夢七雑録

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5.1 谷原村長命寺道くさ(1)

2008-12-03 22:05:53 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 文化十二年九月八日(1815年10月10日)、午前10時頃に清水邸を出る。嘉陵(村尾正靖)は徳川清水家に仕えていたため、前の日に清水家に泊まる必要があったのかも知れない。嘉陵は小久保清右衛門の家に立ち寄って昼食を御馳走になるが、そのあと小久保清右衛門の案内で長命寺に出かけることになった。同行者は他に三人。12時頃の出発である。江戸から東高野・長命寺への参詣ルートは幾つかあるが、嘉陵の略図によると、清戸(清瀬市)や練馬から農産物を江戸に運ぶ道で、明治になって清戸道と称されるようになった経路をたどったようである。

 清戸道の起点は神田川にかかる江戸川橋で、道はその少し先から目白坂の急坂となる。荷物の運搬を助けて日銭を稼ぐ立ちん坊が居たところである。この坂を上がると、道は現在の目白通りに合流して西に向かうが、この先、清戸道は目白通りと重なるところが多い。その目白通りを先に進むと、面影橋から宿坂を上がって鬼子母神へ行く道と交差する。この道は池袋を経て板橋に出る鎌倉時代からの古道で、交差する辺りを四家町(豊島区雑司ヶ谷2、高田1,2)と云った。嘉陵は、ここを過ぎたところで東北の方に見えた大行院の屋根を、今日の眺望ここに極まると書き、また、西北を望めば安藤対馬守の屋敷があり、その左は鼠山であると記している。大行院は鬼子母神の別当寺(神社の経営管理を行う寺)で、法明寺内にあった寺である。安藤対馬守の屋敷は後に移転させられ、跡地に感応寺が建立されたものの、風紀を乱すという理由で廃止されるという事件があったが、文化十二年にはまだ、現在の目白駅西北(豊島区目白3)にあった。鼠山は清戸道の北側の一角(豊島区目白4)を指し、四家町から西に行く清戸道は鼠山に向っていたため鼠山道と称されていた。その頂上付近は樹林が伐採されて芝になっていたが、清戸道の南側も開かれていたため、落合薬王院の森の梢が見えていたという。
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