上中佐が車から降りて、指揮官の中尉か少尉にそのことを言いました。すると、戦の最中だし、これしか方法がないと言われましてね。そう言われるとわれわれも何も言えません。
指揮官は弾が大切なので撃ち殺すわけにはいかない、司令部には問い合わせていない、と村上中佐に言ってました。中国兵をどんどんやって、南京に行くということしか頭になかったと思います。さきほど言いましたように、殺気立っていましたし、捕虜をどうしたらよいか方法がなかったと思います」
○全員を処刑したのですか。
「それはわかりません。私たちはすぐそこを出発しましたから。」
・・・
○虐殺は見ていなくとも、話は聞いていませんか。
「捕虜の話は聞いています。下関で捕虜を対岸にやろうとして、とにかく南京から捕虜を放そうとしたのでしょうね。その渡河の途中、混乱が起きて、射ったということは聞きました。」
○大虐殺があったと言われていますが、
「市民は難民区に14、5万いまして安全だったのですが、捕虜や敗残兵をやったことはあると思います。それは私も湯水鎮で見てますから。日本兵もぼろぼろだったから捕虜まで心がいかなかったと言えると思います。また、難民区に入った中国兵の摘発もありました。摘発は憲兵がやっていましたが、中国兵は帽子の跡があるからわかると言ってました。しかし、果たしてそれが虐殺といえるかどうか。今の平和な時は何とでも言えますが、あの時の状況を考えるとそうは言えないと思います。…」
○下関をご覧になっていますか。
「下関には松井大将と一緒に行きました。南京駅のあるところです。相当の死骸が残っていました。松井大将も私もそれを見ています」
○どの位の死体ですか。
「はっきりわかりませんが、何百といったものです。松井大将が行くというのである程度はかたづけたと思います」
○松井大将の専属副官の角(良晴)少佐は、下関には何万もの死体があったと証言していますが…。
「下関の死体は角君も松井大将も私も同じのを見てますが、何万ということはありません。
私は中学に入るため、大正になって東京に行き、そこで関東大震災を経験しています。その時、千、2千という死体を見ていますが、下関にはそんなに死体はありませんでした。角君は鹿児島の人で、おとなしい人でしてね。下関の死体が相当印象的だったのでしょう。その印象が残っていて、何万という言い方になったのだと思います。死体ははじめて見る人にとってはすごくあるように見えますから。
東京裁判では虐殺した数が十万、二十万と言われましたが、想像もできない数ですよ。もちろん郊外には戦死体が何万かあったと思います。郊外の戦では日本兵も相当やられていますからね。でも(死体は)市内にはありませんでした。私が自分で見て聞いたことと、戦後、南京事件と言われているのはどうしても結びつかないのです。
(中国兵が)揚子江に逃げたということでしたら、海軍の人が知っていると思います」
○長参謀が虐殺を命令したとも言われますが…。
「ええ、当時、長さんがそういうことを言ったという噂を聞きました。『捕虜は殺してしまえ』とか、『戦争なんだから殺してしまえ』と言ったということです」
○そういう命令を出したのですか。
「そうじゃなく、捕虜のことで軍司令部に話があった時、長さんがそういう暴言をはいたということです。もちろん命令ではありませんし、情報参謀ですから命令できるわけでもありません。周りがその通りとる訳ではありません。長さんは何をするということではなく、ただ暴言をはくだけです。それで尾鰭が大きくなったと思います」
・・・
○松井大将は中島(今朝吾中将)師団長の統帥ぶりをよく思っていなかったらしいですが、南京ではそんなことがありましたか。
「南京で2人がどうしたということは見てません。ただ、上海に戻ってから『中島師団長は乱暴でよろしくない、物事を考えない、思慮がたりない、上に立つ者としては困ったものだ』と私に言ってました」
○武藤参謀副長が回想録の中で
「松井大将は作戦中も随分無理と思われる位支那人の立場を尊重され、南京の宿舎で作戦本位に考える某軍司令官や某師団長と大議論した」と書いています。軍司令官とは柳川(平助)中将で、師団長は中島中将だと思いますが、岡田さんはその場面にいましたか。
「いませんでした。武藤さんが書いているとしたらそれは本当でしょう。柳川さんとは議論したことはあったかもしれません。上海で柳川さんのことをよく言ってませんでしたから」
○柳川軍司令官とはレディバード号事件のことで問題があったのでしょうか。
「柳川さんとはもともとよくなかったようです。松井大将は真鍋(甚三郎大将)さんとは同期でしたが、よくありませんでしたし、柳川さんは真鍋さんの系列ですから、そういうことだと思います」
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