夢七雑録

散歩、旅、紀行文、歴史 雑文 その他

飛鳥山公園、旧古河庭園、六義園をめぐる

2022-05-03 06:29:27 | 散歩道あれこれ

前回は、“つつじまつり”の根津神社から駒込駅まで歩いたが、今回はツツジの名所でもある、飛鳥山公園、旧古河庭園、六義園を経て駒込駅まで歩く。

王子駅の近くにある飛鳥山公園に行く。この公園には約10種、15000株のツツジが植えられており、ツツジの名所になっている。

飛鳥山公園には、北区飛鳥山博物館や紙の博物館、それに渋沢史料館もあるのだが、今回はツツジが主目的なので、入館はまたの機会ということにして、旧渋沢庭園を散策するにとどめて外に出る。本郷通りを東に進んで国指定史跡の西ヶ原一里塚を過ぎ、古代の豊島郡の役所(郡衙)跡があったという滝野川公園を経て先に進む。

平塚神社前の交差点を渡って南側の歩道を先に進み旧古河庭園に入る。なお、旧古河庭園と六義園の共通券である園結びチケットだと割引になる。洋館の前を通ってバラ園とツツジ園を見て回る。

心字池に沿って日本庭園内を散策したあと、ツツジ園とバラ園を経て展望台になっている四阿から四方を見渡す。しばし休憩ののち、旧古河庭園の外に出る。

六義園へは、本郷通りを南に駒込駅方向に行くのが分かりやすいルートだが、今回は本郷通りを王子方面に後戻りし、西門の先の角を左に入って、旧古河庭園沿いの道を下る。緑が多く静かな道である。坂を下り終えた先の丁字路を右に入ると、六阿弥陀詣での対象になっている無量寺の門に出る。門前を左に折れ突き当りを右に、三つ目の左側の角を左に入り交差点を渡る。さらに進んで商店街を横切ると、道は上り坂となる。この道は染井坂通りと呼ばれ、駒込小の横を通って坂を上がり切ったところに、“門と蔵のある広場”と呼ばれる小公園がある。この公園は旧丹羽家の跡地で門と蔵が残されている。先に進むと染井通りに出る。ここを左に行き、“私の庭みんの庭”という一寸気になる小公園を過ぎて、その先、染井橋でJ R を渡る。先に進むと駒込橋の交差点で本郷通りに合流する。六義園の染井門はすぐそこにあり、連休の期間はこの門が開いている。

染井門から六義園に入り、つつじ茶屋、吹上茶屋、千鳥橋を渡って池の向こうの吹上茶屋をしばし眺める。

池に沿って歩き、田鶴橋の向こう、藤代峠のツツジの群落を眺めたあと、渡月橋を渡り藤波橋を渡って染井門から外に出て、駒込駅に向かう。

 

時間に余裕があれば、根津から王子まで歩くことも考えられる。この場合は正門から六義園に入り、開いていれば染井門から外に出て、染井通り、染井坂通り、無量寺、旧古河庭園、飛鳥山公園、王子の経路で歩くことになるだろう。

コメント

根津神社から駒込駅へ

2022-04-30 08:45:07 | 散歩道あれこれ

 桜が終われば、次はつつじの季節。根津神社では規模を縮小して今年も「つつじまつり」を開催しているということなので行ってみた。地下鉄千代田線の根津で下車して、不忍通りを北に向かい、根津神社入口の交差点から左に行くと、根津神社の鳥居の前に出る。

鳥居をくぐり神橋を渡る。西側の斜面にはつつじが植えられており、つつじ苑と呼ばれている。つつじ苑には入ったことがあり、時間の関係もあるので、今回は外から眺めるだけにする。

今年は行事や出店も無いので、例年に比べて参詣の人は少ないのだろうが、それでも社殿の前には行列が出来ており、つつじ苑の中を歩く人も少なくない。

乙女稲荷の下を通り、根津神社の裏手から外に出て左へ、根津裏門坂を上がる。日本医大前の交差点を渡って北に日本医科大学沿いの道を進み、駒込学園前の交差点を渡って左に行く。道の右側の光源寺には駒込大観音と呼ばれる高さ6mの十一面観音像があることから、寺の前の道は大観音通りと呼ばれている。この道を先に進むと本郷通りに出る。ここを右折して北に向かう。

 

地下鉄の本駒込駅を過ぎて北に進むと吉祥寺の前に出る。さらに進むと富士神社入口の交差点に出る。駒込富士神社は、ここを右に入ったところにある。本郷通りを先に進むと上富士前の交差点に出る。六義園の入口はこの交差点の近くにあるが、時間が無いので本郷通りを先に進み駒込駅に向かう。駅ホームから土手のつつじを眺め、今回はここまでということに。

コメント

河津桜を探しながらの散歩

2022-03-15 18:00:06 | 散歩道あれこれ

河津桜はカンヒザクラとオオシマザクラの種間雑種の栽培品種で、静岡県河津町の民家には原木が今も残っているらしい。河津町では2月に花見が出来るそうだが、東京では少し遅れて3月頃に花が咲くという。そこで河津桜を探しながら歩くコースを考えてみた。

(1)長崎公園

出発点を椎名町駅とした場合、駅からサミットの前に出てサンロードを北に向かう。信号のある交差点を渡って、次の四つ角を左に行くと長崎公園に出る。公園は道を挟んで東側と西側に分かれるが、西側の公園内に河津桜と思われる桜が咲いている。

(2)南長崎スポーツ公園

西側の公園を見たあと、その東南の角を南に向かう。踏切を渡って先に進むと、南長崎通り(トキワ荘通り)に出る。ここを右へ行き次の角を左に入ると、南長崎スポ-ツ公園に出る。公園内のサッカーグラウンドの金網沿いに河津桜が咲いている。

(3)哲学堂

南長崎スポーツセンターの横を通り目白通りに出て左へ行く。大江戸線の落合南長崎駅の入口を過ぎて、西落合一丁目の交差点の南西側の角に渡り西に向かう。地蔵堂入口を過ぎて斜め前方の道を先に進み、ホビーセンターKATOを経て哲学堂通りに出る。ここを左に行き通りを渡ると哲学堂の入口がある。中に入ると菖蒲池があり、その東側と西側に河津桜がある。公園内を見て歩いたあと、新青梅街道に出て東に進み、落合南長崎駅に行く。

(4)石神井2丁目バス通り

時間に余裕があれば、西武池袋線で石神井公園駅に行き、駅を北側に出て右へ、バス通りに出て北に向かうと河津桜の並木がある。そのあと、南に行き石神井公園内を散策しても良い。

(5)新宿御苑

大江戸線から地下鉄を乗り継げば新宿御苑に出られる。園内には多種類の桜が植えられているが、その中には河津桜もある(写真は2017年3月撮影)。

コメント

散歩について

2021-09-08 17:38:33 | 散歩道あれこれ

散歩は、当ブログの主な内容の一つになっているが、今は思い通りに散歩することも難しくなっている。当分は、あまり歩かないで書ける記事で、このブログを続けていく事になりそうだが、その手始めとして、散歩についての記事を書いてみることにした。

大辞林には、散歩は“特別の目的をもたずに、気のむくままに歩くこと”とある。一方、広辞苑では散歩を“気晴らしや健康のためにぶらぶら歩くこと”としており、“健康のため”という目的があるものも散歩に含めている。類語新辞典では娯楽の一つとして散歩を設け、“特定の目的もなく気楽に出歩くこと”と記し、類する言葉として、散歩のほかに散策、逍遥、そぞろ歩き、杖を曳く、漫歩、遊歩、吟行、銀ぶらを取り上げ、それに加えて細分に遠足を設け、車による遠出やハイキング等も含めている。”

大漢和辞典には散歩についての中国の出典が載っている。白居易(772-846)の犬鳶詩に、“晩来天気好 散歩中門前 ”とあるのがその一例である。ほかに、“古之老人 飯後必散歩”と書かれた書も取り上げられている。日本国語大辞典には散歩についての日本の出典として、虎関師錬の著作である済北集(1346年頃か)の巻之二・梅花九首から“散歩前披与後岡別尋幽径入禅房”が取り上げられているほか、良寛が松之尾の松林を皆で散歩し時のことを詠んだ“遊松之尾”という漢詩(1835頃か)が取り上げられている。

 “茲来此地九月初 長天雁啼菊花開 老少相卒散歩去 松林数里無塵埃”

しかし、散歩という言葉の古い出典があまり見当たらないからか、散歩が一般的に用いられるようになったのは明治時代からで、運動の一種だったとする。また、散歩が西洋の風俗の一つとして使われるにつれ、逍遥の意味を含むようになったとしている。なお、日本国語大辞典では、逍遥について、気のむくままにあちこち遊び歩くこととしているが、これに加えて、世間の俗事を忘れて楽しむという意味もあるとする。

最近は、散歩に似た言葉としてウォーキングがよく使われている。大辞林ではウォーキングを“歩くこと。有酸素運動の一。大股で速く歩くことにより、通常の歩行よりも高いカロリーを消費できる”とし、広辞苑では“歩くこと。歩行。特に健康増進や運動のために歩くこと”としている。日本ウォーキング協会ではスポーツ・ウォーキングを健全に推進する一環として歩行距離認定を行っており、大会や例会のコースを完歩した距離のほか、自然に親しみ健康・体力の維持増進等の目的で歩いた朝夕の散歩も対象に含めている。大会や例会では決められたコースを歩くことになるが、朝夕の散歩ではコースが決まっているわけではない。それでも、通常の歩行より速く歩く場合はスポーツ・ウォーキングの一種ということになるのだろう。なお、通勤や通学、仕事や買い物などで歩いた距離は対象にならない。

ところで、江戸時代にも散歩する人は居た。例えば、村尾嘉稜(1760-1841)がそれで、天保2年(1831年)9月の記事に、“すでに職を退いた身ゆえ、心のまま、時間の許すままに、山を越え、川を渡り、さまよい歩いている・・・”と書いているが、その内容からして、嘉稜は散歩をしていたと考えて良さそうである。江戸時代には、お伊勢参りのような長旅を庶民もするようになり、日帰りの寺社参拝や物見遊山も行われるようになったが、老人の散歩は理解されなかったらしく、70歳を過ぎて目的もないのに出歩く嘉稜に対して、陰口をたたく者も居たらしい。それでも嘉稜は家に閉じこもる気にはなれずに、歩きまわっているのだと書いている。

嘉稜と同じ時代に、同じように出歩いている人は居た。小日向の寺の住職であった十方庵敬順(1762-1832)はその例で、文化8年(1811年)に寺務を子に譲ったあと、好みにまかせて各地を巡り歩き、その時の紀行文を遊歴雑記としてまとめている。その中に富士見茶屋に行った時の記事があり、持参した折り畳みのコンロを組み立て、用意の茶二品を煎じて、床几に座って楽しんだとある。そのあと、雑司ヶ谷鬼子母神をへて高田馬場に至る道は閑寂として古雅天然の趣があり、近くを逍遥するに足れりと書いている。敬順は文政3年(1820年)にも雑司ヶ谷に行っており、“雑司谷村茶屋町の逍遥”という記事に、七、八人で出かけたこと。護国寺をぶらついたあと鬼子母神をめぐり、そのあと、小茗荷という酒楼に上がって遊んだが、遅くなったので高田馬場には行かずに帰宅したことが書かれている。逍遥は、気ままに歩くという意味だが、気ままに楽しむという意味でもあった。

 

コメント

目白駅から豊島園まで歩く・その2

2020-07-01 19:57:28 | 散歩道あれこれ

前回は長崎銀座を通って東長崎駅に向かったが、今回は東長崎駅に行かずに先へと進む。途中、寄り道として、鹿島テラハウスの手前の道を左に入り、南長崎はらっぱ公園に行く。ここにあったプールと西椎名町公園を整備して改称した公園である。この公園から北西側一帯は、大正の頃、広大な籾山牧場であったという。

公園から戻って先に進むと道幅が広くなり、交差点から先は千川通りとなる。千川通り沿いに流れていた千川上水は、この交差点の位置で直角に曲がり北へと流れており、交差点の手前右側には水番屋が置かれていた。交差点の手前左側には平成6年まで明治乳業の工場があった。ここには、昭和の初めに小児牛乳長崎工場があったが、戦前には東京乳業豊島工場となり、戦後には明治乳業豊島工場になっている。

この交差点から先のバスルートは、昭和16年の板橋区詳細図によってたどる。交差点から先、千川上水は千川通りの南側を流れていた。今は千川上水の姿を見る事は出来なくなったが、桜並木が当時の景観を伝えている。南側の歩道で先に進むと、地域集会所の前に半鐘が置かれていた。説明版によると、明治37年に千川上水の土堤に建てられた火の見櫓に取り付けられていた半鐘という。

千川通りを先に進むと江古田駅南口の交差点に出る。今は五差路のようになっているが、昔は三差路で江古田二又と呼ばれていた。この先のルートは前方左側の道を辿るのだが、寄り道する場合は、前方右側の道で江古田銀座の商店街を抜け、踏切を渡って右に、浅間神社に行く。ここには国指定の重要有形民俗文化財の富士塚があり、7月1日のほか年に数回公開されている。帰りは、浅間神社から東に行き、交差点を右に踏切を渡って南に行けば、江古田駅南口の交差点に戻る。

江古田駅南口の交差点から先、千川上水は千川通りの北側を流れるようになる。千川通りの北側の歩道を、武蔵大学を左に見ながら先に進み、環七通りの下をくぐって桜台駅に向かうと桜の記念碑があった。千川上水沿いに植えられた桜並木から、桜台が駅名になったようだ。

先に進んで練馬駅の南口から来る道を過ぎる。その先に筋違橋跡の標識が置かれていた。橋が水路に対して斜めに架けられていたのが名の由来と思われる。ここを先に進むと文化センター入口の交差点に出る。ここは五差路の交差点で、左斜め後方に行く道は新井薬師への参詣道である。

寄り道をするのであれば、文化センター入口の交差点を北に行く。ガードを潜って先に進むと右側に平成つつじ公園がある。北に進み、南町小を左に行き、けやき公園まで坂を下り、その先の白山神社に立ち寄る。境内にある大欅は国の天然記念物に指定されている。白山神社から西に行くと豊島園通りに出る。

文化センター入口の交差点から西に行き、豊島園通りの標識により右に入って道なりに進む。豊島園通りは白山神社からの道を合わせて北に向かい十一ケ寺を過ぎる。その先、豊島園駅前の交差点を左に入って豊島園駅を過ぎると、豊島園の入口に出る。

ここから寄り道として、豊島園の敷地沿いに南に行き、次の角を右に下って行くと、区立の向山庭園に出る。この地にマンションを建設する計画があり、それに対する反対運動と自然公園建設への陳情があったことから、昭和55年に造られたのがこの公園で、湧水があった場所だったことから池が作られ、主屋と茶室が建てられた。向山は地名に由来するらしい。

豊島園の入口まで戻り、正門から中に入る。豊島園が開園したのは大正15年で、豊島左近大夫の居城跡だったことから豊島園と命名された。開園披露は昭和2年のことで、豊島園駅もこの年に開業している。

この日、遊戯施設は休みだったが、プールを除く各遊戯施設を見て回り、それから、あじさい園を一通り歩いてみた。9月以降、すべての遊戯施設が取り壊されるのか、それとも一部だけでも残すのか。また、あじさい園はどうするのか。少し気にはなった。

 

 

コメント

目白駅から豊島園まで歩く・その1

2020-06-28 18:02:12 | 散歩道あれこれ

都内有数の遊園地であった豊島園が100周年を待たずに今年の8月で閉園するという。豊島園には暫く行っていないので、閉園前に行ってみようと思っていたが、遊戯施設の休業日に、あじさい園が公開されているという事なので行ってみた。また、これに加えて、目白駅と豊島園を結ぶ戦前のバスのルートに沿った散策コースを考えてみた。なお、江戸川橋から清戸(清瀬市)に至る道を清戸道と呼ぶようになったのは明治時代以降のことだが、そのルートは、豊島園までのバスのルートとも重なるところが多い道でもある。

昭和8年の豊島区詳細図によると、目白駅北側の線路上に架かる目白橋の西側が、豊島園へのバスのルートの起点だったようである。昔のバスのルートをそのまま進むとすれば、ここから目白通りを西に向かうことになるが、近辺の公園などに寄り道するコースも合わせて考えてみた。

目白通りを渡って北側の歩道を西に行き、寄り道として、目白庭園の案内表示により右に入り、道なりに北へ向かえば目白庭園に出る。庭園内を見て回ったあと目白通りに戻って西に向かって進み、目白三の交差点に出る。

おとめ山公園を寄り道とする時は、目白三の交差点を南に行き、駐在所を過ぎてその先の四つ角を右に行き次の角を左に、その先を右に入って下っていけば、おとめ山公園に出る。公園は、おとめ山通りの両側にあり、東側には弁天池、西側には湧水のある谷がある。公園内を散策したあと、おとめ山通りを北に向かい二つ目の四つ角を右に少し下って上がり、その先を左斜め後ろに入るとT字路に出る。ここを北に行けば目白通りに出るが、西に行けば中村彝アトリエ記念館に出る。

おとめ山公園に行かない場合、目白三の交差点から目白通りの南側の歩道を西に進むと、中村彝アトリエ記念館の入口表示がある。寄り道する場合は、ここを南に行きT字路を西に中村彝アトリエ記念館に行く。道の左側は林泉園と呼ばれる谷であったが、その面影はない。記念館から元の道を戻るか、記念館の西側の細い道を北に行けば目白通りに出られる。

目白通りを西に行きピーコックの先の交差点を渡り、北側の歩道で西に行く。寄り道として目白の森に行くには、目白病院の先を右に入って次の四つ角を右に行けばいい。目白の森は邸宅跡を緑地として保存したもので、園内を見てから目白通りに戻る。先に進むと郵便局があり、目白通りの向こう側には、七曲坂から上がってくる道の角に子安地蔵尊の祠が見える。

目白通りを西に進むと次の交差点で南側から聖母坂通りが上がってくる。ここで寄り道として、聖母坂通りを車に注意しながら、右側の歩道を進み、二つ目の角を右に入り、案内表示により細い道を南に入れば佐伯祐三アトリエ記念館に出る。記念館から出て細い道を戻り、左、右、左、右へと曲がって北に進めば目白通りで、西に行くと山手通りとの交差点に出る。

山手通りを渡って西に進むと二又交番があり、道が左右に分岐する。左側の道は葛が谷に向かう道であったが、道幅が拡張されて目白通りとなった。一方、右側の細い方の道は練馬方向に向かう昔からの道で、清戸道のルートであり、豊島園に向かうバスが通る道でもあったので、この道を先に進むことにする。なお、この辺りでは清戸道を椎名町通りと呼んでいた。また、分岐点の北側にはダット自動車の営業所があったが、これについては後述する。

先に進むと右側にトキワ荘通りお休み処がある。トキワ荘の名が知られるようになると、通りの名もトキワ荘通りに変えられている。洛西館という映画館があったのは、道を挟んで反対側の辺りだろうか。

その先、右手の奥に子育地蔵の祠がある。その先を右に入ると東側に電話局があり、公衆電話ボックスが設置されていたが、今はマンションになっている。道の反対側にはトキワ荘の玄関に通じる路地があり、漫画家が出版社などに連絡する場合には、電話局側に出て公衆電話を使っていたという。

トキワ荘通りを先に進むと漫画家たちが利用したという中華料理松葉が左側にある。通りの反対側を入ると奥にトキワ荘のモニュメントが置かれている。

先に進むと左側にトキワ荘公園がある。以前は南長崎花咲公園という名称で、トキワ荘のヒーローたちの記念碑が置かれていたが、トキワ荘が復元されたため名称変更したらしい。当初の開館日は3月22日であったが、延期されて7月7日に予約限定の開館となる。

トキワ荘通りを先に進み、岩崎家住宅を過ぎ、長崎銀座の商店街を北に行き、東長崎駅の北口に出る。駅の北側には、日産自動車の前身となる快進社が、大正7年(1918)に建設した工場があった。敷地は6000坪。最盛期の従業員は50~60人。翌年にはダット41型自動車を完成発売している。なおダットの名は出資者の田、青山、竹内の頭文字をとったDATで、脱兎という意味もあったらしい。大正12年(1923)関東大震災が起きるが東長崎の工場は被害を受けず、大正13年(1924)には軍用トラックが陸軍の検定に合格している。大正14年、快進社はダット自動車商会となり、その翌年には合併によりダット自動車製造となる。同社はダット号の試験運用を兼ねて従業員を運んでいたが、地元の要求でバス路線としての認可を受け、ダット41型自動車と軍用試作トラックをバスに改装して使用し、二又交番の近くに営業所を設けていた。しかし、利益が出なかったため、バス路線の業務は、昭和11年(1936)に東京環状乗合自動車に吸収されている。その後、新橋駅~市ヶ谷見附~江戸川橋~目白駅~豊島園の幹線ルートとして運行されたが、昭和17年(1942)には豊島園~練馬車庫~目白駅のルートになった。

 

<参考>「国産車づくりへの挑戦」ほか

 

コメント

残堀川から根川緑道へ

2019-04-08 19:11:05 | 散歩道あれこれ

狭山池に発する残堀川は、玉川上水と立体交差して南に流れ、昭和記念公園内を通り、西立川駅の東側を流れ、大滝と呼ぶ人工の滝から流れ落ちて、下を流れていた根川に合流し、根川を残堀川の名に変えて多摩川に合流していた。その後、立川橋の手前で多摩川に流入するショートカットの水路が造られると、残堀川はそちらを流れるようになり、切り離された元の根川の下流は根川緑道として復活することになった。

西立川駅南口から富士見通りに出て富士見橋に行き、残堀川に沿って歩く。滝口橋から先は川沿いに歩けないので、富士見通りに戻って富士見高架を下り、その先を左に滝下橋まで行く。橋から上流を眺めるが、ここから大滝が見えるわけではない。

残堀川の右岸を歩いていくと山中坂下橋に出る。橋から下流を見ると、右岸には桜が続いている。

馬場坂下橋から下流を眺め、中央線の橋梁を列車が通るのを待って写真を撮る。

中央線の橋梁から先も、右岸には桜並木が続いている。川はやや左に曲がっていき、対岸にも桜が見えるようになると間もなく立川橋で、奥多摩街道のバイパスである新奥多摩街道がその上を通っている。残堀川はこの先、根川と分かれて、多摩川へと流れていく。

立川橋を渡り残堀川の左岸を少し戻ったところに、根川緑道の入口がある。根川は上流が断ち切られてしまったため、浄化した水を入口近くから緑道に流すことで、根川の流れを再現している。ここから柴崎橋まではAゾーンと呼ばれ、“生物”を表す区画になっている。

Aゾーンには、流れもあれば、庭園風の池もある。桜のほか様々な植物もあり、野鳥も来ていて変化のある区画になっている。この区画の途中に琴帯橋跡という表示があり、今では単なる道になってしまったが、どんな橋で、橋の名の由来はどうなのか知りたい気もする。

先に進むと柴崎橋に出る。橋の上には多摩モノレールが通っていて、通りの名も多摩モノレール通りになっているようだ。柴崎橋から先はBゾーンと呼ばれ、“遊び”を表す区画になっている。川での遊びというイメージだろうか。

根川緑道を先に進み、新奥多摩街道の根川橋の下を潜る。ここから先はCゾーンで“休息”を表す区画になっている。桜も多いので花見にはもってこいの場所である。ここを先に行くと甲州街道の下を潜るが、この先はDゾーンとなり、“散策”を表す区画となる。ここからは来た道を戻り、多摩モノレールで立川に向かう。

 

旧葦見橋の銘板を参考に、甲州街道と根川に架かる橋についてまとめてみた。柴崎体育館の東側の道は旧甲州街道で、根川に架かる橋を渡って、日野の渡しで多摩川を渡っていた。大正15年、多摩川に日野橋が架けられたとき、根川にもアーチ式コンクリート橋が架けられ、辺り一面が葦の原だったため葦見橋と名付けられた。これにより、甲州街道は葦見橋を経て日野橋を通るようになり、日野の渡しは廃止されることになった。なお、明治39年の地図では少し上流に橋があり、大正10年の地図では葦見橋の位置に橋があるので、大正15年より前にも橋はあったかも知れない。昭和63年、老朽化により葦見橋は撤去され、盛り土により拡幅された。この時に根川緑道と野球場等との間を地下道で結んだという。つまり、甲州街道が根川を渡る橋は消滅してしまったことになる。一方、旧甲州街道が根川を渡る橋は、姿が変わったにせよ残されている。

 

コメント

小竹向原から光が丘へ

2019-04-05 21:08:23 | 散歩道あれこれ

小竹向原から光が丘まで歩いてみた。

有楽町線小竹向原駅の2番出口から出ると遊歩道がある。遊歩道は東側にもあり1番出口は東側の遊歩道に出るようになっている。東側と西側の遊歩道は放射36号線(要町通り)の両側にあり、“さぶろく四季の道”と呼ばれている。

四季の道を先に行くと環七に出る。ここを右に行き、歩道橋の先を左に入って道なり進み、小茂根4丁目公園を過ぎ、突き当りを右に折れ左に折れて茂呂山通りを下る。右手の茂呂山公園に上がり、花見を兼ねて小休止したあと茂呂山通りを北に進む。

茂呂遺跡を右に見ながら下って、石神井川を栗原橋で渡ると城北中央公園に出る。公園内の桜の道から石神井川を振り返ってから、茂呂山通りを北に進み交差点に出る。今は暗渠となってしまったが、以前は田柄川という小さな川が、この交差点付近を通って城北中央公園の外周沿いに西から東に.流れていたという。田柄川の水量は少なかったらしく、江戸時代には石神井川を堰き止め水位を上げて田柄川に合流させるという事もあったらしい。

交差点手前の左側、田柄川跡を遊歩道とした田柄川緑道を歩く。この道に入り西に向かって進むと城北公園通りに出る。田柄川緑道は、この通りを横切って先に続いている。緑道は円明院を過ぎて北に向かい、川越街道に出る。

 

川越街道を渡って田柄川緑道の続きを歩いて行くと、桜の下に橋があった。面白い趣向で川も緑道になれば橋で渡るのである。ところで、玉川上水から分水した田無用水からさらに分水した田柄用水が明治時代に設けられたが、この用水は田柄川の北側を通り、現在の川越街道の北側にあった旧川越街道の下練馬宿に沿って流れたあと、田柄川に合流したとされる。明治30年の下練馬村全図によると、田柄用水が田柄川に合流したのは、桜の下の橋の近くであったことになる。ただし、他に流路があったのかも知れない。

 

田柄川緑道は環八の上を歩道橋で越えていく。先に進むと綱吉御殿跡之碑がある。五代将軍徳川綱吉が館林藩主だった頃、鷹狩の際に滞在したという御殿がこの辺りにあったと伝えられているからだが、明治30年の下練馬村全図には、この碑の南方に御殿跡と表示がある。

御殿跡之碑から先、田柄川緑道には桜並木が続くようになる。桜を眺めながら、歩く速度を多少落として先に進む。やがて緑道は左に曲がり、川越街道を渡る。

  

先に進むと、田柄川緑道は工事中の道路で分断されている。この道路は放射36号線(要町通り)に続く放射35号線で、北上して新大宮バイパスにつながる幹線道路として計画されており、同時に周辺のまちづくり計画も進められているので、田柄川緑道の周辺の景観も変わるかも知れない。

工事中の道路を渡って田柄川緑道を先に進むと、緑道は道路中央の暗渠の上だけになり、桜も所々にあるだけになる。緑道はやがて都道442号北町豊玉線を横切るが、この道路は埼玉道と呼ばれ江戸時代には東側の下練馬村と西側の上練馬村の境になっていた。寛政4年の写しとされる下練馬村絵図からすると、上練馬村との境には溜池があり周辺の湧水を集めていたようである。一方、安政3年の上練馬村絵図には川の表示が無いので、溜池の上流には川と言える程の流れはなかったのだろう。

やがて、暗渠の上の緑道も姿を消し、所々に桜がある車道へと変わる。田柄中央児童遊園を過ぎると道は右に曲がっていくが、本来の流路と同じかどうかは分からない。やがて長屋門をかたどった門が見えてきて、道路を渡れば光が丘の秋の陽公園になる。田柄川の源流は光が丘より西にあったと考えられているが、実際には湧出量が少なく殆ど枯れた川になっていたらしい。そのため、実際の流れの始まりは秋の陽公園の辺りとされている。

トイレを兼ねた長屋門をかたどった建物を潜ると、その先に溜池、田圃が作られている。秋の陽ではあるが、長屋門の前の桜がすでに満開のように見える。秋の陽公園から幼稚園裏手にまわり歩道橋で光が丘公園に出る。赤塚口への桜並木を眺め、花見に向く芝生広場を通り抜け、ついでに春の風公園まで足を延ばしてから光が丘駅に行く。

 

コメント

仙台堀川公園の桜を見に行く

2019-04-02 17:07:22 | 散歩道あれこれ

旧中川の上に架かる東大島駅で下車。江東区と江戸川区にまたがる大島小松川公園を駅ホームから眺めてから大島口に出る。わんさか広場を抜け、中川船番所資料館に出るが、ここは何度か来ているので、本日はパスして資料館の前の小公園から平成橋方向を眺める。

船番所跡を右に小名木川沿いに進むと番所橋がある。ここから先は、小名木川の遊歩道を歩き塩の道橋から番所橋方向を眺める。小名木川は江戸時代の初めに行徳の塩を運ぶために開削された運河で、明治時代になっても重要な水運ルートとして利用されていた。

塩の道橋の南側にある仙台堀川公園に入る。花見の時期には屋台も出て、公園内は花見客で混雑している。

ここは、大正時代に開削された砂町運河の跡だが、後に仙台堀川の一部として扱われ、さらに埋立てられて公園となり、今は南北に通じる細い水路沿いに1km近く桜並木が続いて、恰好の花見の場所になっている。

桜並木は清洲橋通りで一旦途切れる。先に進んで、古民家の旧大石家住宅を過ぎると、その先で仙台堀公園は右に続いていく。砂町橋から先にも桜はありそうだが、今回は橋に上がって丸八通りを南に、南砂三丁目公園を抜けて南砂町駅に出る。

 

 

コメント

染の小道・梅から桜の季節へ

2019-03-31 21:36:22 | 散歩道あれこれ

(1)染の小道・梅の季節

2月の終り頃、西武新宿線中井駅から近い林芙美子記念館に行ってみた。折りから「染の小道」というイベントが開催中で、門は染物で飾られていた。

中井駅周辺の川沿いは染物の産地として知られていたところで、その伝統を伝えるべく「染の小道」というイベントが開催されるようになって、今年で10年という。林芙美子記念館内の石蔵ギャラリーには染物の展示がされていた。

この記念館には何度も来ているが、庭は季節によって表情を変えている。蹲には紅白の椿がそれとなく浮かべられていた。

建物の裏手に上がる。左側には紅梅が、そして右側には白梅が咲いている。しばらく眺めたあと記念館を出る。

踏切を渡って妙正寺川に架かる栄橋まで来ると、人通りが多くなる。下流側の川の上には色とりどりの反物が架けられ、川のギャラリになっている。

山手通りの下を潜る。この先も川のギャラリが続き、反物が川の上に架けられている。

案内表示に導かれて、落合五小内にある「染の王国」の展示を見に行く。

商店街を通って寺斉橋に出る。ここの下流にも川のギャラリとして、反物が川に架けられていた。

妙正寺川の右岸に少し気になる建物があったので行ってみた。染の町屋という名の、自然素材を用いた伝統的な和風建築で、今回のイベントにも参加しているらしかった。

大正橋に出て、橋の上から川のギャラリを眺める。この先、川沿いの道は西武新宿線の鉄橋で行き止まりとなるので、川の南側の道を先に進むことにした。

大正橋から少し先に、染の小道のイベントに参加している二葉苑があった。中に入って展示を見てから、川の南側の道を先に進み、せせらぎの里公苑に寄ってから、下落合の駅に出る。

 

(2)染の小道・桜の季節

3月の終わり頃、林芙美子記念館に行ってみた。玄関の近くにあった桜は満開を少し過ぎていて、散り始めてもいた。

庭の蹲にも散った桜の花びらが浮いていた。

林芙美子記念館を出て踏切を渡り栄橋に行く。山手通りの手前の桜は、満開になっていた。

寺斉橋から桜と川の流れを眺める。それから、川沿いに歩いて大正橋に行く。

大正橋から下流を眺める。西武新宿線の鉄橋近くにも桜はあった。

二葉苑を過ぎて、せせらぎの里公苑に行く。梅の花はほぼ終わっていたが、桜はもう満開に近い状況になっていた。近くの神田川の桜を眺めたあと下落合駅に出る。

近くの神田川の桜を眺めたあと、近くの下落合駅へ。

コメント